ここはどこだろう。
気がつくとはるかは冷涼な宵闇に包まれていた。灰色のうろこ雲を浮かべた夜空が広がっていて、雲の隙間には銀白色の星が瞬いている。視線を地上に移すと、群青の空の底に見慣れた稜線のシルエットが描かれていた。
ああ、ここは学校の屋上だ。
自分が高校の屋上に佇んでいることに気づく。
この場所でフルートを教えてもらっていたなぁ。
はるかは隣に視線を送る。もうだいぶ遅い時間だというのに、そこにははるかの知る男子生徒が佇んでいた。
宵闇の中で姿はよく見えなかったけれど、その人が醸し出す独特の雰囲気が、その人でないはずがないのだとはるかに伝えていた。
人影は遠くの空を眺めていたけれど、はるかに気づくと向き直り呼びかけてくる。
「久しぶりだね、はるか」
はるかはその声色に確信を持つ。
あたし今、千賀先輩の隣にいるんだ。
はるかは不思議と申し訳ない気持ちになり、つい、謝罪の言葉を口にする。
「あの、ごめんなさい、最近いろいろあって……ひょっとして、あたしのことを待っていたんですか、千賀先輩」
影が口角を上げたように見えた。そして影は凪いた声で言う。
「君はほんとうにいい子だね。でも僕は好きでここにいるんだし、君が来るのを待っていたわけではないよ」
「あっ、そうでしたか。でももう遅いから早く帰った方がいいんじゃないですか。受験勉強とか、あるんですよね」
「ふふっ、僕には気を遣わなくていいよ」
影ははるかの問いを振り払うように頭を揺らす。
はるかは、千賀から演奏を教わり感じたことを話したいと思った。数日会えなかっただけなのに、伝えたいことが胸中にあふれている。
「千賀先輩、あたし、音楽って何のためにあるのか、少しずつわかってきたような気がします」
「へぇ、それはすごい。音楽家はみな、その答えを求めて道標のない旅をしているというのに」
「あたしがこう言うのは生意気かもしれないんですけど、音楽って、奏でるものと聴く者を繋ぐ、魂の風景のようなものだと思いました」
「魂の、風景か……」
その言葉に影は深くうなずき、はるかと向き合う。はるかも闇の向こうにある、黒くて深いまなざしを素直に受け止める。
「そうだね。人間は常に他人から影響を受けながら生きているんだ。そして、音楽にはそれぞれの心の奥に仕舞い込まれている、美しい世界を引き出す力がある。奏者が素晴らしい音色を生み出せば、聞き手の魂は揺さぶられ、未知の世界を描いて見せることができるんだ」
「あっ、千賀先輩もそう思います? 今日、音楽の力ってすごいな、人の心を変えてくれるんだなって思いました」
「ああ、それは良かった。晴れた日は澄んでいた清流も、ひとたび雨が降ると濁流になってしまう。だけど、僕は君がそんな濁ってしまった川の流れすら澄んだせせらぎに変える力を持っていると僕は思うよ」
そう言うまなざしの奥には深い光が宿っていて、本心から導き出された言葉だということは明確に伝わってきた。
「でもあたし、どんなふうに音楽と付き合っていけばいいかわからないんです。下手くそだし、北川先輩みたいに将来音楽で身を立てようなんて思えないですから。ただ好きなだけなんです、メロディを聴いたり奏でたりするのが。それなのに忙しいはずの千賀先輩に教えてもらっちゃって……なんだか申し訳ないです」
屋上がほんのりと淡く色づく。空を見上げると、更待月が雲の切れ間から檸檬色の光をこぼしていた。しだいに月光が蒼白く影の輪郭をかたどってゆく。はるかは向かい合う影に視線が釘付けになる。影の上には千賀の姿が浮かび上がった。千賀はそっとこぼす。
「大丈夫、はるかが上達するよう、僕はいくらでも力を貸すよ。なぜなら君の音色の答えは、『フィーネの旋律』の中にあるのだから」
ただ、千賀の肌は透き通るほどの色のなさをしていて、はるかは一瞬、その病的で魅惑的な美しさに胸の奥が掴まれたようだった。まるで心臓のリズムが操られているような、不自然な拍動を自覚する。
そのせいか、はるかは戸惑い、千賀に訊きたかったことが口から出てこなくなった。
『千賀先輩は高円寺先輩とどんな関係なんですか』
『どうして屋上でフルートを奏でているんですか』
『そして、フィーネの旋律とはいったいなんですか』
まるで記憶を失ったかのように、当たり前の質問が意識の中から遠ざかる。月明りの魔法だろうか。ただ、はるかの胸中にはどうしても千賀に伝えたい想いがあった。声を振り絞り、抱いていた気持ちを千賀に届ける。
「千賀先輩、あたし、また先輩に会いにきます。会いたいんです。選考会が終わったら必ず屋上に来ますから、待っていてください」
千賀は首を小さく縦に振って微笑する。
「待っているよ。僕はいつでもここにいる」
けれど、その表情は淡い憂いを含んでいるように、はるかには思えた。
なんでそんな表情をするのかな、千賀先輩。
はるかは心の中でたくさんの疑問を抱えながらも、そこに触れてはいけないような気がしていた。
千賀は夜空に手のひらを掲げて言う。
「見てみなよ、今日はいつもよりも空が澄んでいるじゃないか」
はるかが空を見上げると、いつの間にか雲が消え去っていて、終わりのない深淵の空を無数の星が彩っていた。
「綺麗ね、世界はいつもこうだといいのに」
はるかは目を閉じて、山麓から吹き込んでくる無垢な夜風を胸いっぱいに吸い込む。意識が夜空に吸い込まれていくような感覚があった。
気がつくとはるかは冷涼な宵闇に包まれていた。灰色のうろこ雲を浮かべた夜空が広がっていて、雲の隙間には銀白色の星が瞬いている。視線を地上に移すと、群青の空の底に見慣れた稜線のシルエットが描かれていた。
ああ、ここは学校の屋上だ。
自分が高校の屋上に佇んでいることに気づく。
この場所でフルートを教えてもらっていたなぁ。
はるかは隣に視線を送る。もうだいぶ遅い時間だというのに、そこにははるかの知る男子生徒が佇んでいた。
宵闇の中で姿はよく見えなかったけれど、その人が醸し出す独特の雰囲気が、その人でないはずがないのだとはるかに伝えていた。
人影は遠くの空を眺めていたけれど、はるかに気づくと向き直り呼びかけてくる。
「久しぶりだね、はるか」
はるかはその声色に確信を持つ。
あたし今、千賀先輩の隣にいるんだ。
はるかは不思議と申し訳ない気持ちになり、つい、謝罪の言葉を口にする。
「あの、ごめんなさい、最近いろいろあって……ひょっとして、あたしのことを待っていたんですか、千賀先輩」
影が口角を上げたように見えた。そして影は凪いた声で言う。
「君はほんとうにいい子だね。でも僕は好きでここにいるんだし、君が来るのを待っていたわけではないよ」
「あっ、そうでしたか。でももう遅いから早く帰った方がいいんじゃないですか。受験勉強とか、あるんですよね」
「ふふっ、僕には気を遣わなくていいよ」
影ははるかの問いを振り払うように頭を揺らす。
はるかは、千賀から演奏を教わり感じたことを話したいと思った。数日会えなかっただけなのに、伝えたいことが胸中にあふれている。
「千賀先輩、あたし、音楽って何のためにあるのか、少しずつわかってきたような気がします」
「へぇ、それはすごい。音楽家はみな、その答えを求めて道標のない旅をしているというのに」
「あたしがこう言うのは生意気かもしれないんですけど、音楽って、奏でるものと聴く者を繋ぐ、魂の風景のようなものだと思いました」
「魂の、風景か……」
その言葉に影は深くうなずき、はるかと向き合う。はるかも闇の向こうにある、黒くて深いまなざしを素直に受け止める。
「そうだね。人間は常に他人から影響を受けながら生きているんだ。そして、音楽にはそれぞれの心の奥に仕舞い込まれている、美しい世界を引き出す力がある。奏者が素晴らしい音色を生み出せば、聞き手の魂は揺さぶられ、未知の世界を描いて見せることができるんだ」
「あっ、千賀先輩もそう思います? 今日、音楽の力ってすごいな、人の心を変えてくれるんだなって思いました」
「ああ、それは良かった。晴れた日は澄んでいた清流も、ひとたび雨が降ると濁流になってしまう。だけど、僕は君がそんな濁ってしまった川の流れすら澄んだせせらぎに変える力を持っていると僕は思うよ」
そう言うまなざしの奥には深い光が宿っていて、本心から導き出された言葉だということは明確に伝わってきた。
「でもあたし、どんなふうに音楽と付き合っていけばいいかわからないんです。下手くそだし、北川先輩みたいに将来音楽で身を立てようなんて思えないですから。ただ好きなだけなんです、メロディを聴いたり奏でたりするのが。それなのに忙しいはずの千賀先輩に教えてもらっちゃって……なんだか申し訳ないです」
屋上がほんのりと淡く色づく。空を見上げると、更待月が雲の切れ間から檸檬色の光をこぼしていた。しだいに月光が蒼白く影の輪郭をかたどってゆく。はるかは向かい合う影に視線が釘付けになる。影の上には千賀の姿が浮かび上がった。千賀はそっとこぼす。
「大丈夫、はるかが上達するよう、僕はいくらでも力を貸すよ。なぜなら君の音色の答えは、『フィーネの旋律』の中にあるのだから」
ただ、千賀の肌は透き通るほどの色のなさをしていて、はるかは一瞬、その病的で魅惑的な美しさに胸の奥が掴まれたようだった。まるで心臓のリズムが操られているような、不自然な拍動を自覚する。
そのせいか、はるかは戸惑い、千賀に訊きたかったことが口から出てこなくなった。
『千賀先輩は高円寺先輩とどんな関係なんですか』
『どうして屋上でフルートを奏でているんですか』
『そして、フィーネの旋律とはいったいなんですか』
まるで記憶を失ったかのように、当たり前の質問が意識の中から遠ざかる。月明りの魔法だろうか。ただ、はるかの胸中にはどうしても千賀に伝えたい想いがあった。声を振り絞り、抱いていた気持ちを千賀に届ける。
「千賀先輩、あたし、また先輩に会いにきます。会いたいんです。選考会が終わったら必ず屋上に来ますから、待っていてください」
千賀は首を小さく縦に振って微笑する。
「待っているよ。僕はいつでもここにいる」
けれど、その表情は淡い憂いを含んでいるように、はるかには思えた。
なんでそんな表情をするのかな、千賀先輩。
はるかは心の中でたくさんの疑問を抱えながらも、そこに触れてはいけないような気がしていた。
千賀は夜空に手のひらを掲げて言う。
「見てみなよ、今日はいつもよりも空が澄んでいるじゃないか」
はるかが空を見上げると、いつの間にか雲が消え去っていて、終わりのない深淵の空を無数の星が彩っていた。
「綺麗ね、世界はいつもこうだといいのに」
はるかは目を閉じて、山麓から吹き込んでくる無垢な夜風を胸いっぱいに吸い込む。意識が夜空に吸い込まれていくような感覚があった。