演奏を終えたはるかは北川の母の好意により夕食をご馳走してもらうことになった。心配性なはるかの母は、帰りが遅いと何度も電話をしてくるので、先手を打って連絡をする。

『今日は先輩の家でご馳走になるので心配しないでね』

母親にメールを送り、楽器を前に北川と撮影した写メも添付した。すぐさまスマホが光り返信が届く。

『ちゃんと丁重にお礼を言いなさいね』

夕食をご馳走になることに肯定的な返事だった。

常連客はその後まもなく店を後にし、この小料理店は北川とはるかの貸し切り状態となっていた。カウンターにふたり並んで座り、目の前に出される料理を堪能する。

「おばさん、このきのこ汁とだし巻き卵、めちゃめちゃ美味しいです! さすがお店の味、北川先輩がうらやましいです!」

はるかはほっぺを両手でおさえて満足気だ。北川の母はアイシャドーで彩られた目尻を細めて笑う。

「ふふふ、いいのよ。好きなだけ召し上がっていって。あなた、フルート上手なのね」

「いえ、あたしなんてぜんぜん下手ですから。だいたい人前だと緊張して駄目なんです」

「あら、すごく場慣れしてる感じに見えたわよ」

「もう、心臓バクバクですってば! 相手が怖いおじさんたちなんですもん。でも褒めてもらえてよかったですよ~」

隣では北川は頬杖をついて、無邪気に喜ぶはるかと、笑顔を見せる母の顔を交互に眺めていた。不思議そうな顔ではるかに尋ねる。

「あんたさぁ、なんでそんな音色が奏でられるわけ? あたし、演奏していてまるで自分が海辺にいるような錯覚を起こしたんだけど」

はるかはさらりと答える。

「えっと、音楽ってそういうものなんじゃないんですか? あたしは思うんですけど、みんな海を感じていたとしても、その海ってみんな違うもので、でもそれぞれの記憶の中にあるものなんじゃないかなって。音楽はそれを引き出しているだけなんですよ、きっと」

「へー、あんたって言うことが不思議ちゃんね。しっかしそのフルート、誰に習ったのよ。あたしは楽器、独学だけどね」

「独学でそのテクニックはすごいですよ。先輩はやっぱり音楽の道に進むべきですってば。本気でやったら凄いと思います、うん」

はるかは千賀のことを口にするつもりはなかった。唐揚げを頬張り、口の中を熱々の肉汁で満たす。

「はふはふはふ……唐揚げ最高!」

はるかは満面の笑みを浮かべて咀嚼(そしゃく)し、染み出る鶏肉の味を存分に味わったところで一気に飲み込んだ。

お腹が落ち着いてきたところで、ふと思った。

千賀先輩、今頃どうしてるかなぁ。

振り返ってみると、はるかは先週行われた選考会以来、屋上を訪れていなかった。

千賀先輩、ひょっとして待っているのかな? まさかあたしのために、なんてことないよね。

千賀の奏でる旋律と遠くを見ているような表情を思い出す。透き通るあの音色、それに澄んだメロディを生み出す真剣な横顔。

すると急に、はるかの胸が早鐘を打つ。

……なんだろう、この変な感じ。

はるかは自分の胸に手を当ててみる。胸の奥がほんのりと熱を持っていて少しだけ息苦しい。緊張感とは違って心地よく感じる、けれど自分で止められない感情のゆらぎ。大きく深呼吸をしてなだめようとする。

腕時計の時間を確認すると、短針が時計盤の左横を向いていた。はっとして北川の顔を見る。

「あっ、あたしそろそろ帰らないと!」

振る舞われた料理を平らげたはるかは皿を下げ、てきぱきと帰る準備をする。

「もう帰っちゃうの? またおいでよ」

北川は好意的な返事をくれた。本心でそう言ってくれたとわかる、淀みのない笑顔が嬉しい。

「うち、母親が結構な心配性なんです。えへっ、じゃあほんとうにご馳走様でした、おばさん。料理、ぜーんぶ美味しかったです」

「あら、嬉しいこと言ってくれるのね。うちの子とは大違い」

北川の母はまた、くすっと笑った。

「それでは先輩、あさっての選考会に向けて頑張ってくださいね。あとバイトも」

はるかはカウンターの席を立ち上がる。

その瞬間、はるかの視界が急にぐわんと歪んだ。

一瞬だけ、あれ、おかしいなと思ったけれど、直後、血の気が引くような感覚に襲われて視界が暗転する。体が痺れていうことをきかなくなり、暗闇の底へと引きずり込まれていく。

ドサッ!

はるかは意識を失い床に倒れ込んだ。

「きゃあ、はるか、はるか、はるかっ……!」

漆黒に塗りつぶされた感覚の中、北川の叫び声すら遠ざかってゆき、すべての音がはるかの意識から消え去っていった。