小料理店の中に、場に不似合いなシロフォンが置かれた。ふたりで階段を下ろし、ここまで運んできたのだ。

北川はマレットを両手に構え音の調子を確認する。ポロンポロンと軽やかな音が響くと、盛り上がっていたカウンターの男三人は音源に視線を向けた。

「これから演奏しますので聴いてくださーい」

北川はあっけらかんとした口調で客の男三人に向かって言う。怪訝そうな顔が三つ、同時に北川を捉えた。

「迷惑だからやめなさい!」

すぐさま冷たい声がカウンターの向こうから発せられた。北川の母が厳しい表情で北川を睨んでいる。

はるかはすぐさま北川を援護する。どんなふうに言い返されるのか不安で胸が早鐘を打つけれど、勇気を奮い立たせて明瞭な声を発する。

「ご来客の皆様、それに北川先輩のお母さま。北川先輩は音楽がとても好きで練習熱心なんです。だから音楽の演奏がとっても上手なんです。せっかくですので、あたしと北川先輩のデュオを聴いてください。ちなみにこの演奏、今日はプライスレスです!」

はるかは無関心な北川の母に対して、北川の音楽への思いを伝えたかった。同時にカウンターに鎮座する男に向かって演奏を聴かせ、北川を見直させたかった。

すると先ほどからいた男とはまた別の客ふたりが興味を示して、「おっいいね、姉ちゃんたち。やってみろや」と上機嫌で演奏を後押しする。

北川の母は不機嫌そうな顔をしていたけれど、客がせっついたものだからそれ以上は意見せず、黙って演奏を聴くことにした。

からかい半分の拍手が湧き起こる。それでもはるかは心の中で「よしっ」と思い、北川から借りたフルートを構えて口元にあてがう。

ふたりは顔を見合わせると、小さくうなずき呼吸を合わせる。リハーサルなしの、ぶっつけ本番のデュオ。それでも上手く奏でられそうな予感がしていた。

北川先輩の音楽を認めてもらえますように。

はるかが願いを込めてフルートに息を吹き込むと、風の囁きのような澄んだ音色が響き渡る。

『海の見える街』

フルートとシロフォンでパートを分ける、異色の組み合わせだ。

北川の奏でるシロフォンのやわらかい打鍵音がフルートの音色に絡み合っていく。

はるかと北川の髪がさわさわと揺れ始めた。

とたん、四人の顔色が変わった。

今この場にいる者は皆、ある同じ匂いを感じ始めたのだ。

潮風――。

ふんだんに潮の香りを含んだ海風が、はるかと北川の背中からさらりと吹いていた。風は塩の結晶を運び、降りしきる光線を受けて輝いていた。

小料理店の曇った空気は一瞬にしてかき消され、その空間は真っ青な海に浮かぶ小舟のように、旋律の海に揺られ始めていた。店内の壁に掛けられた古びた海の絵が、生命を宿しているかのようにいきいきとして見えた。

フルートの音色の強弱が、寄せては返す波のようにその場にいる四人の足元を攫ってゆく。波が砕ける音が耳元でささやき、潮の香りがいっそう濃くなった。

聴衆である三人の客はいつの間にか旋律の心地良さに身をゆだね、目を閉じ日常の世界を遮断していた。眩しい光線がまぶたを通り抜けて眼の奥まで差し込んでくる。耳をくすぐる海鳥の鳴き声。砂浜を走り回る小ガニの可愛らしい姿。波打ち際で遊ぶ子供たちの笑い声が、風に乗ってかすかに聞こえてくる。

そして北川の母もまた、その音楽を静かに聴き入っていた。彼女の顔には、遠い昔の夏の日を思い出すような穏やかな微笑みが浮かんでいた。

皆、脳裏に思い思いの海を描いていた。まるでそれぞれが知る海の風景を、思い出すように、懐かしむように。青い海と白い波、そして果てしない水平線が、心の中に広がっていた。

曲が終焉を迎え、波の音も風の匂いもしだいに薄れてゆく。はるかは放たれた音符たちが消えてゆくのを見送ってから聴衆に視線を向ける。

ふたりの男は満足気な顔をしていて、予想を上回る盛大な拍手を送ってくれた。はるかと北川を指差し、「あいつらやるなぁ。こりゃ将来有名になるかもしれねえぞ」と上機嫌で褒めちぎる。

それからアロハシャツの男の肩を叩き、「ちゃんと面倒見てやれよ。いいところ出たら一儲けできるんじゃねえか」と、希望的観測を口にした。

北川はぐっとマレットを握り締めた。決意を固めたようで、大きく息を吸うとそのマレットでアロハシャツの男を力強く指し、はっきりとした声で告げる。

「おじさん、音楽で成功したら絶対、恩返ししますからねっ!」

北川の勢いに押されたアロハシャツの男は一瞬、怯んだけれど、すぐさま気を取り直して言い返す。

「おっ、あっ、当たり前だ。俺に任せとけ、成功させてやる。金が無くて落ちぶれさせたら、それこそ男の恥ってもんだ!」

そんなことを言い出して、またもやガハハと派手に笑った。

盛り上がる三人の向こうでは、北川の母が目頭を押さえ、肩を小刻みに震わせていた。北川の音楽に対する熱意をはじめて認め、同時に親としての未熟さを恥じているようでもある。

はるかはそんな母の様子に気づかない振りをして北川と顔を見合わせる。はるかが北川に手のひらを向けると、北川も同じポーズを取り、ふたりはタイミングを合わせてハイタッチした。軽快な音が響き、同時に悪戯っぽい笑顔が弾ける。

北川は顔をはるかの耳元にそっと寄せ、小声でこう告げた。

「はるか、ありがとう。おかげで吹っ切れたわ。あたし、自分のしたことを先輩にちゃんと言うから」

その言葉を聞いて、はるかははっとする。それからすぐに、胸にえもいわれぬ寂しさが去来する。まるで冬の夜風に体温をさらわれた気分だった。北川がこれからどうするつもりなのか、雰囲気でわかってしまったのだ。

先輩、部活を辞めるつもりなんだ。こんなに音楽が好きなのに。

はるかの心が弾け、思わず北川を擁護する言葉を発する。

「あたし、誰にも言いませんから。だから先輩、部活を続けたらいいじゃないですか」

はるかは自分にも秘密があるのだからと思い、自然と北川を許す気になっていた。けれど北川は小さく微笑んでから、黙って首を横に振った。

「自分のした選択は、みんな自分の責任なのよ。善くも悪くもね」

揺らぐことのない決意を抱いた北川に対して、はるかは説得を続けることができなかった。