北川が向かったのは最寄りの駅の裏、夜の繁華街だった。往来にはスーツ姿の怪しげな男たちが並んでいて、駅から流れ出た仕事帰りの人たちを狙って笑顔で客引きをしている。

視線を感じたはるかは身を隠すように北川に寄り添う。北川はその雑踏の中を躊躇なく通り抜けてゆく。

繁華街を越えて細い路地に入ると静けさが戻ってきた。北川は古びた茶色い扉の前で足を止める。扉の隣には小さな看板が立てかけてあって、お酒や料理のメニューが書き込まれていた。

「ここがあたしの家。お店の二階よ」

引き戸を開けると鈍く軋む音がした。

とたん、ガハハハハハと男性の遠慮なしに笑う声が聞こえてきた。覗き込むとアロハシャツにパンチパーマの、いかにも柄の悪そうな男がカウンターを陣取っていた。痛いほど鼻につくタバコの匂い。充満した煙のせいで空気が霞んで見える。見渡すと八席程度の小料理屋で、客はその男しかいなかった。

カウンターの向かいには付け下げの着物を身にまとう女性の姿があった。頭上で束ねた長い髪、深紅に塗られた唇、紫のマスカラ。見た目は四十半ば位かな、とはるかは察する。

「ただいま、お母さん。今日はお客さんがいるの」

北川はカウンターに向かって挨拶をする。

「……おかえりなさい」

母は北川を一瞥すると、笑顔のひとつも見せずに視線を切った。

「お母さん、お店をやっているんですね」

「まあね。従業員はママひとりだけど」

北川はあまり誇らしげではない表情で答えると、店の奥に足を進めていく。

ちょうどアロハシャツの男の後ろを通り過ぎたときだった。

「きゃっ!」

突然、北川が小さな悲鳴をあげて飛び退いた。すかさずスカートを押さえて男に振り向く。その表情を目にしたはるかはぎょっとする。北川は厭なものを目にしたような、嫌悪感に満ちた顔つきをしていた。すれ違いざまにお尻を触られたのだ。

この人に対する感情だったのかとすぐに気づいた。男はふてぶてしく笑って言う。

「おいおい、そんなに嫌な顔すんなよ。これもコミュニケーションってやつだ。だいたい、俺のおかげで学校に行けているんだろ」

そう言ってまたガハハとひとり、勝ち誇ったように笑い出す。北川はうつむいて品のない高笑いをやり過ごし、はるかに「早く上に行こうよ」といってその場から足早に立ち去った。

はるかも急ぎ足で北川を追いかける。男とすれ違う瞬間は警戒していたけれど、はるかが手を出されることはなかった。通り過ぎてから振り向いたところ、北川の母は素知らぬふりをしていた。

北川とはるかは階段を上り、二階に辿り着く。木目調の廊下が延びていて、左壁沿いにふすまが三つあった。北川はそのひとつを開ける。

「あ……」

雑然とした部屋だったけれど、そこに置かれていたものにはるかは目を奪われた。部屋にはシロフォン、トランペット、リコーダーなど、さまざまな楽器があった。壁には楽曲の譜面がところ狭しと貼られていた。

「狭いけど、座って」

北川は無造作に置かれた正方形のクッションを指差した。

はるかは「お借りします」と一言いってからクッションに腰を下ろす。辺りを見回して言う。

「北川先輩って、ほんとうに音楽が好きなんですね」

すると北川は、怪訝そうな顔ではるかをまじまじと見る。

「あんたって、ただの馬鹿? それとも世間知らずのお人好し?」

「えっ、どういうことですか」

「今日のことがあってこれ見たら、盗んだとか思わないの?」

「えっ、別に思いませんけど……」

はるかは平然と答える。北川は素行が悪そうに見えるけれど、音楽に対する姿勢はいたって真面目なのだと、音符に触れて知っている。だから、楽器を盗むようなことをするとは思っていない。菜摘のサクソフォンも隠しただけということはわかっていた。

ハイカラトリオが麗を褒めちぎっているのは、麗に気に入られたいという下心があるからだけど、けっして実力が伴っていないわけではない。むしろ北川が吹くトランペットの滑らかなグリッサンドは、部内では誰も真似できないほど成熟している。

「だって先輩、そんなことしないですもん。音色は正直ですってば」

すると北川は真顔を崩さないまま顔を赤らめる。楽器に目をやりこう言った。

「じつはこの楽器ぜんぶ、頑張ってバイトして買ったんだ。ちょっと離れたところのファーストフードとかスーパーとか。一応、お金も貯めているんだ。早くここを出たいからさ」

「努力しているんですね、先輩。部活のない日はバイトなんですかぁ」

「まあね。ほんとうはもっと練習の時間が欲しいけど。でも練習とバイトが大変っていうんじゃなくてさ」

そう言って、ちょんちょんと床下を指差す。耳を澄ませるとまた、派手な笑い声が聞こえてきた。いつのまにか人数が増えているようだ。

「いつもの連中が来たみたい。あいつのダチよ」

「あいつって……さっきのおじさん?」

北川は渋い顔をしてうなずく。

「うちのママはあたしが小学生の時に離婚したんだけど、頭悪いのに意地だけあってさ。だから慰謝料とか貰わずにひとりで店を切り盛りして、あたしも育てるって威勢のいいことを言っていたみたい」

それから一呼吸置いて続ける。

「けどさ、駅近の飲食店なんて激戦じゃない? うち、いつもお客スカスカだし。ただ、ママはそれなり美人だから、あいつに目をつけられて出資してもらっているってわけ。どう、情けないったらありゃしないでしょ」

そこまで事情を話すと、今度は真剣な顔をしてはるかと視線を合わせた。

「あたし、どうしてもここを出ていく口実が欲しいの。だから絶対、音楽大学に受かりたいんだ。それもできれば特待生で――」

北川は言葉を詰まらせ表情が崩れた。一呼吸おいてぼそっとこぼす。

「だから実績が必要だったの」

そうだったんだ。それでなりふり構わずライバルを蹴落とそうとしたんだ。

「先輩、気持ちはわかりますけど、菜摘が今どんな気持ちだかわかっていますか。先輩の事情は菜摘とは関係ないですよね」

「わかっているって! サクソフォン、明日ちゃんと返すしちゃんと謝るよ。菜摘と仲良しこよしのあんたにバレちゃったんだから、どうせもうおしまいだわ。あーあ、あたし運が悪かったわぁ」

頬を膨らまし、わざとらしく大きなため息をついた。上目遣いではるかを睨む。

「あたし、あいつに相当なめられているし、このままここにいたら何されるかわかんないしね。この前なんか、『逆らったらお前のママ助けてやんねーぞ』とか言い出すし」

「そうなんですか……」

北川の置かれた不遇な状況を察してはるかは考え込む。しばらく黙っていたけれど、突然、ぱっと明るい表情になって手を合わせる。

「そうだ、だったら音楽で見返してやりましょうよ!」

「はぁ? 音楽で、ってあんた、何考えているのよ」

「へへぇ~。舐められないためには、北川先輩のすごいところを見せつければいいんですよ!」

はるかは困惑した北川に対して、悪戯っぽい笑顔を返してみせた。