北川先輩だ!
北川は二年生のハイカラトリオのひとり。おもにトランペットを練習していて、いつもは明るく振舞っているけれど、最近、音符に込められた感情は落ち込んだものだったことを思い出す。
はるかはその音符の中に閉じ込められていた不安定な感情が、単なる嫌がらせとは思えなかった。なぜならひどい嫌悪感を伴っていたからだ。
でも、どうしてなんだろう。菜摘は先輩たちから恨みを買うような子なんかじゃないし、北川先輩が菜摘に嫌悪感を抱く理由も見つからない。菜摘の楽器を隠したのは、ほんとうに北川先輩なのかな?
そんな矛盾を感じたから、はるかはその後も音符の詮索を続けていた。けれど結局のところ、疑わしいのは北川の放った音符だけだった。
だからはるかは北川が練習を終えるのを見計らって、こっそりと後を追うことにした。
「それじゃあ、あたしはそろそろ帰るね。バーイ」
「おつかれー。あたしらはもうちょっと練習してくわ」
何食わぬ顔で音楽室を去ろうとする北川。ハイカラトリオの残りのふたり、南野と西山に別れの挨拶を交わす。それから三年生のふたり、涼太と麗にも軽く頭を下げてから音楽室を後にした。
はるかは急いでフルートを片付け、涼太と麗に「すみません、あたしも今日は早めに帰ります」と挨拶をする。はるかは涼太の表情がやけに怪訝そうだったことに気づいたけれど、今はそれどころではなかった。
北川はとんとんと足音を響かせて階段を降りていく。気づかれないように距離を置き、そろりそろりと後を追う。すると北川は一階の玄関を通り越し、さらに地下へと降りていった。
地下一階には倉庫、ロッカー室、応接室それに職員の宿直室がある。はるかは妙だなぁと思った。北川はそのいずれにも用がなさそうだからだ。
すると北川はなんの迷いもなくロッカー室へと足を踏み入れていった。ロッカー室は個人用ではなく、部活や学園祭の目的で使用する共用のスペースだ。かなりの数があり、何列にも区画分けされている。使用申請をした者が鍵を借りることができるので、大きな楽器を演奏する生徒の中には、ロッカーを借りて楽器を収納している者もいる。
けれどはるかは、北川がトランペットを音楽室に置いてきたのをその目で確認していた。だから、ロッカーに仕舞うものなどなさそうだと思ったのだ。
抜き足差し足忍び足でロッカー室に立ち入ると、照明は薄暗く、北川以外の人の気配はなかった。鋼鉄製のロッカーが立ち並んでいるせいか、やけに空気が冷たく感じる。
息を潜めて北川の動向をうかがう。けれど自分の心臓の音が徐々に強くなってゆき、静寂に支配されたロッカー室に響いてしまいそうだった。しだいに息苦しくなってくるけれど、じっと機会を待ち続ける。
そのとき、並んだロッカーの向こう側から、キーッ、と扉を開く音が響いた。
はるかはその瞬間を狙っていた。緊張のせいで氷のように重く硬い足に力を込め、勇気を奮い立たせて飛び出す。北川の前に姿を現し、大声をあげた。
「北川先輩、お疲れ様でしたー!」
「うわああああっ!」
北川は突然現れたはるかに驚き飛び上がる。
その直後、はっとした顔になって、開いたロッカーの扉を勢いよく閉じた。
「なっ、何よいきなり。終わったら寄り道しないでさっさと帰りなさいよ!」
と、追い払うような言い方をした。その不自然な振舞いにはるかは確信する。
間違いない、あのロッカーの中だ!
そこではるかはじりじりと北川に歩み寄る。北川ははるかの動向に目を向けつつ、ロッカーの鍵をポケットから取り出し鍵穴に刺し込もうとする。はるかはそのタイミングを見計らって北川の懐に飛び込んだ。
北川が施錠するよりも、はるかの手がほんの一瞬、早かった。鍵を差し込んだ北川の腕を掴んで引き寄せると、鋭い金属音が響いてロッカーの扉が開いた。はるかはすかさずロッカーの中を覗き込む。
あった!
そこにはピンクのストライプで彩られたサクソフォンのケースが置かれていた。はるかもよく知る、菜摘の愛用のケースに間違いない。
はるかは丸い目を鋭くして北川を睨みつける。内心はひどく緊張していて、心臓がのどから飛び出しそうだった。けれど、弱みを握った以上、引き下がるつもりはない。
北川はあわてて後ずさりし、はるかから視線を逸らす。表情には焦りが色濃く浮き上がっていた。
「北川先輩、あなただったんですね。菜摘のサクソフォンを隠したの」
釘を刺すようにそう言うと、北川の視線はうろうろと宙をさまよう。
「このこと、先輩たちと山下先生に言いますから」
毅然とした態度ではるかがそう告げると、北川はぼそっとこぼす。
「……選考会までには返すつもりだったのよ」
「そんなの言い逃れじゃないですか、盗んだのと一緒ですよ!」
そう言ってピンクのストライプのケースを指差す。
「どうして菜摘のこと、そんなに憎んでいるんですか」
ところが北川は疑問の混ざった表情で答える。
「えっ、憎んでいる、って?」
その意外な反応ははるかの想像とは違っていた。嫌悪感を抱いている相手は菜摘ではなかったのだ。
「え……違うんですか」
「菜摘には悪いことしたとは思うけれど、ここのところ勢いづいているから、ちょっとだけ動揺させようと思っただけだって」
「へっ、それだけですか?」
はるかは虚を突かれたようで、すっとんきょうな表情になる。
「それだけって、それ以外の理由があると思うの? わかるでしょ、選考会で落ちてもらわないと、そのぶんあたしたちの枠が減っちゃうじゃない」
あたしたち、というのはハイカラトリオのことを指しているはず。三人で出場したいと思ったのがこの行為の動機なのだろう。
でも、その答えに驚いたのははるかの方だった。なぜなら北川の音符には強い嫌悪感が込められていたけれど、その矛先は菜摘に向けられたものではなかったからだ。
じゃあ、あの嫌悪感はいったい、誰に対して?
一度芽を出したはるかの好奇心は、遠慮なくもりもりと育ち始めてしまう。北川の弱みを握ったはるかは興味の感情を抑えることができなくなり、すぐさま北川に提案をする。
「このことは誰にも言いませんから、そのかわり、なんでこんなことをしたのか、ほんとうの理由をあたしに教えてもらえますか。たぶん、北川先輩には特別な事情があるんですよね?」
北川は目を二倍にして驚いた。うつむいてしばらく考え込み、それから真顔ではるかに返事をする。
「――じゃあ、これからあたしの家にてきてほしいの」
北川はロッカーに鍵をかけて無言で荷物をまとめると、はるかに背中を向けて早足で歩き出した。
北川は二年生のハイカラトリオのひとり。おもにトランペットを練習していて、いつもは明るく振舞っているけれど、最近、音符に込められた感情は落ち込んだものだったことを思い出す。
はるかはその音符の中に閉じ込められていた不安定な感情が、単なる嫌がらせとは思えなかった。なぜならひどい嫌悪感を伴っていたからだ。
でも、どうしてなんだろう。菜摘は先輩たちから恨みを買うような子なんかじゃないし、北川先輩が菜摘に嫌悪感を抱く理由も見つからない。菜摘の楽器を隠したのは、ほんとうに北川先輩なのかな?
そんな矛盾を感じたから、はるかはその後も音符の詮索を続けていた。けれど結局のところ、疑わしいのは北川の放った音符だけだった。
だからはるかは北川が練習を終えるのを見計らって、こっそりと後を追うことにした。
「それじゃあ、あたしはそろそろ帰るね。バーイ」
「おつかれー。あたしらはもうちょっと練習してくわ」
何食わぬ顔で音楽室を去ろうとする北川。ハイカラトリオの残りのふたり、南野と西山に別れの挨拶を交わす。それから三年生のふたり、涼太と麗にも軽く頭を下げてから音楽室を後にした。
はるかは急いでフルートを片付け、涼太と麗に「すみません、あたしも今日は早めに帰ります」と挨拶をする。はるかは涼太の表情がやけに怪訝そうだったことに気づいたけれど、今はそれどころではなかった。
北川はとんとんと足音を響かせて階段を降りていく。気づかれないように距離を置き、そろりそろりと後を追う。すると北川は一階の玄関を通り越し、さらに地下へと降りていった。
地下一階には倉庫、ロッカー室、応接室それに職員の宿直室がある。はるかは妙だなぁと思った。北川はそのいずれにも用がなさそうだからだ。
すると北川はなんの迷いもなくロッカー室へと足を踏み入れていった。ロッカー室は個人用ではなく、部活や学園祭の目的で使用する共用のスペースだ。かなりの数があり、何列にも区画分けされている。使用申請をした者が鍵を借りることができるので、大きな楽器を演奏する生徒の中には、ロッカーを借りて楽器を収納している者もいる。
けれどはるかは、北川がトランペットを音楽室に置いてきたのをその目で確認していた。だから、ロッカーに仕舞うものなどなさそうだと思ったのだ。
抜き足差し足忍び足でロッカー室に立ち入ると、照明は薄暗く、北川以外の人の気配はなかった。鋼鉄製のロッカーが立ち並んでいるせいか、やけに空気が冷たく感じる。
息を潜めて北川の動向をうかがう。けれど自分の心臓の音が徐々に強くなってゆき、静寂に支配されたロッカー室に響いてしまいそうだった。しだいに息苦しくなってくるけれど、じっと機会を待ち続ける。
そのとき、並んだロッカーの向こう側から、キーッ、と扉を開く音が響いた。
はるかはその瞬間を狙っていた。緊張のせいで氷のように重く硬い足に力を込め、勇気を奮い立たせて飛び出す。北川の前に姿を現し、大声をあげた。
「北川先輩、お疲れ様でしたー!」
「うわああああっ!」
北川は突然現れたはるかに驚き飛び上がる。
その直後、はっとした顔になって、開いたロッカーの扉を勢いよく閉じた。
「なっ、何よいきなり。終わったら寄り道しないでさっさと帰りなさいよ!」
と、追い払うような言い方をした。その不自然な振舞いにはるかは確信する。
間違いない、あのロッカーの中だ!
そこではるかはじりじりと北川に歩み寄る。北川ははるかの動向に目を向けつつ、ロッカーの鍵をポケットから取り出し鍵穴に刺し込もうとする。はるかはそのタイミングを見計らって北川の懐に飛び込んだ。
北川が施錠するよりも、はるかの手がほんの一瞬、早かった。鍵を差し込んだ北川の腕を掴んで引き寄せると、鋭い金属音が響いてロッカーの扉が開いた。はるかはすかさずロッカーの中を覗き込む。
あった!
そこにはピンクのストライプで彩られたサクソフォンのケースが置かれていた。はるかもよく知る、菜摘の愛用のケースに間違いない。
はるかは丸い目を鋭くして北川を睨みつける。内心はひどく緊張していて、心臓がのどから飛び出しそうだった。けれど、弱みを握った以上、引き下がるつもりはない。
北川はあわてて後ずさりし、はるかから視線を逸らす。表情には焦りが色濃く浮き上がっていた。
「北川先輩、あなただったんですね。菜摘のサクソフォンを隠したの」
釘を刺すようにそう言うと、北川の視線はうろうろと宙をさまよう。
「このこと、先輩たちと山下先生に言いますから」
毅然とした態度ではるかがそう告げると、北川はぼそっとこぼす。
「……選考会までには返すつもりだったのよ」
「そんなの言い逃れじゃないですか、盗んだのと一緒ですよ!」
そう言ってピンクのストライプのケースを指差す。
「どうして菜摘のこと、そんなに憎んでいるんですか」
ところが北川は疑問の混ざった表情で答える。
「えっ、憎んでいる、って?」
その意外な反応ははるかの想像とは違っていた。嫌悪感を抱いている相手は菜摘ではなかったのだ。
「え……違うんですか」
「菜摘には悪いことしたとは思うけれど、ここのところ勢いづいているから、ちょっとだけ動揺させようと思っただけだって」
「へっ、それだけですか?」
はるかは虚を突かれたようで、すっとんきょうな表情になる。
「それだけって、それ以外の理由があると思うの? わかるでしょ、選考会で落ちてもらわないと、そのぶんあたしたちの枠が減っちゃうじゃない」
あたしたち、というのはハイカラトリオのことを指しているはず。三人で出場したいと思ったのがこの行為の動機なのだろう。
でも、その答えに驚いたのははるかの方だった。なぜなら北川の音符には強い嫌悪感が込められていたけれど、その矛先は菜摘に向けられたものではなかったからだ。
じゃあ、あの嫌悪感はいったい、誰に対して?
一度芽を出したはるかの好奇心は、遠慮なくもりもりと育ち始めてしまう。北川の弱みを握ったはるかは興味の感情を抑えることができなくなり、すぐさま北川に提案をする。
「このことは誰にも言いませんから、そのかわり、なんでこんなことをしたのか、ほんとうの理由をあたしに教えてもらえますか。たぶん、北川先輩には特別な事情があるんですよね?」
北川は目を二倍にして驚いた。うつむいてしばらく考え込み、それから真顔ではるかに返事をする。
「――じゃあ、これからあたしの家にてきてほしいの」
北川はロッカーに鍵をかけて無言で荷物をまとめると、はるかに背中を向けて早足で歩き出した。