はるかは物心ついた時から、楽器から放たれる音色を視ることができた。ときに誰かが生み出した生活音もまた、音符の姿となって目に映る。世界に放たれた音は宙を舞い、溶けるように消えてゆく。そしてはるかはその中に閉じ込められた想いを掴まえることができた。はるかにとって、それは音程を聞き分けるかのようにごく自然なことだった。
だから音楽室という音色に溢れた空間は、はるかの好奇心を満たす格好の舞台だった。恋や憧れ、それに嫉妬心までもが舞っていた。
そして、音色の中でも一際眩しい輝きを放つのは、部長である高円寺涼太の奏でるフルート。
薄い唇と触れ合ったフルートは涼太の胸中の熱をふんだんに受け止めて、烈風のような調べに変える。まるで恋人に対して情熱の炎を吹きつけるが如く放つ、その熱い紅色の音色。
はるかが教室の対側で練習に打ち込む涼太を見ていると、燃えるような紅の音符が視界に紛れ込んできた。涼太の放つ音符だ。はるかの人差し指がその音符を捉えた。
パァン――。
音符はぽっと火花を散らし、燃えるように消えた。
とたん。
『愛してる――』
その音符の放つ想いに胸の鼓動が早まり、顔が上気する。
やっぱり!
はるかは涼太の音符に秘められた「想い」がどんなものかを知っている。三年生は受験勉強に本腰を入れているはずの時期なのに、いまだにアンサンブル部を続け、秋のコンクールで全国大会を目指しているのは、想いを寄せる「誰か」のためじゃないかと、はるかは察していた。
そして、その「誰か」はこのアンサンブル部員ではない。燃えるような情熱を舞い上がらせながらも、音符は向かうあてもなく宙を漂っているからだ。
高円寺先輩の想い人って、いったい誰なんだろう。そして、どんな素敵な人なんだろう。
切れ長の目にシャープな顎のラインが凛々しく、見る者を吸い込むような輝きを放っている。やわらかく整えられたダークブラウンの髪は絹糸のように輝き、リズムに合わせて踊っている。二次元の世界から飛び出してきたような浮世離れ感を漂わせている。
しかも成績は学年トップクラスで、スポーツも万能。まさにエリートを絵に描いたような上級生であった。
突然、パンパンと二回、手を打ち鳴らす音が響き渡る。それから続く、鋭くて明瞭な高音の声。
「それでは皆さん、聞いてください!」
その声には雑然とした音楽室の空気を一掃してしまう迫力があった。壁に掛けられたバッハの肖像画すら緊張を浮かべたように見えてしまう。
清井麗先輩。こっわ。
几帳面にウェーブがかけられた長い髪と透き通るような白い肌。すっとした鼻筋に整ったフランス人形のような輪郭。まるで「ベルサイユのばら」の登場人物のような、日本人離れした美貌と輝きがある。
そして兼ね備えた美と共存するのは、見事なまでの隙のなさ。良くも悪くも、皆の前で感情を表に出すことがない。はるかは麗の笑顔を一度たりとも見たことがなかった。
「氷の女王」って皆が言うのも、うん、なんだか納得。
「これから選考会を始めます。席を移動してください」
麗のアナウンスを聞いた瞬間、はるかの全身に電気を浴びたような緊張感が走る。
選考会、きたあっ!!
はるかは自分の実力ではコンクール出場奏者の選考など、およびでないとわかっている。けれど抱えるのは実力の問題だけではなかった。
檀上で演奏する自分の姿を想像しただけで心臓がぎゅっと縮みあがり、呼吸が止まってしまうのではと感じるくらい、息が苦しくなるのだ。
緊張感に支配されたはるかの様子を察し、クラスメートの山村菜摘が声をかけてきた。
「はるか、誰だって最初は緊張するわよ。でも自信がつくと、逆に聴いてほしいって思えるようになるのよねー。だから一緒に頑張ろうね」
「う、うん……あたし、がんばる!」
胸の前でぎゅっと握りしめた手は小刻みに震えていた。手のひらはじっとりとした汗にまみれ、広げれば湯煙が立ち昇りそうな気がした。
菜摘は中学時代からの同級生。ふたりともこの城西高等学校に入学し、幸運にも同じクラスとなった。菜摘は幼少の頃からバイオリンやサクソフォン、それにピアノなどさまざまな楽器をたしなんでおり、中学生時代の活躍ははるかもよく知っていた。
菜摘は性格そのままの快活で軽妙な演奏をするから、好感と羨望をもってアンサンブル部に迎え入れられた。
はるかは音楽関係の部活に入りたいと思っていたけれど、どうしてもそれができない理由があった。けれど同級生の菜摘が誘ってくれたことで大義名分ができたし、そろそろ時効だと思ったので、高校入学を機に入部を決意した。
練習する楽器について相談したところ、菜摘はフルートがいいよと勧めてくれた。
艶のある銀白色のベーム式フルート、ひんやりとした金属独特の感触で、手に取ると胸が熱くなったのを憶えている。
あたし、上手くなれるかな? 皆を幸せにできる音楽が奏でられるかな?
はるかはフルートを構え、澄んだ音色を空に放つ自分の姿を想像した。とはいえ初心者だけに、上手く奏でられる自信はなかった。多くの部員たちが幼少の頃から音楽と触れ合う時間を持つことができていた一方、事情があって音楽を遠ざけていた四年間は、はるかの音に対する感覚をすっかり鈍らせていたのだ。
だから音楽室という音色に溢れた空間は、はるかの好奇心を満たす格好の舞台だった。恋や憧れ、それに嫉妬心までもが舞っていた。
そして、音色の中でも一際眩しい輝きを放つのは、部長である高円寺涼太の奏でるフルート。
薄い唇と触れ合ったフルートは涼太の胸中の熱をふんだんに受け止めて、烈風のような調べに変える。まるで恋人に対して情熱の炎を吹きつけるが如く放つ、その熱い紅色の音色。
はるかが教室の対側で練習に打ち込む涼太を見ていると、燃えるような紅の音符が視界に紛れ込んできた。涼太の放つ音符だ。はるかの人差し指がその音符を捉えた。
パァン――。
音符はぽっと火花を散らし、燃えるように消えた。
とたん。
『愛してる――』
その音符の放つ想いに胸の鼓動が早まり、顔が上気する。
やっぱり!
はるかは涼太の音符に秘められた「想い」がどんなものかを知っている。三年生は受験勉強に本腰を入れているはずの時期なのに、いまだにアンサンブル部を続け、秋のコンクールで全国大会を目指しているのは、想いを寄せる「誰か」のためじゃないかと、はるかは察していた。
そして、その「誰か」はこのアンサンブル部員ではない。燃えるような情熱を舞い上がらせながらも、音符は向かうあてもなく宙を漂っているからだ。
高円寺先輩の想い人って、いったい誰なんだろう。そして、どんな素敵な人なんだろう。
切れ長の目にシャープな顎のラインが凛々しく、見る者を吸い込むような輝きを放っている。やわらかく整えられたダークブラウンの髪は絹糸のように輝き、リズムに合わせて踊っている。二次元の世界から飛び出してきたような浮世離れ感を漂わせている。
しかも成績は学年トップクラスで、スポーツも万能。まさにエリートを絵に描いたような上級生であった。
突然、パンパンと二回、手を打ち鳴らす音が響き渡る。それから続く、鋭くて明瞭な高音の声。
「それでは皆さん、聞いてください!」
その声には雑然とした音楽室の空気を一掃してしまう迫力があった。壁に掛けられたバッハの肖像画すら緊張を浮かべたように見えてしまう。
清井麗先輩。こっわ。
几帳面にウェーブがかけられた長い髪と透き通るような白い肌。すっとした鼻筋に整ったフランス人形のような輪郭。まるで「ベルサイユのばら」の登場人物のような、日本人離れした美貌と輝きがある。
そして兼ね備えた美と共存するのは、見事なまでの隙のなさ。良くも悪くも、皆の前で感情を表に出すことがない。はるかは麗の笑顔を一度たりとも見たことがなかった。
「氷の女王」って皆が言うのも、うん、なんだか納得。
「これから選考会を始めます。席を移動してください」
麗のアナウンスを聞いた瞬間、はるかの全身に電気を浴びたような緊張感が走る。
選考会、きたあっ!!
はるかは自分の実力ではコンクール出場奏者の選考など、およびでないとわかっている。けれど抱えるのは実力の問題だけではなかった。
檀上で演奏する自分の姿を想像しただけで心臓がぎゅっと縮みあがり、呼吸が止まってしまうのではと感じるくらい、息が苦しくなるのだ。
緊張感に支配されたはるかの様子を察し、クラスメートの山村菜摘が声をかけてきた。
「はるか、誰だって最初は緊張するわよ。でも自信がつくと、逆に聴いてほしいって思えるようになるのよねー。だから一緒に頑張ろうね」
「う、うん……あたし、がんばる!」
胸の前でぎゅっと握りしめた手は小刻みに震えていた。手のひらはじっとりとした汗にまみれ、広げれば湯煙が立ち昇りそうな気がした。
菜摘は中学時代からの同級生。ふたりともこの城西高等学校に入学し、幸運にも同じクラスとなった。菜摘は幼少の頃からバイオリンやサクソフォン、それにピアノなどさまざまな楽器をたしなんでおり、中学生時代の活躍ははるかもよく知っていた。
菜摘は性格そのままの快活で軽妙な演奏をするから、好感と羨望をもってアンサンブル部に迎え入れられた。
はるかは音楽関係の部活に入りたいと思っていたけれど、どうしてもそれができない理由があった。けれど同級生の菜摘が誘ってくれたことで大義名分ができたし、そろそろ時効だと思ったので、高校入学を機に入部を決意した。
練習する楽器について相談したところ、菜摘はフルートがいいよと勧めてくれた。
艶のある銀白色のベーム式フルート、ひんやりとした金属独特の感触で、手に取ると胸が熱くなったのを憶えている。
あたし、上手くなれるかな? 皆を幸せにできる音楽が奏でられるかな?
はるかはフルートを構え、澄んだ音色を空に放つ自分の姿を想像した。とはいえ初心者だけに、上手く奏でられる自信はなかった。多くの部員たちが幼少の頃から音楽と触れ合う時間を持つことができていた一方、事情があって音楽を遠ざけていた四年間は、はるかの音に対する感覚をすっかり鈍らせていたのだ。