はるかはため息をつき、こわばった肩の力を緩める。
ひいい、メンバー争奪戦って怖いっ! 潰し合いなのね……。
いまだ鳴りやまない鼓動をなだめながら音楽室の方に視線を送る。すると麗が顔を覗かせてはるかの様子をうかがっていた。皆に聞こえるトーンで「花宮さん、音楽室に戻って練習しなさい」と、厳い口調で叱責した。
はるかは反射的に謝り、あわてて音楽室に戻ろうとする。
麗の横を通り過ぎた瞬間、ぱっと腕を掴まれた。はるかが驚くと、麗ははるかの顔を覗き込み小声でささやく。うって変わって優しい声。
「あの三人、大丈夫だった?」
「ひゃっ、ひゃいっ、平気でしたっ! 麗先輩と一緒にいた理由を訊かれたから、麗先輩に怒られていたって言いました!」
あたふたするはるかの声に、麗はくすっと口元を緩める。
「よかった、花宮さんが妬まれたりしなくて」
そう言うと麗ははるかに背を向けて、静々と音楽室に戻っていった。
麗先輩はこうなることをわかっていたんだ。だから皆に厳しく接しないといけないんだ。
はるかは「氷の女王」と呼ばれた麗の、氷よりも澄んだ優しさに触れた気がした。そして同時に、別の思いが胸をよぎる。
でもそういうのって、孤独じゃないのかな?
麗の綺麗な笑顔を思い出すと、その裏には隠れた寂しさがあるように思えてならない。
そろりと音楽室に戻ると、菜摘があわてた様子ではるかに駆け寄ってきた。いつだって春の日差しのように朗らかな菜摘なのに、今日は妙に青ざめた顔をしている。
「どうしたの、菜摘」
菜摘はおろおろとしながらこう言う。
「……ないの」
「えっ?」
「昨日、練習した後、音楽室に置いておいたはずのサクソフォンが……」
「ええっ!?」
今にも泣き出しそうな顔をして振り向き、音楽室の後ろを指さす。
教室の最後部は余った机が並べられ衝立で仕切られており、アンサンブル部の楽器置き場になっている。菜摘はその場所を指していた。
はるかは荷物置き場に向かい、積み重なった荷物をひとつひとつ探ってゆく。振り向いて一度、菜摘に確認する。
「ケースは、ピンクのストライプのやつだよね」
「うん、そうなんだけど、ぜんぜん見あたらないの。確かにここに置いたのに」
はるかが探しても、見つかるはずはなかった。
菜摘はついにぽろぽろと涙をこぼし始める。そして音楽室の隅っこに小さくうずくまり顔を伏せる。
「明後日の選考会、どうしよう……」
「そうだよね、菜摘、すごく頑張っていたもんね。でもどこに行ったんだろう」
はるかは菜摘の肩を抱えて気遣う。
その様子を目にした部員のひとりがはるかと菜摘に声をかけてきた。別クラスの同級生の男子だ。
「山村と花宮、そんな隅っこでどうしたんだ」
「菜摘のサクソフォンがないんだって。誰か知らないかなぁ?」
「ええっ、あんな大きいもの、普通は無くなるわけないだろ」
そう言ってから、その男子は腕を組み考え込んだ。それから小声でこんなことを口にする。
「誰かの仕業かもよ。ほら、女の世界って怖いって言うじゃん。山村、演奏上手いからさ、妬まれたり疎まれたりしそうじゃん」
「ええっ、もしそうだとすると心当たりってある?」
「私はぜんぜんないよぉ」
「でも三年生のあのふたり以外、みんなそうなんじゃね」
そう言われて音楽室を見渡すと、誰もが怪しく見えてしまう。
でも、確かにそうかもしれない。菜摘は演奏が上手だから、入部のときに高円寺先輩や麗先輩には歓迎されていた。けれど、コンクールのように少ない椅子を取り合うとなったら、手段を選ばない人がいるのかもしれない。
結局のところ、菜摘はその日の練習を諦めて帰ることにした。帰り際にはるかに告げる。
「持ち帰ってないと思うけど、家も当たってみるよ。グスン」
肩を落として背を向ける菜摘にはるかは声をかける。
「もしも見つかったら、すぐに連絡するね」
すると菜摘は涙を拭いながら、「うん、お願いね」とうなずく。顔を伏せたまま足早に音楽室を立ち去った。
その後ろ姿を見届けて、はるかは決意を固めた。
よしっ、犯人探しだ! 菜摘のために、絶対にサクソフォンを見つけ出してあげるんだ!
はるかは自分のフルートをケースから取り出して構える。演奏の練習のふりをしながらあたりに気を配る。音楽室は練習に熱中する部員たちの音色で賑わい、さまざまな音符がところ狭しと飛び交っていた。
見上げるはるかの頭上に舞い散る音符記号は百花繚乱だ。この中の想いを掴み取れば、手がかりが見つかるかもしれない。とはいえ乱雑な音色の集塊からひとつひとつを探ってゆくのは途方もない作業に思えた。
けれどそれは自分だけができることだと思い、口元を引き締めて手を掲げ、人差し指をまっすぐに立てた。人目を気にしながら視界に流れ込んできた音符を次々とタップする。
パチン、パチンと弾けて込められた想いが飛び散る。
『だめだ、これじゃ選考会に間に合わねえよ』
違う。
『ああ~、次の数学の試験、絶対やばすぎるぅぅぅ!』
これも違う……。
『朝、電車で会うあの人、彼女いるのかなぁ……』
うーん、なかなか見つからないなぁ。
すると、一際目立った音符がはるかの目に止まった。
その音符はところどころが薄暗く変色していて、まるで傷んだ柑橘のような色をしていた。
ネガティブな思考にとりつかれている色だ!
はるかは今までの経験から、心が濁ると音符も濁った色になることをよく知っていた。
間違いない。あの音符の持ち主だ!
はるかが緊張の色を浮かべてその音符に触れると、音符は力なく潰れるように弾け、鈍い光が辺りに飛び散った。同時にその音符に込められた想いもあらわになった。
『あいつは追い出さないと……』
はるかは音符から放たれる嫌悪感を感じ取り、思わず目を伏せる。そしてはるかはその音符の源が誰の楽器なのか、心当たりがあったのだ。
ひいい、メンバー争奪戦って怖いっ! 潰し合いなのね……。
いまだ鳴りやまない鼓動をなだめながら音楽室の方に視線を送る。すると麗が顔を覗かせてはるかの様子をうかがっていた。皆に聞こえるトーンで「花宮さん、音楽室に戻って練習しなさい」と、厳い口調で叱責した。
はるかは反射的に謝り、あわてて音楽室に戻ろうとする。
麗の横を通り過ぎた瞬間、ぱっと腕を掴まれた。はるかが驚くと、麗ははるかの顔を覗き込み小声でささやく。うって変わって優しい声。
「あの三人、大丈夫だった?」
「ひゃっ、ひゃいっ、平気でしたっ! 麗先輩と一緒にいた理由を訊かれたから、麗先輩に怒られていたって言いました!」
あたふたするはるかの声に、麗はくすっと口元を緩める。
「よかった、花宮さんが妬まれたりしなくて」
そう言うと麗ははるかに背を向けて、静々と音楽室に戻っていった。
麗先輩はこうなることをわかっていたんだ。だから皆に厳しく接しないといけないんだ。
はるかは「氷の女王」と呼ばれた麗の、氷よりも澄んだ優しさに触れた気がした。そして同時に、別の思いが胸をよぎる。
でもそういうのって、孤独じゃないのかな?
麗の綺麗な笑顔を思い出すと、その裏には隠れた寂しさがあるように思えてならない。
そろりと音楽室に戻ると、菜摘があわてた様子ではるかに駆け寄ってきた。いつだって春の日差しのように朗らかな菜摘なのに、今日は妙に青ざめた顔をしている。
「どうしたの、菜摘」
菜摘はおろおろとしながらこう言う。
「……ないの」
「えっ?」
「昨日、練習した後、音楽室に置いておいたはずのサクソフォンが……」
「ええっ!?」
今にも泣き出しそうな顔をして振り向き、音楽室の後ろを指さす。
教室の最後部は余った机が並べられ衝立で仕切られており、アンサンブル部の楽器置き場になっている。菜摘はその場所を指していた。
はるかは荷物置き場に向かい、積み重なった荷物をひとつひとつ探ってゆく。振り向いて一度、菜摘に確認する。
「ケースは、ピンクのストライプのやつだよね」
「うん、そうなんだけど、ぜんぜん見あたらないの。確かにここに置いたのに」
はるかが探しても、見つかるはずはなかった。
菜摘はついにぽろぽろと涙をこぼし始める。そして音楽室の隅っこに小さくうずくまり顔を伏せる。
「明後日の選考会、どうしよう……」
「そうだよね、菜摘、すごく頑張っていたもんね。でもどこに行ったんだろう」
はるかは菜摘の肩を抱えて気遣う。
その様子を目にした部員のひとりがはるかと菜摘に声をかけてきた。別クラスの同級生の男子だ。
「山村と花宮、そんな隅っこでどうしたんだ」
「菜摘のサクソフォンがないんだって。誰か知らないかなぁ?」
「ええっ、あんな大きいもの、普通は無くなるわけないだろ」
そう言ってから、その男子は腕を組み考え込んだ。それから小声でこんなことを口にする。
「誰かの仕業かもよ。ほら、女の世界って怖いって言うじゃん。山村、演奏上手いからさ、妬まれたり疎まれたりしそうじゃん」
「ええっ、もしそうだとすると心当たりってある?」
「私はぜんぜんないよぉ」
「でも三年生のあのふたり以外、みんなそうなんじゃね」
そう言われて音楽室を見渡すと、誰もが怪しく見えてしまう。
でも、確かにそうかもしれない。菜摘は演奏が上手だから、入部のときに高円寺先輩や麗先輩には歓迎されていた。けれど、コンクールのように少ない椅子を取り合うとなったら、手段を選ばない人がいるのかもしれない。
結局のところ、菜摘はその日の練習を諦めて帰ることにした。帰り際にはるかに告げる。
「持ち帰ってないと思うけど、家も当たってみるよ。グスン」
肩を落として背を向ける菜摘にはるかは声をかける。
「もしも見つかったら、すぐに連絡するね」
すると菜摘は涙を拭いながら、「うん、お願いね」とうなずく。顔を伏せたまま足早に音楽室を立ち去った。
その後ろ姿を見届けて、はるかは決意を固めた。
よしっ、犯人探しだ! 菜摘のために、絶対にサクソフォンを見つけ出してあげるんだ!
はるかは自分のフルートをケースから取り出して構える。演奏の練習のふりをしながらあたりに気を配る。音楽室は練習に熱中する部員たちの音色で賑わい、さまざまな音符がところ狭しと飛び交っていた。
見上げるはるかの頭上に舞い散る音符記号は百花繚乱だ。この中の想いを掴み取れば、手がかりが見つかるかもしれない。とはいえ乱雑な音色の集塊からひとつひとつを探ってゆくのは途方もない作業に思えた。
けれどそれは自分だけができることだと思い、口元を引き締めて手を掲げ、人差し指をまっすぐに立てた。人目を気にしながら視界に流れ込んできた音符を次々とタップする。
パチン、パチンと弾けて込められた想いが飛び散る。
『だめだ、これじゃ選考会に間に合わねえよ』
違う。
『ああ~、次の数学の試験、絶対やばすぎるぅぅぅ!』
これも違う……。
『朝、電車で会うあの人、彼女いるのかなぁ……』
うーん、なかなか見つからないなぁ。
すると、一際目立った音符がはるかの目に止まった。
その音符はところどころが薄暗く変色していて、まるで傷んだ柑橘のような色をしていた。
ネガティブな思考にとりつかれている色だ!
はるかは今までの経験から、心が濁ると音符も濁った色になることをよく知っていた。
間違いない。あの音符の持ち主だ!
はるかが緊張の色を浮かべてその音符に触れると、音符は力なく潰れるように弾け、鈍い光が辺りに飛び散った。同時にその音符に込められた想いもあらわになった。
『あいつは追い出さないと……』
はるかは音符から放たれる嫌悪感を感じ取り、思わず目を伏せる。そしてはるかはその音符の源が誰の楽器なのか、心当たりがあったのだ。