城西高等学校の学園祭は盛況だった。学生の運営する露店がところ狭しと並んでいで、舞台の上では進行役がマイクで叫び、観客からは拍手が沸き起こっている。
「わぁ、なんだろう、行ってみようよ!」
有紗は興味津々で舞台に駆け寄り懸命に背伸びをする。
「うーん、何やっているんだろ。見えないなぁ」
有紗の身長では舞台が視界に入らない。涼太はしかたないなと思い、その場にしゃがみこみ指で有紗に合図をする。有紗の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう、お兄ちゃん」
軽くお礼を言うと、すぐさま涼太の肩にまたがる。涼太は立ち上がり、有紗と一緒に舞台を覗き込む。
すると、舞台には制服姿の生徒が四人、佇んでいた。男子が二名に女子が二名。皆、フルートを手にしている。彼らが今ここにいる理由について、進行役が解説する。
「今年、県大会への出場を決めたアンサンブル部の皆さんです! リハーサルを兼ねて演奏しますけど、録画録音オッケーです。将来、価値が出るかもしれませんよ」
盛大な拍手が舞台を覆う。ところが涼太はまるで興味を示さない。
吹奏楽の演奏なのか。
涼太はピアノ以外にもさまざまな楽器を演奏できるが、金管楽器や打楽器のような単純な構造の楽器は、いわゆる「子供騙しの楽器」と見なしていた。だからアンサンブルの演奏に興味など湧くはずがなかった。頭上の有紗に話しかける。
「アンサンブルだから聴かなくていいか」
すると有紗は露骨に不機嫌な顔をした。
「えー、聴いてみたいよ。ちょっとだけならいいでしょ」
隣に立つ麗に視線を送り同意を求めると、麗は有紗の意図を汲んで答える。
「涼太、少しだけならいいんじゃない? 涼太は目的のイベントなんて別にないでしょ」
そう言われた涼太はむっとして口をへの字にしたけれど、結局は可愛い妹の希望を聞き入れてあげることにした。肩車のまま、聴衆の群れの一部となって立ち続ける。
そしてフルートの演奏が始まった。
曲は『夏山の一日』。
季節外れじゃないのか? もう夏は終わったというのに。
そう思いぼんやりとフルートの音色に耳を傾ける。ところがその音色が届いた瞬間、涼太の顔色が一変した。
意外とやるな、この人たち。
メロディは情緒的でありながら快活で、聴いていて心地よい。我を忘れて聴き入ると、涼太は不思議な感覚に襲われ始めた。全身が麻酔をかけられたように、じんわりと痺れてくるのだ。
旋律は涼太の五感に訴えかけてきた。
この会場のあたりの空気が、草木の匂いを含んでいるようだ。湿気も感じられるほどに生々しい。
気がつくと、ジリジリと耳の奥まで浸透してくる蝉の鳴き声。いつのまにか涼太は深緑の中に佇んでいて、木々の隙間からは木漏れ日が降り注いでいた。その光線は、さっきまではなかった、夏独特のむせるような熱を含んでいる。自然に汗が滴り落ちた。
涼太の心の中に展開される。生命溢れる夏山の一日。すでに過ぎ去ったはずの夏という季節に誘われているようだった。
知らなかった。これが音楽の持つ力なのか。誰なんだ、こんな世界を描いた犯人は。
涼太は自身を惑わせる不思議な音色の根源を探るべく、舞台の上の人間を視線で探り始めた。
その不思議な音色は、背の高い痩躯の男子生徒から発せられていた。気づいてから演奏が終わるまで、涼太はその人を凝視していた。
俺に憧れを抱かせる人間がいるとすれば、その人は俺を知らない世界に連れて行ってくれる人だと思っていた。あの人は、常識では掴まえられるはずのない「音色」という抽象的な概念を手懐けて、メロディで独自の世界を描いている。そして、既存の枠に捉われない、自由な音楽を謳歌している。俺もあの人のような、夢物語の音色を奏でてみたい。
隣では麗も心地よさそうに旋律を味わっていた。フルートの音色が静かに閉ざされてから、少しの静寂を挟んで拍手が沸き起こる。喝采の終焉を待って麗が口を開いた。
「素敵な演奏だったね、涼太もそう思うでしょ」
麗は涼太の顔を見、異変に気づいて目を丸くした。
涼太はひとすじの涙をこぼしていたのだ。まるで現実感のない、夢見心地の表情だった。
有紗も見たことのない兄の表情に驚き声をかける。
「お兄ちゃん、いったいどうしたの」
「え……?」
しばらくして涼太は自分の頬に熱い感触があることに気づいた。手を当ててはじめて、頬が濡れていることを知ったようだ。ぬぐい取って一言、ぽろっとこぼす。
「……なんでもないよ。ただ、見つけたんだ」
そして、その場にしゃがみこみ有紗を肩から降ろした。
舞台から奏者が去ろうとしたとき、涼太は無意識に駆け出していた。必死に人混みをかき分け、舞台袖へと向かって言った。
「あっ、あの!」
フルート奏者のひとりに声をかける。ずっと目で追っていた奏者だ。
振り向いた奏者は、深く澄んだまなざしで涼太を見つめた。まるで涼太の心の底まで覗くような視線。
「君は音楽が好きなんだね」
「あっ、はい、そうです。あの……名前を教えてもらえませんか」
涼太はこの人と繋がりを持ちたいと思い、勇気を振り絞って尋ねた。奏者は涼太に微笑みで返す。
「千賀貴音。この高校のアンサンブル部、二年だよ」
「あっ、あの、千賀さんは三年生になっても部活、続けていますか。俺、すごく、すっごくフルートに興味が湧きました!」
千賀は涼太の目の前で、すっと人差し指を立ててみせる。涼太にはその指先が自分を誘っているように感じられた。千賀は目を細めこう言った。
「ああ、僕はきっと今と変わらずメロディを追い続けているよ」
「わぁ、なんだろう、行ってみようよ!」
有紗は興味津々で舞台に駆け寄り懸命に背伸びをする。
「うーん、何やっているんだろ。見えないなぁ」
有紗の身長では舞台が視界に入らない。涼太はしかたないなと思い、その場にしゃがみこみ指で有紗に合図をする。有紗の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう、お兄ちゃん」
軽くお礼を言うと、すぐさま涼太の肩にまたがる。涼太は立ち上がり、有紗と一緒に舞台を覗き込む。
すると、舞台には制服姿の生徒が四人、佇んでいた。男子が二名に女子が二名。皆、フルートを手にしている。彼らが今ここにいる理由について、進行役が解説する。
「今年、県大会への出場を決めたアンサンブル部の皆さんです! リハーサルを兼ねて演奏しますけど、録画録音オッケーです。将来、価値が出るかもしれませんよ」
盛大な拍手が舞台を覆う。ところが涼太はまるで興味を示さない。
吹奏楽の演奏なのか。
涼太はピアノ以外にもさまざまな楽器を演奏できるが、金管楽器や打楽器のような単純な構造の楽器は、いわゆる「子供騙しの楽器」と見なしていた。だからアンサンブルの演奏に興味など湧くはずがなかった。頭上の有紗に話しかける。
「アンサンブルだから聴かなくていいか」
すると有紗は露骨に不機嫌な顔をした。
「えー、聴いてみたいよ。ちょっとだけならいいでしょ」
隣に立つ麗に視線を送り同意を求めると、麗は有紗の意図を汲んで答える。
「涼太、少しだけならいいんじゃない? 涼太は目的のイベントなんて別にないでしょ」
そう言われた涼太はむっとして口をへの字にしたけれど、結局は可愛い妹の希望を聞き入れてあげることにした。肩車のまま、聴衆の群れの一部となって立ち続ける。
そしてフルートの演奏が始まった。
曲は『夏山の一日』。
季節外れじゃないのか? もう夏は終わったというのに。
そう思いぼんやりとフルートの音色に耳を傾ける。ところがその音色が届いた瞬間、涼太の顔色が一変した。
意外とやるな、この人たち。
メロディは情緒的でありながら快活で、聴いていて心地よい。我を忘れて聴き入ると、涼太は不思議な感覚に襲われ始めた。全身が麻酔をかけられたように、じんわりと痺れてくるのだ。
旋律は涼太の五感に訴えかけてきた。
この会場のあたりの空気が、草木の匂いを含んでいるようだ。湿気も感じられるほどに生々しい。
気がつくと、ジリジリと耳の奥まで浸透してくる蝉の鳴き声。いつのまにか涼太は深緑の中に佇んでいて、木々の隙間からは木漏れ日が降り注いでいた。その光線は、さっきまではなかった、夏独特のむせるような熱を含んでいる。自然に汗が滴り落ちた。
涼太の心の中に展開される。生命溢れる夏山の一日。すでに過ぎ去ったはずの夏という季節に誘われているようだった。
知らなかった。これが音楽の持つ力なのか。誰なんだ、こんな世界を描いた犯人は。
涼太は自身を惑わせる不思議な音色の根源を探るべく、舞台の上の人間を視線で探り始めた。
その不思議な音色は、背の高い痩躯の男子生徒から発せられていた。気づいてから演奏が終わるまで、涼太はその人を凝視していた。
俺に憧れを抱かせる人間がいるとすれば、その人は俺を知らない世界に連れて行ってくれる人だと思っていた。あの人は、常識では掴まえられるはずのない「音色」という抽象的な概念を手懐けて、メロディで独自の世界を描いている。そして、既存の枠に捉われない、自由な音楽を謳歌している。俺もあの人のような、夢物語の音色を奏でてみたい。
隣では麗も心地よさそうに旋律を味わっていた。フルートの音色が静かに閉ざされてから、少しの静寂を挟んで拍手が沸き起こる。喝采の終焉を待って麗が口を開いた。
「素敵な演奏だったね、涼太もそう思うでしょ」
麗は涼太の顔を見、異変に気づいて目を丸くした。
涼太はひとすじの涙をこぼしていたのだ。まるで現実感のない、夢見心地の表情だった。
有紗も見たことのない兄の表情に驚き声をかける。
「お兄ちゃん、いったいどうしたの」
「え……?」
しばらくして涼太は自分の頬に熱い感触があることに気づいた。手を当ててはじめて、頬が濡れていることを知ったようだ。ぬぐい取って一言、ぽろっとこぼす。
「……なんでもないよ。ただ、見つけたんだ」
そして、その場にしゃがみこみ有紗を肩から降ろした。
舞台から奏者が去ろうとしたとき、涼太は無意識に駆け出していた。必死に人混みをかき分け、舞台袖へと向かって言った。
「あっ、あの!」
フルート奏者のひとりに声をかける。ずっと目で追っていた奏者だ。
振り向いた奏者は、深く澄んだまなざしで涼太を見つめた。まるで涼太の心の底まで覗くような視線。
「君は音楽が好きなんだね」
「あっ、はい、そうです。あの……名前を教えてもらえませんか」
涼太はこの人と繋がりを持ちたいと思い、勇気を振り絞って尋ねた。奏者は涼太に微笑みで返す。
「千賀貴音。この高校のアンサンブル部、二年だよ」
「あっ、あの、千賀さんは三年生になっても部活、続けていますか。俺、すごく、すっごくフルートに興味が湧きました!」
千賀は涼太の目の前で、すっと人差し指を立ててみせる。涼太にはその指先が自分を誘っているように感じられた。千賀は目を細めこう言った。
「ああ、僕はきっと今と変わらずメロディを追い続けているよ」