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「おい、涼太。明日は気晴らしにそこの高校の学園祭でも見に行ったらどうだ」

土曜日の夜、ワイングラスを手にした涼太の父はそう提案した。

リビングを満たすのは涼太のピアノの音色。サティのジムノペディ、第一番。

穏やかな旋律で満たされるリビングルームは幸福な家庭を象徴しているかのようだ。

「別に興味ないよ」

涼太は食指が動かなかったが、父の提案を耳にした三つ年下の妹、有紗(ありさ)は、にんまりとした笑顔で涼太の顔を覗き込む。ぱっちりとした目と愛嬌のある丸顔。

「お兄ちゃん、あたし行ってみたいんだけどなぁ。高校の学園祭って大人の世界って感じじゃない。でもひとりで行く勇気ないから、一緒に来てほしいなぁ」

高円寺涼太、十五歳。中学三年生の秋のことだ。

涼太はため息をつき有紗に目を向ける。有紗の顔は素直な期待を浮かべていて、だから無下にはできなかった。

「……まぁ近場だし、少しくらいなら付き合ってもいいか」

「やったあ!」

涼太が渋々了承すると、有紗はさらに笑顔を明るくして涼太にせがむ。

「ねえねえ、麗お姉ちゃんも誘ったらどうかなぁ」

そう言って有紗はさらに浮かれる。

有紗は幼少時より近所に住む麗に懐いていたし、有紗が麗の家にお邪魔するのもたびたびのことだった。

麗の飼い犬も有紗の姿を見つけると尻尾を振って大喜びするくらい、有紗に手懐けられている。

先日、有紗が勉強を教えてもらうという理由で麗の家にお邪魔したときのことだ。麗の執事が用意してくれたロールケーキと紅茶を味わいながらの、なにげない会話だった。

「有紗ちゃん、お兄ちゃんは勉強を教えてくれないの?」

「うーん、お兄ちゃんに教わるとスパルタになるから嫌なんだよ。家族って容赦しないじゃない? だから麗お姉ちゃんのところに来ているの!」

「そんなこと言わないの。涼太はああ見えてもほんとうは優しいのよ」

「うっそ。そんなにお兄ちゃんのこと褒めるんだったら、麗お姉ちゃん、あたしのお姉ちゃんになってほしいなぁ」

「ええっ、涼太にはそんなつもり、ぜんぜんないでしょ」

はぐらかすように笑いながらも、頬を赤らめる麗の表情に有紗はまんざらでもないんじゃない、と内心期待する。

麗と涼太の間の繋がりが続いていたひとつの理由は、有紗の人懐っこさにあった。子ならず妹が(かすがい)である。

だから有紗が麗を誘うのはごく自然なことで、同時に有紗の作戦でもあった。

翌日。有紗は右腕を涼太の筋張った腕に、左腕を麗の細く伸びた腕に絡ませてご満悦。鼻歌混じりのご機嫌顔で城西高等学校に向かっていった。涼太は麗に気遣い一応、礼を言う。

「麗……悪いな。いつもこいつのお守りしてもらっちゃって」

「ううん、いいのよ。可愛いじゃない、私も妹欲しかったなぁ」

そう言って麗が視線を有紗に向けると、有紗も麗を見上げてむふふと笑う。

「両親は相変わらず海外に行ったっきりなんだろ」

「そうね。でももうとっくに慣れたかな、小さい頃からそうだもん。服部がしっかりしているから別に不自由はないんだけどね」

「服部」とは長年、清井家に仕えている執事の名である。

けれど、そう言って目を細めてみせた麗の笑顔の裏には、隠しきれない寂しさが滲んでいる。涼太はそれとなく気づいていた。

一方、涼太は成績優秀、容姿端麗、円満で裕福な家庭。何ひとつ不自由のない、恵まれたエリートだ。けれど涼太の胸の中には、常にやり切れない思いが渦巻いている。

もしも俺がこのまま名門の高校、そして医学部に進学し、順風満帆な人生を迎えたとしよう。だが、それは俺が生きてゆくための手段でしかない。敷いたレール上に設定された到達点をクリアすることは必要だが、そのことにどうしても魅力を感じられない。

そして、いつからか俺の中でくすぶり始めた、既存の世界を超越したいという熱情。誰も見たことのない俺だけの風景、既成概念に縛られない自由な世界に対する、ふつふつと湧きおこる渇望。俺はいったいどうすれば、俺を縛る牢獄のような常識を超えてゆけるのだろうか。

そして手のひらを空に掲げる。指の隙間からこぼれ落ちる日差しに涼太は目を細めた。

涼太は勉学においてはあらゆる目標を軽々と達成してしまう、その知性ゆえの苦悩があったのだ。