喫茶店を後にした涼太は自宅のある住宅街を通り抜けて大通りまで足を進める。それから通り沿いに歩き、バス停の前で足を止めた。涼太が手にしている通学用の鞄からは使い慣れたフルートの収納ケースが顔を覗かせている。

待つこと数分、鈍いエンジンの音を響かせてバスが到着した。涼太はバスに乗り込み、吊り革に手を掛けて考え込む。日に日に募る焦りを抑え、記憶の中から手がかりを探している。

時間がない。俺はどうしてもあの人ともう一度演奏したいんだ。

二十分程度揺られた後、涼太はバスの降車ボタンに手を伸ばした。

降りて向かったのは、外壁が一面オフホワイトカラーの、無機質な直方体の建物だった。見上げると窓が碁盤のように整然と並んでいる。

エントランスはガラス張りになっており、自動ドアがひっきりなしに開閉している。多くの人が出入りしており、その中にはパジャマ姿だったり、包帯を巻いていたり、あるいは車椅子の人もいる。

『満天堂病院』

地域医療の中核を担う総合病院。涼太は部活のない日は決まってこの病院を訪れている。

エレベーターに乗り込み向かった先は502号室。降りてから廊下の先端まで足を進め、突き当りの部屋の扉を軽くノックする。

「どうそ、お入りになってください」

部屋の中から届いた声は、すでに誰が来たのか想像がついている反応だ。

足を踏み入れたのは見渡しの良い個室の角部屋。窓際で腰掛けている中年の女性が涼太の目に映った。申し訳なさそうな表情を浮かべている。

「すみません、またお邪魔してしまって」

その女性は悲しげな微笑を浮かべ、気遣いを含んだ声色で答える。

「そんなことないのよ。この子も喜んでいると思うわ。ほんとうにいつもお見舞いに来てくれてありがとう」

「いえ、俺が勝手に会いに来ているだけですから」

涼太は手に持った鞄を窓辺に置き、ベッドに歩み寄る。そこには静かに寝息を立てて眠る人の姿があった。綺麗な、そして安らかな顔。

けれどその人の鼻腔には経管栄養のチューブが挿入されている。食事を摂ることができないからだ。

涼太はベッドに横たわるその人の顔に視線を落とし、部屋の女性に語りかける。

「……もうすぐ二年になるんですね」

女性はうなずき、重々わかっていながら思い出すように言う。

「そうですね、高円寺さん。あなたももう三年生なんですものね、受験勉強にアンサンブル部、両立はさぞ忙しいでしょう」

「心配なさらないでください、部活は好きでやっているので負担にはなりません。それにあのときの先輩もそうでしたから」

それから遠慮がちに尋ねる。

「いいですか、触れても」

「ええ、もちろんです。病院のリハビリもそんなに長くやってもらえるわけではないですから、ほんとうに助かります」

涼太はその眠り人のふくらはぎを両手で掴み、そっと持ち上げ、足をゆっくりと屈伸させる。

「目が覚めた時、拘縮(こうしゅく)して歩けなくなっていたら可哀想ですから」

「ええ、ただ眠っているようにしか見えないのに、どうして目覚めないのかしら」

「石塚先生はなんて言っているんですか? 今は研究のためにこの病院に置いてくれているんですよね?」

女性は医師の言葉を思い出し、整理しながら答える。

「以前と変わりないそうです。脳波はちゃんと検出できるみたいなんです。それに画像で異常は見当たらないし、呼吸だって問題ないみたいです。ただ、徐々に衰弱しているみたいで……」

ベッドに横たわる患者の母である女性は顔を伏せ、目頭を指で押さえた。

「奇跡って、きっと人間が描いた夢物語のことなんでしょうね……もう、家に帰してあげようかしら」

聞いた涼太はすぐさま自分の意思を示す。

「もしそうされるのでしたら、僕も手伝いに行きます」

けれど女性は顔を上げて首を横に振る。

「ううん、駄目よ。あなたはちゃんと勉強をして、大学を受験しなくちゃ。もしも私があなたの親なら、自分の将来をおろそかにするあなたのことを許さないわ」

女性はためらいを見せた後、そっと涼太に告げる。

「……もう来ていただかなくても大丈夫よ。ほんとうに今までありがとう」

そして顔を隠すように頭を垂れる。

その言葉に涼太は困惑の色を浮かべる。横たわる患者の頬に手を伸ばし、その青白い頬にそっと触れる。

「……ふたりだけにしてもらえませんか」

女性はためらうことなく立ち上がり、静かに部屋を出ていった。涼太は扉が閉まったのを見届けてからフルートを取り出して構え、儀式のように語りかける。

「今日は俺の想いを込めた、この曲を吹かせていただきます」

それから一礼し、手にしたフルートを口に添える。

どうかこの音色があなたに届きますように。

そしてフルートに息を吹き込んだ。奏でる曲はドビュッシーの『シランクス』。

シランクスとはギリシャ神話に登場する、アルカディアの森に住む女性の姿をした妖精である。シランクスは月の女神アルテミスに厚い信仰をもっていたため、神々の誘惑に騙されることはなかった。けれど牧神パンはそんなシランクスに恋心を抱き、想いを伝え続けるが、ラドン川のほとりで拒絶されてしまう。

その後、シランクスの行く末にはいくつかの説があり、愛を拒絶するために川の妖精に祈って(よし)に姿を変えたとも、あるいは葦の下に隠れて逃げたともいわれている。

けれどパンがシランクスと思って抱きしめた葦は、風の囁きを不思議な音色に変えて音楽を奏でた。だからパンはその葦を加工して葦笛シュリンクスパンフルートを作り、その音色とともに生きたといわれている。

涼太の奏でる音色はパンの想いを込めているように、煽情的(せんじょうてき)でありながら繊細で、恋人を愛でるような独特の色気があった。

今のあなたはまるで、この歌で語られている、妖精の魔法で葦になってしまったシランクスのようですね。だとすると俺は、あなたを追いつめた牧神パンのようなものなのでしょうか。だけど、この歌に込められた物語と違うのは、俺は今、あなたの奏でるメロディとともに生きてはいないということです。

あの日以来、あなたの魂はどこへ行ってしまったのでしょうか。もしこの世界をさまよっているのなら、どうか俺の目の前に姿を見せてください。

神話の物語を描くその曲は、永遠の終焉に向かうディミヌエンドでフィナーレを迎える。音の響きが消え去ると、病室はやけに静かで、まるで世界から切り取られた空間のように感じられた。

フルートをケースに仕舞うと、涼太はふたたび目の前に横たわる人の頬にそっと触れる。それから、すやすやと寝息をたてるその顔に自分の顔を近づける。

俺はいつかまた訪れると信じています。あなたとフルートを奏でていた、あの夢のような時間が。

そして眠り人の乾いた唇に顔を近づけ、自身の唇をそっと押しつけた。閉じた涼太の目からは涙が滴り落ち、頬を伝って触れ合う互いの唇を潤した。

俺はあなたがどんな姿になろうとも、愛し続けています。

――千賀貴音さん。

涼太はしばらくその感触を味わった後、そっと唇を離す。

そのとき、涼太の脳裏にははるかの奏でたフルートのメロディが響き渡った。

たとえ理屈に合わなくても、千賀のメロディとはるかのそれは、ふたりの繋がりを暗示するくらい同質のものに感じられたからだ。

そうだ、なぜあの子のメロディは、あんなに貴音さんのそれに似ているのだろうか。まるで貴音さんの寵愛を受け、メロディを享受したかのような。

涼太はあどけないはるかの顔を脳裏に浮かべ、今一度確かめてみようと思い直していた。