翌日の放課後、はるかは陽が出ているうちに学校を後にする。麗に呼び出されているからだ。振り返って校舎を見上げると、音楽室からはさまざまな色をした音符が溢れ出している。

みんな頑張っているんだなぁ、そう思いながらはるかは麗に呼び出された理由を想像した。心当たりはひとつだけあった。

みんな自主練していたけど、あたしはあんまり部活に顔を出していなかったからなぁ。選考会の演奏、菜摘は褒めてくれたけれど、やっぱり上手くなかったのかなぁ。それでもはるかは自分なりの大きな進歩だと納得していた。

強引に勇気を奮い立たせて一歩一歩進んでいくと、校門を出てしばらく歩いたところに麗の姿があった。事前に連絡があった待ち合わせの場所だ。はるかは心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

麗ははるかに気づくと真顔で小さく手を挙げた。その瞬間、はるかの全身が緊張感で張りつめる。「どうか怒られませんように」と心の中で願いながら、すぐさま麗に駆けよって深々と頭を下げた。

「すっ、すみませんでした! 麗先輩を待たせちゃって」

「いいのよ、顔を上げて」

麗はいたって落ち着いた声で返事をする。さっそく怒られるんじゃないかと怯えていたけれど、その静けさはなおさら恐怖心を駆り立てる。はるかがおそるおそる顔を上げ麗の表情をうかがうと、麗はついてきて、と淡泊にいって、すっと背を向けた。

「あっ、はっ、はいっ!」

はるかは麗の後をあわててついていく。麗のすらっとした脚は歩幅も広く、すたすたと先をゆくので、はるかは遅れないようにと早足で追いかける。

やっぱり怒っているのかな? そう思い無言の背中をじっと見つめる。

こんな時に音楽を演奏していたりすれば、どんな心境か察することができたのにとはるかは思うけれど、そんな都合よく音符が飛び出してくれるはずはない。

ほーんと、音符が視えても役に立たないよなぁ……。

麗が向かっているのは、駅とは真逆の、閑静な高級住宅街の方向だった。

木々が生い茂る公園の小径を抜けてゆく。どこからともなく聞こえる鳥のさえずり、さらさらと湧き出す噴水。そこには自然の音色が舞っていた。

着いたのは公園を抜けてすぐの場所にある小さな喫茶店。木目調の壁にアイビーが絡んで風情がある。麗は「ここよ」と言うと、その店の扉に手をかけた。

カラン、と軽やかな鐘の音が響く。麗は躊躇なくその中に足を踏み入れた。はるかも後に続いたが、大人っぽい雰囲気に物怖じした。

店の中はレトロな食器やアンティークの小物がところどころに飾られていて、雑然としているけれど趣がある。壁に取り付けられたオレンジのブラケットの灯りもおぼろげで落ち着いた雰囲気を醸している。

店には数人の客がいたが、その中でひとり、はるかの知る男性がいた。栗色のくせっ毛に整った凛々しい顎のライン。目が合った瞬間、はるかは驚きちょっとだけ飛び上がる。

「こっ……高円寺先輩!?」

すぐさま麗に目を向けると、麗は涼太の方を向き小さく手を振っていた。涼太も黙ってうなずいた。ふたりはここで待ち合わせをしていたらしい。

喫茶店のマスターから声がかかる。

「いらっしゃい麗さん。また作戦会議かな?」

「はい、今日はもうひとりいますけど」

マスターははるかにやわらかな笑みを向けて挨拶をする。無精髭を生やした銀縁眼鏡のおじさん。低くて丸みのある声で優しさを感じる。もしもこれから修羅場が訪れるなら、唯一の救いの神なのかもと思い、心の中でそっと手を合わせる。

麗は涼太の向かいに座り、隣の席を引いた。ここに座りなさい、という意味らしい。その席に腰を下ろし、両膝を揃えて手を添える。さっそく借りてきた猫の心境で笑顔を固める。

麗はメニューに目を通すこともなく「マスター、私はいつものでお願いします」と言う。すると涼太も「俺もいつもので」と注文した。

「ミルクティーにグアテマラのブラックですね」

マスターが確認をするとふたりとも小さくうなずく。ふたりがこの喫茶店の常連であり、しばしば一緒に訪れるということは、今の流れだけで十分に理解できた。麗は改めて言う。

「涼太、お待たせ」

「いや、俺も今来たばっかりだ。久しぶりだな、ここに来るのは」

「そうね、なにかと忙しかったから。じゃあ、まずは本題かな」

そう言ってはるかに目を向けた。はるかは背筋を伸ばし、緊張の色を浮かべる。麗はおもむろに話し始める。

「花宮さん、あなた最近、部活の練習にあまり積極的ではないわね」

やっぱり怒られるんだと思い、はるかは穏便に済むようにと先制攻撃を仕掛ける。もちろん、腰の低ーい攻撃だ。

「おっ、お許しくださいませ~!」

そして勢いよく頭を下げる。すると。

ゴツン!

テーブルの上には氷水のグラスが置かれていて、はるかはそのグラスの縁にひたいを直撃させた。

「いたあっ!」

反射的にのけぞる。当たりどころが幸いして、グラスは倒れることなく、氷が軽い音をたてて揺れただけだった。

はるかはひたいを押さえて顔を赤らめる。すると麗は、あわてふためくはるかの様子がおかしかったのか、くすっと上品な笑みをこぼした。はるかはその表情に一瞬、目を奪われた。

あっ、すごく綺麗。

はじめて見た、麗の笑顔。まるで蕾が花開く瞬間を目にしたような感覚に似ていた。麗は笑顔のまま会話を続ける。

「つまりね、今日は私に呼び出されてお説教をされた、ということにしておいてほしいの」

「えっ!? どどどどういうことですか?」

意味がわからず返事にも舌が絡まる。

「下校の時、誰かは私たちのことを見ていたと思う。音楽室は眺めもいいしね。だけどね、用があるのは私じゃないの」

そう言ってちらりと涼太に視線を送る。涼太は真顔で率直に言う。

「俺が麗に頼んだ。君を連れてくるように、と」

「へっ、高円寺先輩があたしを?」

すっとんきょうな声で答えるはるか。そこでマスターから声がかかる。

「お客様は、何になさいますか」

三人の視線がはるかに向けられる。

「あ……」

はるかは気が気ではなく、飲み物のオーダーをすっかり忘れていた。そこではるかの遠慮を察した麗がやわらかい声で言う。

「デザートセットでもいいのよ、ここは涼太が奢るから」

セットで、しかも奢り!

即座にカウンターの下に並べられたケーキに視線が釘付けになる。

どれも美味しそう。特にあのガトーショコラ。あれを口にしたら濃密な幸せが口の中を満たすんだろうなぁ。

「そっ、そしたらなんでも白状しますから、メロンソーダとガトーショコラのセットにしてくださいっ!」

「ふふっ、甘党ね。可愛いわぁ」

「ははっ、将来苦労しそうだな」

ふたりは餌につられたはるかの反応を目の当たりにしておかしそうに笑った。