その日の「選考会」が終わると、はるかはそそくさと音楽室を後にした。いつもとは違う雰囲気の視線がはるかに向けられていたけれど、気づかないふりをして足早に屋上へと向かう。

もう陽が暮れている。千賀先輩、待ちくたびれているんじゃないかな。それとももう帰っちゃったかも。

重厚な屋上の扉を静かに開くと、そこには遠くの山々を眺める千賀の後ろ姿があった。はるかは背中越しに声をかける。

「こんにちは、千賀先輩。ううん、こんばんはですね。お待たせしました」

視線がゆっくりとはるかに向けられる。振り向いたその表情は、どことなく感慨深げだった。はるかは千賀に丁寧なお礼を言う。

「千賀先輩、上手く演奏できました。ほんとうにありがとうございます」

そして深々と頭を垂れる。

「ちゃんと聴いていたよ、君の演奏。今までで最高の出来栄えだったよ」

千賀は口元を緩め、静かに返事をする。

「久しぶりに音楽室に行ってみたんだ、せっかく君が演奏するのだから」

「あ、そうだったんですか、嬉しいです。あたし、先輩に気づけなかったですけど」

千賀は照れた顔で顔をすくめるはるかに視線を向け、澄んだ瞳で語りかける。

「僕は自分のメロディを渡せる人を探していたんだ。そして、そう思える人に出逢うことができ、伝えることができた。だから今、僕のメロディは君の中にある」

そう言ってはるかの胸を指差した。するとはるかは大切な宝物をしまい込むように胸に手を当てる。

「千賀先輩、あたしと同じなんですね……音を掴まえることができるんですよね」

その一言に千賀は一瞬、目を丸くした。そして首肯の意味を込めて深くうなずく。

「あたし、とっても孤独だったんです。音符が視えるのは、神様があたしに与えた罪なんじゃないかって、そう思っていました。他人に知られたら、皆、敬遠しますよね? そしてあたしから離れていきますよね?」

千賀はきゅっと表情を引き締めて答える。

「ああ、そうだ。誰だって理解してはくれないさ。だからこの能力は使い方を間違えると、不幸を生み出してしまうことだってある。そう、そのせいで……」

千賀の表情に湿り気が混ざる。

「……このアンサンブル部では、僕が生み出した呪縛が皆を苦しめているんだ」

「呪縛……?」

はるかは不思議そうな表情を浮かべたが、千賀はさらに言葉を紡いでゆく。

「だから皆を救って欲しいんだ、その呪縛から。アンサンブル部は呪縛が生み出す不協和音で満たされている。今のままでは美しいハーモニーを奏でることなどまるでかなわない。けれど君が『フィーネの旋律』を奏でられたのなら、皆は救われるはずだ」

「『フィーネの旋律』って……?」

「『世界を描くメロディ』のことを、僕はそう呼んでいる」

「世界を……描く、ですか?」

「ああ。君は音楽で世界を描く素質があるはずなんだよ」

千賀の言い方からすると、それは音符が視えることと関係があるように思えた。けれどはるかは理解が追いつかず小首をかしげる。

「でもどうすればいんですか? あたしはどんな不協和音があるのか知らないですし、あたしにお悩み相談する人なんていないと思いますし……」

その瞬間、はるかのスマホが振動した。

「あっ、ごめんなさい、千賀先輩」

断ってスマホの画面を確認すると、LINEのメッセージが一通、届いていた。送り主は「清井麗」だった。どきーんっ、と心臓が悲鳴をあげ、全身から嫌な汗が噴き出した。

はるかは深呼吸をしてからおそるおそるメッセージを展開する。画面にはこう表示されていた。

『話があります。明日放課後、少しだけ時間をもらえるかな』

呼び出しぃぃぃ!? こっわぁぁぁぁ!!

はるかは背中がぞっと冷たくなるのを感じた。すると千賀はすっとはるかに近寄り画面を覗き込んだ。意味ありげな笑みを浮かべて言う。

「ほら、さっそく向こうからやって来たじゃないか。お悩み相談かどうかは知らないけれどさ」

はるかはメッセージを見直し、既読の二文字に茫然とする。

ああ、逃げ出したいけど逃げ出せないよぉ。はぁ……。