あたたかいものがみちるを包んでいる。
 傷ついた体をしっかりと支える力強さ。
 肌に心地よい、さらりとした柔らかさ。
 髪の先から、爪の先から、みちる自身が溶けだしていきそうだ。
 深く呼吸ができる。何にも遮られない、静かな刻。
 これが満ち足りた、ということなら、ここは浄土だろうか。
 ならば会えるだろうか。みちるに青の瞳を継がせ損ねた母に。そして、継ぎ損ねた青の瞳のために散った――父に。
 
「……とうさま」
 
 みちるは目を開けた。あたたかかったはずの手指が冷たい。
 夢の中では何も感じなかったあらゆることが奔流となってみちるの胸で渦巻き、その鼓動を早くさせる。
 そうだ。みちるは父を見捨てた。最後にあの家から響いてきた鈍い音は父の命が潰えた音だ。
 死に物狂いで生かしてくれたのに、結局生命を諦めて、それでも見苦しくしがみついて。
 すっかり綺麗になった体で、呼吸をしている。
 
「ごめ……なさ、と、うさま、ごめんなさい」
 
 ひゅ、と喉が鳴る。うまく息が吸えなくなる。浅くなるばかりの呼吸に心の臓が呼応して、焦りのままに跳ね回る。
 胸を掻きむしって体を折り曲げているみちるの体が突然後ろから抱き起こされた。ぎゅうと痛いほどに抱きしめられる。
 
「みちる!」
 
 力強く名前を呼ばれて驚いた反動で咳き込むと、それを落ち着かせようと体が呼吸の仕方を取り戻していく。
 大きな手がみちるの背を撫でていた。
 
「ひとりにしてすまなかった。もう目が覚めていたのだな」
 
 涙の滲む瞳で見上げれば、青と黒の瞳が安心させるように細められた。
 みちると同じ、片割れの青。
 
「……あまみ、さま?」
 
 か細い声で名を呼べば、天巳はわずかに目を丸くした。
 
「覚えていてくれたか。聡い娘よ」
「わたし……生きて……? ここ、は」
「ああ、そなたは生きている。ここは我が水底の宮。そなたの新しい家だ」
 
 天巳と会話を重ねるうちにみちるの視界が徐々に明瞭になっていく。
 改めて見渡せば、みちるは厚い布団に寝かされていた。背の低い囲いには流麗な装飾が彫られて寝台をぐるりと一周している。みちるには大きすぎる立派な寝台だった。
 みちる自身も清潔な白の夜着を着せられていた。目覚めた時に混乱して身を捩っていたせいで袷が乱れている。咄嗟に天巳の視線から隠すように着崩れを直しながらも動揺して視線がうろうろと泳ぐ。
 それでも遠くがはっきりと見えなかったのは、寝台が蚊帳に似たもので遮られているからだ。露草色の紗がゆったりと揺れる様は水面をそよぐ風を思わせた。
 
「喉が渇いていないか」
 
 そう問われても現実感がない。思い起こせば最後に何かを口にしたのは汁物の味見をした時だったか。
 ぽうっとしたまま首をどちらにも動かせずにいると、天巳は苛立ちもせずに後ろの棚に手を伸ばした。
 
「飲むといい。香りをつけてあるから気も巡る」
 
 差し出された杯からは柑橘系の香りがした。すっとした酸味が鼻をくすぐる。
 それを受け取りたかったのだが、天巳に抱き込まれているせいで手が使えない。もぞもぞと腕を出そうとしているみちるを見て、天巳は自分で杯をあおった。
 
「あ……」
 
 間抜けな声を出したみちるの唇がその形のまま固まる。
 天巳の唇が押しつけられていた。
 
「んっ!?」
 
 瞬きすれば睫毛の触れる距離に天巳の顔がある。朱を差した目尻に、髪がひとすじ、はらりと落ちる。それを美しいものだと絵巻物を見るように眺めているみちるの意識が天巳の唇で惹き込まれる。
 深く重ねられたあわいから伝う水がみちるの喉に落ちる。たまらずこくんと喉を鳴らせば鼻に抜ける華やかな香りに力が抜けた。
 
「あ……」
 
 一度飲み込んでしまうと途端に体が渇きを訴えて止まらない。からからに干上がっていたみちるの体内の細胞すべてが天巳によって目覚めさせられ、求めるものに向かって腕を伸ばしている。
 
「……欲しいか?」
 
 わずかに生まれた唇の隙間に問われ、みちるは本能のまま頷いた。
 欲しい。みちるを満たす生命の水が。
 
「素直でよろしい」
 
 天巳の唇が再び重ねられる。こくんこくんと喉を鳴らして嚥下した後も唇は離されることはなかった。みちるに与えるものが水ばかりではないと知らしめるように。呼吸も水分も、生命さえ与えんばかりのくちづけの雨にみちるがくったりと酔いしれる頃になって、天巳はようやくくちづけを止めた。
 それでもなお、唇に指をすべらせ触れるのをやめない天巳の腕の中でみちるは乱された呼吸を整えていた。
 
「すまない、余計に疲れたか」
「……い、いいえ」
 
 結局体に力が入らないままのみちるを抱き起こしてきちんと膝の上に座らせると、天巳は寝台の傍らにある鈴をりんと鳴らす。
 澄んだその音色の残響が溶けぬうちに、紗の向こうでぴちゃんと雫が跳ねる音がする。みちるは無意識に天巳に縋った。
 
「案ずるな。我が家の者だ」
 
 くすりと笑った天巳の視線に導かれて紗が上げられる。
 おかっぱ頭の小柄な女童がふたり、膳を持って控えていた。
 
「花嫁様にはお初にお目にかかります。お側仕えをさせていただくシノと申します」
「同じくシュウと申します」
「お心やすく過ごせますよう、おつとめに励みます」
 
 舌足らずながらもぴたりと揃った声色で恭しく頭を垂れたふたりに、みちるも慌てて頭を下げる。
 
「瑞波みちるです、ご、ご丁寧にありがとうございます……」
 
 天巳の膝から下りて居住まいを正そうとしたのだが、優しく抱きかかえられているように見えて、その腕の力は案外強く、抜け出そうとしてもびくともしない。
 中途半端な姿勢での礼などという無遠慮なふるまいを恥じながら顔を上げると、シノとシュウはふたりで顔を見合せた後、照れくさそうにはにかんだ。
 大人びた口調に似合わず年相応の仕草を見せたふたりのちぐはぐさにみちるが目を瞬く。
 そのままてきぱきと膳の支度を始めたふたりはみちるより遥かに手際が良い。天巳を横目でちらりと見遣ると、みちるの疑問が伝わったのか軽く頷いた。
 
「動きと見目が合わぬか。だろうな」
「え、ええと……小さい子、ですよね?」
「そなたが負担に思わぬであろう見目に仕立てたらこうなった。ちと幼すぎたか」
「仕立て……?」
 
 みちるが首を傾げると、天巳は立ち働くシノに手をかざした。途端にシノの輪郭がこぽこぽと泡立ち、みちると同じくらいの年かさの少女に変わる。
 
「これくらいか。もしくは」
 
 再び泡に揺れる輪郭がぐっと歳を重ねた婦人に変わる。
 
「……こちらの方が気が楽か? 好きに選べ」
「え、ええと、最初の女の子でお願いします……」
「そうか」
 
 天巳の手により元の見目を取り戻したシノはぺこりと一礼する。その隣でシュウが「お膳の支度、ととのいましてございます」と声を発した。
 
「ご苦労、下がれ」
 
 天巳の声に深々と頭を下げたふたりがみちるに微笑みかけた。
 
「みちる様、わたくしたちの見目は幼いほうがお好きですか?」
「えっ」
「わたくしたちも、幼いほうがたのしゅうございます。たーんと遊べますゆえ!」
「みちる様、今度は手毬などして遊びましょ」
「手毬?」
「ええ。ほら!」
 
 シュウがぴんと立てた人さし指をくるくる回すと、綿菓子を作るように水が丸く集まってくる。渦巻いた手のひらほどの鞠をふよふよと宙に遊ばせた後、シュウとシノはひとつの鞠をふたりの手のひらで挟むようにしてみちるに顔を向ける。
 
「きっとたのしゅうございます」
「ぜひ、お呼びくださいましね」
 
 くすくすとはにかむふたりの女童にみちるが呆気にとられていると、天巳は「もう下がれ」と指を払った。
 今度はおとなしく従うつもりになったのか、ぴちゃんと高く跳ねる水音と共にふたりは姿を消した。
 
「外見に中身が引きずられる性質だな」
「ひと……ではないのですね」
「この宮では水が意思を持つ。それに生命と形を与えてやっているだけだ。さて、食事にしよう」
 
 天巳はぎいと寝台を軋ませてみちるを下ろす。
 これで膝から開放されると思いきや、結局食卓の椅子でも膝に乗せられたので、みちるは大いに戸惑った目で天巳を見つめた。
 
「どうした。人の子は食べねばならぬだろう」
「あの、椅子にはひとりで……」
「案ずるな。充分広い」
 
 そういうことではないのだ、と言いたかったが天巳はそれ以上聞くつもりはないようで、箸と汁椀を手に取っていた。
 
「聞きたいことがあるのは知っている。我もそなたに話してやりたいことがある。その前にそなたが飢えては話にならぬ。さ、食べろ。食べやすい汁物からがいいか」
 
ぐいと汁椀を押しつけられて、みちるはこぼさないように両手で受け取りそっと口をつける。湯気をたてるそれをひとくち飲めば、ほうと体がほどけていくような心持ちにさせられた。
 
「美味いか」
「はい……初めて頂くのに懐かしいような、不思議な味がします」
「そうか。たんと食べろ。次は何がいい」
「あ、ええと……」
 
 みちるが膳の上で目を泳がせるが、天巳はその視線が少しでも長く留まった皿を見つけては手を伸ばしてみちるの前に寄越していく。
 見たこともない膳が揃っていると味の想像がつかない。食べつけないもので粗相をしてはいけないと縮こまるみちるだったが、少量ずつ種類の異なる品が皿に盛られていたので物によってはひとくちで食べ切れるのが有難かった。

 
「……なんだ。もう満足か」
「は……い。お腹いっぱいで……申し訳ございません」
 
 卓いっぱいに盛られていた料理の半分も食べないうちに満腹になってしまったみちるはしゅんと項垂れるが、天巳は気にとめることなく茶を注いだ湯呑をみちるに握らせた。
 厚みのある茶器から伝わるあたたかさと、体を支える腕のぬくもり。みちるは今、何にも脅かされることなく守られている。
 
「……夢を、見ているような心持ちです」
「そうか。目覚めても我はそばに居る。どちらでもそなたの好きなように思うといい」
 
 天巳は二度ほどみちるの腕をあやすように叩く。それは寝かしつけるようでもあり、目覚めさせる仕草でもある。天巳がどちらを意図しているにせよ、みちるの時間は文字通り彼の腕にあった。