ばさり、ばさりと音が舞い降りる。地面に降り立つ黒い羽根が一枚。それを追って黒髪を遊ばせた黒衣の男が奥宮の前に姿を見せた。

 「うわ、ぼろぼろだ」
 
 黒眼鏡をひょいとずらして一瞥した彼がそう評したのは、奥宮の外観か、それとも入口に広がった血溜まりとその主についてか。
 ざり、と砂埃を立てて屈んだ彼は、既に事切れた男の髪を掴んで持ち上げると、その顔を確認した。

 「……ああそう。困るよなあ、未練の種はひとつくらい残しておかなきゃ使えないだろうに」
 
 ぱっと手を離したそれは再び血溜まりに落ちる。もうそれに用はないとばかりに男は奥宮に入り込んだ。
 静かに深く息を吸う。彼の肺腑に満たされていくのは埃と血の名残だけではない。
 閉じていた瞳をゆっくりと開ければ、長い睫毛に縁取られた金色の瞳が悦楽に酔いしれて溶けだす直前だ。

「本人がいないっていうのに名残だけでこの霊力……封じるだなんて先代も罪なことをしたもんだ」

 まあそれに手を貸したのは俺なんだけどね、と節をつけて呟いた男は、足元に転がっていたお玉を拾い上げて爪で弾いた。あまり良い音は響かなかったので興が醒めたらしく、すぐにぽいと投げ捨てる。今になって鳴った乾いた音は時すでに遅しだった。

 「こりゃ外の方がマシだなあ」
 
 踏み荒らされた床に転がる鍋や家財道具、ぞんざいに火が消された釜。それらがここで穏やかならざることが起きたと雄弁に語っていた。
 その中に落ちた神棚がある。男はすたすたとそこへ向かうも途中で何かを思い返して火かき棒を手に取ると、それを使って神棚を持ち上げた。

 「……無い、か」
 
 想定内だよ、と独りごちて男は火かき棒ごと神棚を床に置いた。もう、と土埃が立って男の足跡を消していく。襟首の布を引っ張りあげて口と鼻を覆った男は漆黒の羽根を遊ばせて次なる目的地――村の中央にある屋敷に向かった。
 元々はみちる一家が住んでいた家だ。本家にふさわしい風格ある佇まいの屋敷である。しかし、今の家主は違う。
 けらけらと女たちが笑う甲高い声が、門の外にいる男にもわかるほどに響いてくる。注意深く耳をすませば内容まで聞き取れそうだ。しかし、無粋なことをするより先に門から姿を見せた者がいた。
 端正な顔立ちの身なりが整った男がひとり、付き従う荷物持ちがふたり。糊のきいた仕着せに見覚えがある集団を玄烏は横目で見送った。

 「まあ……玄烏(くろう)様!?」
 
 甲高い呼び声に、男は耳を塞ぎたくなるのを我慢して作り笑顔を貼り付けた顔を向けた。男たちを見送りに出ていた女――美沙が目を丸くして駆け寄ってきたのである。

 「やあ、美沙嬢。またお買い物かい? 羽振りがいいね」

 出てきた男たちはこの家の出入りの商家だった。荷物持ちの足取りが軽やかなのを見るに、相当荷が軽くなるほどに買い込んだのだろう。彼らは美沙に頭を下げるとしずしずと歩いて行った。
 羽振りがいい、と称した通り、美沙の纏うものはひと目で上等だとわかるものばかりだ。細かな地模様が縫い込まれた墨色の着物に、金細工が施された簪で豊かな黒髪を結い上げている。

 「これは唐渡りの布かい? 随分緻密に織り上げてある」
「あら、おわかりになります? 残念ですけどハズレ。もっと先の外つ国のものですって。わたくしも身分にふさわしい格好をしなさいとお父様がおっしゃったのですわ」
 
 半襟にあしらわれた透かし模様の布地と、それを留める石の装飾を見せつけるように美沙は胸を張る。同じ年頃の娘なら指を咥えてうっとりと目を蕩けさせるであろうことは想像に難くない。
 玄烏はあるひとりの娘を思い浮かべる。裾の擦り切れた服を纏い、乾いた土で頬を汚した娘。一滴の奇跡を乞い願うも、綾なす運命の糸に絡め取られ未だ果たせぬ哀れな娘――

 「玄烏様?」
 
 玄烏が思い浮かべた娘の顔を掻き消すように覗き込んできた美沙の勝気な瞳。かすかにあの娘と血が繋がっていることなど感じさせぬ面差しだ。玄烏は貼り付けた笑みを絶やさぬまま、湧き上がってきた落胆を己の内に沈めて、一切の感情を乗せない指先で美沙の後れ毛を遊ばせた。
 
「ま、お戯れを」
 
 これ見よがしに頬を染めた美沙に玄烏の心はますます冷めていく。しかしそれと反比例して指先はますます熱っぽさを増して、年頃の娘を翻弄するにふさわしく思わせぶりな悪戯に忙しい。

 「……ねえ美沙嬢、頼みがあるんだ」
 
 ぐ、と腰を折って美沙の頬に触れるくらいの近さで囁けば、美沙も負けじとあだめいた笑みで返す。

「……わたくしに?」
「そう。きみでなけりゃできないことさ」

 後れ毛から引き抜いた指先で耳をなぞる。そこに直接吹き込むように唇を寄せて吐息混じりに囁いた。

 「奥の間に入れて欲しいんだ」
 
 遊びめいたやりとりをしていた軽薄さは既に男から失せている。
 
「……どういう、おつもり?」
 
 瞬く間に血の気の失せた唇を強ばらせた美沙が問えば、玄烏は苛立ちも露わに美沙の髪をひと房引っ張った。
 
「いいじゃないか、そんなこと。これ以上詮索するようなら、きみの家への援助は打ち切ろう。別にこの家だけに水を買えるよう融通する必要もないしね。きみが贅沢できなかろうが構わないんだから」
 
 ぱっと髪を離した手を軽く払って踵を返した玄烏の腕に美沙が取り縋る。
 
「お……お待ちくださいませ。仰るままに致しますから。玄烏様がいらっしゃらなくてはわたくしたちは」
「そうだよね。いかに分家筋といえど、水の加護を得る家なのに水を干上がらせる日輪の神使、八咫烏に信仰を捧げているなんて、たいした裏切り者だよ」
 
 口の端だけを持ち上げた玄烏は背中の羽根を大きく広げた。ばさり、と威風ある重厚な羽音に射竦められた美沙は肩をすぼめて顔を伏せた。
 
「はは、か弱いふりかい? 嗤いながら雨巫女を虐めているきみには似合わないさ」
「……ッ、見て、らっしゃるのですか」
「俺を誰だと思ってるの。信仰の見返りに雲を晴らして雨を呼べないようにしてやってるじゃないか。それで雨龍と雨巫女への迫害を強めて本家を乗っ取ったのはお前らだろ?」
「それは、父が」
「父が?」
 
 言い募ろうとした美沙の口をおうむ返しで潰した玄烏は、美沙の唇がはくはくと音なく動くのを瞼を半分下ろして見つめていた。しかしすぐに飽きが来たのか美沙を振りほどいて門の中へずかずかと足を踏み入れる。今の家主は植栽に興味が無いらしく手入れもおざなりだ。
 それに引き換え屋敷の中ははなんとも豪奢な設えばかりが施されて目に痛いほどだ。それをたっぷりと泥の着いた土足で踏みしめて上がったものだから、わらわらと砂糖に群がる蟻の如く使用人達が玄烏めがけて駆け寄ってくる。それらを邪魔だと言わんばかりに羽根で打ち伏せ、後ろから駆け寄る美沙の声を従えながら、黒い足跡を残して奥の間につかつかと進んで行った。
 
「お、お待ちください、玄烏様。奥の間は父の許しが無ければわたくしも入れぬ部屋なのです」
 
 檜が香る戸を押し開き、古めかしい絵の描かれた襖を引けば、最奥に五色布が飾られた祭事場――奥の間に辿り着く。外界の風を受けて色褪せた幣帛がはらりと揺れる。きちんと燭台に炎が灯されていることが意外だったが、溶けた蝋がこびりついている様は見苦しい。
 それらを横目で見切った玄烏はやはりそこにも迷いなく土足で立ち入った。美沙は細い悲鳴を上げる。おろおろと辺りを見渡すも、ここには彼女の盾となる使用人も助けとなる父親もいない。
 どうすべきなのか考えあぐねて、ただひたすらに己の名前を呼ぶ美沙が玄烏には鬱陶しくなってきている。
 明かり取りの窓がないため、燭台だけに光源を頼る奥の間は昼間だというのに薄暗い。最奥にある祭壇に至ってはほぼ闇に塗り込められているのだ。
 玄烏が歩くたびにゆうらりと形を変える炎に合わせ、彼の影は奇妙に伸び縮みする。部屋を侵食するその動きは彼に怯えているのか、それとも歓迎しているのか。
 美沙は踊る影法師から逃げるようにして部屋の縁に沿って回り、息を殺している。黒い影に黒い男。そして闇に飲まれそうな部屋に墨色の己。
 境界線を見失わぬために頼りない燭台の炎に目を凝らした。
 そんな美沙のことなど露知らず、玄烏は能天気にこれじゃ見えないや、と独りごちて黒眼鏡を外す。懐にしまいつつ辺りを見渡してわかりやすく溜息をついた。
 
「俺が言うのも妙な話だけど、畏れ多くも雨龍を祀る場をよくもこれだけおざなりにできたもんだ。ある意味ではお誂え向きだよ」
「――玄烏様!」
 
 ほとんど金切り声に近い呼びかけに、祭壇をためつすがめつ眺めていた玄烏は静かに立ち上がった。
 
「神剣があるだろう。何処?」
「神剣……?」
 
 今までいくら呼びかけても無反応だった彼が急にこちらを認識したことに戸惑いながら、美沙はゆっくり言葉を探しつつ会話を繋ぐ。
 
「わたくしには、何も……父なら、知っているかと。そう、父が戻るまでお待ち頂けるなら」
「ああそう、もういいよ。さて美沙嬢、いろいろ無理を言ってすまなかったね。これが最後だから安心してくれ」
 
 つとめて優しく呼びかけ、くるりと向き直った玄烏は両手を柔らかく広げた。燭台の炎にぼんやりと浮かび上がった影法師の表情は美沙には窺えない。
 
「おいで」
 
 一音一音が闇に溶け込んでいく。美沙は両手を胸の前で握り合わせて浅く呼吸している。
 
「聞こえなかった? 来るんだ、美沙」
「い、いや……」
 
 後ずさりして逃げようとした瞬間、美沙は畳に滑って尻餅をついた。それでもなお、這って部屋から出ようとするが敷居が引っかかって上手く襖が開かない。
 
「開いて、開きなさいよ、なんで、いやっ」
「あーあ。埃でも溜まってるのかな? きちんと手入れしておけばねえ」
 
 数歩で美沙の背後までやってきた玄烏は、震える肩にぐいと手をかけて美沙の顔を見た。
 
「……ああ、いいね。ありがとう、美沙嬢。期待通りだ」
「な……に、や、はなして」
 
 歯の根も合わずまなこを見開いて全身を震わせる美沙を、玄烏はうっとりと蕩ける視線で舐め回す。常ならば見惚れるようなそのかんばせも、今の美沙には沙汰を下す直前の閻魔と同じにしか見えない。
 
「心から願ってごらんよ。今、最もきみが望むものを」
 
 ぐいと顎を鷲掴みにして露わにした首筋に、玄烏は己から引き抜いた羽根を一枚ぴたりと添える。ひい、と喉を震わせた悲鳴をまるで天上からの音色に聞き入るが如く目を閉じて浸っていた玄烏は、唐突に目を開くと羽根をすうと引いた。
 
「あ」
 
 その一音だけ残して美沙が――否、美沙だったものが崩れ落ちる。
 その拍子に簪が外れたのか、豊かな黒髪がばらりと埃だらけの畳に散らばった。
 
「……見苦しいほどに強い願い。生への執着。俺だけに向けられるほどにそれは強く濃く、満たしてくれる。あの子の霊力とは比べるべくもないけれど――最期にひとつくらいは役に立ってくれたことにするよ、美沙嬢」
 
 静かに身を引いて距離を取った玄烏は廊下に出るとたっぷりと太陽の射し込む窓辺で羽根を日にかざす。
 べっとりと赤く濡れたそれが羽根から短剣へと形を変えていった。
 
「うーん、大方の意匠は想像つくけどあの子は本物を見てる可能性が高いからなあ……記憶違いで混乱されても困るし、ここは俺の好きにさせてもらおう」
 
 手のひらで撫で下ろせば、それは日輪の装飾が施された鞘に収められる。
 
「みちるが気に入ってくれるといいけど。さて、これで迎えに行く準備は整ったな」
 
 陽光に照らされた短剣がきらきらと眩く輝く。
 低く笑っていた声が次第に大きくなる。
 玄烏は窓を開け放つと木枠に足を掛けて大きく踏み込んだ。勢いをつけた窓から飛び立つと、羽根から巻き上がった風が屋敷中を駆け抜け、人も物も例外なく、あらゆるものを掻き乱していく。
 奥の間に至ったそれは、頼りなげに立っていた燭台を掠めた。対となっているそれらは突然の来訪者に慌て煽られ、互いに支え合いつつもやがてゆらゆらと舞うように倒れ込んだ。灯火が畳を伝い、闇にうち沈んでいた部屋全体を赤く赤く染め上げていく。
 やがて伏した美沙の着物を舐めたそれは爛々と目を輝かせてご馳走にかぶりつく。
 すっかり覆い尽くされたその影に振り向くこともなく、玄烏はくっきり影ができるほど明るい太陽の下で羽根をうんと羽ばたかせた。
 
「きみを水底から掬い上げてみせよう。待っていてくれ――みちる」