その日の夕方、みちるは夕餉の支度をして父親の帰りを待っていた。
 みちるの住まいは祠の裏手にある。
 昔は本殿としていたが、瑞波家の隆盛に伴って本殿を更に開けた場所に移築したために取り残された社だ。
 最奥に雨龍の御方を模した装飾の柄が特徴的な神剣が祀られているだけの、粗末な社。
 今は奥宮と呼ぶそうだが、設えは普通の家屋とそう変わりは無い。否、一般的な家屋の方がもっと住み良いように改築されているはずだが、なまじ宮であったために人の生活にはあまり寄り添っていない作りになっている。
 開口部がやたらと広い出入口などその最たるものだ。風通しばかりが良く、寒い季節にはみちるも父も霜焼けが絶えない。
 板を打ち付けるなどすれば少しは変わるのだろうが、神々の出入口を塞ぐなど言語道断だと長に禁じられている。
 
「……信じていないくせに、こういう時ばかり神さまを使うのよね」
 
 野菜の切れ端を煮込んだ鍋がくつくつと煮えている。あかあかと鍋の底を舐める炎を眺めるたびに、みちるは異国のものでも見るかのような居心地の悪さを感じることがある。
 火に克つ水を司る家。
 能力は受け継がずとも、本能的な相性はみちるの中を巡っているのか。
 
「昼間のは、なんだったのかしら」
 
 決して応えぬ水面が、風を得てみちるの頬を濡らした。
 あの雫が、ひび割れかけていた心に一瞬で染み渡った。生まれて初めての感覚だった。
 みちるは頬に指を滑らせる。もうとっくに乾いてしまった肌だが、触れるたびにあの冷たさと温もりを感じることができる。
 
「水があたたかいなんて、おかしな話」
 
 ふ、と口元が綻んだ。ひとりでいる時に表情が動いたのは何年ぶりだろう。
 父親にも早く伝えたい。御加護の欠片でも、否、ひとしずくでも授かった証だろうか。これをきっかけに母のような雨巫女に近づけたら――
 急く気持ちを料理に切り替える。火にかけたままの鍋からはいい匂いが漂い始めていた。お玉からひとくち分を掬って小皿に移す。ふうふうと冷まして味見をすれば、舌に慣れたいつもの味だった。
 火から下ろして膳を整える。もうじき父親は帰ってくるはずだ。そうしたら何かが変わる気がする。何の根拠もない予感がみちるの背を押す。
 戸一枚隔てた外の気配がにわかに騒がしくなった。
 
「父様?」
 
 返事は無い。しかしひとの声の代わりに気配が妙にさざめいて肌をちりちりと焼くようだ。
 みちるの鼓動のように妙に弾んだそれに煽られて、それでも様子を伺いながらそっと戸を引いて――
 
「え?」
 
 そこにいたのは父親だった。
 しかし、いつものように手を挙げて「ただいま」と笑う姿ではない。
 頼りの杖も折れ曲がり――否、潰されたように地べたに倒れ込む姿そのものが折れ曲がっていた。
 
「あ……」
 
 それが父親の形をした物体なのだと、脳が認識するより先にみちるは腰を抜かしてへたりこんだ。
 ざりざりと砂利を引きずるように宵闇から気配が近づく。複数の足音。
 ひときわ深く地を抉る足がぬっと現れたかと思ったらみちるの体が宙に浮いた。
 一瞬の浮遊感の直後、背中に衝撃を感じて熱さが全身を貫く。遅れてやってきた痛みに呼吸を奪われ、自分が壁に激突したのだとわかったのは転がる鍋からこぼれていく味噌汁と同じ目線になっていたからだった。
 太い足に鍋が蹴飛ばされて、自分が殴られたような金属音で耳がわんわんと唸っている。
 太い足が遠ざかる。白く細い足首が前に立った。
 
「こんばんは、雨巫女様」
 
 戻ってきた聴覚が疎ましかった。ぞわりと肌が粟立つ。美沙と良く似た、ざらざらと喉を撫でる甲高い声。
 
「と……うりょう、さま」
 
 美沙の父だ。分家の長。今は頭領を名乗って父をこき使う男だ。まさかこの男が、父を。
 
「おいたわしや。雨巫女ともあろう方が襤褸同然ではないですか。同じ年頃というのにうちの美沙とは比べものにならないねえ」
 
 何がおかしいのか、言葉の途中でけらけらと裏返る声で笑う頭領はつま先でみちるを蹴って仰向けに転がした。見慣れた天井。視界の端にちらつく無頼の男たちが異物だ。
 
「だからね、美沙のほうが相応しいんですよ。人々の称賛と龍の御加護。類いまれな富を成して都も一目置く家の主。そういったものは、美沙に譲るべきだ。そうでしょう」
 
 譲れと言われてはいどうぞと開け渡せるものなら雨巫女など掃いて捨てるほど居てもいい。みちるとて雨巫女の地位を捨て、村を捨てて、父と二人で離れた所で暮らせるならばそのほうがずっといい。
 しかし、駄目なのだ。巫女は龍に選ばれる。
 片目だけの青であろうと力が発現しなくても、雲の彼方の雨龍の御方が選んだのはみちるだ。美沙ではない。分家とてそんなことは承知のはず。
 みちるの口がもごもごとそんなことを呟いているのを見てとった頭領は、「親子揃って頭が固い」と吐き捨てた。
 
「あなたの父親はね、いつも同じことばかりだ。力の発現をしない巫女ならば、それが何故なのか思案する時代だ、そもそも私たち村人に御加護を受け続けるだけの資格があるのか、我が身を振り返り襟を正すべきだ――などと有難くくだらないご高説を垂れるばかりで、村のことを考えようとしない」
 
 父の声音が鼓膜の奥に耳に蘇る。頭領の甲高い声から耳を塞ぐように、いつもの持論がみちるを包み込む。
 それを踏みにじったのは割り込んできた頭領のきんとした鋭い声だ。
 
「少し頭を働かせればわかることでしょう。巫女の力は血によって受け継がれる。ならば、その血を宿した出来損ないの器を砕いて別の新しく美しい器に入れ替えればいい。そう言ったらあの男、杖をかなぐり捨てて暴れるものだからあのザマだ。幸い、こうして屈強な者たちが居てくれたおかげで大事には至らなかったけどねえ」
 
 はは、と声を揃えて嗤った男達の背後に、潰れた父が伏している。
 
「痛めつけたら動かなくなりましたよ。命がまだあるかは知りませんけどね。私は村を治める者ですから慈悲深くあらねばとあなたの元に連れてきたんですよ。先代の雨巫女亡き今、たったひとりの父であり娘でしょう?」
 
 耳の奥でざああと流れていくのは血の気が引く音なのか。
 ぼんやりとした聴覚が拾ったのはカランカランと床を滑る金属音だった。
 ただそれだけなのに、男達がびくりと震える。自分たちのしたことに対して肝が小さすぎて滑稽だな、と現実を俯瞰している自分を自覚しながらみちるは音の方向にゆっくり首を向けた。
 鏡のような峰が粗末な床を映している。奉納されていた神剣だった。みちるが打ち付けられた衝撃で床に落ちたのだろう。
 
「……ああ、これはお誂え向きだ! ちょうどいい。雨巫女様、これで貴方の血を頂きましょう。雨巫女の血を吸った剣で美沙に継承の神楽を舞わせる。あの子が次なる雨巫女だと知らしめられるいい機会だ」
 
 悪趣味極まりない思いつきに酔っているのか、頭領はそれを手に取ると「これが代々受け継がれる神剣ねえ」と値踏みするような視線で舐め回す。
 それは母が帯び、父が手入れをし、みちるに受け継がれたものだ。代々の雨巫女達が大切にその神力を込めて、祈りを捧げてきたものだ。
 
「やめ……」
 
 それを土足で踏み荒らす蛮行に、みちるの中にいる何かがみちるの喉を震わせる。しかし、そのか細い声など届いていないのか、頭領はそれを隣に控えていた男に渡すと自分は後ろに退いた。
 
「えっ、自分がですかい!?」
「なんだ、名誉なことだろう。こんな得物を使う機会などそうそうないぞ」
「いや、美沙お嬢様に捧げるものを自分が……」
「案ずるな。美沙に直接手渡す役目をお前などに任せるわけがないだろう。言わば下準備だよ」
 
 何やらごちゃごちゃとしたやりとりの下でみちるの心臓が体から逃げ回らんばかりに内側から胸を叩き続けている。
 しかし体はちっとも動かない。浅い呼吸が彼女の生命の終わりまで定められた回数をこなしておかねばと躍起になって命の灯火の早回しをするだけだ。
 みちるの体に影が差す。神剣を振りかぶった男の輪郭で覆われる。
 殺される――その恐怖に塗り潰されそうなその片隅に、これで終わりにできるという安堵がちらつく。
 これは逃げだ。否、逃げてもいいのかもしれない。みちるは出来損ないの雨巫女なのだから。
 恐ろしいのに美しい切っ先から目が離せない。男は見えていない。剣が意志を持って貫いてくれたなら。
 終わりにしてはいけない。もう楽になりたい。雨が呼べたなら。
 母様。
 
 振り下ろされた輝きが――みちるから弾かれて視界から消えた。
 
「っぐあ!?」
 
 男が腕を押さえて蹲っている。その巨躯から跳ね飛ばされたのは――折れ曲がった杖だった。
 
「みちる……逃げろ」
 
 上半身だけ起こした父親が、持ちうる力を振り絞って杖を投げたのだ。
 
「と……さま」
 
 呪縛から解かれたようにみちるは体を起こす。後ろから冷たい風が入り込んできて意識が覚醒していく。蝶番が転がっている。みちるがぶつかった時に勝手口の戸が壊れたのか。
 
「こいつ、生きて……!?」
「邪魔をするな!」
 
 戸惑いと怒号が飛び交う中、みちるを殺そうとしていた男が立ち上がる。その足で蹴り飛ばされた固い何かがみちるの手に吸い込まれるように滑り込んでくる。(いかめ)しい顔をした龍と目が合う。神剣の柄だった。
 咄嗟にそれを抱え込んだみちるを、男達の腕にもみくちゃにされた父親が見て頷く。
 
「いきなさい、みちる」
 
 いつもの笑顔だった。手習いを見てくれていた時の、料理を褒めてくれた時の、おはようとおやすみを返してくれた時の。
 不釣り合いすぎるその笑顔に、みちるは何が日常で非日常なのかわからなくなる。
 
「あ……」
 
 父に向かって這い寄ろうとした手が、転がっていた杖で阻まれる。その一瞬、父親はぎっと目を見開いた。
 
「逃げろ!!」
 
 声に突き飛ばされたみちるは壁に背をぶつける。その拍子に勝手口の戸が導くようにばたんと開いた。
 転がり落ちるように奥宮を出る。ざあ、と鎮守の森が風に揺れて葉を騒がせる。
 
「父、様」
 
 怒号が聞こえる。あそこに戻れば父がいる。しかしそれは父の望みに反することだ。
 木々のざわめきで覆い隠せない罵声が、荒れ狂う不協和音が大気を揺らす。

 音がした。

 聞いてはならない音だと――何の音か、認識する恐怖が喉から迫り上がる。
 声にならない叫びを押しとどめて、みちるは神剣を抱きしめて森に入った。
 雨が降っていなかったおかげで土はぬかるんでおらず、走りやすかった。それでも駆けて行く足が土埃を巻き上げずからからにならぬのは、朝露や夜露が土を適度に潤し、葉がその蒸発を防ぐからだろう。
 雨巫女が雨を呼ばずとも、あるがままの有り様で生きている生命が山とある。
 父の教えが耳に蘇った。
 熱くなる胸を抱えた神剣ごと押さえ込み、みちるは枝を避けて駆け続ける。追ってくる男達の怒号を葉が遮っているのか、はたまた彼らが見当違いな所を探しているのか――とにもかくにも耳につくのは自分の呼吸だけになった頃、森の終わりが見えた。
 月明かりに照らされた泉が、みちるを待っていた。
 水かさは変わらず少ない。しかし、人ひとり沈んだところですぐには露見しない深さではあった。
 みちるは泉の淵に沿って祠へ向かう。そこで足首に強い痛みが走って崩れ落ちた。
 
「っつう……」
 
 走っている最中に捻ったのか、はたまた壁に叩きつけられた時に痛めたのか。最早どちらでも良かった。
 痛みを覚えた途端に体じゅうの力が萎えてしまったのか、うまく手足が動かせなくなる。早鐘を打ち続けてきた心臓が喉のあたりで暴れている感覚に咳き込んだら止まらなくなった。
 
「う……」
 
 咳を飲み込み、懸命に立ち上がろうと身を起こせば赤いものがほたりと落ちた。見れば腕の内側やら手のひらやらが引っ掻いたような傷で真っ赤だ。
 抜き身の剣を握りしめて走ってきたのだからあちこちが傷ついているのも当然だった。
 ざり、と泉の淵の意匠を指で掴みながら立ち上がる。足を引き摺りながら祠の前へたどり着く。崩れ落ちるように座り込み、それでもなんとか裾を直すと、昼間と同じく青い御神体が静かにみちるを見据えた。
 
「申し訳、ございません。今代の雨巫女は、お役目を果たせませんでした」
 
 額を地面に擦り付けるように伏す。祠からの答えはもちろん返ってこない。
 何処かで、泉の水面が波打つことを期待していた。叱咤するような冷たい飛沫を。労るような柔らかな雫を。
 だが――風ひとつ吹かぬ森はたまさかの悪戯すら齎してはくれない。
 これこそが祠の答えなのだと認めざるを得ない、凪いだ水面からの無言の宣告を目に焼き付け、みちるは神剣を手に取り刃を首筋に当てた。
 逃げろと言ってくれた父のことを思えば裏切りだが、もうみちるには生きる理由がない。黄泉の国に逃げるのだと思えば少しは気持ちも楽になるだろうか。
 
「……母様、父様には会えましたか。わたしも、そちらへまいります」
 
 全力で駆けて来た体に刃は冷たく、その生命を終わらせようとしている体は熱い。
 
 「……っ」
 
 刃を押し当てる。もっと力を込めて勢いよく引かねばこの生命は終わらない。
 はらはらと揺れては首から逃げようとする刃に手を添えて、歯を食いしばってぐいと引いた。
 熱い。これを感じるということはまだ生きている。
 それでは駄目なのだ。
 みちるはもう一度やり直そうと神剣を膝の上に置いた。改めて見れば、刃の切っ先から柄まで一直線に溝が掘られている。その終点は柄で待ち構える雨龍の大きく開いた口だった。
 生命を丸呑みせんとするその迫力にみちるはすべてを預けるつもりで、静かに刃を押し当て、引いた。
 行きどころを失った血がすうと溝を流れていく。切っ先から柄へ、そして――龍の口が赤く濡れた時。

 空全体が白刃となって、泉を一閃した。
 月を隠す雲も星もすべて一瞬の閃光に、そしてたちどころに反転した闇に打ち払われた。
 泉にわずかばかり残っていた水はすべて吹き飛び、水底が剥き出しになっている。
 そして光が消えたそこには――ひとりの青年が立っていた。
 降りしきる雨を纏った色の髪が風に揺れる。永き眠りから醒めたようにゆっくりと瞼を上げた彼は、祠の前で横たわる少女を認め、その傍らに跪いた。
 
「ようやく逢えた。我が雨巫女、そして――我が花嫁」
 
 言葉と共に、しっとりした長髪がみちるの頬にしたたる。
 それを待っていたかのように、空からひとしずくの雨粒が血に濡れた神剣に吸い込まれていく。それを追ってもうひと粒、ふた粒。
 刃に浮かぶ血を洗い流す勢いで降り始めた雨が、みちると青年を覆っていく。
 
「我の片割れ――(えにし)の水面。そなた以外の波紋が我を揺らすことはない。ようやく巡り逢えたからにはそなたのために雨を呼ぼう。雨はいかなる時も護りぬく」
 
 青年はみちるの頬にかかる髪をよける。枝が掠めてできた傷は雨粒がすべるたびに溶け落ち、力無く投げ出された腕にできた切り傷も、雨が流して癒していく。
 
「声を……聞かせてくれ」
 
 とろりとした呼びかけと肌をすべる雨の流れに、みちるの睫毛がぴくりと跳ねる。
 やがてぽっかりと開いた瞳は、己を覗き込む青年の整ったかんばせに少し見開かれ、青ざめた唇は言葉にならない問いかけで満たされるも、音にならず溶けていく。
 
「やはり、そなたも同じ目よ」
 
 うっとりとみちるを見下ろす青年の瞳にみちるは驚き、そして悲しげに眉を歪ませた。
 片方は満ちていく水面と同じ青色。そしてもう片方は夜を映した闇色。
 みちると同じ、青の加護に満たされない瞳だった。
 
「哀れんでくれるのか、優しい娘。しかし今この時から呪縛は祝福に変わろう。同じ運命を持つそなたと巡り会えたのだ」
 
 青年はみちるに頭を垂れるとその首筋に顔を寄せる。神剣の刃で掻き切らんとした傷口からは赤いものが滲み、流れ出でようとしていた。
 
「勇敢なことだ。己を斯様に傷つけて我を呼んだか」
 
 途端に首筋に火を当てられたように熱くなる。喉の奥が引き攣れるような悲鳴は、遅れてやってきた湿った水音に掻き消された。
 それが己の傷口を舐め上げている音だと理解できないまま、みちるは浅い呼吸を繰り返す。
 
「そう怯えるな。花嫁に酷いことなどはせぬ……そうだ、まだそなたの口から……名前を聞いていないな」
 
 ぴちゃりぴちゃりとした高い水音の最中に問われ、みちるは悲鳴混じりに声を上げた。
 
「み、ちる……瑞波、みちる」
「みちる。そう。そうだな。みちるだ」
 
 隠しきれない笑みが吐息となってみちるの肌をくすぐる。それをこそばゆく感じる寸前、青年はぢゅっと音を立てて傷口を強く吸った。
 
「っあ!?」
 
 みちるの喉が反る。青年は名残惜しげに唇を離すと、みちるの背に腕を回して抱き上げた。
 
「さて、血も止まった。これで負担なく移動できよう」
 
 歌うような独白に、みちるは首筋に手を遣る。いつもと変わらぬ肌の感触だ。手のひらを見れば神剣を握りしめていた切り傷も、普段から傷つけられていたせいでできた傷も、すべて跡形もなく消えていた。
 
「これ、は」
「雨はそなたを傷つけない。さてみちる、参ろうか。水底の宮、我らの棲家がそなたを待っている」
 
 途端、ざあ、と雨音が一段と強まった。みちるも青年もずぶ濡れのはずなのに、ちっとも寒さを感じない。雨に打たれる痛さもない。
 すっかり雨で底が見えなくなるほど満たされた泉へ足を沈めた青年に、みちるは恐ろしくなって彼の胸元に抱きついた。雨で肌に張りついた着物がくしゃりと皺になる。
 
「そう怖がらずとも……ま、これはこれで愉しもうか」
「あ、あ、あの」
 
 ふふ、と形の良い唇の両端を上げた青年の歩みを少しでも遅らせたくて、みちるは訳も分からず声を上げた。しかし効果はあったようで、青年はふくらはぎあたりまで浸かった足を止めてみちるを見ている。
 
「どうした?」
「……あ、あなた、誰なんですか」
「そなたの運命。満つる泉のそのまた下、流れゆくすべてに宿り、司るもの。呼ぶための名前、という意味ならば――天巳(あまみ)と呼ぶがいい」
「あまみ……」
「そう。そなたに呼ばれると愛おしき響きになるものよ」
 
 すっかり濡れて色を濃くした青鈍色の髪と同じ色の瞳で天巳は微笑む。端正なかんばせがほころんで花が散るような音がした。
 
「さて、名も知ったことだし恐ろしくはなかろう。そのような頼りない縋り方ではなく、もっとしっかりしがみついておくれ」
 
 天巳の視線がみちるの手に落とされる。わずかに浮いた布地だけをつまんでいることを指すのだろう。
 みちるはおずおずと腕を伸ばす。天巳の肩に手のひらをぺたりと触れさせれば「もっと」と首を傾けられた。
 
「し、つれいします」
 
 意を決して、首筋に腕を回して抱きついた。ぎゅうと密着したお互いの体温が布に隔てられていることなどお構い無しに伝わってくる。
 
「ああ。聞き分けが良くて好ましい」
 
 機嫌を良くした天巳はその場でとんと跳ねた。
 泉に沈んでいた足が水面の上に立っている。
 
「え!?」
「いざ」
 
 天巳の声を合図に雨がけぶってふたりを覆い隠す。幾重にも重ねられた雨の紗の向こうに祠が霞んで見える。祀られた青い石はもう見えない。
 まるで雨の檻だ――とおののいたみちるを腕に抱いて、天巳は水底へとぷりと沈んだ。
 ばさり、ばさりと音が舞い降りる。地面に降り立つ黒い羽根が一枚。それを追って黒髪を遊ばせた黒衣の男が奥宮の前に姿を見せた。

 「うわ、ぼろぼろだ」
 
 黒眼鏡をひょいとずらして一瞥した彼がそう評したのは、奥宮の外観か、それとも入口に広がった血溜まりとその主についてか。
 ざり、と砂埃を立てて屈んだ彼は、既に事切れた男の髪を掴んで持ち上げると、その顔を確認した。

 「……ああそう。困るよなあ、未練の種はひとつくらい残しておかなきゃ使えないだろうに」
 
 ぱっと手を離したそれは再び血溜まりに落ちる。もうそれに用はないとばかりに男は奥宮に入り込んだ。
 静かに深く息を吸う。彼の肺腑に満たされていくのは埃と血の名残だけではない。
 閉じていた瞳をゆっくりと開ければ、長い睫毛に縁取られた金色の瞳が悦楽に酔いしれて溶けだす直前だ。

「本人がいないっていうのに名残だけでこの霊力……封じるだなんて先代も罪なことをしたもんだ」

 まあそれに手を貸したのは俺なんだけどね、と節をつけて呟いた男は、足元に転がっていたお玉を拾い上げて爪で弾いた。あまり良い音は響かなかったので興が醒めたらしく、すぐにぽいと投げ捨てる。今になって鳴った乾いた音は時すでに遅しだった。

 「こりゃ外の方がマシだなあ」
 
 踏み荒らされた床に転がる鍋や家財道具、ぞんざいに火が消された釜。それらがここで穏やかならざることが起きたと雄弁に語っていた。
 その中に落ちた神棚がある。男はすたすたとそこへ向かうも途中で何かを思い返して火かき棒を手に取ると、それを使って神棚を持ち上げた。

 「……無い、か」
 
 想定内だよ、と独りごちて男は火かき棒ごと神棚を床に置いた。もう、と土埃が立って男の足跡を消していく。襟首の布を引っ張りあげて口と鼻を覆った男は漆黒の羽根を遊ばせて次なる目的地――村の中央にある屋敷に向かった。
 元々はみちる一家が住んでいた家だ。本家にふさわしい風格ある佇まいの屋敷である。しかし、今の家主は違う。
 けらけらと女たちが笑う甲高い声が、門の外にいる男にもわかるほどに響いてくる。注意深く耳をすませば内容まで聞き取れそうだ。しかし、無粋なことをするより先に門から姿を見せた者がいた。
 端正な顔立ちの身なりが整った男がひとり、付き従う荷物持ちがふたり。糊のきいた仕着せに見覚えがある集団を玄烏は横目で見送った。

 「まあ……玄烏(くろう)様!?」
 
 甲高い呼び声に、男は耳を塞ぎたくなるのを我慢して作り笑顔を貼り付けた顔を向けた。男たちを見送りに出ていた女――美沙が目を丸くして駆け寄ってきたのである。

 「やあ、美沙嬢。またお買い物かい? 羽振りがいいね」

 出てきた男たちはこの家の出入りの商家だった。荷物持ちの足取りが軽やかなのを見るに、相当荷が軽くなるほどに買い込んだのだろう。彼らは美沙に頭を下げるとしずしずと歩いて行った。
 羽振りがいい、と称した通り、美沙の纏うものはひと目で上等だとわかるものばかりだ。細かな地模様が縫い込まれた墨色の着物に、金細工が施された簪で豊かな黒髪を結い上げている。

 「これは唐渡りの布かい? 随分緻密に織り上げてある」
「あら、おわかりになります? 残念ですけどハズレ。もっと先の外つ国のものですって。わたくしも身分にふさわしい格好をしなさいとお父様がおっしゃったのですわ」
 
 半襟にあしらわれた透かし模様の布地と、それを留める石の装飾を見せつけるように美沙は胸を張る。同じ年頃の娘なら指を咥えてうっとりと目を蕩けさせるであろうことは想像に難くない。
 玄烏はあるひとりの娘を思い浮かべる。裾の擦り切れた服を纏い、乾いた土で頬を汚した娘。一滴の奇跡を乞い願うも、綾なす運命の糸に絡め取られ未だ果たせぬ哀れな娘――

 「玄烏様?」
 
 玄烏が思い浮かべた娘の顔を掻き消すように覗き込んできた美沙の勝気な瞳。かすかにあの娘と血が繋がっていることなど感じさせぬ面差しだ。玄烏は貼り付けた笑みを絶やさぬまま、湧き上がってきた落胆を己の内に沈めて、一切の感情を乗せない指先で美沙の後れ毛を遊ばせた。
 
「ま、お戯れを」
 
 これ見よがしに頬を染めた美沙に玄烏の心はますます冷めていく。しかしそれと反比例して指先はますます熱っぽさを増して、年頃の娘を翻弄するにふさわしく思わせぶりな悪戯に忙しい。

 「……ねえ美沙嬢、頼みがあるんだ」
 
 ぐ、と腰を折って美沙の頬に触れるくらいの近さで囁けば、美沙も負けじとあだめいた笑みで返す。

「……わたくしに?」
「そう。きみでなけりゃできないことさ」

 後れ毛から引き抜いた指先で耳をなぞる。そこに直接吹き込むように唇を寄せて吐息混じりに囁いた。

 「奥の間に入れて欲しいんだ」
 
 遊びめいたやりとりをしていた軽薄さは既に男から失せている。
 
「……どういう、おつもり?」
 
 瞬く間に血の気の失せた唇を強ばらせた美沙が問えば、玄烏は苛立ちも露わに美沙の髪をひと房引っ張った。
 
「いいじゃないか、そんなこと。これ以上詮索するようなら、きみの家への援助は打ち切ろう。別にこの家だけに水を買えるよう融通する必要もないしね。きみが贅沢できなかろうが構わないんだから」
 
 ぱっと髪を離した手を軽く払って踵を返した玄烏の腕に美沙が取り縋る。
 
「お……お待ちくださいませ。仰るままに致しますから。玄烏様がいらっしゃらなくてはわたくしたちは」
「そうだよね。いかに分家筋といえど、水の加護を得る家なのに水を干上がらせる日輪の神使、八咫烏に信仰を捧げているなんて、たいした裏切り者だよ」
 
 口の端だけを持ち上げた玄烏は背中の羽根を大きく広げた。ばさり、と威風ある重厚な羽音に射竦められた美沙は肩をすぼめて顔を伏せた。
 
「はは、か弱いふりかい? 嗤いながら雨巫女を虐めているきみには似合わないさ」
「……ッ、見て、らっしゃるのですか」
「俺を誰だと思ってるの。信仰の見返りに雲を晴らして雨を呼べないようにしてやってるじゃないか。それで雨龍と雨巫女への迫害を強めて本家を乗っ取ったのはお前らだろ?」
「それは、父が」
「父が?」
 
 言い募ろうとした美沙の口をおうむ返しで潰した玄烏は、美沙の唇がはくはくと音なく動くのを瞼を半分下ろして見つめていた。しかしすぐに飽きが来たのか美沙を振りほどいて門の中へずかずかと足を踏み入れる。今の家主は植栽に興味が無いらしく手入れもおざなりだ。
 それに引き換え屋敷の中ははなんとも豪奢な設えばかりが施されて目に痛いほどだ。それをたっぷりと泥の着いた土足で踏みしめて上がったものだから、わらわらと砂糖に群がる蟻の如く使用人達が玄烏めがけて駆け寄ってくる。それらを邪魔だと言わんばかりに羽根で打ち伏せ、後ろから駆け寄る美沙の声を従えながら、黒い足跡を残して奥の間につかつかと進んで行った。
 
「お、お待ちください、玄烏様。奥の間は父の許しが無ければわたくしも入れぬ部屋なのです」
 
 檜が香る戸を押し開き、古めかしい絵の描かれた襖を引けば、最奥に五色布が飾られた祭事場――奥の間に辿り着く。外界の風を受けて色褪せた幣帛がはらりと揺れる。きちんと燭台に炎が灯されていることが意外だったが、溶けた蝋がこびりついている様は見苦しい。
 それらを横目で見切った玄烏はやはりそこにも迷いなく土足で立ち入った。美沙は細い悲鳴を上げる。おろおろと辺りを見渡すも、ここには彼女の盾となる使用人も助けとなる父親もいない。
 どうすべきなのか考えあぐねて、ただひたすらに己の名前を呼ぶ美沙が玄烏には鬱陶しくなってきている。
 明かり取りの窓がないため、燭台だけに光源を頼る奥の間は昼間だというのに薄暗い。最奥にある祭壇に至ってはほぼ闇に塗り込められているのだ。
 玄烏が歩くたびにゆうらりと形を変える炎に合わせ、彼の影は奇妙に伸び縮みする。部屋を侵食するその動きは彼に怯えているのか、それとも歓迎しているのか。
 美沙は踊る影法師から逃げるようにして部屋の縁に沿って回り、息を殺している。黒い影に黒い男。そして闇に飲まれそうな部屋に墨色の己。
 境界線を見失わぬために頼りない燭台の炎に目を凝らした。
 そんな美沙のことなど露知らず、玄烏は能天気にこれじゃ見えないや、と独りごちて黒眼鏡を外す。懐にしまいつつ辺りを見渡してわかりやすく溜息をついた。
 
「俺が言うのも妙な話だけど、畏れ多くも雨龍を祀る場をよくもこれだけおざなりにできたもんだ。ある意味ではお誂え向きだよ」
「――玄烏様!」
 
 ほとんど金切り声に近い呼びかけに、祭壇をためつすがめつ眺めていた玄烏は静かに立ち上がった。
 
「神剣があるだろう。何処?」
「神剣……?」
 
 今までいくら呼びかけても無反応だった彼が急にこちらを認識したことに戸惑いながら、美沙はゆっくり言葉を探しつつ会話を繋ぐ。
 
「わたくしには、何も……父なら、知っているかと。そう、父が戻るまでお待ち頂けるなら」
「ああそう、もういいよ。さて美沙嬢、いろいろ無理を言ってすまなかったね。これが最後だから安心してくれ」
 
 つとめて優しく呼びかけ、くるりと向き直った玄烏は両手を柔らかく広げた。燭台の炎にぼんやりと浮かび上がった影法師の表情は美沙には窺えない。
 
「おいで」
 
 一音一音が闇に溶け込んでいく。美沙は両手を胸の前で握り合わせて浅く呼吸している。
 
「聞こえなかった? 来るんだ、美沙」
「い、いや……」
 
 後ずさりして逃げようとした瞬間、美沙は畳に滑って尻餅をついた。それでもなお、這って部屋から出ようとするが敷居が引っかかって上手く襖が開かない。
 
「開いて、開きなさいよ、なんで、いやっ」
「あーあ。埃でも溜まってるのかな? きちんと手入れしておけばねえ」
 
 数歩で美沙の背後までやってきた玄烏は、震える肩にぐいと手をかけて美沙の顔を見た。
 
「……ああ、いいね。ありがとう、美沙嬢。期待通りだ」
「な……に、や、はなして」
 
 歯の根も合わずまなこを見開いて全身を震わせる美沙を、玄烏はうっとりと蕩ける視線で舐め回す。常ならば見惚れるようなそのかんばせも、今の美沙には沙汰を下す直前の閻魔と同じにしか見えない。
 
「心から願ってごらんよ。今、最もきみが望むものを」
 
 ぐいと顎を鷲掴みにして露わにした首筋に、玄烏は己から引き抜いた羽根を一枚ぴたりと添える。ひい、と喉を震わせた悲鳴をまるで天上からの音色に聞き入るが如く目を閉じて浸っていた玄烏は、唐突に目を開くと羽根をすうと引いた。
 
「あ」
 
 その一音だけ残して美沙が――否、美沙だったものが崩れ落ちる。
 その拍子に簪が外れたのか、豊かな黒髪がばらりと埃だらけの畳に散らばった。
 
「……見苦しいほどに強い願い。生への執着。俺だけに向けられるほどにそれは強く濃く、満たしてくれる。あの子の霊力とは比べるべくもないけれど――最期にひとつくらいは役に立ってくれたことにするよ、美沙嬢」
 
 静かに身を引いて距離を取った玄烏は廊下に出るとたっぷりと太陽の射し込む窓辺で羽根を日にかざす。
 べっとりと赤く濡れたそれが羽根から短剣へと形を変えていった。
 
「うーん、大方の意匠は想像つくけどあの子は本物を見てる可能性が高いからなあ……記憶違いで混乱されても困るし、ここは俺の好きにさせてもらおう」
 
 手のひらで撫で下ろせば、それは日輪の装飾が施された鞘に収められる。
 
「みちるが気に入ってくれるといいけど。さて、これで迎えに行く準備は整ったな」
 
 陽光に照らされた短剣がきらきらと眩く輝く。
 低く笑っていた声が次第に大きくなる。
 玄烏は窓を開け放つと木枠に足を掛けて大きく踏み込んだ。勢いをつけた窓から飛び立つと、羽根から巻き上がった風が屋敷中を駆け抜け、人も物も例外なく、あらゆるものを掻き乱していく。
 奥の間に至ったそれは、頼りなげに立っていた燭台を掠めた。対となっているそれらは突然の来訪者に慌て煽られ、互いに支え合いつつもやがてゆらゆらと舞うように倒れ込んだ。灯火が畳を伝い、闇にうち沈んでいた部屋全体を赤く赤く染め上げていく。
 やがて伏した美沙の着物を舐めたそれは爛々と目を輝かせてご馳走にかぶりつく。
 すっかり覆い尽くされたその影に振り向くこともなく、玄烏はくっきり影ができるほど明るい太陽の下で羽根をうんと羽ばたかせた。
 
「きみを水底から掬い上げてみせよう。待っていてくれ――みちる」
 あたたかいものがみちるを包んでいる。
 傷ついた体をしっかりと支える力強さ。
 肌に心地よい、さらりとした柔らかさ。
 髪の先から、爪の先から、みちる自身が溶けだしていきそうだ。
 深く呼吸ができる。何にも遮られない、静かな刻。
 これが満ち足りた、ということなら、ここは浄土だろうか。
 ならば会えるだろうか。みちるに青の瞳を継がせ損ねた母に。そして、継ぎ損ねた青の瞳のために散った――父に。
 
「……とうさま」
 
 みちるは目を開けた。あたたかかったはずの手指が冷たい。
 夢の中では何も感じなかったあらゆることが奔流となってみちるの胸で渦巻き、その鼓動を早くさせる。
 そうだ。みちるは父を見捨てた。最後にあの家から響いてきた鈍い音は父の命が潰えた音だ。
 死に物狂いで生かしてくれたのに、結局生命を諦めて、それでも見苦しくしがみついて。
 すっかり綺麗になった体で、呼吸をしている。
 
「ごめ……なさ、と、うさま、ごめんなさい」
 
 ひゅ、と喉が鳴る。うまく息が吸えなくなる。浅くなるばかりの呼吸に心の臓が呼応して、焦りのままに跳ね回る。
 胸を掻きむしって体を折り曲げているみちるの体が突然後ろから抱き起こされた。ぎゅうと痛いほどに抱きしめられる。
 
「みちる!」
 
 力強く名前を呼ばれて驚いた反動で咳き込むと、それを落ち着かせようと体が呼吸の仕方を取り戻していく。
 大きな手がみちるの背を撫でていた。
 
「ひとりにしてすまなかった。もう目が覚めていたのだな」
 
 涙の滲む瞳で見上げれば、青と黒の瞳が安心させるように細められた。
 みちると同じ、片割れの青。
 
「……あまみ、さま?」
 
 か細い声で名を呼べば、天巳はわずかに目を丸くした。
 
「覚えていてくれたか。聡い娘よ」
「わたし……生きて……? ここ、は」
「ああ、そなたは生きている。ここは我が水底の宮。そなたの新しい家だ」
 
 天巳と会話を重ねるうちにみちるの視界が徐々に明瞭になっていく。
 改めて見渡せば、みちるは厚い布団に寝かされていた。背の低い囲いには流麗な装飾が彫られて寝台をぐるりと一周している。みちるには大きすぎる立派な寝台だった。
 みちる自身も清潔な白の夜着を着せられていた。目覚めた時に混乱して身を捩っていたせいで袷が乱れている。咄嗟に天巳の視線から隠すように着崩れを直しながらも動揺して視線がうろうろと泳ぐ。
 それでも遠くがはっきりと見えなかったのは、寝台が蚊帳に似たもので遮られているからだ。露草色の紗がゆったりと揺れる様は水面をそよぐ風を思わせた。
 
「喉が渇いていないか」
 
 そう問われても現実感がない。思い起こせば最後に何かを口にしたのは汁物の味見をした時だったか。
 ぽうっとしたまま首をどちらにも動かせずにいると、天巳は苛立ちもせずに後ろの棚に手を伸ばした。
 
「飲むといい。香りをつけてあるから気も巡る」
 
 差し出された杯からは柑橘系の香りがした。すっとした酸味が鼻をくすぐる。
 それを受け取りたかったのだが、天巳に抱き込まれているせいで手が使えない。もぞもぞと腕を出そうとしているみちるを見て、天巳は自分で杯をあおった。
 
「あ……」
 
 間抜けな声を出したみちるの唇がその形のまま固まる。
 天巳の唇が押しつけられていた。
 
「んっ!?」
 
 瞬きすれば睫毛の触れる距離に天巳の顔がある。朱を差した目尻に、髪がひとすじ、はらりと落ちる。それを美しいものだと絵巻物を見るように眺めているみちるの意識が天巳の唇で惹き込まれる。
 深く重ねられたあわいから伝う水がみちるの喉に落ちる。たまらずこくんと喉を鳴らせば鼻に抜ける華やかな香りに力が抜けた。
 
「あ……」
 
 一度飲み込んでしまうと途端に体が渇きを訴えて止まらない。からからに干上がっていたみちるの体内の細胞すべてが天巳によって目覚めさせられ、求めるものに向かって腕を伸ばしている。
 
「……欲しいか?」
 
 わずかに生まれた唇の隙間に問われ、みちるは本能のまま頷いた。
 欲しい。みちるを満たす生命の水が。
 
「素直でよろしい」
 
 天巳の唇が再び重ねられる。こくんこくんと喉を鳴らして嚥下した後も唇は離されることはなかった。みちるに与えるものが水ばかりではないと知らしめるように。呼吸も水分も、生命さえ与えんばかりのくちづけの雨にみちるがくったりと酔いしれる頃になって、天巳はようやくくちづけを止めた。
 それでもなお、唇に指をすべらせ触れるのをやめない天巳の腕の中でみちるは乱された呼吸を整えていた。
 
「すまない、余計に疲れたか」
「……い、いいえ」
 
 結局体に力が入らないままのみちるを抱き起こしてきちんと膝の上に座らせると、天巳は寝台の傍らにある鈴をりんと鳴らす。
 澄んだその音色の残響が溶けぬうちに、紗の向こうでぴちゃんと雫が跳ねる音がする。みちるは無意識に天巳に縋った。
 
「案ずるな。我が家の者だ」
 
 くすりと笑った天巳の視線に導かれて紗が上げられる。
 おかっぱ頭の小柄な女童がふたり、膳を持って控えていた。
 
「花嫁様にはお初にお目にかかります。お側仕えをさせていただくシノと申します」
「同じくシュウと申します」
「お心やすく過ごせますよう、おつとめに励みます」
 
 舌足らずながらもぴたりと揃った声色で恭しく頭を垂れたふたりに、みちるも慌てて頭を下げる。
 
「瑞波みちるです、ご、ご丁寧にありがとうございます……」
 
 天巳の膝から下りて居住まいを正そうとしたのだが、優しく抱きかかえられているように見えて、その腕の力は案外強く、抜け出そうとしてもびくともしない。
 中途半端な姿勢での礼などという無遠慮なふるまいを恥じながら顔を上げると、シノとシュウはふたりで顔を見合せた後、照れくさそうにはにかんだ。
 大人びた口調に似合わず年相応の仕草を見せたふたりのちぐはぐさにみちるが目を瞬く。
 そのままてきぱきと膳の支度を始めたふたりはみちるより遥かに手際が良い。天巳を横目でちらりと見遣ると、みちるの疑問が伝わったのか軽く頷いた。
 
「動きと見目が合わぬか。だろうな」
「え、ええと……小さい子、ですよね?」
「そなたが負担に思わぬであろう見目に仕立てたらこうなった。ちと幼すぎたか」
「仕立て……?」
 
 みちるが首を傾げると、天巳は立ち働くシノに手をかざした。途端にシノの輪郭がこぽこぽと泡立ち、みちると同じくらいの年かさの少女に変わる。
 
「これくらいか。もしくは」
 
 再び泡に揺れる輪郭がぐっと歳を重ねた婦人に変わる。
 
「……こちらの方が気が楽か? 好きに選べ」
「え、ええと、最初の女の子でお願いします……」
「そうか」
 
 天巳の手により元の見目を取り戻したシノはぺこりと一礼する。その隣でシュウが「お膳の支度、ととのいましてございます」と声を発した。
 
「ご苦労、下がれ」
 
 天巳の声に深々と頭を下げたふたりがみちるに微笑みかけた。
 
「みちる様、わたくしたちの見目は幼いほうがお好きですか?」
「えっ」
「わたくしたちも、幼いほうがたのしゅうございます。たーんと遊べますゆえ!」
「みちる様、今度は手毬などして遊びましょ」
「手毬?」
「ええ。ほら!」
 
 シュウがぴんと立てた人さし指をくるくる回すと、綿菓子を作るように水が丸く集まってくる。渦巻いた手のひらほどの鞠をふよふよと宙に遊ばせた後、シュウとシノはひとつの鞠をふたりの手のひらで挟むようにしてみちるに顔を向ける。
 
「きっとたのしゅうございます」
「ぜひ、お呼びくださいましね」
 
 くすくすとはにかむふたりの女童にみちるが呆気にとられていると、天巳は「もう下がれ」と指を払った。
 今度はおとなしく従うつもりになったのか、ぴちゃんと高く跳ねる水音と共にふたりは姿を消した。
 
「外見に中身が引きずられる性質だな」
「ひと……ではないのですね」
「この宮では水が意思を持つ。それに生命と形を与えてやっているだけだ。さて、食事にしよう」
 
 天巳はぎいと寝台を軋ませてみちるを下ろす。
 これで膝から開放されると思いきや、結局食卓の椅子でも膝に乗せられたので、みちるは大いに戸惑った目で天巳を見つめた。
 
「どうした。人の子は食べねばならぬだろう」
「あの、椅子にはひとりで……」
「案ずるな。充分広い」
 
 そういうことではないのだ、と言いたかったが天巳はそれ以上聞くつもりはないようで、箸と汁椀を手に取っていた。
 
「聞きたいことがあるのは知っている。我もそなたに話してやりたいことがある。その前にそなたが飢えては話にならぬ。さ、食べろ。食べやすい汁物からがいいか」
 
ぐいと汁椀を押しつけられて、みちるはこぼさないように両手で受け取りそっと口をつける。湯気をたてるそれをひとくち飲めば、ほうと体がほどけていくような心持ちにさせられた。
 
「美味いか」
「はい……初めて頂くのに懐かしいような、不思議な味がします」
「そうか。たんと食べろ。次は何がいい」
「あ、ええと……」
 
 みちるが膳の上で目を泳がせるが、天巳はその視線が少しでも長く留まった皿を見つけては手を伸ばしてみちるの前に寄越していく。
 見たこともない膳が揃っていると味の想像がつかない。食べつけないもので粗相をしてはいけないと縮こまるみちるだったが、少量ずつ種類の異なる品が皿に盛られていたので物によってはひとくちで食べ切れるのが有難かった。

 
「……なんだ。もう満足か」
「は……い。お腹いっぱいで……申し訳ございません」
 
 卓いっぱいに盛られていた料理の半分も食べないうちに満腹になってしまったみちるはしゅんと項垂れるが、天巳は気にとめることなく茶を注いだ湯呑をみちるに握らせた。
 厚みのある茶器から伝わるあたたかさと、体を支える腕のぬくもり。みちるは今、何にも脅かされることなく守られている。
 
「……夢を、見ているような心持ちです」
「そうか。目覚めても我はそばに居る。どちらでもそなたの好きなように思うといい」
 
 天巳は二度ほどみちるの腕をあやすように叩く。それは寝かしつけるようでもあり、目覚めさせる仕草でもある。天巳がどちらを意図しているにせよ、みちるの時間は文字通り彼の腕にあった。
「さて、どのあたりから話そうか」
 
 みちるが茶を飲み終えると、天巳はまた彼女を抱えて寝台に戻った。今度は後ろから膝に乗せることはせずに寝台の端にふたり並んで腰を掛ける。
 考えあぐねている天巳に代わって口を開いたのはみちるだった。
 
「あの、天巳様は……雨龍の御方、なのですか?」
 
 すると天巳は少し遠くを見て、それから一度頷いた。
 
「そうだな。みちるは何も知らぬ。そこから話そう」
 
 天巳は枕元の上部にある窓に目を向ける。みちるも伸び上がるようにして窓の外を覗き込んだ。
 
「これは……」
 
 水底の宮、と天巳が称した通り、青に沈む風景の中に流麗な設えの宮殿が広がっていた。
 朽ち果てて沈んだものとは違う群青色の柱がそこかしこで屋根を支え、泡を思わせる丸い戸や窓が目立つ。太鼓橋がいくつかの建物を繋ぎ留めている様は杭に似ており、そこに沿って風にそよぐ波がうねる様は澪を引いているようだった。
 
「ここは、あの泉の底なのですか」
「そうであるといえるし、そうでないともいえる。ここは数多の祠から繋がれた祈りが流れ着く、水底の籠のようなものだ」
「数多の祠……私以外にも何処かで祠を祀る巫女がいるのですか」
「さて、水以外のことは知らぬ。最も、雨がいるなら風も火もいるだろうな。いにしえから神々に縋り、祀るのが人の有り様だった」
「その方達も、同じように……その」
 
 みちるの問いかけが淀む。どこかに生きる己の同類――風を呼ぶ巫女に、火の祝福を受けた巫女。彼女たちのなかにも己の役割を果たせず冷遇される者がいるのか、と口にできず、開きかけた唇を噛み締めた。
 どう答えてやるのがみちるの心に負担にならないのか――天巳はそれだけを考え、己が見てきた祈りの結末を思い出して言葉を繋ぐ。
 
「神に仕える者の扱いは様々だ。遠ざけ敬われるか、蔑まれるか……ただ、他とは違う生き方を強いられる。大多数の人の子が、己の内側だけの世界に閉じこもる。巫女はたったひとりで世界と向き合うというのに。巫女はどこまでも孤独だ」
「孤独……」
 
 ぽつりと繰り返したみちるの語尾が震えて溶ける。それを掬い上げんばかりに天巳は「だからこそ」と力強く言葉を継いだ。
 
「生命を賭して自らに仕える巫女を護り、寵するのが、雨龍という神の有り様だ」
 
 窓の外に目を向けたままのみちるは、その言葉にゆっくりと振り向く。
 強ばったままの頬がわななくのを見ていられず、天巳はそっと手を差し伸べる。
 
「遅くなってすまなかった。何をしていたのだと(なじ)ってくれて構わない。ただ――これからは、共に居られる」
 
 みちるの唇が、何かを言うために開いては閉じ、声にならない思いの奔流を押しとどめる。天巳はその堰を断ち切らんと薄い肩を揺さぶった。
 
「溜め込むな。澱む。穢れなら我に移せ」
 
 互いに青と黒の瞳を映し合わせようとでもいうのか、天巳の視線がみちるを捉える。視線が交差して飛沫が跳ねる。
 
「とうさまが」
 
 みちるの頬に涙は伝わない。その代わりに視線から弾けた水のひとしずくがみちるの声を乗せて空気を泳ぐ。
 
「わたしのせいで、とうさまが」
「みちるのせいではない」
「かあさまみたいに、雨を呼べないから」
「それはそなたの咎ではないのだ」
「わたしがしっかりしていれば、美沙にも、頭領様にも、家を取られなかったのに……わたしが、雨巫女で、なければ」
 
 どろりと迫り上がる、暗い澱。
 みちるの目が虚ろに囚われる。
 天巳は目を逸らさず、何も言わずに待っている。
 わななく唇が声の形を取った。
 
「雨巫女……なんか、なりたくなかった」
 
 それでもみちるの頬に雫は伝わない。
 
「ひとりになっちゃった、もう、とうさまも、かあさまもいない……もういや、どうして、どうして、わたしだけ、こんな」
 
 からからな瞳を歪ませ頭を振るみちるの仕草はひどく幼い。
 天巳は目を伏せると、みちるを抱き寄せた。
 薄い体。華奢な首。二十歳にも満たぬ少女には重すぎる重圧を耐えてきたその体は今にもくずおれそうに天巳に縋る。そのささやかすぎる甘えにもどかしさを抱きつつも、腕の中のぬくもりに自分の体温をすべて与えるように天巳はみちるを掻き抱く。
 
「そなたが今まで強いられてきた苦境を思えば、幾度謝っても足りぬ。しかし、もうひとりにはしない」
 
 みちるの指がぴくりと跳ねる。
 
「……うそ」
「嘘などつかぬ。信じられずとも、これから時間をかけて証明していく。そなたのために雨を降らせる龍はここにいる。今はそれだけ知ってくれればいい」
 
 みちるのこめかみにぽつりと水滴が落ちた。目尻を掠めて伝うそれを指で拭ううちに、手のひらに細かい霧がけぶる。
 
「これ、は」
「浄めの水煙だ。好きなだけ喚け。淀んだ言葉も記憶も何もかも水に流してやる」
 
 天巳に抱き込まれた胸板から顔を上げてみれば、この寝台の上だけが薄ぼんやりと霧に包まれている。
 卓に残された透明な杯には水滴ひとつついておらず、雨で成された鳥籠がみちる達を世界から隔絶していた。
 
「……お布団、濡れてしまいます」
 
「そういう類の雨ではないさ。気を浄め、流し、潤す水。そなたを満たしては巡る、言わばみちるのためだけの水だ」
「……わたしが、雨巫女だからですか」
「うん?」
「わたしがすべてを失った不幸な雨巫女だから、憐れんでくださるのですか」
 
 ゆらゆらとみちるを包んではあやす天巳の腕の鳥籠が凪に留まる。
 
「……少し、違うな。遙か昔から雨が繋ぐ縁……それを手繰り寄せては結び直す……そう、証が必要なのだ」
「証……?」
 
 訝しげに顔を上げたみちるに、天巳は眉を歪ませて微笑んだ。
 
「この話はいずれ。今はこの霧が洗い流すに任せて、溜め込んできたものを聞かせておくれ」
 
 話を聞かせてほしいのはみちるのほうだ。しかし、天巳の微笑みはすべてを受け入れるようでいて、さりげなく大切な扉は閉じてしまっている。
 それに一度口にした寂しさは、堰を切ると押しとどめていることが難しい。
 
「あの家でどうやって生きてきたか……辛い記憶でも、楽しい思い出でも構わない。みちるを形作ってきたものが知りたい」
 
 天巳の親指がみちるの頬を軽く拭う。しかし、それを濡らす湿り気はみちるの涙ではなく、彼の作り出した霧だけだ。
 こんな時に泣けたら、もっと一気に楽な気持ちになれるのだろうか。
 みちるは霧にけぶる記憶の中でぼんやりとそう考えながら、思い出を紐解いていった。
 みちるの意識がぼんやりと浮上していく。
 あたたかいものに包まれている感覚。
 指の先からとろけていく心持ちは、やはりどこか後ろめたい。
 心地良さと落ち着かなさが綯い交ぜになって、沈むみちるの意識を掬って水辺にそっと乗せた。
 
「…………あまみ、さま」
「おはよう。ぐっすり眠っていたな」
 
 水底の宮で生活するようになってから数日。
 みちるが眠りに落ちる時と目覚める時は必ず天巳がそばにいる。
 初めてここで目覚めた時、押し寄せた記憶の奔流が悪夢となってみちるをひとりで苦しませていたことが天巳には耐え難かったらしい。
 寝所に殿方と共にいることが尋常ならざることだとわかってはいるものの、この宮の主人は天巳であり、自分は居候だ。主人に逆らうことが何を意味するか、みちるは痛いほどよく知っていた。
 しかし、天巳は主人といえどみちるをこきつかうような真似はしない。朝はみちるが起きるのに任せ、夜は寝つくまでそばにいてくれる。
 
「今日は寝返りをあまり打たなかったな。私の腕がようやくそなたの枕として馴染んできたか……初めの頃はぐるぐると忙しい寝相であったことよ」
「も、申し訳ございませ……!」
 
 顔を赤くして横になったままぺこぺこと頭を下げるみちるの乱れた髪を、天巳の長い指がひと房つまんではらりと下ろした。
 寝つくまで――とは語弊があった。天巳はよもすがらみちるの寝顔を眺めている可能性がある。睡眠時間を考えれば有り得ない話だが、もし想像が当たっていた時、これからどんな顔で眠ればいいのか悩み続けて眠れなくなりそうで、みちるは追及できていない。
 せっかくこの豪華な寝台には枕がいくつもあるというのに、天巳は己の膝や腕をみちるの枕として使わせる。おかげでふかふかで肌触りのよい枕をみちるは眺めているだけで使ったことがない。
 今日は腕枕の日だった。天巳が言うように、初めの日――浄めの霧に包まれて、促されるままに口を開いていたあの日は、されるがままに腕の中で眠ってしまった。ごつごつとした腕で頭を上手く支えられずにうんうん唸っていた記憶がある。
 
「何を謝ることがある。人は深く眠らねば障りのある体だろう。すぐに目を覚ましてしまっていたそなたがこうしてぐっすり休めていることが我にとっての倖よ」
 
 そう言いつつ天巳はみちるの髪を梳っている。みちるを深く眠らせるためにあれこれ試すうちに癖になったそれは、みちるにとって眠りを誘う仕草でしかなくなってしまった。
 
「あの、天巳様……髪、そうされると眠くなってしまうので……」
 
 目覚めたばかりの夢うつつで眠りを誘われては一日じゅう寝ていることになってしまう。散らばりかけた意識を掻き集めて頭をふるふると振って彼の手から逃げようと試みれば、天巳は「おや、お転婆だ」と芝居がかった仕草で手をひらりと踊らせても梳るのをやめた。
 
「そなたの寝顔を眺めているのも悪くはないが、やはり話ができたほうがいい。これは夜の楽しみにとっておこう」
 
 ようやく天巳から解放されたみちるが起き上がるべくもぞもぞと布団の中で身じろぎをする。寝起きでふにゃりと力の入らないみちるに手を貸した天巳は、枕元の鈴でシノとシュウを呼んで身支度をさせた。
 
「お目覚めでございますか」
「みちる様にはご機嫌うるわしゅう」
 
 そろって大人びた礼をしたおかっぱ頭の女童にもようやく慣れてきた。
 
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
 
 みちるもふたりに頭を下げれば、童は鏡で映したかのように対称的な角度でこてんと首を傾げてくすくす笑った。こうなるとふたりは年相応の悪戯っ子に戻ってしまう。
 
「みちる様によろしくされちゃった」
「わたくしたちだけの誉れ」
「他の雫にはなーいしょ」
「わたくしたちだけのみちる様?」
 
 向かい合って手のひらを取り合い、きゃあと跳ねてはしゃぐシノとシュウだが、天巳が咳払いをひとつすると流石に拙いと思ったのか、地に足をつけて仕事を始めた。
 手水の準備に敷布の回収。みちる達が寝台にいては邪魔になるので天巳がみちるを横抱きにして長椅子に座らせる。寝台で解放されても結局場所が変わっただけで天巳の腕の中にいることは変わりない。
 みちるに対して何故か贖罪の気持ちを抱いている節のある天巳が、これからは何不自由なく暮らしてほしいと心を込めた配慮は本当に有難いものではあるのだけれど、こうして文字通り手も足も出ない状況に押し込められてしまうと、何が自由で不自由なのか、みちるにはわからなくなる。
 そうこうしている間にもシノとシュウはてきぱきと仕事の手を休めない。自分よりうんと年下の童が忙しく立ち働いているのを目の当たりにすると、みちるはどうにも居たたまれず手伝いたくなるのだが、天巳がそれを許すはずもなく、膝の上で縮こまるみちるの背を抱きしめて離さない。
 それを見たシノとシュウがまたくすくす笑うものだから、みちるはどちらの肩を持てば良いものかわからずにおろおろと見守ることしかできずにいた。
 シノに促されて手水で顔を洗うと、シュウが差し出してくれた手ぬぐいで水気を拭う。
 
「みちる様、目をつむってくださいませ」
「?」
 
 言われた通りに目を閉じていると、花の香りが広がった。しっとり湿った柔らかい布がぽんぽんと優しく顔全体を撫でていく。
 
「みちる様、ますますお綺麗」
「天巳様、首ったけ?」
「たけー!」
 
 肌の手入れをしてくれたのだと気づいて、普段からろくに何もしていなかったことが気恥ずかしく、みちるは頬を覆って俯いた。心なしかいつもよりもちもちしている気がする。
 
「残るは御髪、ですが……」
 
 シノの視線がちろりとみちるを飛び越えて天巳を窺う。天巳は何も言わず首を横に振った。
 
「みちる様の御髪は天巳様のもの」
「触ったらシノたち、じゅってされちゃう」
「やーん」
 
 みちるを真似て頬を覆ったふたりがいやいやと首を振りながら寝台へと小走りで向かう。
 シノとシュウの歌うようなおしゃべりは節をつけてますます賑やかになっていく。
 
「天巳様、やーきもち?」
「お水なのに焼ーくの?」
「蒸し焼きかな? 目玉焼きにお水じゅう!」
「たまごがふたつなら、シュウとシノみたい!」
 
 どんどん脱線していくふたりの会話に天巳が頭を抱えて深く溜息をつく。しかし、みちるは彼女たちが見た目相応のあどけない顔を見せてくれたことと、会話の他愛なさにふっと笑みがこぼれた。
 すると、その吐息の気配を感じ取った天巳が後ろからぎゅうと抱きしめる。
 
「笑ってくれたな」
「え? ……そう、ですね。久しぶりかも……」
 
 最後に口角が上がったのはいつだろうか。記憶を手繰るうちに、ぴちゃんと高く跳ねた水音が響く。
 シノとシュウが仕事を終えて退室したのだ。あのとりとめのないおしゃべりに興じながらの仕事の早さにみちるは舌を巻いた。
 それと同時に思い出したのだ。運命のあの日、凪いだ水面がいきなり跳ねて頬を濡らしたことを。
 
「あ……の、天巳様」
「ん?」
「あの日、泉を揺らしたのは天巳様……です、か?」
 
 みちるが振り向いて見上げた先で、天巳は虚をつかれたようにわずかに唇を開けた。しかし、それも一瞬のことで、いつもの穏やかな微笑みに戻ると頷いた。
 
「あの時の我は……あれが力の限界だった。そなたの慰めどころか己のことすら儘ならぬ不甲斐なさよ」
 
 我のせいでそなたを追い詰めさせてばかりだな、と天巳は痛みを堪えるように眉根を寄せてみちるの髪を梳く。
 
「そんなこと……仰らないでください」
 
 みちるは彼の手にそっと触れた。
 
「あの時……毎日が針のむしろで……何も変わらぬ苦しさ、変えられぬもどかしさに息が止まりそうでした。いいえ、寧ろ止まればいいと思っていました。けれど、あの時、あの雫ひとつで、私は前を向けたのです」
 
 今もあの村にいた頃のことを思い出すと胸がきりきりと突き刺されるように痛む。しかし、それだけではない記憶も確かにあった。
 もう儚くなってしまいたいと吐露したみちるに、あの泉が慰めを、励ましの一滴をくれたのだ。
 
「乾ききって、ひび割れて、崩れそうな私にとって、あの雫は生命そのものでした。これは雨巫女である証かもしれないと、まだ私にも何かできることがあるのではと――あの時、確かに笑えました。天巳様は、あの時、雫ひとつで私を救ってくださったのです」
 
 語るうちに力強くなっていくみちるの声に、天巳は目を見開いた。
 青と黒の瞳。同じ色をした瞳でみちるは天巳と向き合う。そこには蔑まれ、虐げられ、絶望の淵に立たされていた儚い娘はおらず、気弱になった雨を司る龍に寄り添い共に立つ、紛れもなく気高い雨巫女がしゃんと背を伸ばして己の片割れを見つめていた。
 
「……そなたは、まことに……」
 
 それだけの言葉を搾り出すと、天巳はたまらずみちるを掻き抱く。いつもの優しく包みこむようなあたたかい抱擁ではない。みちるが天巳と出会った時に思わず縋ってしまった、あの離れ難くも甘美な衝動をぶつけるような抱きしめ方だ。
 
「あ、天巳様? わ、たし……やはり出過ぎたことを申して……っ」
「違う」
 
 天巳はみちるの反論ごと抱き込む。みちるはどうしたものかとおろおろと迷い、かろうじて自由にされていた片腕を天巳の背に回した。
 
「我が……そなたの救いに、なれていたのだな……」
「……はい。天巳様には、助けて頂いてばかりです」
 
 背中に回した手をぽんぽんと叩く。幼い時、母がそうしてくれていた慰め方だ。両腕を使えていたとて回しきれぬ広い背中が、今はみちるの腕の中にある。
 
「血を以て封じられていた我が、そなたが自ら流した血でどれほど救われたか……」
 
 天巳はみちるの頬に顔を寄せる。互いの髪が絡まり、もつれて離れられなくなる。
 
「あ、天巳様。今ほどきますので……」
 
 慌ててひと筋の絡まりをつまんだみちるが恐る恐る指を通して懸命にほどいていると、わざと邪魔をするように天巳はみちるの耳に唇を寄せた。
 
「みちる」
 
 いつもより低い声が、一音一音噛み締めるように名を呼ぶ。びくりと肩を震わせたみちるが何も考えられなくなっているのをいいことに、天巳はみちるから絡まったひと筋の髪を貰い受けて一気に解いた。同時にその低音でみちるの鼓膜を揺らす。

「浅ましき我を赦せ」
「え? ……ん、ッ!?」

 みちるが問い返そうと顔を傾けた時、天巳はその無防備な唇を問いかけごと奪う。
 柔らかな粘膜同士の触れ合い。ただそれだけなのに、重なったそこから熱がじわじわと溶けだしてみちると天巳を混ぜ合わせんばかりに繋ぎ合わせる。
 
「…………っ、ん、んう」

 ひくりとみちるの喉が震える。肩も細かく痙攣している。うまく呼吸ができないのだろう。
 天巳はわずかばかりの距離を取ると、胸に手を当てて小さく咳き込むみちるの丸まった背を撫でてやる。

「す、みませ……けほっ」
「毎度そなたに窒息されては困る。鼻で呼吸せよ」

 天巳はみちるの唇を軽くつまむ。柔く弾力のあるそれはとっておきの上生菓子を思い起こさせた。
 練習とでも言うのか、そのまま呼吸するように促されてみちるは言われた通り鼻で呼吸することに集中した。静かな呼吸音が深いものになってきた頃、天巳は指を離す。

「上出来だ。そなたは聡く、飲み込みが早い」
 
 両の頬をやわやわと包まれ、撫でられる。愛おしげなその仕草と細められた瞳にみちるの強ばりが解けた。
 凍っていた花が咲むように、和らぎ、ほころんだ唇に、天巳は再び祝福のくちづけを落とす。
 啄んでは離れ、頬や鼻先を掠めるそれが、気まぐれに唇に戻る。唇の端にちゅうと吸いつかれるとくすぐったいのか、くすくすと身をよじるみちるの顎を掬って天巳はその瞳を覗き込む。
 片目が青、もう片方が黒。半端な加護の受け手だと、力がないと蔑まれてきた証から、悲嘆の色がわずかながらに薄らいでいる気がして――そして、少しでもそれが気のせいでなくなるようにとの祈りを込めて、天巳は幾度目かの触れ合いで、深く唇を重ねた。
 驚き、跳ねるみちるの背を抱いて安心させながら幾度も角度を変えて愛し続ける。添えられていたみちるの手が、おずおずと求めるように彼の肩を撫でた。
 ふ、と漏れた天巳の吐息が、みちるの細い指先が、互いに甘い痺れとなって互いの内にまろやかな波紋を描く。
 天巳はみちるの髪をそっと梳く。とろけていく瞳を追って、瞼にもくちづけの雨が降った。
「今日も苦労をかけたな、みちる」
「いいえ、滅相もございません。天巳様こそ、お疲れではないのですか」
「そなたが案ずるようなことは、何も」
 
 長椅子にふたり並んで腰掛け、一日をいたわりあう。ここ数日、日課ともなっているやりとりだ。
 何せ、ここに来てからというもの、みちるは必要最低限のこと以外は自室から出ることなく天巳に甘やかされっぱなしだ。
 銀灰色の濃淡が川の流れを思わせる流水紋の着物に、湖面のようにきらめく玉をあしらった涼しげな髪飾り。
 その他にも天巳から何やかやと贈られる数多の品でみちるは溺れそうである。
 このままでは心苦しくなるばかりだ。せめて何かできることを頼み込んだみちるに託された仕事といえば、シノとシュウの遊び相手。手遊びを教えたり手毬で遊んだり――これは果たして仕事と言えるのか甚だ疑問ではあったが、天巳はそんなみちるを労ってくれる。
 
「今日もふたりと遊んでいただけですもの。私はお役に立てるようなことは何もしておりません」
 
 謙遜ではなく真っ正直な思いで伝えるも、天巳は大仰に首を振ってみちるを膝に抱き上げる。
 
「何を言う。充分すぎるほどだ。何せあれの相手は至難の業だからな。あちらへこちらへと鬼でもないのに手の鳴る方へと引きずり回される」
「まさか、天巳様も鬼ごっこや隠れん坊を?」
 
 みちるは想像してくすりと笑みをこぼした。しかし、むすっと口角の下がった天巳に慌てて指で口元を隠す。
 
「やらぬ。するつもりもない。だが……」
 
 そこで天巳は深く溜息をついた。これは相当難儀した証だ。
 
「あの子達は天巳様によって生まれたお水の精……のようなものでしょう? 初めに見せてくださったように、大人の見目になされば違うのではないですか?」
 
 みちるは初めて引き合わされた時を思い出す。あの術があれば淑やかな少女にも柔和な老女にも簡単に変えられるはずだ。しかし、天巳は「ああ」と何かに気づいた風に声を上げた。
 
「初めに見目をどうするか尋ねた時、そなたは童を選んだろう。その瞬間からあれはそなたをに形を与えられた――そうだな、いわば結晶だ。水に戻る時以外、他の形を取ることはない」
「えっ」
 
 みちるは絶句した。まさかあの軽いやりとりで彼女たちの運命を決めてしまっていたとは。先程とは違った意味で口元を覆って青ざめているみちるに、天巳はゆるゆると首を振った。
 
「あれも言っていただろう。幼い見目のほうが楽しめると」
「で、ですが……私の不用意なひと言で一生を定めてしまったかと思うと……」
 
 いっそ笑えてくるほどにおろおろと慌てるみちるを落ち着かせるべく、天巳は言葉を繋ぐ。
 
「そう思うなら、大切にしてやれ。雫ひとつ無くとも雨水と成るが、それ無くば雲は成らぬ」
 
 必要でないものなどないのだ――そう結ばれた言葉に、みちるの心がじんとあたたかくなる。
 父もよく口にしていた。あるならば必要とされている。無いならばそれだけの理由があり、それは現状に向き合うための端緒となる。
 言い回しは異なるものの、芯は同じだ。
 
「天巳様は……本当にお優しゅうございます」
「そなたが言うのなら、そういうことにしておこう」
 
 照れ隠しなのかほんの少し顔を背けた天巳が頷く。さらりと揺れた髪のあわいからほのかに色づいた耳が垣間見えて、みちるはぎゅっと胸の前で手を握った。
 
「――そうだ。そなた、屋敷の外に出てみぬか」
 
 話題を変えようと、少しばかり声を張って天巳はみちるに向き直る。これは効果てきめんで、みちるはぱちぱちと瞬きをしておうむ返しに「外」と呟いた。
 
「そうだ。食事も摂れるようになってきている。歩いても大事ないだろう」
 
 そう言われ、みちるは己の手を握って開いてと繰り返す。確かにここに来た頃より力が入るようになってきた。満ち足りた食事と睡眠、何より天巳からの溢れんばかりの慈愛がみちるを徐々に元気にしている。
 
「はい……! 私、このままこの宮で天巳様のご負担になるのは心苦しかったのです。少しでも自分の面倒を見られるように頑張ります」
 
 切々と語るみちるに天巳も目を細める。こうして翌朝、ふたりは連れ立って部屋を出ることになった。
「みちる様、こちらをお使いください」
 
 翌朝、身支度を終えたみちるにシノが差し出したのは蛇の目傘だった。紺色を基調としたそれにはくるりと縁取る銀色の小花模様が舞っている。
 
「きれい……」
「気に入ったか」
「はい。天巳様が用意してくださったのですね。ありがとうございます」
 
 礼を言ったみちるが玄関でそれをまじまじと見つめ、ほうと息をつく。綺麗だと褒めたはずなのにどこか浮かない表情をしている彼女を天巳は覗き込んだ。
 
「どうした。気分が悪いのか。それとも今日外に出るのはやめておくか」
「い、いいえ! 違うのです。ただ……その、あまりに綺麗なので、使うのがもったいないと思ってしまって……」
 
 申し訳なさそうに持ち手を恭しく掲げたままのみちるから、天巳は傘を取り上げて一気に開いた。傘の中からはらはらと淡い花びらが降ってくる。
 
「わ……!」
「傘は使ってこそだ。行くぞ」
 
 みちるに傘を持たせてやると、天巳も傘を開いて一歩踏み出す。
 戸口に下ろされていた青の紗がふうわりと舞い上がる。
 
「みちる様、行ってらっしゃいまし」
「たのしんでくださいね」
 
 シノとシュウに見送られ、みちるも外へ歩き出す。何故、傘を渡されたのか――その時に、理解した。
 小糠雨が辺りを包んでいる。静かに庭木を潤し、飛び石を艶々と光らせて、世界は静謐な白銀色の紗で囲い込まれていた。
 
「雨は……ずっと降っているのですか」
「ああ。鬱々とさせたらすまない」
「いえ……」
 
 みちるは口を閉じるのも忘れて見入っている。それは景色にというより、一面の雨模様に魅入られているように見えた。
 
「みちる」
「……ずっとこれを、雨が降る光景を……待ち望んでいたのです……それが、こんなに……」
 
 傘の柄を両手できつく握りしめて、みちるは一歩、またもう一歩と飛び石を伝う。天巳はその後を静かについて歩く。
 互いに言葉はなく、雨垂れが代わりに静寂を繋ぐ。天巳は傘越しにみちるの様子を窺う。俯いているのか、泣いているのかと危ぶむ彼の予想は裏切られた。
 みちるは――毅然と前を向いていた。
 頬を伝う雨はなく、瞳を翳らせる暗雲もない。
 その瞳で――青と黒の、半端な加護しか受けられぬ証の瞳で、永遠に続く雨に閉ざされた、この水底の宮を見据えていた。
 雨に満ち、流れゆく水面に花びらが浮かんでくすんだ色の天の川を成す。石に堰き止められてくるくると回り続ける葉はやがて力尽きて川底に沈む。
 水を吸って色を変えた土が、玉砂利の下で柔らかく溶けぐにゃりと飛び石を包み込む。
 雨垂れによって枝から落とされた葉がその色を失い、泥にまみれみちるの草履を汚す。
 みちるの瞳はすべてを眺め、見つめる。
 やがて、みちるはそっと傘の中から空へと手を差し伸べる。我先にと競うように降りしきる雨粒はたちまちみちるの手のひらをぐっしょりと濡らしていく。受け止めきれなかった雫がひっきりなしにぽたぽたと落ちていく様を見て、みちるはかすかに顔を歪ませた。
 
「……雨です。雨ですよ、父様、母様」
 
 みちるは傘を下ろして直接雨の中に身を置いた。空を見上げる額が雨を弾いて刹那のきらめきを魅せる。
 天巳は傘を差し掛けるべく歩を進める。しかし、みちるは背後が見えているわけでもないのに首を横に振った。
 
「向こうにいる間に雨を呼べず、不甲斐ない雨巫女で申し訳ございませんでした」
 
 濡れて頬に張りつく髪を払うことなく空からの祝福を、そして天からの縛めを受け止める。みちるを傘に入れてやらねばと思うのに天巳の足は動かない。
 
「天巳様……雨龍の御方は慈悲深く、こんな私を雨巫女として尊重してくださいます。何も成せぬ私に過ぎたる恩寵です」
 
 雨の勢いがやや増してきた。常に一定の雨量を保つ庭が更にしっとりと雨にけぶりだす。
 
「そちらに雨は降っておりますか? 願わくばこの景色を、父様と母様と見とうございました」
 
 強まる雨音に掻き消されまいとみちるは息を深く吸い込む。父様、母様、と繰り返し呼ぶその声はいとけない迷い子のそれを思わせた。
 
「もう……よい、やめよ、みちる」
 
 天巳の声が届かぬのか、みちるは父を呼ぶ。母を求める。降りしきる雨の幕が、開いた傘ひとつ分の距離を大きく隔ててふたりを引き離す。
 
「みちる……ッ」
 
 天巳も傘を捨てて手を伸ばした時――振り向いたみちるの姿が、雨よりも確かな形を取った、黒い羽根に覆われた。
 
「娘さんがこんなに濡れたらいけないよ」
 
 天巳の贈った蛇の目傘ではなく、濡羽色の――正に艶々と黒く輝く羽根が、みちるの新たな傘となって雨の紗から遠ざけている。
 それは、すべてが黒かった。すらりと降り立った足も、羽根を纏う腕も、雨空に遊ばせた髪も黒い。その中で、黒眼鏡からちらりと覗く瞳だけが鋭く金色に瞬いて――みちるの瞳は釘付けになる。
 
「俺は玄烏(くろう)。お見知り置きを。狭間の雨巫女、みちる嬢」