その日の夕方、みちるは夕餉の支度をして父親の帰りを待っていた。
 みちるの住まいは祠の裏手にある。
 昔は本殿としていたが、瑞波家の隆盛に伴って本殿を更に開けた場所に移築したために取り残された社だ。
 最奥に雨龍の御方を模した装飾の柄が特徴的な神剣が祀られているだけの、粗末な社。
 今は奥宮と呼ぶそうだが、設えは普通の家屋とそう変わりは無い。否、一般的な家屋の方がもっと住み良いように改築されているはずだが、なまじ宮であったために人の生活にはあまり寄り添っていない作りになっている。
 開口部がやたらと広い出入口などその最たるものだ。風通しばかりが良く、寒い季節にはみちるも父も霜焼けが絶えない。
 板を打ち付けるなどすれば少しは変わるのだろうが、神々の出入口を塞ぐなど言語道断だと長に禁じられている。
 
「……信じていないくせに、こういう時ばかり神さまを使うのよね」
 
 野菜の切れ端を煮込んだ鍋がくつくつと煮えている。あかあかと鍋の底を舐める炎を眺めるたびに、みちるは異国のものでも見るかのような居心地の悪さを感じることがある。
 火に克つ水を司る家。
 能力は受け継がずとも、本能的な相性はみちるの中を巡っているのか。
 
「昼間のは、なんだったのかしら」
 
 決して応えぬ水面が、風を得てみちるの頬を濡らした。
 あの雫が、ひび割れかけていた心に一瞬で染み渡った。生まれて初めての感覚だった。
 みちるは頬に指を滑らせる。もうとっくに乾いてしまった肌だが、触れるたびにあの冷たさと温もりを感じることができる。
 
「水があたたかいなんて、おかしな話」
 
 ふ、と口元が綻んだ。ひとりでいる時に表情が動いたのは何年ぶりだろう。
 父親にも早く伝えたい。御加護の欠片でも、否、ひとしずくでも授かった証だろうか。これをきっかけに母のような雨巫女に近づけたら――
 急く気持ちを料理に切り替える。火にかけたままの鍋からはいい匂いが漂い始めていた。お玉からひとくち分を掬って小皿に移す。ふうふうと冷まして味見をすれば、舌に慣れたいつもの味だった。
 火から下ろして膳を整える。もうじき父親は帰ってくるはずだ。そうしたら何かが変わる気がする。何の根拠もない予感がみちるの背を押す。
 戸一枚隔てた外の気配がにわかに騒がしくなった。
 
「父様?」
 
 返事は無い。しかしひとの声の代わりに気配が妙にさざめいて肌をちりちりと焼くようだ。
 みちるの鼓動のように妙に弾んだそれに煽られて、それでも様子を伺いながらそっと戸を引いて――
 
「え?」
 
 そこにいたのは父親だった。
 しかし、いつものように手を挙げて「ただいま」と笑う姿ではない。
 頼りの杖も折れ曲がり――否、潰されたように地べたに倒れ込む姿そのものが折れ曲がっていた。
 
「あ……」
 
 それが父親の形をした物体なのだと、脳が認識するより先にみちるは腰を抜かしてへたりこんだ。
 ざりざりと砂利を引きずるように宵闇から気配が近づく。複数の足音。
 ひときわ深く地を抉る足がぬっと現れたかと思ったらみちるの体が宙に浮いた。
 一瞬の浮遊感の直後、背中に衝撃を感じて熱さが全身を貫く。遅れてやってきた痛みに呼吸を奪われ、自分が壁に激突したのだとわかったのは転がる鍋からこぼれていく味噌汁と同じ目線になっていたからだった。
 太い足に鍋が蹴飛ばされて、自分が殴られたような金属音で耳がわんわんと唸っている。
 太い足が遠ざかる。白く細い足首が前に立った。
 
「こんばんは、雨巫女様」
 
 戻ってきた聴覚が疎ましかった。ぞわりと肌が粟立つ。美沙と良く似た、ざらざらと喉を撫でる甲高い声。
 
「と……うりょう、さま」
 
 美沙の父だ。分家の長。今は頭領を名乗って父をこき使う男だ。まさかこの男が、父を。
 
「おいたわしや。雨巫女ともあろう方が襤褸同然ではないですか。同じ年頃というのにうちの美沙とは比べものにならないねえ」
 
 何がおかしいのか、言葉の途中でけらけらと裏返る声で笑う頭領はつま先でみちるを蹴って仰向けに転がした。見慣れた天井。視界の端にちらつく無頼の男たちが異物だ。
 
「だからね、美沙のほうが相応しいんですよ。人々の称賛と龍の御加護。類いまれな富を成して都も一目置く家の主。そういったものは、美沙に譲るべきだ。そうでしょう」
 
 譲れと言われてはいどうぞと開け渡せるものなら雨巫女など掃いて捨てるほど居てもいい。みちるとて雨巫女の地位を捨て、村を捨てて、父と二人で離れた所で暮らせるならばそのほうがずっといい。
 しかし、駄目なのだ。巫女は龍に選ばれる。
 片目だけの青であろうと力が発現しなくても、雲の彼方の雨龍の御方が選んだのはみちるだ。美沙ではない。分家とてそんなことは承知のはず。
 みちるの口がもごもごとそんなことを呟いているのを見てとった頭領は、「親子揃って頭が固い」と吐き捨てた。
 
「あなたの父親はね、いつも同じことばかりだ。力の発現をしない巫女ならば、それが何故なのか思案する時代だ、そもそも私たち村人に御加護を受け続けるだけの資格があるのか、我が身を振り返り襟を正すべきだ――などと有難くくだらないご高説を垂れるばかりで、村のことを考えようとしない」
 
 父の声音が鼓膜の奥に耳に蘇る。頭領の甲高い声から耳を塞ぐように、いつもの持論がみちるを包み込む。
 それを踏みにじったのは割り込んできた頭領のきんとした鋭い声だ。
 
「少し頭を働かせればわかることでしょう。巫女の力は血によって受け継がれる。ならば、その血を宿した出来損ないの器を砕いて別の新しく美しい器に入れ替えればいい。そう言ったらあの男、杖をかなぐり捨てて暴れるものだからあのザマだ。幸い、こうして屈強な者たちが居てくれたおかげで大事には至らなかったけどねえ」
 
 はは、と声を揃えて嗤った男達の背後に、潰れた父が伏している。
 
「痛めつけたら動かなくなりましたよ。命がまだあるかは知りませんけどね。私は村を治める者ですから慈悲深くあらねばとあなたの元に連れてきたんですよ。先代の雨巫女亡き今、たったひとりの父であり娘でしょう?」
 
 耳の奥でざああと流れていくのは血の気が引く音なのか。
 ぼんやりとした聴覚が拾ったのはカランカランと床を滑る金属音だった。
 ただそれだけなのに、男達がびくりと震える。自分たちのしたことに対して肝が小さすぎて滑稽だな、と現実を俯瞰している自分を自覚しながらみちるは音の方向にゆっくり首を向けた。
 鏡のような峰が粗末な床を映している。奉納されていた神剣だった。みちるが打ち付けられた衝撃で床に落ちたのだろう。
 
「……ああ、これはお誂え向きだ! ちょうどいい。雨巫女様、これで貴方の血を頂きましょう。雨巫女の血を吸った剣で美沙に継承の神楽を舞わせる。あの子が次なる雨巫女だと知らしめられるいい機会だ」
 
 悪趣味極まりない思いつきに酔っているのか、頭領はそれを手に取ると「これが代々受け継がれる神剣ねえ」と値踏みするような視線で舐め回す。
 それは母が帯び、父が手入れをし、みちるに受け継がれたものだ。代々の雨巫女達が大切にその神力を込めて、祈りを捧げてきたものだ。
 
「やめ……」
 
 それを土足で踏み荒らす蛮行に、みちるの中にいる何かがみちるの喉を震わせる。しかし、そのか細い声など届いていないのか、頭領はそれを隣に控えていた男に渡すと自分は後ろに退いた。
 
「えっ、自分がですかい!?」
「なんだ、名誉なことだろう。こんな得物を使う機会などそうそうないぞ」
「いや、美沙お嬢様に捧げるものを自分が……」
「案ずるな。美沙に直接手渡す役目をお前などに任せるわけがないだろう。言わば下準備だよ」
 
 何やらごちゃごちゃとしたやりとりの下でみちるの心臓が体から逃げ回らんばかりに内側から胸を叩き続けている。
 しかし体はちっとも動かない。浅い呼吸が彼女の生命の終わりまで定められた回数をこなしておかねばと躍起になって命の灯火の早回しをするだけだ。
 みちるの体に影が差す。神剣を振りかぶった男の輪郭で覆われる。
 殺される――その恐怖に塗り潰されそうなその片隅に、これで終わりにできるという安堵がちらつく。
 これは逃げだ。否、逃げてもいいのかもしれない。みちるは出来損ないの雨巫女なのだから。
 恐ろしいのに美しい切っ先から目が離せない。男は見えていない。剣が意志を持って貫いてくれたなら。
 終わりにしてはいけない。もう楽になりたい。雨が呼べたなら。
 母様。
 
 振り下ろされた輝きが――みちるから弾かれて視界から消えた。
 
「っぐあ!?」
 
 男が腕を押さえて蹲っている。その巨躯から跳ね飛ばされたのは――折れ曲がった杖だった。
 
「みちる……逃げろ」
 
 上半身だけ起こした父親が、持ちうる力を振り絞って杖を投げたのだ。
 
「と……さま」
 
 呪縛から解かれたようにみちるは体を起こす。後ろから冷たい風が入り込んできて意識が覚醒していく。蝶番が転がっている。みちるがぶつかった時に勝手口の戸が壊れたのか。
 
「こいつ、生きて……!?」
「邪魔をするな!」
 
 戸惑いと怒号が飛び交う中、みちるを殺そうとしていた男が立ち上がる。その足で蹴り飛ばされた固い何かがみちるの手に吸い込まれるように滑り込んでくる。(いかめ)しい顔をした龍と目が合う。神剣の柄だった。
 咄嗟にそれを抱え込んだみちるを、男達の腕にもみくちゃにされた父親が見て頷く。
 
「いきなさい、みちる」
 
 いつもの笑顔だった。手習いを見てくれていた時の、料理を褒めてくれた時の、おはようとおやすみを返してくれた時の。
 不釣り合いすぎるその笑顔に、みちるは何が日常で非日常なのかわからなくなる。
 
「あ……」
 
 父に向かって這い寄ろうとした手が、転がっていた杖で阻まれる。その一瞬、父親はぎっと目を見開いた。
 
「逃げろ!!」
 
 声に突き飛ばされたみちるは壁に背をぶつける。その拍子に勝手口の戸が導くようにばたんと開いた。
 転がり落ちるように奥宮を出る。ざあ、と鎮守の森が風に揺れて葉を騒がせる。
 
「父、様」
 
 怒号が聞こえる。あそこに戻れば父がいる。しかしそれは父の望みに反することだ。
 木々のざわめきで覆い隠せない罵声が、荒れ狂う不協和音が大気を揺らす。

 音がした。

 聞いてはならない音だと――何の音か、認識する恐怖が喉から迫り上がる。
 声にならない叫びを押しとどめて、みちるは神剣を抱きしめて森に入った。