どのくらいそうしていただろうか。
じゃり、と乾いた土を踏む音がする。父娘は同時に身を固くした。
「あのう、旦那様……」
侍女の、否、元侍女が前掛けを所在なさげに握りしめながら歩いてくるところだった。
「なんだ……ああ、また人足が足りんか」
「足を患われた旦那様にこのような事をお願いするのは、申し訳ないのですが、頭領様が」
何処からかの視線を気にするようにちらちらと目を動かす彼女を制して、父は傍らに置いた杖を頼りに立ち上がった。社の神主として雨龍を祀る仕事しかしてこなかった彼だが、雨を呼べないみちるの代わりに分家で下男の如き働きを強いられている。慣れない力仕事で早々に足場から足を踏み外した彼は杖なしでは満足に動けなくなってしまったのだが、かといって分家側では労るような姿勢を見せることは無い。
「いい、気にするな。もう私はお前の旦那様ではないのだし、楽にするといい」
「も、申し訳、ございません」
「それにしても頭領様、か。分家が気取っているものだな。祝詞ひとつ挙げられぬあの唐変木なら今の本家の地位はお似合いかもな」
「あ……」
自虐か、皮肉か。肯定も否定もできぬその言葉をどうしたものか持て余した侍女はおろおろと視線を彷徨わせ、父の影に隠れて膝をついたままのみちるに気づいてくしゃりと顔を歪ませた。
「姫巫女様……」
そう呼ばれた時、みちるの中でどくん、と何かが脈打った。そのままどくどくと何かが体内を巡る音に耳を奪われる。
「あの大雨の日、ようお泣きになる貴方様を取り上げた時には、まさかこのようなことになるとはついぞ思いませんでした。なんと申せば……ああ、おいたわしや……」
みちるは侍女を見上げている。幼い頃、幾度も遊んでくれた彼女からはそのたびに同じ話を聞かされてきた。
みちるは土砂降りの夜に産まれたという。
次代を担う雨巫女を寿ぐようなその天候に、誰もがみちるが稀代の雨巫女として村に繁栄を齎すだろうと期待を寄せた。
瑞波家の娘は代々雨を呼ぶ。
いつの頃からか、伝説のように語り継がれてきたことである。
国の外れにある小さな村が、中央からの支援も滞りがちな中、飢饉にも負けず生き延びてきたことには理由があった。
求められるがまま自在に雨を降らせて田畑を潤し、天意を伝える雷すら思いのまま。
みちるの眼前には顔を歪める侍女ではなく、かの日に神楽殿で舞う母の姿が映っている。
しゃん、しゃん。
鈴を鳴らすたびに雫が跳ねる。
とん、とん。
足を踏み鳴らすたびに雷鳴が轟く。
揺れる髪が雨を誘い、伸ばされた指が雲を呼ぶ。
雨巫女としての風格にふさわしい舞に口をあんぐりと開けて眺めていたみちるを、控えていた侍女はにこやかに諭した。
「いずれ姫様もお方様のようになられますよ。雨を司る雨龍の御方とて、姫様の舞をご覧になったら恵みをくださるに違いありません」
あのように堂々と、可憐に、そして気高く舞えるものなのか。
いつも腕に抱いてくれる母とは違う横顔は、雨巫女としてのものだとしたら、いずれみちるもあのように別人の顔をして舞うのだろうか。
呆けた顔をした記憶の中の幼いみちると、今、体の中に何かを巡らせたみちるが侍女の言葉によって重なっていく。
口を開いた女の姿は、果たして記憶か、それとも今か。
「今は亡きお方様……貴方様の御母堂様は、類まれな雨巫女であったというのに」
ぞわり、と肌が粟立つ。その先の言葉を聞きたくないのか、はたまた求めているのか、聴覚だけが痛いほどに研ぎ澄まされる。
「――何故、貴方様にはひと雫もその血が伝わりませんでしたのでしょうか」
「やめよ!」
ばつん、と耳の真横で何かが弾ける音がした。
瞬間、世界の輪郭が急激に形を取り戻す。
父親が、腕を振り上げていた。
侍女の顔が悲鳴を絞り出す直前の形相で固まっている。
咄嗟に、体が動いた。
「やめてッ!」
父の胴にしがみつく。ぐらりと傾いだ体は杖一本では支えきれずに、ふたりして横倒しになって倒れ込む。
むき出しになった肘が砂利を擦ったが構わず半身を起こすと、尻もちをついた侍女が見えた。
「父が申し訳ございません、お怪我は」
「あ……わたくしこそ、とんだ御無礼を…………ッ」
侍女の砂にまみれた着物を軽くはたいて汚れを落としてやり頭を下げると、みちると同じように伏した侍女とおもてを上げる拍子が重なった。
かぶっていた手ぬぐいがはらりと落ちる。
ひい、と喉の奥が引き攣れる音が耳をつく。
さらりと頬をすべった前髪の下――青い瞳で見つめ返した侍女は、唇をわなわなと震わせ、足早にその場を立ち去った。
「……ただ、青いだけなのに」
「そうは言うが、歴代の雨巫女の誰ひとりとして、そのような瞳を持った者はいなかったからな」
ぽつりと零した独白に応じた父親は、おうと声をかけながら杖を頼りに立ち上がる。みちるが手を貸そうとしたが、首を振って拒んだ。
「これから頭領様にこき使われに行くのだ。お前に甘やかされては困る」
「頭領様のところなら、私も手伝う」
「馬鹿を言うな、お前の細腕で力仕事は無理だ」
「でも」
言い募るみちるの髪をくしゃりと掻き混ぜるように撫でた父親は「行ってくる」と残して背を向けた。
その背中をぼんやりと眺めていたみちるだが、手ぬぐいを拾って畳み、懐にしまうと祠に向き直った。
じゃり、と乾いた土を踏む音がする。父娘は同時に身を固くした。
「あのう、旦那様……」
侍女の、否、元侍女が前掛けを所在なさげに握りしめながら歩いてくるところだった。
「なんだ……ああ、また人足が足りんか」
「足を患われた旦那様にこのような事をお願いするのは、申し訳ないのですが、頭領様が」
何処からかの視線を気にするようにちらちらと目を動かす彼女を制して、父は傍らに置いた杖を頼りに立ち上がった。社の神主として雨龍を祀る仕事しかしてこなかった彼だが、雨を呼べないみちるの代わりに分家で下男の如き働きを強いられている。慣れない力仕事で早々に足場から足を踏み外した彼は杖なしでは満足に動けなくなってしまったのだが、かといって分家側では労るような姿勢を見せることは無い。
「いい、気にするな。もう私はお前の旦那様ではないのだし、楽にするといい」
「も、申し訳、ございません」
「それにしても頭領様、か。分家が気取っているものだな。祝詞ひとつ挙げられぬあの唐変木なら今の本家の地位はお似合いかもな」
「あ……」
自虐か、皮肉か。肯定も否定もできぬその言葉をどうしたものか持て余した侍女はおろおろと視線を彷徨わせ、父の影に隠れて膝をついたままのみちるに気づいてくしゃりと顔を歪ませた。
「姫巫女様……」
そう呼ばれた時、みちるの中でどくん、と何かが脈打った。そのままどくどくと何かが体内を巡る音に耳を奪われる。
「あの大雨の日、ようお泣きになる貴方様を取り上げた時には、まさかこのようなことになるとはついぞ思いませんでした。なんと申せば……ああ、おいたわしや……」
みちるは侍女を見上げている。幼い頃、幾度も遊んでくれた彼女からはそのたびに同じ話を聞かされてきた。
みちるは土砂降りの夜に産まれたという。
次代を担う雨巫女を寿ぐようなその天候に、誰もがみちるが稀代の雨巫女として村に繁栄を齎すだろうと期待を寄せた。
瑞波家の娘は代々雨を呼ぶ。
いつの頃からか、伝説のように語り継がれてきたことである。
国の外れにある小さな村が、中央からの支援も滞りがちな中、飢饉にも負けず生き延びてきたことには理由があった。
求められるがまま自在に雨を降らせて田畑を潤し、天意を伝える雷すら思いのまま。
みちるの眼前には顔を歪める侍女ではなく、かの日に神楽殿で舞う母の姿が映っている。
しゃん、しゃん。
鈴を鳴らすたびに雫が跳ねる。
とん、とん。
足を踏み鳴らすたびに雷鳴が轟く。
揺れる髪が雨を誘い、伸ばされた指が雲を呼ぶ。
雨巫女としての風格にふさわしい舞に口をあんぐりと開けて眺めていたみちるを、控えていた侍女はにこやかに諭した。
「いずれ姫様もお方様のようになられますよ。雨を司る雨龍の御方とて、姫様の舞をご覧になったら恵みをくださるに違いありません」
あのように堂々と、可憐に、そして気高く舞えるものなのか。
いつも腕に抱いてくれる母とは違う横顔は、雨巫女としてのものだとしたら、いずれみちるもあのように別人の顔をして舞うのだろうか。
呆けた顔をした記憶の中の幼いみちると、今、体の中に何かを巡らせたみちるが侍女の言葉によって重なっていく。
口を開いた女の姿は、果たして記憶か、それとも今か。
「今は亡きお方様……貴方様の御母堂様は、類まれな雨巫女であったというのに」
ぞわり、と肌が粟立つ。その先の言葉を聞きたくないのか、はたまた求めているのか、聴覚だけが痛いほどに研ぎ澄まされる。
「――何故、貴方様にはひと雫もその血が伝わりませんでしたのでしょうか」
「やめよ!」
ばつん、と耳の真横で何かが弾ける音がした。
瞬間、世界の輪郭が急激に形を取り戻す。
父親が、腕を振り上げていた。
侍女の顔が悲鳴を絞り出す直前の形相で固まっている。
咄嗟に、体が動いた。
「やめてッ!」
父の胴にしがみつく。ぐらりと傾いだ体は杖一本では支えきれずに、ふたりして横倒しになって倒れ込む。
むき出しになった肘が砂利を擦ったが構わず半身を起こすと、尻もちをついた侍女が見えた。
「父が申し訳ございません、お怪我は」
「あ……わたくしこそ、とんだ御無礼を…………ッ」
侍女の砂にまみれた着物を軽くはたいて汚れを落としてやり頭を下げると、みちると同じように伏した侍女とおもてを上げる拍子が重なった。
かぶっていた手ぬぐいがはらりと落ちる。
ひい、と喉の奥が引き攣れる音が耳をつく。
さらりと頬をすべった前髪の下――青い瞳で見つめ返した侍女は、唇をわなわなと震わせ、足早にその場を立ち去った。
「……ただ、青いだけなのに」
「そうは言うが、歴代の雨巫女の誰ひとりとして、そのような瞳を持った者はいなかったからな」
ぽつりと零した独白に応じた父親は、おうと声をかけながら杖を頼りに立ち上がる。みちるが手を貸そうとしたが、首を振って拒んだ。
「これから頭領様にこき使われに行くのだ。お前に甘やかされては困る」
「頭領様のところなら、私も手伝う」
「馬鹿を言うな、お前の細腕で力仕事は無理だ」
「でも」
言い募るみちるの髪をくしゃりと掻き混ぜるように撫でた父親は「行ってくる」と残して背を向けた。
その背中をぼんやりと眺めていたみちるだが、手ぬぐいを拾って畳み、懐にしまうと祠に向き直った。