みちるは眼前で漆黒の羽根を広げる男を見上げた。
 何度も瞬きを繰り返し、頭の中で彼の言葉を反芻する。
 軽やかな声音。それに似合わぬ重い一撃であることは本人も承知しているのか、みちるが状況をうまく飲み込めぬことも愉しんでいるようにふんふんと鼻歌を歌ってみせる。
 
「あなた……が? どうして……」
「おっ、復活した? いいね。固まったままならさっさと連れて行こうかと思ったよ」
「連れて?」
「そう。だってこんなじめじめした辛気臭い新居なんて御免だろ。俺ならきみを陽のあたる場所に連れ出してあげられる」
 
 玄烏はそこに観客が居並ぶ舞台であるかのように両腕を広げた。黒い羽根がばさりと重たく響いて彼の威光を引き立てる影となる。
 
「なんだかんだ言っても住み慣れたあの村が一番だろう? 優しいご両親に俺らを敬ってくれる従順な民。そしてみちるは類まれな加護を以て村を照らす()の巫女だ」
 
 くるりと回ってみせた玄烏は硬直したままのみちるに深く跪いて手を差し伸べる。傘の柄を握ったままのみちるはそれに応じることはなかったが、淡々と切り替えた彼は不思議と不恰好にならない仕草で胸に手をあててみせた。
 
「そして極めつけにきみの隣に立つのは陽の光を導く八咫烏たるこの俺がいる。どうかな。違った未来が拓けて来ないかい?」
 
 またもやぱちりと片目をつぶってみせた玄烏はそれが癖らしく、にっと口の端を上げて笑う。
 しかし、みちるは彼の仕草などどうでも良かった。彼があっけらかんと言い放ってみせた、ただひとつが彼女を捉えて離さない。
 
「…………優しいご両親?」
「そう! きみを大切に育ててくれた御尊父と御母堂さ。彼らがいなくちゃ今の君は無いからね」
「そんな……だって、ふたりとも、もう」
「そうだね。きみの認識ではそうだろう」
 
 しんみりとしてみせた玄烏はふっと目を伏せる。彼岸へ向けるまなざしに、みちるは玄烏の考えが読めずにただただ混乱させられるばかりだ。
 
「……会いたくは、ないのかな?」
 
 そう問われて否定できるほどにみちるの中で両親は過去の思い出になりきってはいない。心の一番やわらかい部分を突いてみせた玄烏は、みちるの答えを待つだけの余裕を見せる。
 何度か口を開いては閉じを繰り返していたみちるは傘の柄を握り締めながらふるふると首を振る。案外粘るな、と口の中だけで呟いた玄烏だが、今度ははっきりと音を乗せた声を発した。
 
「御母堂には浅からぬ縁があってね。頼まれごとを請負ったよ――天巳について、だけど」
「あま、み、さま」
「そう。確かに天巳はきみの運命でもある。けれど、異なる種族の運命なんかにきみの一生を棒に振ることは無いんだ。ま、一緒に暮らしてわかってきたと思うけど、あいつはなかなか一途だろう?」
 
 みちるは恐る恐る頷く。この水底に招かれてから何不自由がないようにと世話を焼いてくれた天巳の献身はみちるの想像を超えていた。それを一途と呼ぶならまさにその通りだ。
 玄烏は庭木を見渡すと、手近な葉を一枚むしってくるりと円錐状に丸める。それを杯に見立てて枝からしたたる雨粒を受けとめ始めた。
 
「それはね、言葉を変えれば執着とも呼ぶんだ。気の遠くなるような時を生きるべき龍が、全身全霊をちっぽけな人の子にすべて向ける」
 滔々と語るうちに葉の中身は徐々に雨水で満たされていく。
 
「いくら雨巫女といえど、人の子だ。生きるべき場所から離れ、破滅的なほどの霊力を受けとめ続けられるほど、強い存在ではない。寵愛の始まりは遠からず破綻する蜜月の終わりを意味している」
 
 一滴、また一滴。絶えずしたたる雫を受けとめ上昇していく水面は、器の脆弱さなど歯牙にもかけず広がり続ける。やがて増幅していく小さな水面の圧に葉の内側が震え出す。
 
「今までは気にも留めなかった些細な疲労が亀裂になる、心のうちが揺さぶられて見たことの無い自分が暴かれる――覚えはないかい」
 
 玄烏に問われるまでもなくみちるには心当たりがあった。天巳に連れられて初めて庭に出たあの日。雨音ひとつひとつにどうしようもなく心が掻き乱された。
 雨を待ち望む雨巫女としての本懐が揺さぶられたのだろうと思っていた。しかし、今にして思えば自分らしくないにも程があるふるまいだった。
 濡れることがわかっていながら傘を捨てて雨に打たれる、激昂する、天巳の制止に聞く耳を持たない――押し殺してきた幼い感情の発露なのか、それとも。
 そしてその結果の発熱だ。もっと体の芯から凍る寒さを味わったことはあった。美沙に受けた酷な仕打ちは手足の指で数えるには足りない。けれど、僅かな時間、雨に打たれただけで昏倒したのだ。あれは、本当に環境が変わったことによる疲労のせいなのだろうか?
 ぐるぐると渦を巻く思考の海に放り出されたみちるを引っ張り上げんばかりに、玄烏は言葉の命綱を投げ込む。それは妖しく揺らめいてみちるの眼前で尻尾を振った。
 
「きみにとって心地の良い献身であり、離し難い慈愛の雨垂れだ。しかし、最初は受け入れ、満たされることに浸る杯も――やがて溢れて内側から砕け散る」
 
 玄烏は無情にもぱっと手を広げる。葉はびしゃりと弾け飛んだ。びしょ濡れになった手を振って水気を払った玄烏はちらりと視線を泳がせた。みちるがそれを追えば、庭に設えてある川に葉が落ちるところだった。水面はそれを受けとめると、音もなくそれを流れの果てに追いやっていく。
 
「きみの御母堂は、それを恐れたのさ。だから俺に祈りを捧げた。禁忌とわかっていながらね。ああ美しき母の愛ってところかな」
「禁忌?」
 
 みちるは母のことをほとんど知らない。胸に抱いてもらった覚えはある。雨龍の御方のために舞う、雨巫女としての顔に畏れを成したこともある。しかし、それは母の人となりを知るものではないのだ。
 何を感じ、考え、日々の糧としてきたか。みちるの行く末をどう案じてきたのか。それを語らうにも反発するにも、まだみちるは幼すぎた。
 そう。幼いみちるを遺してどのように泉下の人となったのか――父も含め、誰も語ってはくれなかった。
 それゆえに、みちるは雨巫女の任をひとりで学ぶしかなかったのだ。祠の祀り方、祈り方、祝詞の奏上、そしてかの神剣が何故奥宮に残されていたのか――知らねばならぬことが山ほどあった。
 その母が、禁忌を犯した?
 傘の柄を握りしめた指が白んでくる。鼓動が胸の内側から振動となってみちるの喉を動かす。
 
「母様は、貴方に何を祈ったのですか」
 
 玄烏はゆっくりと口の端を歪めた。
 
「雨龍と雨巫女の繋がりを利用して、加護を反転させること。つまり呪いさ。きみの御母堂は龍を欺いた。その報いとして命を落とした。まあ天に唾する大罪の報いとしては軽すぎるけどね」
「のろい……」
 
 玄烏の言葉を反復するだけでずんと重くなっていく胃の腑のあたりを無意識にさする。
 それを見て玄烏は「おやおや随分繊細になったね」と鼻で笑った。
 
「母親の命と引き換えになり損ないの雨龍から逃れられたっていうのに、結局それに捕まって絆され、馬鹿みたいな執着に食い殺されようとしている。お人好しにも度が過ぎるとは思うけど、どうやらきみの霊力は封じたところで渾々と湧き出てくる泉のようだ」
 
 玄烏は一歩前に出ると、みちるが縋り付いている傘を掴んで放り投げる。放物線を描いたそれが落下するより早く、みちるを引き寄せ金の瞳でまっすぐに見つめた。
 
「雨龍を堕とす手伝いを引き受けたのが運の尽き、いやこれぞ運命……かな」
「……ッ、や、離してっ」
 
 身を捩るみちるの肩を抱き込んだ玄烏はそれ以上の抵抗を封じこんだ。
 あの時と同じように、唇を重ねる。
 息を吸い込む直前で硬直した唇を割って玄烏は深くみちるを味わう。
 
「んん……!」
 
 押し付けられた胸板を押し返そうとする精一杯の抵抗すら愉しみつつ、幾度も角度を変えてみちるの唇を貪った。
 身を焦がす熱い唇。その中に溶けだした甘さが、みちるを捉えて離さない。
 じっとりと濡れた玄烏の革手袋がみちるの頬を包み込む。その中で黒眼鏡のひやりとした感覚がみちるの肌になじんでいく。
 ようやくみちるの唇を解放した玄烏は、くたりと力の抜けた華奢な体を抱きとめつつ耳元に唇を寄せた。
 
「きみは青と黒の狭間にいる花嫁だ。きみの母がそうしたように、俺もきみを守ってあげる」
「や、天巳さま、たすけ……」
「人の子に呪われるような龍が助けに来るはずがない。生かされた命は、大切に使わないとね」
 
 喉の奥で押し殺した笑い声が頭に響く。
 黒い革手袋がみちるの顎をそっと捕らえ、持ち上げる。
 雨で額にこごる前髪をそっと梳き、左右で色の違う瞳をまじまじと覗き込んだ。
 
「中途半端なのは好きじゃないんだ。早く俺の色に染めてあげるよ」
「い、いや! これは、天巳様と同じ……」
「だ、か、ら。それが嫌なんだって」
 
 歌うように節をつけた玄烏は強引にみちるを横抱きにすると羽根を広げる。
 とん、と軽く飛び石を蹴って舞い上がったその影が水底の池に映り込み、影絵のように焼き付いた。
「……みちる?」
 
 執務机に向かっていた天巳は顔を上げた。
 背筋をざわざわと駆け上る感覚にたまらず椅子を蹴飛ばさんばかりに立ち上がる。机に載っていた書物や巻物が崩れて床に散らばった。墨を含んでいた筆までもが弾け飛んで壁に黒い飛沫が飛び散った。
 
「……っ」
 
 机に手をついて呼吸を整える。閉じた瞳の奥で水脈を辿る。
 水底の宮を流れるすべての水は、天巳の霊力が溶け込んでいる。今まで彼のものだけで満たされていた水脈に、突如混じり出したのがみちるの霊力だ。それを追うなどと考えたこともない。白い料紙に落ちた墨汁を見つけることと同じだからだ。
 しかし、水脈の気は、混じり気のない清廉な天巳のものだけに戻っていた。
 ――みちるが、どこにもいない。
 最悪の結果を再確認した天巳は大股で執務室を後にする。勢いよく閉じられた扉が嫌な音を立てた。
 
「シュウ、シノ!」
 
 みちるの部屋へ向かいながら呼べば、雫ふたりはすぐに姿を現した。いつもくすくす笑いながら見た目通りにはしゃいで跳ねるふたりだが、今回ばかりは神妙にしている。
 
「天巳様、大変」
「みちる様、いない」
「みちる様、天巳様に会いに行ったのに」
「みちる様、お庭から消えた」
「庭?」
 
 天巳は口々に報告を重ねるふたりを連れて庭へ向かう。常雨の庭は、雨が降ってはいるもののその結界は陽の光で散らされてそこかしこの水滴が反射し、妙に明るかった。
 
「雲、弱まってる」
「陽射しが突き抜けてきた」
 
 シノとシュウが揃って空を指さす。
 常ならば分厚い雨雲で覆われている空が、今は綿を引き裂いたように薄れている。その隙間から容赦なく降り注ぐ陽光が庭の隅々まで干上がらせんばかりに強さを増した。
 
「待て、出るな」
 
 天巳に先んじてみちるを探そうとしたシュウを手で制して後ろへ押し返す。力の加減がうまく行かずにシュウを受けとめようとしていたシノも支えきれずに後ろへひっくり返った。
 きゃあ、と悲鳴の二重奏を聞き流して天巳は慎重に庭へ出る。大きな丸い雨粒を遊ばせて揺れる葉をおもむろに弾くと、雨粒が弾け飛んだ瞬間、日に当たったところから土気色に朽ち果てていく。
 無言で眉根を寄せた天巳は他の手がかりを探すために更に足を進めた。徐々に乾き出した土がその色を薄くしている。天巳が歩けばそこは再びじとりと潤い、色が沈んだ。
 
「みちる」
 
 泥はねなど気にもとめず、天巳は庭を巡る。もう彼女の気配はここに無いことなどわかっている。
 しかし雨音は知っている。彼女の足音を。
 雨粒は映している。みちるの姿を。
 水たまりは見ている。みちるの足取りを。
 
「みちる、どこだ、どこに行った」
 
 やがて天巳は飛び石の終わりまでやって来た。小さな橋に至るその手前に――それは、あった。
 
「みちるの、傘」
 
 ひっくり返り雨を受け止め続けている、本来の役割を果たしていないその柄は、天を指していた。
 蛇の目傘の内側に満ちた雨が、銀の小花を泳がせて回り続ける。きらきら輝くそれは陽射しを乱反射して色とりどりに天巳の瞳を騒がせた。
 
「みちるは何処だ」
 
 天巳の声で、傘の水面が息づいた。
 水面が揺れる。そこに映るのは覗き込んでいる天巳ではない。
 みちるが歩いている。
 ここではない、もっと庭の手前だ。傘をさしたばかりの所で何かあったのか。
 みちるは天巳の住まう執務の棟を見上げている。何かに驚いて目を見開いた。
 黒い羽根が――見えた。
 
「玄烏、か」
 
 ぎり、と奥歯を噛み締めながら水面を見つめる。
 映るばかりで音が聞こえないことがもどかしい。
 何かを語られ、困惑した様子のみちるに更に詰め寄る玄烏。映し出される記憶に干渉できないと知りつつも割り込んで追い払ってしまいたい衝動を抑え込んでいた天巳だが――ふ、と表情が消えた。
 水面の中で、玄烏がみちるを抱き寄せていた。そして重ねられた唇。
 ぐったりと脱力したみちるが攫われていく。黒い羽根が勝利を宣言するように大きく羽ばたいてふたりが姿を消す。
 そこで水面はまた空を映し出した。
 
「…………みちる」
 
 握りしめていた天巳の手のひらから、つうと血が滲み、水面に落ちる。薄紅色が波紋を描いて溶け込んでいく。
 
「待っていろ。迎えに行く」
 
 静かな鬨の声を皮切りに天上に雲が集まり出す。何層ものそれは重なったことで白から灰色へ、鈍色へ、そして暗雲となり雷を呼ぶ。
 刹那、水底に光が満ちた。そして瞬く間に黒雲から雷の槍が突き立てられる。
 一寸先も覚束無いほどの雨が矢となりつぶてとなり降り注ぐ。
 天巳は血を垂れ流す手のひらで空を仰いだ。降りしきる雨に洗い流されていくはずのそれが、地から噴き出す雨水を呼んで巻き上げられ、水と血が混ざった塊になった。
 
「我の花嫁に手を出したか。空に太陽は要らぬということだな」
 
 みちるには一度も聞かせたことのない声音で、天巳は低く囁いた。
「長い長い冬が明けました。緑の大地を照らすあたたかな光! これもすべて――様が賜った御加護のおかげにございます」
「ありがとう、――様! これ、ぼくたちが摘んできたお花だよ。――様はお花、好き?」
「わたくしたちもより一層、分家としての矜恃を持ってご本家を支えるよう励みます。――様、ご安心くださいね」
 
 どこかで聞いた声が次々とみちるの内に満ちていく。懐かしく、あたたかく、そしてどこか――物悲しい。
 しゃん、しゃん、と鈴の音が響いた。続いて笛の音が天へと上っていく。これも聞き覚えのある音色だ。
 
「この祠では――様を祀っているの。見て、この目が覚めるような金色! 姿が見えなくても、ここからわたしたちを見守ってくださるのね」
 
 太陽の光を受けて誇らしげに輝く金色。それを大切に押し頂いているのは誰だろうか。
 
「あなたの代でますます御加護は強く確かなものになるでしょうね」
「まったくだ。私たちも鼻が高い」
 
 ほっそりとした女性に寄り添う男性の輪郭。胸にどっと押し寄せた感情に名をつけられぬまま、みちるは咄嗟に手を伸ばした。
 しかし、ふたりに触れることは叶わない。
 
「逢いたいだろう?」
 
 背後で、烏の声がした。
 
「抱きしめてもらいたい、頭を撫でてもらいたい――いいんだ。きみにはそれを願う権利がある」
 
 あと少し手を伸ばせば触れられるところに、懐かしい顔が見える。思い出の中だけで焦がれていた微笑みがそこにある。
 
「ただ、今のままじゃ駄目なんだ。きみに加護を授けたものを――はっきり自覚して、俺に伝えて?」
 
 ふたりの輪郭が揺らぐ。ちらちらと細かな光の粒子がふたりの顔を覆い隠す。
 遠ざかるそれを引き止めようと手を伸ばすみちるの手首が後ろから伸びてきた羽根に包まれ、くるりと体を反転させられる。
 黒い羽根がみちるの背を優しく包んだ。明るく照らされていた理想郷を、舞い散る羽根がまだらに隠す。
 
「ほらほら、俺だって意地悪はしたくないんだ。こう見えてお嫁さんは大切にしたいんだよ?」
「……お嫁、さん?」 
「そう。きみほどの霊力を秘めた娘と契りを交わせばこの天の下はあまねく光で照らされる。八咫烏が導く光は強く深くどこまでも届く。たとえ水底に逃げたって干上がらせてしまうだろうね」
 
 ――水底。
 みちるの瞳の奥が何かをうったえかけるようにざわめいた。
 玄烏はつまらなさそうにその変化を見抜くと、両手でみちるの頬を包み込んで己の顔に引き寄せる。
 
「ほら、俺の瞳にきみが映ってる。瞳の色は何色かな? 青? 黒? 違うよねえ」
「色……わ、たし、は」
「よし、一度目をつむって。自分の中に流れる霊力を感じてごらん」
 
 玄烏は革手袋をした手でみちるの瞼を覆う。ひやりとした感覚が混乱しきったみちるには心地よい。玄烏の言う通りにそっと目を閉じればさらりと前髪が撫でられた。
 
「そう、いい子」
 
 甘い囁きと共に額にくちづけが落とされる。みちるの内が落ち着きなくざわめいて掻き乱されていく。
 何かが変わってしまうような不安。玄烏の手をどけようとすると、後頭部を少し強めに抱きかかえられた。
 
「俺の名前を呼んで?」
「……玄烏?」
「うん。そのまま目を閉じて。何色が見える?」
 
 閉ざされた視界は真っ暗闇だ。しかし時折何か光るものがちらついた。その色は、果たして。
 
「……わからない。白い? ような……」
「……へえ」
 
 甘さを削いだ低い声音。みちるの背筋が硬直する。
 
「まだ染まらないつもり? もうひとつの過去が欲しくないのかな」
 
 突然、視界が一気に明るくなる。玄烏が手をどけたのだ。
 戸惑うみちるの顎が持ち上げられて金の瞳が細められた。
 
「もうひとつの過去は金色にきらきら光って綺麗だろう? きみは日の巫女として、皆を照らし崇められていたんだよ。きみに満ちていくのは水じゃない。まばゆいばかりの日輪だ」
 
 どくん、と鼓動が始まりを告げた。
 みちるの瞳は玄烏のそれに映る景色に魅入られている。
 丁寧に拭き浄められた板の間。
 日輪を柄に刻んだ神剣はその鞘すら輝いている。
 それを手にして舞うのは黒衣を纏ったみちるだ。
 永遠を顕す正円の鏡を額に掲げ、誇らしげな笑顔で栄光を振りまく。
 
「……あれは……わたし?」
「そう。みちる、きみだよ。美しいだろう?」
 
 玄烏は懐から短剣を取り出してみちるに持たせる。舞うみちるが携えているものと同じ神剣だった。
 
「ほうら、日の巫女の証だ。輝かしいね」
 
 輝きに魅了されたみちるは、操られたように玄烏の瞳に、その中で舞う自分に魅入る。
 優雅に、そして力強く舞うみちる。それは思い出の中の母と似ていた。その袖がゆったりと膨らみ、やがて烏の羽根になる。何かに向けて伸ばされた手を取るのはやはり同じ黒衣をはためかせる玄烏だ。
 眼前の光景に重ね合わせるように、玄烏はみちるの手を取った。鞘を握る手を上から包み込むと、そっと指先だけを絡め、爪にくちづける。
 映し出される絵空事と現実が混ざりあっていく。
 玄烏と揃いの色を纏って微笑むみちるは、その金の瞳で玄烏を見つめている。
 
「綺麗だよ。その金の瞳、蜂蜜みたいにとろけそうだ。あまねく世を照らす光の瞳を持つ日の巫女。八咫烏たる俺の伴侶にふさわしい色だ」
 
 睦言を聞いているのは、どちらのみちるだろう。
 頬をすべる玄烏の指がくすぐったい。このままくちづけられることを恥じらって顔を背けた先で、父が母の肩を抱いていた。
 
「……かあさま」
 
 母は袖で目元を押さえている。みちるが玄烏と添うことが嬉しいのだろうか。
 父がしきりに口を動かしている。何を言っているのか聞き取れず首を傾げる。
 
「父様? よく聞こえない」
 
 何かを訴えかけるような気配にみちるはただならぬものを感じて玄烏を押しやる。
 
「待って……父様が、何か」
「直にわかるよ。ほら、ご両親の前だから恥ずかしいのはわかるけど、こういうことはきちんとしないと」
 
 たやすくみちるを引き戻した玄烏は親指でみちるの唇をなぞる。
 
「さあ、教えて。きみは誰の加護を受ける巫女だい?」
 
 軽やかに尋ねてくる眼前の男の名を呼べばいい。それですべてが変わる。
 それだけで父と母とまた共に暮らせる。烏に愛でられ、求められるままに巫女としての役目を果たして、そうすればみちるは――
 
「………………あ…………」
 
 目の前が白んでくる。金も黒も溶けていく。
 両親の輪郭が朧げになる直前、父がすうと息を吸った。
 
「   」
 
 それが耳に届く直前、空がごう、と鳴った。
 どこか現実味のない光の乱反射が吹き荒れる風の彼方に消えていく。
 空高くで何かが吠えている。風の唸り声か、雲の断末魔か。
 みるみる空が黒雲に覆われていく。その中で暴れ回る瞬きの正体に気がついた時――それは既に地を貫いていた。
 抉られた足元が次々と波打つように隆起し、空へ戻らんと天上めざして跳ね上がっていく。
 地が水を噴いていた。地面が脈打ちながら辺り一面を水浸しにしていく。否、水位がどんどん上がり行くこの有様では水浸しなどという生易しいもので済まされない。
 
「ちっ、あとひと息だったのに」
 
 玄烏が羽根を大きく広げて傘を作る。噴き上がる水を防ぎながらみちるを抱えて飛ぶつもりだ。ふわりと浮いた足元をぎょっと見て、みちるはじたばたと身をよじった。
 
「いや! 離して!」
「急に元気になったな。いいのか? ここで手を離したら沈むしかないぜ。大好きなご両親に二度と会えなくなっても――ああ、いや、会いたいのか」
 
 腰に回された腕をなんとか振りほどこうとするみちるがはっと動きを止める。静かに玄烏を見上げれば、優しいばかりのとろける瞳はそこになかった。
 暗雲を背負って爛々と光る金のまなこ。そこにあるのは傲慢さを宿らせた支配者の目だ。
 
「やっぱり……やっぱり父様も母様も、もういないんじゃない!」
「いいや? 居るって言っただろ。俺の用意した過去を選べば、な」
 
 吹きつける風に巻き上げられた水の飛沫がみちるの頬を打つ。金の瞳にあてられて呆けていた意識が研ぎ澄まされていく。
 
「私の過去にはきらきらした思い出なんてないの。ずっと明るい太陽を恨めしく思って生きてきた。私が望んでいたのは目のくらむ太陽じゃない、寄り添ってくれる雨。だって、私は、雨の……ッ」
 
 風に煽られて玄烏の羽根がみちるの頬を打つ。その衝撃で持たされていた神剣の鞘がするりと抜けて真っ逆さまに落ちていった。あっという間に水面に吸い込まれていくそれを見て、ぐいとみちるを抱え直した玄烏が空を目指して大きく羽ばたく。みちるはそれでも懸命に身を捩った。
 
「ここから落ちたらあの鞘と同じ目に遭うぜ。お前は利口だと思ってたんだが見込み違いか?」
「貴方と飛ぶくらいなら沈んだ方がましよ!」
 
 みちるは抜き身の神剣を勢いにまかせて振り払う。
 あぶね、と首を仰け反らせた玄烏の腕の力が緩んだ。胸板を押し返そうと逆手に持ち替えたところで刃が腕の内側をすべる。
 
「い……っ」
 
 鏡のように澄んだ剣はみちるの柔肌を切り裂いたが、構わず勢いに任せて玄烏を押しのける。
 
 黒雲と波打つ水面のちょうど真ん中に、みちるはひとり飛び込んだ。
 
 真下ではごぼりと水が湧き上がる。その一瞬、水面が龍の口を象って大きく裂けた。
 みちるの腕から流れた血が帰る場所を見つけたようにそこへ飛び込む。
 そして――黒雲が、稲妻を呼んだ。
 水面に叩きつけられることを覚悟していたみちるの体が優しく抱き上げられる。
 一滴、また一滴と降ってきた冷たい雫がみちるの腕に丁寧に触れては傷口を洗い流していく。
 すっかり綺麗になった腕を確認して――天巳は、抱き上げたみちるに頬ずりした。
 
「よく戻った……みちる」
 
 降りしきる雨の繭の中、みちるはそっと目を開ける。
 青と黒の瞳が、互いに微笑んだ。
 
「あまみ、さま……」
 
 みちるは天巳に手を伸ばす。その手を優しく受け止めた天巳は己の輪郭を確かめさせるように頬へと導いた。
 
「ここに居る」
「天巳様、ご無事で良かった……」
「こんな目に遭った後に我の心配か」
「だって、天巳様に何かあったら」
「案ずるな」
 
 そう言い聞かせれば、みちるの頬を淡い雫が伝っていく。
 雨ではない。
 涙だ。
 はらりはらりと。花がほころぶように。
 みちるの中で逃げ場を探しながらも渦を巻くだけだった哀しみが、安堵が、愛おしさが、淀みから解放されて頬を流れる。
 
「みちる、そなた……泣いて、いるのか」
「……え?」
 
 夢うつつの瞳をゆっくり瞬いて、みちるは己の頬に触れる。肌を濡らすあたたかな水。
 泉の飛沫で濡れたあの時は、泣けぬ己への天巳からの無言の、そして精一杯の激励だった。しかしこれは――
 
「わたしの、涙?」
 
 幾度目尻を拭っても指先を濡らすそれを涙だと――己が泣いているのだとそう認識した途端、みちるはくしゃりと顔を歪ませた。
 鼻の頭がつんと痛い。目の奥で火が灯ったように熱い。呼吸が浅くなる。視界が白く朧気になる。
 泣かずにいた時のほうが余程世界は明瞭だった。
 何にも揺らがぬ、揺らげぬ自分。
 己のうちだけですべて終わらせて、飲み込んで、前を向く。
 そうするしかないと、それ以外に道は無いのだと、言い聞かせては目を閉じてきた。
 しかし、これは――
 瞬きするたびに涙の粒が弾ける。しゃくりあげるたびに体の中で気が巡る。
 みちるを形作るものが、外からも内からも瑞々しく波となって溢れ出す。
 ほたほたと拭いきれぬそれを幼子に戻ったように手の甲や手のひらで受け止めつつも、それを恥じらったみちるが首をふるりと振って顔を上げた。
 
「あまみさま」
 
 溶け出さんばかりの瞳。否、本当に色が溶けて薄く見えるのは涙の膜に覆われているからだけではない。
 黒いまなこが雨雲を思わせる鈍色へ、そして混じり気のない白へと透き通っていく。
 
「みちる、そなた、目が」
「え?」
 
 天巳がそのまなこを覗き込もうと額を寄せたその時――まなこの奥で、泉が大きく波紋を描いた。
 小さな小さな稲光が瞬いて始まりを告げる。
 みちるの内から溢れる恩寵のみなもとがその堰を切って彼女自身を満たしていく。
 もう、とめどなく流れていた涙は止まっていた。
 ごしごしと擦り過ぎたせいで腫れた目元で天巳を見つめ返したみちるの両の瞳は、水底を映した(はなだ)色に揺れていた。
 
「目が……? どうか、したのですか」
「……いいや、何も。変わらず美しいまなこだと思って、な」
 
 天巳の瞳が眩しげに細められる。まっすぐに伝えられる手放しの賛辞はみちるの心にじんと染み入っては彼女を満たす慈雨となる。
 それでもやはりこそばゆいことには変わりはないのか、みちるはむずがるようにして天巳に縋りついて顔を隠した。その重みを愛おしく感じながらも天巳は険しい眼差しを空に向ける。
 降りしきる雨から成る結界が、やや薄らいでいく。射し込む薄日を背に従えて、宙に身を遊ばせる玄烏が静かに舞い降りた。
 
「あーあ。呪いが解けたか……これで名実ともに水底の花嫁になるわけだ」
 
 歌うようなそのひと言に、みちるはぎくりと身を強ばらせる。こぼされたその言葉の意味を問うために顔を上げたが、天巳の方がひと呼吸早かった。みちるの肩をしっかりと抱き寄せて玄烏をねめつける。
 
「我が妻を拐かした痴れ者、報いは受けてもらうぞ」
 
 薄らいでいるとはいえ、空を覆うのは大部分が黒雲だ。その中で威嚇する稲妻の明滅は天巳の意のままに無数の弓矢となって獲物を狙っている。
 退路を絶たれても尚笑みを崩さない玄烏は、あえて挑発するように羽根を大きく羽ばたかせた。
 
「はっ、堕ちた蛇が大口を叩くね」
 
 稲妻よりもゆっくりと、しかし勢いよく不自然なほどに太い光の柱が暗雲を割る。次々と現れるそれらは燦然と輝き、水面を穿つ槍となって雨の領域を侵していく。
 晴れゆく雲の彼方を稲妻が駆け、のたうつ龍となって咆哮を上げる。
 暗雲の下に射し込む光が意気揚々ときらめく翼を押し広げる。
 水底の龍と天空の烏は互いの喉笛を食い破らんばかりに爛々と目を光らせていた。相手の出方を眈眈と窺うその様に、みちるはごくりと息を呑む。
 わずかな動きすら水を通して伝わるのか、その振動で跳ねた雫が水面から飛び出した瞬間、じゅうと掻き消えた。寄る辺となる水面を失い、ただの雫となったものは為す術なく熱に我が身を奪われていく。
 
「あっはは! 集まっていないとたちまちこれか! 巣穴から顔を出したものから順に――だなんて、積木くずしみたいだな。儚い生命だ」
「水は流れ、上り、溶け込んだ先でまた降りてくる。永遠に巡る。儚く見えるのは貴様がそこしか見ぬからだ」
「永遠を語る前に今この現実に向き合いなよ。干物になるまでそこに突っ立っているつもりなら手伝ってやろうか!」
 
 しなやかに身を踊らせた玄烏が己の羽根を一枚摘む。中指と人差し指で挟んでひょいと飛ばせば、それは雨の膜を切り裂いた。
 しかし、それは天巳とみちるまでは届くことはなく、降りしきる雨に押し潰され足元に沈む。
 
「自慢の羽根が腐り落ちて沈む方が早いかもしれんぞ」
 
 口の端をわずかに上げた天巳がぐずぐずにふやけて溶けるそれを見送った。
 どちらも引かぬ攻防。天が裂けでもしない限り終わりの見えない予感に、みちるは意を決して声を上げた。
 
「ま……待って」
「みちる?」
 
 ぐいと天巳の腕の中でもがき、下ろしてくれるようにと頼む。支えてもらいつつ二本の足で立ち、玄烏を見上げた。
 雨が止んでいる。
 暗雲を貫く光も塗り込められて雲に歪な穴を穿っていた。
 
「おや、お姫様ごっこは終わりかい」
「呪いが解けたって……どういうこと」
「……ああ、きみのその目のことだよ。優しい優しい御母堂様がきみにかけた反吐の出るおまじない」
「……え」
 
 咄嗟に目元に触れるも、みちるには何が起きたのかわからない。母様が、私に?
 
「俺の力を利用して大したことをしでかしたもんだよ……と今となってはこう笑えるけど、それを知った時は腹が立ったね。けど、どうにかうまく利用できるはずだったんだ……呪いも祝いも表裏一体とはよく言ったものだね」
「あなた、母様の何を知ってるの。だって、母様は――」
 
 加護を逆に辿って、天巳を呪った咎で。
 そう口にする直前にみちるは背後の天巳を気にした。
 これは、天巳の知るところなのか。
 天巳はみちるという存在に触れたことで身を崩した。あまねくすべてを潤す存在から、みちるだけを満たす雨の主となった。それは運命が定めた彼を水底に沈め続ける枷であり、また彼自身が決めた己への戒めである。
 同じように、みちるも天巳と出会ったことで、何かに囚われているのだろうか。それを、母が知っていたとするならば。
 
「きみって本当にお人好しだよね。あれだけ酷い目に遭わされたのに、俺の言うことをそっくり信じ込んでいるのかい?」
 
 芝居がかった仕草で両手をひらりと泳がせた玄烏が鼻で笑う。荒波に放り出された小舟のように定まらぬ思考と、また玄烏のいいように翻弄されている自分に憤り、みちるはぎり、と唇を噛んだ。
 母様、貴方はどういうひとだったの。
 天巳様を呪うほどに、私にまじないをかけるほどに――あなたは。
 その答えを得るには、みちるが浚う思い出は浅く、そして幼すぎる。
 握りしめていた手のひらに鋭い痛みが走る。真っ白になるほど力を込めていた指先が、後ろから天巳に掬い上げられた。
 
「やめよ。これ以上、泉下の者を辱めるな。貴様も神の使いなら道理は心得ていよう」

 先程までの激情を静かに封じた天巳が、淡々と告げる。どれほどの水煙を上げた雨模様よりも厳かな威容に、玄烏が初めておとなしく引いた。
 
「みちる、我もそなたの母が成したことは知っている。この烏が言うこともまるきりの嘘偽りではない――だが」
 
 はっと振り返ったみちるの瞳が不安げに揺れていることに天巳は顔を曇らせる。すべてを伝えることがみちるのためになるのか――いまだ迷いの残る瞳を一度閉じて、みちるを落ち着かせるべく深く頷いた。
 
「そなたの母は誰も害してはおらぬ。本人から直接話を聞けぬのがそなたにとってもどかしいところではあろうが……我らは、知っておるゆえ。そなたが知りたいのなら話そう」
 
 みちるは天巳と玄烏を交互に見遣る。天巳はもちろん、玄烏すら頷いたことにみちるは目を丸くした。
 
「雨巫女であるきみの母親が俺に祈りをかけて加護を打ち消そうとしたのは本当だよ。それが元で生命を縮めたのもね。ただ、それはこいつへの呪いじゃない。みちる、きみを護るためさ」
「え……」
 
 驚きのあまり、玄烏の方へ踏み出そうとしたみちるを制したのは玄烏自身だった。その手のひらをみちるの方へ向けてぱっと開き、距離を取る。
 
「もう俺は今のきみに触れられないし、触れてはならない。まじないが解けたっていうのはそういうことだ。天巳」
 
 戸惑うみちるを飛び越えて天巳に視線を移した玄烏は顎でその先を促した。
 
「……わかった」
「じゃあそういうことだ。あーあ、みちるの霊力、気に入ってたんだけどな。やっぱり今からでもいいから上書きして俺のものにしちゃおうかな」
 
 ぐいと体を折り曲げてみちると視線の高さを合わせた玄烏が軽薄さをふんだんに纏って(うそぶ)いた。己で引いておいた境界線を勝手に飛び越えんばかりのふるまいに、天巳は素早くみちるを腕の中に抱き込んで隠す。
 
「冗談だよ……いつでも本気に変えられるけど」
「やはりそのよく動く(くちばし)に一度雷を落としておくべきか」
「おお怖い」

 大袈裟に身を震わせた玄烏は羽根で己を抱きしめてみせる。
 己を凝視するみちるに思わせぶりな視線を投げれば、天巳の腕の中でぎゅうと硬直する反応に笑うと、ぱっと背中の羽根を払って広げた。

「……最後にひとつ質問。きみに授けられた加護は何だい」
 
 玄烏に囚われていた時、幾度も問われた質問だった。こうして改めて突きつけられた問いの重さに、今のみちるなら振り回されずに答えられる。
 青と黒の狭間にいたあの時に感じていた、答えひとつで自分が変わってしまいそうな不安定な綱渡り。それに怯えていた自分の直感は正しかったのだと自覚すると同時に、答えはとうに決まっていたのだ。

 みちるは顔を上げる。金のまなざしを間近に見てももう迷わない。

「私は雨巫女です。この生命は水底から天を仰ぐ龍と――天巳様と共にあります」

 誓いの言葉が、一滴、大気を満たす。
 じんと染み渡ったそれが水面の波紋のようにみちるを中心として同心円状に広がっていく。
 どこまでも果てのないさざ波に運ばれていくその誓いを、待ち詫びていた雲が――泣いた。

 ぽつり。
 一滴。それを追いかけてぽつり。
 みちるの足元めがけて降ってきた雨粒たちが、順番に波紋を描いて彼女に寄り添っていく。
 見上げれば、雲は雷を宿す黒いものから祝福の雨たちを解き放つ白銀に煌めいていた。
 ばらばらと降り注ぐ祝福の雨。
 それらを受け止め、ほのかに輝く白い頬で笑ってみせるみちるは、紛うことなき雨巫女であった。

「……こんな降り方もするんだな」

 玄烏は背の辺りの羽根を撫でる。幾度も武器として燻らせてきた己のそれが、雨に濡れたことで不思議と熱を散じて癒されていく気がした。
 雨に任せるがままに羽根を下ろして雨を纏う。弾いた雨粒が彼の瞳に映り込んで同じ色に瞬いた。

「――これが雨巫女の祝福か。そうか……」

 くるりと向き直った玄烏は胸に手を当ててお辞儀をした。初めて出会った時にも見せた挨拶。顔を上げた時、彼はあの時と同じように、笑った。

「改めまして今代の雨巫女殿にはご機嫌麗しゅう。この粘着野郎に愛想を尽かしたらいつでも俺に乗り換えなよ。俺がちょっかいを出すよりきみから求めてくれた方が盛り上がるだろうから、ね」
「え」

 つうと彼の頬を伝ったひと筋の雫を指で払い、玄烏は外套を纏い直すようにその艶やかな羽根を風に乗せてひらめかせる。羽根を一枚だけ水面に残し、漆黒の烏は姿を消した。
「みちる様、帰ってきた!」
「天巳様、きっと大暴れ」
「烏と恋の鞘当て?」
「鞘がないから鱗と(くちばし)当て?」
「たいへーん」
 
 きゃっきゃと騒ぐ雫ふたりは口々に歌っては飛んで跳ねて回って止まらない。
 少し離れていただけなのに懐かしく思えるその仕草に目を細めながら、みちるは長椅子に座る。

「みちる様。はいどうぞ」
 
 恭しく盆を差し出したシノから杯を受け取れば、これも懐かしい柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。天巳が予め用意しておいてくれたのだろう。
「ありがとう」と礼を言ってシノの頭を撫でれば、すぐに恭しさは引っ込んで、見た目の年相応に甘えてくる。
 
「えへへ、みちる様のなでなで」
「みちる様、シュウにもなでなで!」

 片割れが労わってもらっているのを見て羨ましくなったのか、頭突きせんばかりに突進してきたシュウにも同じようにしてやれば、ふたりの雫は顔を見合わせふにゃりと笑う。
 
「なーでなで」
「みちる様のなーでなで」
「天巳様にはなーいしょ!」
「モチモチ妬きの天巳様にはなーいしょ!」

 天巳が聞いたらまた怒り出しそうな二重奏を響かせて、ふたりの雫は盛大に跳ねて姿を消した。

「モチモチ妬きって……ヤキモチのこと?」

 ひとり杯を傾け、香りにほうと息をついたみちるの問いに答える者は今いない。

 
 玄烏を見送ってから、天巳に連れられて水底の宮に戻ってきたみちるを迎えたのはもちろんシノとシュウだった。
「会いたかったあ」と涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を押しつけるように抱きつかれて、天巳の制止も振り切って抱きしめ返したみちるはあっという間にいろいろなものでぐしょ濡れになったのだが、後悔などするはずも無い。
 自分をここまで心配し、惜しんでくれる存在がここにいるのだ。この出来事のせいで帰宅後すぐに着替えと湯浴みをする羽目になったのだが、みちるがふたりを叱るはずもなかった。
 今、みちるはシノとシュウが用意してくれていた着物に着替えている。白地に藍色で染め抜かれた流線が雨粒の軌跡を描く柄だ。
 瞳の色とも良く似合うと言われて改めて鏡を見たみちるは、今も尚、目の前に映るものが信じられずにいる。
 机に伏せてあった手鏡を手に取る。鏡の向こうで見つめ返す己の両目は幾度見つめても変わらぬ、鮮やかな(はなだ)色だ。
 雨巫女として半端な加護しか受けられぬ能無しの証であった、青と黒の瞳。それが今や凪いだ水面を映した色となって彼女を彩っているのだ。
 しかし――みちるは何処か浮かぬ表情で手鏡を伏せた。
 
「具合でも悪いのか」
 
 かけられた声にみちるはぱっと顔を上げて振り返る。同じく湯浴みを済ませてきた天巳が羽織の紐を結わえながら部屋に入ってきたのだ。
 シノが用意しておいた杯で軽く喉を潤した天巳はみちるの隣に座る。無言で水を向けられ、みちるはゆっくりと口を開いた。
 
「いいえ、ただ……」
「ただ?」
「この瞳のことです」
「……完璧な加護を受け継いだ雨巫女である証だろう。何が気に食わぬ」
 
 天巳はぴくりと眉を吊り上げる。
 その視線の険しさに気づいていないのか、みちるはふるふると首を振って俯いた。
 
「天巳様と、お揃いではなくなってしまいました」
「…………は」
 
 流石の天巳も二の句が継げずに固まった。
 
「初めてお会いした時、この方も同じ瞳をお持ちなのだと勇気づけられるような……苦しさを分かち合えるといいますか、そういった親近感が湧いたのです。なのに、私だけこのように変わってしまったのが寂しくて、その」
 
 天巳の相槌が消えたことに気づいたみちるは、はっと顔を上げて己の発言を掻き消さんばかりに両手を振る。
 
「す、すみません! 勝手に親近感を抱いたり寂しくなったり……おめでたいことなのだから、もっと明るくしていなくてはなりませんね! シノちゃんとシュウちゃんのお手伝いでもして参りま……」
 
 今度はみちるが固まる番だった。
 天巳が、彼女の肩を抱き寄せた。
 背を掻き抱き、みちるの薄い肩に顔を埋める。ぐりぐりと頭を押しつける様は先程のシノとシュウにも通じるところがある――などと言ったならたちまち機嫌を損ねそうだ。
 
「あ、天巳様……」
「すまぬ、顔を見るな」
 
 天巳の髪がくすぐったくてみちるが身を捩ると、天巳はそれを押さえ込む。肌に遊ぶ細かな刺激をうまく逃がせぬままみちるが浅い呼吸を繰り返すと、その吐息に反応した天巳がますますみちるを抱え込んだ。
 ここに座る時、いつもそうしてきたようにみちるを己の膝に抱き上げる。裾が割れて足が露わになったみちるが慌てて直そうとするのも構わずに強く抱き寄せた。
 
「あ、天巳、さまっ。あ、あの、これは……ちょっと」
「……どこまで我を喜ばせたら気が済むのだ」
 
 懸命に膝を合わせていたみちるがその声の弱々しさにはたと動きを止める。
 
「我に見初められたがために惨い仕打ちを受け、けしからぬ烏に目をつけられ……そなたには幾度謝っても足らぬというに、なにゆえ」
 
 くぐもった呟きに、みちるは彼の背にそっと腕を回す。なめらかな髪をひと筋指を絡ませ、いつも天巳がそうしてくれているように梳いた。
 
「……天巳様が、私を大切に想ってくださるから。あの時、私を絶望の縁から救い上げてくださったのは天巳様です。確かに辛い思いをたくさんしてきました。大切な人を失いました。けれど……」
 
 みちるは指に残る髪ごと天巳の背を抱きしめる。己の腕では覆えぬ広い背中を精一杯包み込もうとする彼女の献身に、天巳は静かに睫毛を揺らす。
 
「天巳様が、寄り添ってくださいました。私が寂しくないように、シノちゃんとシュウちゃんを傍においてくださいました。一度は生を諦めた雨を呼べない私がこうして生きているのは天巳様のおかげです」
 
 みちるはそっと背を丸めて天巳に顔を寄せる。額に下りた前髪をそっと掬ってこめかみに唇を寄せた。
 
「私は貴方様だけの雨巫女です」
 
 そう告げてはにかんだみちるの頬に、天巳はそっと手を伸ばす。包み込むように触れた頬に、自分がされたようにこめかみに、そして儀式めいたそれは順を追って額に。
 静かに降るくちづけの雨を、みちるは目を閉じて受け入れる。
 そっと目を開けたふたりは互いの瞳に映る己を見る。
 愛おしげに蕩ける瞳の温度は変わらずとも、それを纏う色彩は確かに違ってしまった。やはりそれを残念に思うのか悲しげに笑うみちるの手を引いて、天巳は部屋の外に連れ出した。
「天巳様……ここは」
 
 屋敷を出て、渡り廊下に入る。ここを使えば雨に濡れることなく外を歩けるのだ。風呂上がりのみちるを気にした天巳の思いやりに気づかぬみちるではない。手を引く天巳に応えてそっと腕に寄り添えば、天巳はみちるの肩に手を添えて歩調を緩めた。
 渡り廊下に沿って歩くと、ちょうどぐるりと庭全体を迂回する形になる。その終点にひっそりと佇む祠に至ると、天巳は中から両手で抱えるほどの大きさをした水盆を取り出した。
 
「我が天上から初めて降りてきた場所だ。ここの水は今に至るまで、映してきたすべてを記憶している」
 
 天巳が小声で何かを呟くと風もないのに水面が揺れる。盆の底と同じ青鈍色だったそれがみるみる薄らいで――覗き込んでいたみちるは咄嗟に口元を覆った。
 
「母様」
 
 記憶の中だけの母が、水底にいる。
 波紋に揺れる面影を母親だと確信を持てたのはいつか神楽殿で舞った時と同じ装束だからだ。そして、手にはあの神剣。恭しく捧げ持ったそれに語りかけているらしい。時折咳き込むせいでぶれる体が忙しく動く唇と共に懐から取り出したものにみちるは見覚えがあった。
 
「玄烏の、羽根……」

 どくん、とみちるの胸が大きく脈打つ。確かに、母が雨巫女でありながら玄烏と通じていた証だった。みちるが胸の前で手を握って見つめる中も、母は何らかの作法に則り手印を結んでいる。そして鞘からすらりと抜け出でた神剣で――撫でるように、一閃。
 羽根の漆黒を吸い込むように染まった刃だが、それも一瞬のことですぐに元の色を取り戻した。
 今のが、玄烏の力を借りて母が成したまじない――なのか。みちるが天巳を見遣ればその意図を汲んで天巳も頷いた。
 
「あの神剣は雨巫女と雨龍を繋ぐもの。そなたの母がそれに干渉したことでこうして水に記憶されている」
「母は……雨巫女としての使命を違えてまで、一体、何を」
 
 かつて、玄烏はそれを天巳への呪いだと言い、最後にはみちるへのまじないと言い換えた。そしてどちらも間違いではないと言う。
 禅問答にも似た謎かけにみちるは頭を悩ませるが、手がかりが少なすぎる中でそう簡単に解けるわけも無い。
 やがて、母は懐から折り畳まれた紙片を取り出す。ばらばらと開いていくそれは経を転読する手つきに似ていた。
 
「あれには……何が書いてあるの」
「しばし待て」
 
 そして、母は再び折り畳んだそれを、泉に浮かべた。急速に水を吸っていくそれは沈む前に水面に四散していく。墨がわずかに水面で黒く滲んだが、染めるには至らずに文字ごと水に溶けていく。
 
「! 消えてしまいます」
「案ずるな。言っただろう。水面に映るすべてを記憶していると」
 
 天巳に応じるように、水面が揺れる。母の姿は波紋と共に消え、水盆の底から黒い煙が細切れに立ち上って形を成していく。懸命に目を凝らすみちるは、その正体に思い至って目を見開いた。
 
「“あ……め”、“申し上げ”……? 文字……? これは今、水に溶けていった文字なのですか!」
 
 天巳は頷いてみちるに水盆から目を離さないように促す。途切れ途切れではあるものの、文字の羅列を追っていけば意味を成すものが多い。
 泡のように底から湧き上がっては水面に至って儚く散る文字の群れを、みちるは懸命に追いかける。
 ひと文字たりとも逃さぬようにと身を乗り出すみちるが崩れ落ちぬようにと、天巳はさりげなく背を支えながら湧きいづる文字の波を共に泳ぐ。
 
「我……むすめ、みちる……は、霊力のいと高きこと甚だし」
「御方に誕生の折より見初められしは、喜ばしきことなれど」
「あふるるばかりの余りたる御……加護、()しからぬ輩に籠絡されるべからず」
 
 読み上げていくみちるの脳裏に分家の面々が浮かぶ。美沙とその父を筆頭とした彼らがこの頃から妙な動きを見せていたことを、母は知っていたのだろう。
 
「愚かな逆心……且つ親心なれど、此処に於いて水の加護を堰き止めることして娘への護りとす」
「娘の血を持って雨龍の御方との繋がりを再び結び」
「娘が心より涙を捧げる時、この封は破るる」
「欠けたる加護を持て余す娘とて慈しみくださるならば、雨龍の御方には花嫁としてお迎えくださりますよう」
「願わくば……みちるが捧げる涙をお受け取りになるのが……雨龍の御方で、ありますことを」

 最後の一筆が盆の底から湧き上がる。それに手を伸ばしたみちるが天巳の制止より一瞬早く水面に触れた。
 波紋ごと弾けた文字がみちるの手の中をすり抜けていく。
 
「あ」
 
 もう一度覗き込んだ水盆の底。そこに映るのは手紙を捧げて空を見上げる母だった。
 水面に映った記憶と、水底を覗く今が、ひと呼吸の間だけ交差した。
 
「   」
 
 咄嗟に呼びかけたみちるの声を吸い込むように水面が青鈍色に沈んでいく。
 凪いだ水面は鏡のように呆然とへたり込むみちるを映すばかりだった。
 
「……みちる」
 
 天巳が呼びかけても答えはない。天巳はそっとみちるを抱き上げて祠を離れ東屋に入った。長椅子に腰掛けた頃にみちるはゆっくり顔を上げる。
 
「……玄烏の言った通りでした。天巳様への呪いであり私へのおまじない。天巳様は……これを、ご存知だったのですね」
「……ああ。そなたにしか解けぬまじないだった。そしてそなたが知らずして解かねばならぬ呪い。だが既に、そなたが解いたのだよ、みちる。その涙で」
 
 天巳はそっとみちるの頬に触れる。指を濡らす雫は雨にはないぬくもりを帯びていた。
 
「そなたが類いまれな霊力の持ち主であったことは僥倖であると同時に、数多の禍を齎す可能性があった。だからこそ母君はそれを封じることで、そなたにとってのまことの幸せをふるいにかけたのだろう」
「父も……何も言いませんでした。おそらく、母が口止めしていたのでしょうか」
「そうだな。下手に明かしてしまっては却って拗れて禍根を残す元だ。そなたの父君は賢明だった」
 
 ぽつりぽつりと思い出を語るみちるがゆっくりと体の力を抜いて天巳に身を預ける。肩に感じるその重みを愛おしげに抱き寄せながら、天巳は幾度も頷いた。
 
「そなたは愛されていたのだ。もう能無し雨巫女などと蔑まれる謂れはないし、己を卑下する必要もない。雨の祝福を受ける我が妻……そなたが欠いてきたものすべて、我が満たそう」
 
 みちるを満たす天巳の腕は揺りかごのようだ。
 幼子を寝かしつけるような、それでいて睦言を囁くような甘い調べはみちるの瞼をも蕩けさせる。
 心地よい声音で降り注ぐ雨の籠に抱かれて、みちるはそっと目を閉じた。
「……あの、天巳様。そのくらいで、どうか……」
「何を言う。足りぬくらいだ」
「ですが、その、これでは私……」
 
 ――溺れてしまいそうです。
 
 くぐもったみちるの声が今にも泣き出しそうだった。頼りなげに空を掻く腕を掴んで引き寄せれば、みちるは天巳の腕の中で微笑む。花がほころぶような笑みだ。
 
「……花も霞むな」
「え?」
「いや、こちらの話だ。それより溺れるとは些か言い過ぎだろう」
「何を仰いますか! 見てください、このお着物の数! 衣桁で迷路が作れそうですし反物は引き出しから溢れて本当に溺れるかと思ったのですよ!」
 
 珍しく膨れ面のみちるが指した先には、彼女の言う通り、部屋じゅうが布地で溢れかえっていた。
 衣桁に掛けられた着物は色も柄も様々だ。目につく殆どのものには波や流線を描かれているが、水底に居るみちるを退屈させないようにと慮ってか、野山に咲く草花をあしらったものも数多い。可愛らしい兎や猫が飛び跳ねているものもあり、天巳の意外な遊び心も覗かせる品揃えとなっている。
 そう。これらすべては、天巳がみちるのために用意させた衣装なのだ。
 
「溺れるなど大袈裟だな。考えてみろ。この部屋に水を満たすとしたらまだ天井に着くまでの余白は山とある。つまり、布地が畳から天井まで埋まらねばそなたは溺れぬというわけだ。安心しろ」
「水を基準にされましても……」
 
 淡々と謎の理論を説く天巳に脱力したみちるは、眉を八の字にして天井を仰ぎ見た。確かに、まだまだ余裕はありそうだ。
 
 名実ともに天巳の雨巫女となったみちるは、天巳に輿入れすることになった。といってもみちるは天涯孤独の身であり、天巳も似たようなものである。家を背負っての婚姻とはまったく異なる縁組だ。
 極端な話、互いに挨拶ひとつで済むような話ではあるのだが、天巳は離れていた十六年分を埋め合わせしようとしているらしい。ひっきりなしにやってくる贈り物がみちるの元に押し寄せていた。
 この部屋に収められたのは衣装であり、身につける小物は別の部屋を占拠している。
 他にも年頃の少女にとって慰めとなるような手毬や貝合わせなどの遊び道具を収める部屋もあり、知見を得るための書物や娯楽のための草子(そうし)に至っては、別に書庫を建てて収納することになってしまった。
 元々天巳がこの水底の宮に備えていた書物もあるからして、みちるは一生分の読み物に困らなさそうである。
 
「あの、天巳様? どうやってあれらを用意されたのでしょうか」
 
 衣装部屋を出て、別の棟に渡りながらぽつりぽつりと言葉を交わす。さしたる距離ではないが、この雨の降りしきる宮では傘が必須だ。天巳から贈られた傘をそっと開けば、みちるの頭上には小さな花畑が広がった。わあ、と感嘆を漏らしたが、子どもっぼいふるまいだったかもしれないと後になって照れくさくなる。気を取り直して話を繋ぐために持ち出したのは、怒涛の贈り物攻勢の最中には圧倒されすぎて聞くことすらできなかった問いである。軽い気持ちで尋ねたみちるに、天巳も同じく事もなげに答えた。
 
「雫たちの手によるものだ。織るもの、拵えるもの、写すもの……それぞれ得手がある。婚儀までに間に合うよう指示してある」
 
 その答えに、みちるの血の気がさっと引いた。雫に任せてあると言うが、雫一滴あたりの仕事量がどれほどのものかみちるにはわからない。蒸発するまで働かせるなど非道なことを強いているのではと、かつての自分や父に課された苦役を思い出し、震える手で天巳の腕にしがみついた。
 
「あ、あの……私などのために、雫さんたちに無理をさせないでください……ね? もう充分なものを頂いておりますので、これ以上は罰が当たります」
「罰? おかしなことを言う。あれほどの献身、無碍にする方が余程無体ぞ。そなたも雫の主となるのだから眷属の使役には慣れておけ」
 
 しかし、天巳の答えは更にみちるを混乱させた。自分が、雫の主になるというのか。
 ぱちぱちと目を瞬くみちるに、天巳は苦笑して頭を撫でる。恋人を愛おしむというより、幼子を慈しむ手つきだ。
 
「そなたは雨巫女であり、かつ雨龍たる我が妻となる。この水底の宮の水はすべて、そなたと我のものだ」
「それは……責任重大です、ね。まずはお顔とお名前を覚えるところから始めませんと」
 
 ごくりと喉を鳴らしたみちるが大真面目に頷くと、天巳はふっと笑って視線を外した。
 
「大半は仮初の姿で充分だ。名前などつけたらうるさいだけだぞ。シノとシュウを見てみろ」
「でも、シノちゃんとシュウちゃんにお友達ができたら、きっと賑やかで楽しいと思います」
「あれ以上賑やかにするのか……」
 
 今でもあの雫ふたりを持て余し気味な天巳は想像してうんざりしたようだが、みちるは傘を持つ手を打って喜んでいる。
 そんな彼女を橋のたもとまで連れてくると、天巳は一度足を止めた。
 
「……あの神剣は、浄めて我が預かっている。まじないが解けた今、本来の役割を終えた」
「……はい」
 
 雨龍と雨巫女を繋ぐ神剣。一度はみちるの母の手によって漆黒に染まったことで雨龍との繋がりを断ったが、父は何も言わず奥宮に留めおき続けた。それが意図せずとはいえみちるの血を受けたことで雨龍を呼ぶよすがになったとは、これも奇しき縁の為せる技なのか。
 天巳はゆっくり橋を渡り始める。太鼓橋の橋桁は角度が急だ。みちるに手を差し伸べれば、戸惑いなく手が握り返された。
 
「これからはあれに新たな役割を与えようと思う」
「新たな、とは」
「そなたの――花嫁の懐剣だ。禍を断ち、未来を切り拓く役目を担うにはうってつけだろう。あの神剣には、そなたの両親の真心が込められている。肌身離さずにいるといい」
「……っ、は……い、ありがとう、ございます……!」
 
 一度、涙を流してから、みちるの涙腺はすぐに熱く緩み、ほたほたと頬を濡らしてばかりだ。太鼓橋の頂に至って足を止め、すんと鼻を鳴らしながらなんとかしゃくりあげるのを抑え込んでいると、天巳は懐紙を取り出した。素直にそれを受け取ったみちるが顔を背けて身嗜みを整え直す。
 
「そう泣くな。そなたの涙で池ができたとあっては我の至らなさを喧伝しているようではないか」
「あ、天巳様は悪くないです……」
「いやいや、これからはそなたの加護に染められるのを待つ無力な雨龍だからな。そう泣かれては伏して頭を垂れるしかあるまい」
 
 ――加護に、染められる?
 
 みちるはほんのり赤らんだ目で天巳を見上げる。天巳は軽く頷いて言葉を続けた。
「知っての通り、我が瞳は加護を捨てたことでこのようになった。しかし、霊力に満ちたそなたと結ばれれば、本来の色に戻る日も遠くなかろう」
「それ……は……また、天巳様と、お揃いになれる……ということですか……?」
 
 濡れてくしゃくしゃになった懐紙を握り込みながら、みちるはひと言ひと言、確かめるように問いただす。あまりに前のめりな姿勢に悪戯心の湧いた天巳はあえてそっけなく「そうだな」とだけ呟いた。
 するとまたひと粒、澄んだ熱い雫がみちるから溢れ出ずる。それを慰めるように雨はより細く、しとやかに傘を撫でては静かに消える。
 
「まったく……こうも泣かせていたら、そなたの両親にまた引き離されそうだ」
「……それなら、もう二度と……離れぬように、手を繋いでいてくださりませ」
 
 みちるが傘の下でそっと天巳の袂を引く。天巳は己の傘を手放すと、みちるのそれも傾けて、何にも遮られない彼女を強く抱きしめた。
 
「……っ、あ、天巳、様」
「手を繋ぐだけとは欲がない。我はそなたが丸ごと欲しくてたまらないというのに」
「わ、私も……天巳様が」
 
 ほしいです、と言いきることができずに恥じらうみちるの唇を、天巳の親指が撫でて誘う。
 
「まだ言えぬか。構わぬ。水が染み入りほころぶ花を待つ愉しみもあろう」
 
 そのまま己の目の高さに抱き上げたみちるに、天巳はそっと顔を近づける。思わせぶりな目配せに頬を染めつつ、みちるは目を閉じた。
 雨の味がするくちづけを交わし合う。
 ふたりの胸に満ちていく想いが水底に降り積もる。
 足元に咲いた傘の花が、ふたりを寿ぐように咲いていた。

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