水面に叩きつけられることを覚悟していたみちるの体が優しく抱き上げられる。
一滴、また一滴と降ってきた冷たい雫がみちるの腕に丁寧に触れては傷口を洗い流していく。
すっかり綺麗になった腕を確認して――天巳は、抱き上げたみちるに頬ずりした。
「よく戻った……みちる」
降りしきる雨の繭の中、みちるはそっと目を開ける。
青と黒の瞳が、互いに微笑んだ。
「あまみ、さま……」
みちるは天巳に手を伸ばす。その手を優しく受け止めた天巳は己の輪郭を確かめさせるように頬へと導いた。
「ここに居る」
「天巳様、ご無事で良かった……」
「こんな目に遭った後に我の心配か」
「だって、天巳様に何かあったら」
「案ずるな」
そう言い聞かせれば、みちるの頬を淡い雫が伝っていく。
雨ではない。
涙だ。
はらりはらりと。花がほころぶように。
みちるの中で逃げ場を探しながらも渦を巻くだけだった哀しみが、安堵が、愛おしさが、淀みから解放されて頬を流れる。
「みちる、そなた……泣いて、いるのか」
「……え?」
夢うつつの瞳をゆっくり瞬いて、みちるは己の頬に触れる。肌を濡らすあたたかな水。
泉の飛沫で濡れたあの時は、泣けぬ己への天巳からの無言の、そして精一杯の激励だった。しかしこれは――
「わたしの、涙?」
幾度目尻を拭っても指先を濡らすそれを涙だと――己が泣いているのだとそう認識した途端、みちるはくしゃりと顔を歪ませた。
鼻の頭がつんと痛い。目の奥で火が灯ったように熱い。呼吸が浅くなる。視界が白く朧気になる。
泣かずにいた時のほうが余程世界は明瞭だった。
何にも揺らがぬ、揺らげぬ自分。
己のうちだけですべて終わらせて、飲み込んで、前を向く。
そうするしかないと、それ以外に道は無いのだと、言い聞かせては目を閉じてきた。
しかし、これは――
瞬きするたびに涙の粒が弾ける。しゃくりあげるたびに体の中で気が巡る。
みちるを形作るものが、外からも内からも瑞々しく波となって溢れ出す。
ほたほたと拭いきれぬそれを幼子に戻ったように手の甲や手のひらで受け止めつつも、それを恥じらったみちるが首をふるりと振って顔を上げた。
「あまみさま」
溶け出さんばかりの瞳。否、本当に色が溶けて薄く見えるのは涙の膜に覆われているからだけではない。
黒いまなこが雨雲を思わせる鈍色へ、そして混じり気のない白へと透き通っていく。
「みちる、そなた、目が」
「え?」
天巳がそのまなこを覗き込もうと額を寄せたその時――まなこの奥で、泉が大きく波紋を描いた。
小さな小さな稲光が瞬いて始まりを告げる。
みちるの内から溢れる恩寵のみなもとがその堰を切って彼女自身を満たしていく。
もう、とめどなく流れていた涙は止まっていた。
ごしごしと擦り過ぎたせいで腫れた目元で天巳を見つめ返したみちるの両の瞳は、水底を映した縹色に揺れていた。
「目が……? どうか、したのですか」
「……いいや、何も。変わらず美しいまなこだと思って、な」
天巳の瞳が眩しげに細められる。まっすぐに伝えられる手放しの賛辞はみちるの心にじんと染み入っては彼女を満たす慈雨となる。
それでもやはりこそばゆいことには変わりはないのか、みちるはむずがるようにして天巳に縋りついて顔を隠した。その重みを愛おしく感じながらも天巳は険しい眼差しを空に向ける。
降りしきる雨から成る結界が、やや薄らいでいく。射し込む薄日を背に従えて、宙に身を遊ばせる玄烏が静かに舞い降りた。
「あーあ。呪いが解けたか……これで名実ともに水底の花嫁になるわけだ」
歌うようなそのひと言に、みちるはぎくりと身を強ばらせる。こぼされたその言葉の意味を問うために顔を上げたが、天巳の方がひと呼吸早かった。みちるの肩をしっかりと抱き寄せて玄烏をねめつける。
「我が妻を拐かした痴れ者、報いは受けてもらうぞ」
薄らいでいるとはいえ、空を覆うのは大部分が黒雲だ。その中で威嚇する稲妻の明滅は天巳の意のままに無数の弓矢となって獲物を狙っている。
退路を絶たれても尚笑みを崩さない玄烏は、あえて挑発するように羽根を大きく羽ばたかせた。
「はっ、堕ちた蛇が大口を叩くね」
稲妻よりもゆっくりと、しかし勢いよく不自然なほどに太い光の柱が暗雲を割る。次々と現れるそれらは燦然と輝き、水面を穿つ槍となって雨の領域を侵していく。
晴れゆく雲の彼方を稲妻が駆け、のたうつ龍となって咆哮を上げる。
暗雲の下に射し込む光が意気揚々ときらめく翼を押し広げる。
水底の龍と天空の烏は互いの喉笛を食い破らんばかりに爛々と目を光らせていた。相手の出方を眈眈と窺うその様に、みちるはごくりと息を呑む。
わずかな動きすら水を通して伝わるのか、その振動で跳ねた雫が水面から飛び出した瞬間、じゅうと掻き消えた。寄る辺となる水面を失い、ただの雫となったものは為す術なく熱に我が身を奪われていく。
「あっはは! 集まっていないとたちまちこれか! 巣穴から顔を出したものから順に――だなんて、積木くずしみたいだな。儚い生命だ」
「水は流れ、上り、溶け込んだ先でまた降りてくる。永遠に巡る。儚く見えるのは貴様がそこしか見ぬからだ」
「永遠を語る前に今この現実に向き合いなよ。干物になるまでそこに突っ立っているつもりなら手伝ってやろうか!」
しなやかに身を踊らせた玄烏が己の羽根を一枚摘む。中指と人差し指で挟んでひょいと飛ばせば、それは雨の膜を切り裂いた。
しかし、それは天巳とみちるまでは届くことはなく、降りしきる雨に押し潰され足元に沈む。
「自慢の羽根が腐り落ちて沈む方が早いかもしれんぞ」
口の端をわずかに上げた天巳がぐずぐずにふやけて溶けるそれを見送った。
どちらも引かぬ攻防。天が裂けでもしない限り終わりの見えない予感に、みちるは意を決して声を上げた。
「ま……待って」
「みちる?」
ぐいと天巳の腕の中でもがき、下ろしてくれるようにと頼む。支えてもらいつつ二本の足で立ち、玄烏を見上げた。
雨が止んでいる。
暗雲を貫く光も塗り込められて雲に歪な穴を穿っていた。
「おや、お姫様ごっこは終わりかい」
「呪いが解けたって……どういうこと」
「……ああ、きみのその目のことだよ。優しい優しい御母堂様がきみにかけた反吐の出るおまじない」
「……え」
咄嗟に目元に触れるも、みちるには何が起きたのかわからない。母様が、私に?
「俺の力を利用して大したことをしでかしたもんだよ……と今となってはこう笑えるけど、それを知った時は腹が立ったね。けど、どうにかうまく利用できるはずだったんだ……呪いも祝いも表裏一体とはよく言ったものだね」
「あなた、母様の何を知ってるの。だって、母様は――」
加護を逆に辿って、天巳を呪った咎で。
そう口にする直前にみちるは背後の天巳を気にした。
これは、天巳の知るところなのか。
天巳はみちるという存在に触れたことで身を崩した。あまねくすべてを潤す存在から、みちるだけを満たす雨の主となった。それは運命が定めた彼を水底に沈め続ける枷であり、また彼自身が決めた己への戒めである。
同じように、みちるも天巳と出会ったことで、何かに囚われているのだろうか。それを、母が知っていたとするならば。
「きみって本当にお人好しだよね。あれだけ酷い目に遭わされたのに、俺の言うことをそっくり信じ込んでいるのかい?」
芝居がかった仕草で両手をひらりと泳がせた玄烏が鼻で笑う。荒波に放り出された小舟のように定まらぬ思考と、また玄烏のいいように翻弄されている自分に憤り、みちるはぎり、と唇を噛んだ。
母様、貴方はどういうひとだったの。
天巳様を呪うほどに、私にまじないをかけるほどに――あなたは。
その答えを得るには、みちるが浚う思い出は浅く、そして幼すぎる。
握りしめていた手のひらに鋭い痛みが走る。真っ白になるほど力を込めていた指先が、後ろから天巳に掬い上げられた。
「やめよ。これ以上、泉下の者を辱めるな。貴様も神の使いなら道理は心得ていよう」
先程までの激情を静かに封じた天巳が、淡々と告げる。どれほどの水煙を上げた雨模様よりも厳かな威容に、玄烏が初めておとなしく引いた。
「みちる、我もそなたの母が成したことは知っている。この烏が言うこともまるきりの嘘偽りではない――だが」
はっと振り返ったみちるの瞳が不安げに揺れていることに天巳は顔を曇らせる。すべてを伝えることがみちるのためになるのか――いまだ迷いの残る瞳を一度閉じて、みちるを落ち着かせるべく深く頷いた。
「そなたの母は誰も害してはおらぬ。本人から直接話を聞けぬのがそなたにとってもどかしいところではあろうが……我らは、知っておるゆえ。そなたが知りたいのなら話そう」
みちるは天巳と玄烏を交互に見遣る。天巳はもちろん、玄烏すら頷いたことにみちるは目を丸くした。
「雨巫女であるきみの母親が俺に祈りをかけて加護を打ち消そうとしたのは本当だよ。それが元で生命を縮めたのもね。ただ、それはこいつへの呪いじゃない。みちる、きみを護るためさ」
「え……」
驚きのあまり、玄烏の方へ踏み出そうとしたみちるを制したのは玄烏自身だった。その手のひらをみちるの方へ向けてぱっと開き、距離を取る。
「もう俺は今のきみに触れられないし、触れてはならない。まじないが解けたっていうのはそういうことだ。天巳」
戸惑うみちるを飛び越えて天巳に視線を移した玄烏は顎でその先を促した。
「……わかった」
「じゃあそういうことだ。あーあ、みちるの霊力、気に入ってたんだけどな。やっぱり今からでもいいから上書きして俺のものにしちゃおうかな」
ぐいと体を折り曲げてみちると視線の高さを合わせた玄烏が軽薄さをふんだんに纏って嘯いた。己で引いておいた境界線を勝手に飛び越えんばかりのふるまいに、天巳は素早くみちるを腕の中に抱き込んで隠す。
「冗談だよ……いつでも本気に変えられるけど」
「やはりそのよく動く嘴に一度雷を落としておくべきか」
「おお怖い」
大袈裟に身を震わせた玄烏は羽根で己を抱きしめてみせる。
己を凝視するみちるに思わせぶりな視線を投げれば、天巳の腕の中でぎゅうと硬直する反応に笑うと、ぱっと背中の羽根を払って広げた。
「……最後にひとつ質問。きみに授けられた加護は何だい」
玄烏に囚われていた時、幾度も問われた質問だった。こうして改めて突きつけられた問いの重さに、今のみちるなら振り回されずに答えられる。
青と黒の狭間にいたあの時に感じていた、答えひとつで自分が変わってしまいそうな不安定な綱渡り。それに怯えていた自分の直感は正しかったのだと自覚すると同時に、答えはとうに決まっていたのだ。
みちるは顔を上げる。金のまなざしを間近に見てももう迷わない。
「私は雨巫女です。この生命は水底から天を仰ぐ龍と――天巳様と共にあります」
誓いの言葉が、一滴、大気を満たす。
じんと染み渡ったそれが水面の波紋のようにみちるを中心として同心円状に広がっていく。
どこまでも果てのないさざ波に運ばれていくその誓いを、待ち詫びていた雲が――泣いた。
ぽつり。
一滴。それを追いかけてぽつり。
みちるの足元めがけて降ってきた雨粒たちが、順番に波紋を描いて彼女に寄り添っていく。
見上げれば、雲は雷を宿す黒いものから祝福の雨たちを解き放つ白銀に煌めいていた。
ばらばらと降り注ぐ祝福の雨。
それらを受け止め、ほのかに輝く白い頬で笑ってみせるみちるは、紛うことなき雨巫女であった。
「……こんな降り方もするんだな」
玄烏は背の辺りの羽根を撫でる。幾度も武器として燻らせてきた己のそれが、雨に濡れたことで不思議と熱を散じて癒されていく気がした。
雨に任せるがままに羽根を下ろして雨を纏う。弾いた雨粒が彼の瞳に映り込んで同じ色に瞬いた。
「――これが雨巫女の祝福か。そうか……」
くるりと向き直った玄烏は胸に手を当ててお辞儀をした。初めて出会った時にも見せた挨拶。顔を上げた時、彼はあの時と同じように、笑った。
「改めまして今代の雨巫女殿にはご機嫌麗しゅう。この粘着野郎に愛想を尽かしたらいつでも俺に乗り換えなよ。俺がちょっかいを出すよりきみから求めてくれた方が盛り上がるだろうから、ね」
「え」
つうと彼の頬を伝ったひと筋の雫を指で払い、玄烏は外套を纏い直すようにその艶やかな羽根を風に乗せてひらめかせる。羽根を一枚だけ水面に残し、漆黒の烏は姿を消した。
一滴、また一滴と降ってきた冷たい雫がみちるの腕に丁寧に触れては傷口を洗い流していく。
すっかり綺麗になった腕を確認して――天巳は、抱き上げたみちるに頬ずりした。
「よく戻った……みちる」
降りしきる雨の繭の中、みちるはそっと目を開ける。
青と黒の瞳が、互いに微笑んだ。
「あまみ、さま……」
みちるは天巳に手を伸ばす。その手を優しく受け止めた天巳は己の輪郭を確かめさせるように頬へと導いた。
「ここに居る」
「天巳様、ご無事で良かった……」
「こんな目に遭った後に我の心配か」
「だって、天巳様に何かあったら」
「案ずるな」
そう言い聞かせれば、みちるの頬を淡い雫が伝っていく。
雨ではない。
涙だ。
はらりはらりと。花がほころぶように。
みちるの中で逃げ場を探しながらも渦を巻くだけだった哀しみが、安堵が、愛おしさが、淀みから解放されて頬を流れる。
「みちる、そなた……泣いて、いるのか」
「……え?」
夢うつつの瞳をゆっくり瞬いて、みちるは己の頬に触れる。肌を濡らすあたたかな水。
泉の飛沫で濡れたあの時は、泣けぬ己への天巳からの無言の、そして精一杯の激励だった。しかしこれは――
「わたしの、涙?」
幾度目尻を拭っても指先を濡らすそれを涙だと――己が泣いているのだとそう認識した途端、みちるはくしゃりと顔を歪ませた。
鼻の頭がつんと痛い。目の奥で火が灯ったように熱い。呼吸が浅くなる。視界が白く朧気になる。
泣かずにいた時のほうが余程世界は明瞭だった。
何にも揺らがぬ、揺らげぬ自分。
己のうちだけですべて終わらせて、飲み込んで、前を向く。
そうするしかないと、それ以外に道は無いのだと、言い聞かせては目を閉じてきた。
しかし、これは――
瞬きするたびに涙の粒が弾ける。しゃくりあげるたびに体の中で気が巡る。
みちるを形作るものが、外からも内からも瑞々しく波となって溢れ出す。
ほたほたと拭いきれぬそれを幼子に戻ったように手の甲や手のひらで受け止めつつも、それを恥じらったみちるが首をふるりと振って顔を上げた。
「あまみさま」
溶け出さんばかりの瞳。否、本当に色が溶けて薄く見えるのは涙の膜に覆われているからだけではない。
黒いまなこが雨雲を思わせる鈍色へ、そして混じり気のない白へと透き通っていく。
「みちる、そなた、目が」
「え?」
天巳がそのまなこを覗き込もうと額を寄せたその時――まなこの奥で、泉が大きく波紋を描いた。
小さな小さな稲光が瞬いて始まりを告げる。
みちるの内から溢れる恩寵のみなもとがその堰を切って彼女自身を満たしていく。
もう、とめどなく流れていた涙は止まっていた。
ごしごしと擦り過ぎたせいで腫れた目元で天巳を見つめ返したみちるの両の瞳は、水底を映した縹色に揺れていた。
「目が……? どうか、したのですか」
「……いいや、何も。変わらず美しいまなこだと思って、な」
天巳の瞳が眩しげに細められる。まっすぐに伝えられる手放しの賛辞はみちるの心にじんと染み入っては彼女を満たす慈雨となる。
それでもやはりこそばゆいことには変わりはないのか、みちるはむずがるようにして天巳に縋りついて顔を隠した。その重みを愛おしく感じながらも天巳は険しい眼差しを空に向ける。
降りしきる雨から成る結界が、やや薄らいでいく。射し込む薄日を背に従えて、宙に身を遊ばせる玄烏が静かに舞い降りた。
「あーあ。呪いが解けたか……これで名実ともに水底の花嫁になるわけだ」
歌うようなそのひと言に、みちるはぎくりと身を強ばらせる。こぼされたその言葉の意味を問うために顔を上げたが、天巳の方がひと呼吸早かった。みちるの肩をしっかりと抱き寄せて玄烏をねめつける。
「我が妻を拐かした痴れ者、報いは受けてもらうぞ」
薄らいでいるとはいえ、空を覆うのは大部分が黒雲だ。その中で威嚇する稲妻の明滅は天巳の意のままに無数の弓矢となって獲物を狙っている。
退路を絶たれても尚笑みを崩さない玄烏は、あえて挑発するように羽根を大きく羽ばたかせた。
「はっ、堕ちた蛇が大口を叩くね」
稲妻よりもゆっくりと、しかし勢いよく不自然なほどに太い光の柱が暗雲を割る。次々と現れるそれらは燦然と輝き、水面を穿つ槍となって雨の領域を侵していく。
晴れゆく雲の彼方を稲妻が駆け、のたうつ龍となって咆哮を上げる。
暗雲の下に射し込む光が意気揚々ときらめく翼を押し広げる。
水底の龍と天空の烏は互いの喉笛を食い破らんばかりに爛々と目を光らせていた。相手の出方を眈眈と窺うその様に、みちるはごくりと息を呑む。
わずかな動きすら水を通して伝わるのか、その振動で跳ねた雫が水面から飛び出した瞬間、じゅうと掻き消えた。寄る辺となる水面を失い、ただの雫となったものは為す術なく熱に我が身を奪われていく。
「あっはは! 集まっていないとたちまちこれか! 巣穴から顔を出したものから順に――だなんて、積木くずしみたいだな。儚い生命だ」
「水は流れ、上り、溶け込んだ先でまた降りてくる。永遠に巡る。儚く見えるのは貴様がそこしか見ぬからだ」
「永遠を語る前に今この現実に向き合いなよ。干物になるまでそこに突っ立っているつもりなら手伝ってやろうか!」
しなやかに身を踊らせた玄烏が己の羽根を一枚摘む。中指と人差し指で挟んでひょいと飛ばせば、それは雨の膜を切り裂いた。
しかし、それは天巳とみちるまでは届くことはなく、降りしきる雨に押し潰され足元に沈む。
「自慢の羽根が腐り落ちて沈む方が早いかもしれんぞ」
口の端をわずかに上げた天巳がぐずぐずにふやけて溶けるそれを見送った。
どちらも引かぬ攻防。天が裂けでもしない限り終わりの見えない予感に、みちるは意を決して声を上げた。
「ま……待って」
「みちる?」
ぐいと天巳の腕の中でもがき、下ろしてくれるようにと頼む。支えてもらいつつ二本の足で立ち、玄烏を見上げた。
雨が止んでいる。
暗雲を貫く光も塗り込められて雲に歪な穴を穿っていた。
「おや、お姫様ごっこは終わりかい」
「呪いが解けたって……どういうこと」
「……ああ、きみのその目のことだよ。優しい優しい御母堂様がきみにかけた反吐の出るおまじない」
「……え」
咄嗟に目元に触れるも、みちるには何が起きたのかわからない。母様が、私に?
「俺の力を利用して大したことをしでかしたもんだよ……と今となってはこう笑えるけど、それを知った時は腹が立ったね。けど、どうにかうまく利用できるはずだったんだ……呪いも祝いも表裏一体とはよく言ったものだね」
「あなた、母様の何を知ってるの。だって、母様は――」
加護を逆に辿って、天巳を呪った咎で。
そう口にする直前にみちるは背後の天巳を気にした。
これは、天巳の知るところなのか。
天巳はみちるという存在に触れたことで身を崩した。あまねくすべてを潤す存在から、みちるだけを満たす雨の主となった。それは運命が定めた彼を水底に沈め続ける枷であり、また彼自身が決めた己への戒めである。
同じように、みちるも天巳と出会ったことで、何かに囚われているのだろうか。それを、母が知っていたとするならば。
「きみって本当にお人好しだよね。あれだけ酷い目に遭わされたのに、俺の言うことをそっくり信じ込んでいるのかい?」
芝居がかった仕草で両手をひらりと泳がせた玄烏が鼻で笑う。荒波に放り出された小舟のように定まらぬ思考と、また玄烏のいいように翻弄されている自分に憤り、みちるはぎり、と唇を噛んだ。
母様、貴方はどういうひとだったの。
天巳様を呪うほどに、私にまじないをかけるほどに――あなたは。
その答えを得るには、みちるが浚う思い出は浅く、そして幼すぎる。
握りしめていた手のひらに鋭い痛みが走る。真っ白になるほど力を込めていた指先が、後ろから天巳に掬い上げられた。
「やめよ。これ以上、泉下の者を辱めるな。貴様も神の使いなら道理は心得ていよう」
先程までの激情を静かに封じた天巳が、淡々と告げる。どれほどの水煙を上げた雨模様よりも厳かな威容に、玄烏が初めておとなしく引いた。
「みちる、我もそなたの母が成したことは知っている。この烏が言うこともまるきりの嘘偽りではない――だが」
はっと振り返ったみちるの瞳が不安げに揺れていることに天巳は顔を曇らせる。すべてを伝えることがみちるのためになるのか――いまだ迷いの残る瞳を一度閉じて、みちるを落ち着かせるべく深く頷いた。
「そなたの母は誰も害してはおらぬ。本人から直接話を聞けぬのがそなたにとってもどかしいところではあろうが……我らは、知っておるゆえ。そなたが知りたいのなら話そう」
みちるは天巳と玄烏を交互に見遣る。天巳はもちろん、玄烏すら頷いたことにみちるは目を丸くした。
「雨巫女であるきみの母親が俺に祈りをかけて加護を打ち消そうとしたのは本当だよ。それが元で生命を縮めたのもね。ただ、それはこいつへの呪いじゃない。みちる、きみを護るためさ」
「え……」
驚きのあまり、玄烏の方へ踏み出そうとしたみちるを制したのは玄烏自身だった。その手のひらをみちるの方へ向けてぱっと開き、距離を取る。
「もう俺は今のきみに触れられないし、触れてはならない。まじないが解けたっていうのはそういうことだ。天巳」
戸惑うみちるを飛び越えて天巳に視線を移した玄烏は顎でその先を促した。
「……わかった」
「じゃあそういうことだ。あーあ、みちるの霊力、気に入ってたんだけどな。やっぱり今からでもいいから上書きして俺のものにしちゃおうかな」
ぐいと体を折り曲げてみちると視線の高さを合わせた玄烏が軽薄さをふんだんに纏って嘯いた。己で引いておいた境界線を勝手に飛び越えんばかりのふるまいに、天巳は素早くみちるを腕の中に抱き込んで隠す。
「冗談だよ……いつでも本気に変えられるけど」
「やはりそのよく動く嘴に一度雷を落としておくべきか」
「おお怖い」
大袈裟に身を震わせた玄烏は羽根で己を抱きしめてみせる。
己を凝視するみちるに思わせぶりな視線を投げれば、天巳の腕の中でぎゅうと硬直する反応に笑うと、ぱっと背中の羽根を払って広げた。
「……最後にひとつ質問。きみに授けられた加護は何だい」
玄烏に囚われていた時、幾度も問われた質問だった。こうして改めて突きつけられた問いの重さに、今のみちるなら振り回されずに答えられる。
青と黒の狭間にいたあの時に感じていた、答えひとつで自分が変わってしまいそうな不安定な綱渡り。それに怯えていた自分の直感は正しかったのだと自覚すると同時に、答えはとうに決まっていたのだ。
みちるは顔を上げる。金のまなざしを間近に見てももう迷わない。
「私は雨巫女です。この生命は水底から天を仰ぐ龍と――天巳様と共にあります」
誓いの言葉が、一滴、大気を満たす。
じんと染み渡ったそれが水面の波紋のようにみちるを中心として同心円状に広がっていく。
どこまでも果てのないさざ波に運ばれていくその誓いを、待ち詫びていた雲が――泣いた。
ぽつり。
一滴。それを追いかけてぽつり。
みちるの足元めがけて降ってきた雨粒たちが、順番に波紋を描いて彼女に寄り添っていく。
見上げれば、雲は雷を宿す黒いものから祝福の雨たちを解き放つ白銀に煌めいていた。
ばらばらと降り注ぐ祝福の雨。
それらを受け止め、ほのかに輝く白い頬で笑ってみせるみちるは、紛うことなき雨巫女であった。
「……こんな降り方もするんだな」
玄烏は背の辺りの羽根を撫でる。幾度も武器として燻らせてきた己のそれが、雨に濡れたことで不思議と熱を散じて癒されていく気がした。
雨に任せるがままに羽根を下ろして雨を纏う。弾いた雨粒が彼の瞳に映り込んで同じ色に瞬いた。
「――これが雨巫女の祝福か。そうか……」
くるりと向き直った玄烏は胸に手を当ててお辞儀をした。初めて出会った時にも見せた挨拶。顔を上げた時、彼はあの時と同じように、笑った。
「改めまして今代の雨巫女殿にはご機嫌麗しゅう。この粘着野郎に愛想を尽かしたらいつでも俺に乗り換えなよ。俺がちょっかいを出すよりきみから求めてくれた方が盛り上がるだろうから、ね」
「え」
つうと彼の頬を伝ったひと筋の雫を指で払い、玄烏は外套を纏い直すようにその艶やかな羽根を風に乗せてひらめかせる。羽根を一枚だけ水面に残し、漆黒の烏は姿を消した。