「ほーら能無し雨巫女、供物だ!」
ぱん、と頬を打つ水の感覚に顔を背けた少女は目をつぶってしばし待つ。 ぽたりぽたりと髪から、顎から雫が伝う。
きゃははは、と幼く甲高い笑い声が少女を取り囲んでいる。重くなった前髪の間からそっと彼らを窺えば、やはり顔を引き攣らせはしたものの虚勢を張るように仁王立ちしていた。
「なんだよ、睨んだって何も起きないじゃないか」
「その目は色が違うだけの飾りものでしょ。かかさまがそう言ってたもの」
少女は言い返さない。しかし俯きもしなかった。
前髪をよけて両の瞳で――黒と青の瞳で、彼らを見据える。
少女――瑞波みちるが、雨巫女と呼ばれる証であり、また能無しと揶揄われこの苦境に甘んじなければいけない烙印でもある。
雨を司ると謳われる伝説の龍、雨龍の御方を祀る瑞波家の血を引く巫女は皆、青い瞳を携え生まれ落ちる。
しかしみちるの瞳が青いのは片方だけだった。
彼女は、自分を取り囲む童をぐるりと見遣り、ひとりひとりの顔をその瞳で青く染めんばかりにじいと見つめる。
本来ならば瑞波家に仕え、みちるや両親の世話を焼く立場であったはずの童がこうして心無い言葉を投げつけてくる。
奥歯を噛み締めて一度目を閉じる。
腹の底でふつふつと沸いてくるものに蓋をして、ゆっくりと目を開ければ耐えきれないとばかりに少年の声がわなないた。
「……おい、何か言えよ」
「悔しいなら泣いてみれば? 雨でも降らせてみればいいじゃない!」
隣の少女が触発されたように金切り声を上げる。
「そうだそうだ! 雨巫女様のお喜びで畑は潤い、悲しみは村を渡って川を満たすんだろ?」
彼らが舌足らずに叫ぶとおり、雨巫女は雨龍から授かった加護を以って村に慈雨を呼ぶ。
人あらざるものと通ずる巫女は、その感情すら空に届かせるための道具として操ってみせるという。
しかし――みちるには、その力は発現しなかった。
片方しか青を受け継がぬ瞳のせいなのか、はたまた神の戯れなのかは知らねど、彼女がいくら祈ろうが舞おうが空は泣かず雷は応えない。
そして、いつしかみちるは自身の感情も失ってしまった。
どのようにしたら涙が出るのか、わからない。
体の痛みも心の痛みも、彼女の内にある泉を揺り動かすことができずに、いたずらに時だけが経っていく。
「泣くなり怒るなりしてみなさいよ」
「お前が雨を降らせられないから、最近はいつまで経っても日照りのままじゃないか」
「頭領様のお慈悲で生かされているだけのくせに」
ぴくりと動いたみちるの意識が、幼い声をすり抜けた先に焦点を結ぶ。
みちるに振り撒いた水を入れてある桶のその向こう側。したたる水のシミをぐしゃりと踏みにじった履物の艶々した黒と、それを川のように渡る水鳥の模様が描かれた着物に身を包んだ、みちると同じ年頃の娘がそこにいた。
「みちるさん、子どもたちを怖がらせてはいけませんよ」
丁寧に梳られた真っ直ぐな黒髪。
細められた瞳の奥は、髪と同じく黒が広がっている。
うっそりと微笑んだその娘を見るなり、童はぱっと彼女の周りに駆け寄り、背に隠れるように集まった。
「ほら、可哀想」
「……申し訳ございません。美沙様」
項垂れるみちるを見下ろしながら近づいてきた美沙は、帯に挟んでいた扇を取り出すと、それを開くことなくみちるの顎の下に差し込んで無理にぐいと上向かせた。
「簡単に頭を下げては駄目よ。いくら力が無くとも本家の雨巫女様でしょう。あなたが不甲斐ないから、あなたのお父上がわたくしたちの分家で下男の真似事をなさる羽目になっているの。おわかり?」
「……ええ」
返事とともにみちるの髪からぼたりと雫が落ちる。
「あら、お泣きになれない巫女様からの貴重な御加護だわ。雨どころか自分の涙ひとつも操れない巫女様のお陰で分家と本家が逆転してしまっているものね、雨巫女様にはお礼参りをしなければならないかしら」
「……美沙様の、お好きなように」
そう答えるや否やみちるは唇を引き結んだ。その一瞬後に、美沙の扇がみちるの頬を打つ。
淑やかな着物を纏う娘にしては勢いの良すぎる力にまかせて、みちるは横倒しに砂利になだれ込む。擦り切れかけた麻の着物に細かな石の角が容赦なく食いこんで繊維を切った。
みちるが起き上がろうとするより先に、美沙は桶を手に取ると残っていた中身をみちるに浴びせかける。
「供物はこのくらいでよろしいかしら。今は水に事欠く有様ですものね。これだってわたくしの家がさる御方と商いをさせて頂いたから用意できたものなのよ?」
高いところから降ってくる美沙の声がくぐもって聞こえる。みちるは何も言わずに体の下で握りこぶしを作って体を動かさないように呼吸をして遣り過ごす。みちるがそれ以上何も反応を返さないと見てとったのか、美沙は長い黒髪をなびかせ踵を返した。
「また遊びましょうね、雨巫女様」
歪んだ唇と綺麗な着物が童たちと連れ立ってみちるを置き去りにして歩き出す。
その黒い振袖が烏のようだと眺めつつ、みちるはゆっくり身を起こした。
引き結んでいた唇と同じく握りしめていた拳をそっと解く。手のひらに爪がくい込んだ痕が赤々と残されていた。そのまま雫を垂らし続ける前髪をぐいと耳にかけてよけると、すっきりした視界に映るのは――泉。
否、泉と呼ぶにはあまりに水の少なすぎるそれは、淵を一周する石の装飾がなければ大きな水たまりといったところだろうか。
少女は淵に沿ってぐるりと周り、小さな祠へたどり着く。地面に膝をつき、深く礼をした。
顔を伝う水滴が、ぼたぼたと垂れては地面の色を濃くしていく。
「……みちる。また、左様ななりを……」
砂利を引きずって歩く不規則な足音が気遣わしげに近づいてくる。少女――みちるは、ゆっくりと振り向いた。杖をついた壮年の男性が、眉根を寄せている。
「父様」
「また、美沙か」
みちるは無言で頷く。父親は杖を握り直して重心を取ると、懐から手ぬぐいを引っ張り出してみちるの頭に被せた。ずりずりとゆっくり膝を曲げ、半ば崩れ落ちるようにして膝をつくと、俯く娘の頭からしたたる水気を拭いだす。
「父様、汚れちゃう」
「気にするな」
男の手は大きく、そして荒っぽい。がしがしと髪を拭われているうちに頭が揺らされ気分が悪くなりそうだったので、みちるは父親の腕にそっと触れて制止を訴えた。
「すまん」
「いいの、自分で拭くから」
みちるは手ぬぐいで髪を押し挟むように水気を取る。手のひらに移る冷たさは、初めこそ体温で上書きされていたものの、幾度も繰り返しているうちにやがて体温のほうが押し負けて指先から冷えていく。
「すまない」
「大丈夫、いずれ乾くもの」
「……すまない」
次第に項垂れていく父親の言う「すまない」の意味合いが変わってくる。みちるは髪を拭うのをやめて顔をぐいと拭き上げた。明瞭になった視界に父親の頭頂部が見えて居たたまれなくなる。
「すまない、俺があの家でもっと上手くやれればこのような……」
「いいの、私が雨を呼べないんだから当たり前」
「そんなわけあるかッ!」
声を荒らげた父親はみちるをきつく抱き込む。
「何が雨呼びだ、雨龍の御加護だ。天候を人間の勝手で操ろうなどという考えこそが傲慢だ。天の理に添わぬことを捻じ曲げて起こしていたらいずれ必ず天罰がくだるものだ」
幾度も同じことを繰り返してきた父親の口舌は澱みなく持論を捲したてる。
みちるもその通りだと思う。過ぎた時は戻らず、水は高きから低きへ流れる。
ものの道理を覆して天罰を受けた寓話などは、たった十六年しか生きていないみちるとて山と知っている。
しかし、父の言う天の理を捻じ曲げる力こそが、今のみちるが置かれている境遇の元凶であることも、また真理なのだ。
「いいか。お前が祈らずとも、今まで降るべき時に雨は降ってきた。止まぬ雨はなく、晴れぬ空もない。今は晴れが続く時なのだ。それを見越して備えをしておくのが人が積み重ねてきた知恵の使い所なのだ」
――そう。雨巫女が悲しんで雨が降るなら、道理を弁えぬ赤子に神力が宿ったら大変なことになる。
すべて雨巫女の意のままに空が泣くわけではない。それは雨龍を祀る社の書庫に連綿と受け継がれてきた書物にも記されている、至極当然の理だ。
けれど、今まで雨巫女に頼ってすべてを決めてきたこの村においてその不在は混乱をもたらした。困惑は焦りとなり怒りとなって、その矛先は雨巫女本人とその父親を容赦なく糾弾する。
続く日照りとて、いつかは終わる。
しかし、それを今、終わらせることがみちるには求められているのだ。
十六年しか生きていない細い体は、父親の腕の中でどこまでも頼りなく震えるしかできなかった。
ぱん、と頬を打つ水の感覚に顔を背けた少女は目をつぶってしばし待つ。 ぽたりぽたりと髪から、顎から雫が伝う。
きゃははは、と幼く甲高い笑い声が少女を取り囲んでいる。重くなった前髪の間からそっと彼らを窺えば、やはり顔を引き攣らせはしたものの虚勢を張るように仁王立ちしていた。
「なんだよ、睨んだって何も起きないじゃないか」
「その目は色が違うだけの飾りものでしょ。かかさまがそう言ってたもの」
少女は言い返さない。しかし俯きもしなかった。
前髪をよけて両の瞳で――黒と青の瞳で、彼らを見据える。
少女――瑞波みちるが、雨巫女と呼ばれる証であり、また能無しと揶揄われこの苦境に甘んじなければいけない烙印でもある。
雨を司ると謳われる伝説の龍、雨龍の御方を祀る瑞波家の血を引く巫女は皆、青い瞳を携え生まれ落ちる。
しかしみちるの瞳が青いのは片方だけだった。
彼女は、自分を取り囲む童をぐるりと見遣り、ひとりひとりの顔をその瞳で青く染めんばかりにじいと見つめる。
本来ならば瑞波家に仕え、みちるや両親の世話を焼く立場であったはずの童がこうして心無い言葉を投げつけてくる。
奥歯を噛み締めて一度目を閉じる。
腹の底でふつふつと沸いてくるものに蓋をして、ゆっくりと目を開ければ耐えきれないとばかりに少年の声がわなないた。
「……おい、何か言えよ」
「悔しいなら泣いてみれば? 雨でも降らせてみればいいじゃない!」
隣の少女が触発されたように金切り声を上げる。
「そうだそうだ! 雨巫女様のお喜びで畑は潤い、悲しみは村を渡って川を満たすんだろ?」
彼らが舌足らずに叫ぶとおり、雨巫女は雨龍から授かった加護を以って村に慈雨を呼ぶ。
人あらざるものと通ずる巫女は、その感情すら空に届かせるための道具として操ってみせるという。
しかし――みちるには、その力は発現しなかった。
片方しか青を受け継がぬ瞳のせいなのか、はたまた神の戯れなのかは知らねど、彼女がいくら祈ろうが舞おうが空は泣かず雷は応えない。
そして、いつしかみちるは自身の感情も失ってしまった。
どのようにしたら涙が出るのか、わからない。
体の痛みも心の痛みも、彼女の内にある泉を揺り動かすことができずに、いたずらに時だけが経っていく。
「泣くなり怒るなりしてみなさいよ」
「お前が雨を降らせられないから、最近はいつまで経っても日照りのままじゃないか」
「頭領様のお慈悲で生かされているだけのくせに」
ぴくりと動いたみちるの意識が、幼い声をすり抜けた先に焦点を結ぶ。
みちるに振り撒いた水を入れてある桶のその向こう側。したたる水のシミをぐしゃりと踏みにじった履物の艶々した黒と、それを川のように渡る水鳥の模様が描かれた着物に身を包んだ、みちると同じ年頃の娘がそこにいた。
「みちるさん、子どもたちを怖がらせてはいけませんよ」
丁寧に梳られた真っ直ぐな黒髪。
細められた瞳の奥は、髪と同じく黒が広がっている。
うっそりと微笑んだその娘を見るなり、童はぱっと彼女の周りに駆け寄り、背に隠れるように集まった。
「ほら、可哀想」
「……申し訳ございません。美沙様」
項垂れるみちるを見下ろしながら近づいてきた美沙は、帯に挟んでいた扇を取り出すと、それを開くことなくみちるの顎の下に差し込んで無理にぐいと上向かせた。
「簡単に頭を下げては駄目よ。いくら力が無くとも本家の雨巫女様でしょう。あなたが不甲斐ないから、あなたのお父上がわたくしたちの分家で下男の真似事をなさる羽目になっているの。おわかり?」
「……ええ」
返事とともにみちるの髪からぼたりと雫が落ちる。
「あら、お泣きになれない巫女様からの貴重な御加護だわ。雨どころか自分の涙ひとつも操れない巫女様のお陰で分家と本家が逆転してしまっているものね、雨巫女様にはお礼参りをしなければならないかしら」
「……美沙様の、お好きなように」
そう答えるや否やみちるは唇を引き結んだ。その一瞬後に、美沙の扇がみちるの頬を打つ。
淑やかな着物を纏う娘にしては勢いの良すぎる力にまかせて、みちるは横倒しに砂利になだれ込む。擦り切れかけた麻の着物に細かな石の角が容赦なく食いこんで繊維を切った。
みちるが起き上がろうとするより先に、美沙は桶を手に取ると残っていた中身をみちるに浴びせかける。
「供物はこのくらいでよろしいかしら。今は水に事欠く有様ですものね。これだってわたくしの家がさる御方と商いをさせて頂いたから用意できたものなのよ?」
高いところから降ってくる美沙の声がくぐもって聞こえる。みちるは何も言わずに体の下で握りこぶしを作って体を動かさないように呼吸をして遣り過ごす。みちるがそれ以上何も反応を返さないと見てとったのか、美沙は長い黒髪をなびかせ踵を返した。
「また遊びましょうね、雨巫女様」
歪んだ唇と綺麗な着物が童たちと連れ立ってみちるを置き去りにして歩き出す。
その黒い振袖が烏のようだと眺めつつ、みちるはゆっくり身を起こした。
引き結んでいた唇と同じく握りしめていた拳をそっと解く。手のひらに爪がくい込んだ痕が赤々と残されていた。そのまま雫を垂らし続ける前髪をぐいと耳にかけてよけると、すっきりした視界に映るのは――泉。
否、泉と呼ぶにはあまりに水の少なすぎるそれは、淵を一周する石の装飾がなければ大きな水たまりといったところだろうか。
少女は淵に沿ってぐるりと周り、小さな祠へたどり着く。地面に膝をつき、深く礼をした。
顔を伝う水滴が、ぼたぼたと垂れては地面の色を濃くしていく。
「……みちる。また、左様ななりを……」
砂利を引きずって歩く不規則な足音が気遣わしげに近づいてくる。少女――みちるは、ゆっくりと振り向いた。杖をついた壮年の男性が、眉根を寄せている。
「父様」
「また、美沙か」
みちるは無言で頷く。父親は杖を握り直して重心を取ると、懐から手ぬぐいを引っ張り出してみちるの頭に被せた。ずりずりとゆっくり膝を曲げ、半ば崩れ落ちるようにして膝をつくと、俯く娘の頭からしたたる水気を拭いだす。
「父様、汚れちゃう」
「気にするな」
男の手は大きく、そして荒っぽい。がしがしと髪を拭われているうちに頭が揺らされ気分が悪くなりそうだったので、みちるは父親の腕にそっと触れて制止を訴えた。
「すまん」
「いいの、自分で拭くから」
みちるは手ぬぐいで髪を押し挟むように水気を取る。手のひらに移る冷たさは、初めこそ体温で上書きされていたものの、幾度も繰り返しているうちにやがて体温のほうが押し負けて指先から冷えていく。
「すまない」
「大丈夫、いずれ乾くもの」
「……すまない」
次第に項垂れていく父親の言う「すまない」の意味合いが変わってくる。みちるは髪を拭うのをやめて顔をぐいと拭き上げた。明瞭になった視界に父親の頭頂部が見えて居たたまれなくなる。
「すまない、俺があの家でもっと上手くやれればこのような……」
「いいの、私が雨を呼べないんだから当たり前」
「そんなわけあるかッ!」
声を荒らげた父親はみちるをきつく抱き込む。
「何が雨呼びだ、雨龍の御加護だ。天候を人間の勝手で操ろうなどという考えこそが傲慢だ。天の理に添わぬことを捻じ曲げて起こしていたらいずれ必ず天罰がくだるものだ」
幾度も同じことを繰り返してきた父親の口舌は澱みなく持論を捲したてる。
みちるもその通りだと思う。過ぎた時は戻らず、水は高きから低きへ流れる。
ものの道理を覆して天罰を受けた寓話などは、たった十六年しか生きていないみちるとて山と知っている。
しかし、父の言う天の理を捻じ曲げる力こそが、今のみちるが置かれている境遇の元凶であることも、また真理なのだ。
「いいか。お前が祈らずとも、今まで降るべき時に雨は降ってきた。止まぬ雨はなく、晴れぬ空もない。今は晴れが続く時なのだ。それを見越して備えをしておくのが人が積み重ねてきた知恵の使い所なのだ」
――そう。雨巫女が悲しんで雨が降るなら、道理を弁えぬ赤子に神力が宿ったら大変なことになる。
すべて雨巫女の意のままに空が泣くわけではない。それは雨龍を祀る社の書庫に連綿と受け継がれてきた書物にも記されている、至極当然の理だ。
けれど、今まで雨巫女に頼ってすべてを決めてきたこの村においてその不在は混乱をもたらした。困惑は焦りとなり怒りとなって、その矛先は雨巫女本人とその父親を容赦なく糾弾する。
続く日照りとて、いつかは終わる。
しかし、それを今、終わらせることがみちるには求められているのだ。
十六年しか生きていない細い体は、父親の腕の中でどこまでも頼りなく震えるしかできなかった。