「みちる様、ご快癒おめでとうございます」
「元気なみちる様に会えて嬉しい!」
「ありがとう。心配をかけてごめんなさいね」
 
 あれから数日経ってみちるの熱は引いた。時折浅く咳き込むことはあるが、苦しくなることはない。徐々に本調子に戻っていくだろう。
 粥も卒業し、ふっくらと炊かれたご飯を食めば体力が戻っていく気さえする。代わる代わる世話を焼いてくれる献身的な雫達にみちるは微笑んだ。
 
「天巳様も、きっとお喜び」
「嬉しくって雨粒が踊っちゃうかも」
 
 くるくるーと歌いながら手を取って踊るシノ達に拍手をしながらみちるはちらりと窓の外を見た。
 今日の雨空は少し明るいようだ。
 
「天巳様は、お部屋にいらっしゃるの?」
「ええと、多分? お仕事? があるみたいで」
 
 こてんと首を傾げたシュウがそのまま転げそうで、慌てて手を貸せば、きゅっと握り返された。
 
「みちる様の手、あったかい!」
「シュウずるい、シノもみちる様ぎゅうする!」
 
 大人顔負けの言葉遣いをしているかと思いきや、すぐに見た目通りの甘えたがりを発揮するふたりに構われながら、みちるは賑やかな食卓を味わった。
 ――けれど、やはり足りない。
 毎日様子を見に来ては世話を焼いてくれたのは天巳も同じだ。
 こうして動けるようになった今こそ、みちるから礼をしに行くのが礼儀だろう。否、それは建前であり、ただ会いに行きたいだけなのかもしれない。
 無条件でみちるを慈しんでくれる天巳は、みちるにとって今や唯一無二の存在だ。
 彼の唯一として生まれたのならその役目をまっとうしたい。天より水底に沈むことを選んだ彼に寄り添いたい。
 この数日間の献身的な看病を受けて、みちるはその思いをより強くした。
 
「……ねえ、天巳様のお好きなもの、何か知ってる?」
 
 何か差し入れをしたいの、と切り出しつつ問えば、シノとシュウは揃って顔をこちらに向けた。
 
「みちる様」
「……ええと?」
「天巳様が好きなのはみちる様!」
「だから差し入れはみちる様一択!」
 
 異口同音にそう言われてみちるは気圧されるが、それでは何の差し入れにもならない。それでは単に顔を見せに行くだけになってしまう。
 
「天巳様にとってのお水はみちる様なの」
「ご飯も、お花も、空気も!」
 
 空気も、とは流石に過剰すぎる気もしたが、そこは頑として譲らないふたりだ。おかげでみちるは何ひとつ有益な知見を得られずに身ひとつで天巳の部屋に「差し入れ」をしに行くことになってしまった。
 先日、用意してもらった傘を差して庭に出る。渡り廊下からも天巳のいる棟に行けるそうだが、みちるはこの雨を避けたくはなかった。
 雨降り続く水底の宮。潤いに満ちる空気はしっとりと肌に馴染んでいく。裾に泥はねをあげないように注意しながら飛び石を渡る。
 途中まで来て、傘をうつ雨粒が静かになっているのに気づき、おもむろに傘を傾け庭を見た。
 ――明るい。雲が薄くなっているのか。雨が小止みになっている。
 陽が射している。そこで無意識に身を強ばらせた。
 この水底において、雨は結界だ。しっとりとけぶる雨の壁があらゆる災厄を洗い流す。
 そこに陽の光が射し込むということは――
 はらり、とみちるの眼前に黒いものが舞う。黒い――烏の、羽根だった。
 飛び石にはらりと舞った漆黒のそれは異質なほどに己を主張し、己に降りしきる雨粒を弾いてなお光を放つ。
 ぎくりと足を止めたみちるはそれを凝視する。これはここにあってはいけないものだ。
 咄嗟に踵を返して渡り廊下から天巳の元へ向かおうとすると、ばさりと耳を打つ羽音が足を縫い止める。
 
「……ああいた。具合悪くしてたんだって?」
 
 軽やかな声音と共に黒を纏った青年が降りてくる。爪先が飛び石に着くや否や、くるりと体を回転させた彼は羽根に付着した雨粒を払うように手をひらめかせた。
 
「慣れない環境で疲れたんだろうねえ。もう出歩いて大丈夫なのかい」
「玄烏……さん」
「お、名前覚えていてくれたんだね。雨巫女様にはご機嫌麗しゅう……なんてね」
 
 片目を軽くつぶってみせた青年――玄烏は人懐っこく笑ってみせた。陽光の如く晴れやかな表情にも関わらず、相対するみちるは傘の柄を固く握りしめたまま目を離さない。
 
「まあ、あれだけずぶ濡れになってたら風邪のひとつもひくよねえ。俺はあの後すぐに湯浴みしたからこの通り元気いっぱい。天巳はあたためてくれなかったんだ? 冷たいやつだな」
 
 はっと漏らした吐息に嘲笑が含まれていることに気づかぬみちるではない。自分に向けられたなら流してしまえた棘も天巳を謗るものであるならば取り払ってしまいたかった。
 
「あ……まみ様も、すぐにお湯を使わせてくださいました。私が弱いから倒れただけで……天巳様は、何も、悪くありません」
 
 はっきりと言い返したみちるの一言一句を律儀に頷きながら聞いていた玄烏は、長い体躯を折り曲げてみちると目線の高さを合わせる。黒眼鏡の縁をかちゃりとずらして、直接金の瞳でみちるを見た。
 
「ふうん。体、弱いの? 昔から? 持病とかある? 合わない食べ物があるとか?」
「え……」
 
 天巳のことをこれ以上悪しく言うようなら突っぱねようと身構えていたみちるだが、思いもよらぬ角度から矢継ぎ早に疑問をぶつけられて肩透かしを喰らう。
 
「食べ物は、特に……」
「そう。人の子には個体によって毒になったりならなかったりする食べ物があるらしいけど、あの酷い暮らしをしてたら選り好みなんてしてられないよねえ。でもそんな中で何年も生きてこられたのは流石だよ」
 
 えらいえらい、と幼子を褒める口調でこれ見よがしに拍手をされてみちるはどうにもむず痒くなる。困りきったその表情を黒眼鏡の奥からしっかりと見据えつつ、玄烏は忙しなく動かしていた薄い唇をいったんつぐむ。笑顔の形に固められたそれを殊更ゆっくりと開いた。
 
「きみ自身の素養はもちろんだけど――ご両親が大切に育んできた下地があるからだろうね」
 
 はっと、みちるは顔を上げた。にたりと三日月型につり上がった唇がみちるの動きひとつひとつを見定め、嗤う。
 
「知ってるよ。あの先代を凌ぐほどの加護を持って産まれた娘だ。幼い頃は下にも置かない身の上だったろう? そこから一転、能無しと蔑まれたのは悲惨だったね。けど、そう簡単に伏せっていたら明日の飯は降ってこない。晴れの日も風の日も、たまに気まぐれに降る雨の日も、きみは必死に生きて……いや、生き延びてきた。案外きみは丈夫で図太いのさ。こんな雨ひとつじゃ揺るがないくらいにはね」
 
 褒められているのか貶されているのかわからない評価を飲み込まされて、みちるの口の中が苦くなる。どこかで感じた味だと記憶を辿れば、別れ際の強引なくちづけが脳裏をよぎった。
 
「それで――俺の言いたいこと、わかるかい?」
 
 みちるの頭を覗いているのか、赤い舌の先端をちらりと突き出しては引っ込めた玄烏は、黒眼鏡のつるをくいと引っ張ってその瞳を晒した。
 烏の輝くまなこが、己が羽根と同じ色の娘に焦点を定めた。
 
「その黒い瞳は俺が与えた色さ。半端な加護の烙印じゃない。太陽の申し子たる烏の――俺の花嫁である祝福だよ」