芝居がかった仕草で胸に手を当てお辞儀をしたその男は、顔を上げるや否やみちると目と合わせて片目をつぶる。
 突然のことに警戒することを忘れたみちるがそのふるまいにどぎまぎとして狼狽えると、玄烏と名乗った男は口の端を上げた。
 
「可愛いなあ。初心(うぶ)な子は好きだぜ」
 
 玄烏がその羽根でよしよしとみちるの頭を撫でて愛でるが、力強く踏み込んだ天巳がそれを乱雑に振り払った。
 
「わあ乱暴者」
「玄烏、貴様何をしに来た」
 
 戯けてひらりと腕で空を扇いだ玄烏は得意げに鼻を鳴らす。
 
「何ってそりゃあご挨拶さ。お前、この子を囲って離さないつもりだろう。そうはさせない。この子がまだお前のものと決まったわけじゃないしな」
 
 指先で頬をつつかれてみちるが固まっていると、天巳は彼女を袖で覆い隠した。ちょうど玄烏が羽根でやってみせたことの再現である。
 
「みちるは我が雨巫女だ。この水底の宮がみちるの世界。手出しは無用」
「ふうん? 宮ひとつもちゃんと維持できない雨龍には雨巫女なんてもったいないなァ?」
 
 玄烏は羽根にまとわりつく水滴をふるふると払う。強まった雨足は落ち着きを取り戻しているようだ。
 
「数多の水脈を統治して淡々と己の気で満たし続けるのが雨龍の仕事だろ。なんだったんだよ今のは。みちる嬢の気に当てられてめちゃくちゃじゃないか」
「え」
 
 みちるは突如として己の名前が出てきたことに唖然とする。雨足の乱れに自分が関与していたとは思えなかった。
 
「みちるを惑わせるな。この子はまだ安定していない」
「は! 安定させられないの間違いだろ。この子が地上で受けてきた扱いだって、元はと言えばお前のせいだもんな」
「っ、それ、は」
 
 天巳の体が強ばるのを腕の中にいるみちるは鋭敏に感じ取る。いつも揺蕩うように包み込んでくれる腕の優しさがぴりぴりと肌を刺す冷気に変わる。
 反論できない天巳に対し、玄烏は追撃の手を緩めない。
 
 「どうやら――先代様からのお叱りは解けてないみたいだな」
 
 瞬間、空気が変わった。
 雨音が止んだのだ。
 みちるは天巳の袖の中からそっと外を窺い、目を疑った。
 雨粒が宙で止まっている。
 葉に弾かれた雨粒が、ふるふると丸いその形から崩れだした状態で凝固している。
 足の窪みに添ってへこんだ飛び石にあった小さな水たまりが、波紋を描き出す直前で静止している。
 水が――雨が、止まっていた。
 
「玄烏……貴様が……それを!」
 
 その怒声を呼び水として、一気に大粒の雨が叩きつける。こんなに近くにいるのに天巳が何を言っているのかわからず、みちるは天巳にしがみついた。
 
「ははっ、哀れで健気だ。でもねみちる嬢、きみに降り掛かってきたあらゆる災厄は、きみが頼りにしているその男――龍のなり損ないのせいなんだよ」
 
 痛いほどの強さで雨に打たれているというのにそれを優雅な水浴びだと愉しんでみせる玄烏は舞台に立つ役者のように両腕を広げて羽根をざわめかせた。
 天巳の言葉よりもはっきりと聞こえる玄烏の言葉が、みちるの頭の中でがんがんと反響して止まらない。
 
 ――天巳のせいで?
 ――龍のなり損ない?
 
 みちるはそれらの単語をただ反芻するだけで精一杯だ。しかしその度に胸の内に黒い染みのようなものが広がって呼吸を苦しくさせる。
 
「わからないことだらけだろう。わかるよ。だからね、そこの雨龍じゃ話にならないと思ったら俺とおいで」
 
 じっとり濡れた黒の革手袋がみちるを天巳の腕から誘い出すように手招きしている。雨を弾いて光るそれは見る角度によっては様々な宝石を纏っているようにちかちかと眩しい。
 みちるはその輝きと、玄烏の金色の瞳を見比べて天巳の腕の中で彼に向き合った。
 
「――お引き取りください」
「…………は」
 
 庭にある物、居る者すべてを乱れ打つ雨音が遠くに聞こえる。
 みちるはわざとずらされた黒眼鏡の奥から目を逸らさずにゆっくり口を開いた。
 
「ここは天巳様の御宮です。主を侮辱する方は招かれざる客にございます。ですのでお引き取りを」
「おや、随分心酔しているんだね。それとも、これも雨巫女としての職務だと思っているのかな」
 
 背中に感じる天巳の息遣いが乱れている。いつも穏やかな彼がこんなにも動揺していることが肌で伝わってきて、みちるは逆に頭が冴えてくる。
 恐ろしいほどに降りしきる雨音。触れれば貫かれそうな雨粒の痛み。それらが、却ってみちるを奮い立たせる。
 
「私は……雨巫女です。天巳様に生命を救って頂いた、天巳様の雨巫女です。貴方が天巳様を傷つけようとなさるなら――」
「なさるなら?」
 
 みちるは己を抱きしめる天巳の腕に触れ、彼を見上げる。青ざめた彼に頷いた。そして歪めた口元を羽根で隠す玄烏を見上げる。
 
「……私とて、ご容赦致しかねます」
 
 ずん、と地面が揺れた気がした。地震いかと身構えたみちるに齎されたのは――雨粒の喝采だった。
 空が、白く覆われた空から、白銀の祝福が降り注ぐ。銀の矢を思わせる鋭い雨粒が玄烏から天巳とみちるを遮らんばかりに地面を穿つ。
 
「これ、は……」
 
 天巳が息を呑む。みちるも雨の勢いに呑まれて身が竦む。そんな中、一番早く調子を取り戻したのは玄烏だった。くっくっと喉を震わせ笑いを堪えつつ羽根をばさりばさりと屋根のように広げて雨を遮る。
 
「たいした雨巫女だよ。いいさ、今日はみちる嬢に免じて追い払われてあげるよ。その代わり――」
 
 みちるを招き損ねた革手袋が羽根の奥からぐいと伸ばされ、袖を掴む。天巳の腕から力づくで引っ張りだされたみちるがたたらを踏みつつなんとか転ぶまいと顔を上げると――
 黒眼鏡の奥の瞳が、とても近くにあった。
 
「ん、ッ!?」
 
 唇が、熱い。
 呆けて開いたままのみちるの唇と、にいと不敵に歪んだ玄烏の唇が深く重なる。
 
「んん……!」
 
 ほろ苦い熱さが口の中に広がる。鼻に抜ける香りがどこか焦げ臭い。
 これは火だ。
 すべてを燃やし尽くして、焼き払って、その後に残るものを育む熱のみなもと。
 圧倒的な力の隆盛を思いのままにする覇者の香りは恐ろしいが――かすかに舌に残す甘さで、畏れを糊塗する。
 みちるが手を振りあげたのと、玄烏が顔を背けたのは、ほぼ同時だった。
 空を掻いた勢いでよろめいた体を天巳が後ろから抱きとめると、袖の中にきつく抱き込んだ。痛いくらいの抱擁だったが、みちるの心臓はそれよりも激しく早鐘を打っている。
 
「ご馳走様。また近いうちに会うことになるよ、みちる」
 
 みちるの味が残る唇に人差し指を寄せた玄烏が、黒い羽根を大きく羽ばたかせる。
 雨足に逆らうように飛び立ったその影の置き土産に、黒い羽根が一枚、ふわりと落ちた。