「今日も苦労をかけたな、みちる」
「いいえ、滅相もございません。天巳様こそ、お疲れではないのですか」
「そなたが案ずるようなことは、何も」
 
 長椅子にふたり並んで腰掛け、一日をいたわりあう。ここ数日、日課ともなっているやりとりだ。
 何せ、ここに来てからというもの、みちるは必要最低限のこと以外は自室から出ることなく天巳に甘やかされっぱなしだ。
 銀灰色の濃淡が川の流れを思わせる流水紋の着物に、湖面のようにきらめく玉をあしらった涼しげな髪飾り。
 その他にも天巳から何やかやと贈られる数多の品でみちるは溺れそうである。
 このままでは心苦しくなるばかりだ。せめて何かできることを頼み込んだみちるに託された仕事といえば、シノとシュウの遊び相手。手遊びを教えたり手毬で遊んだり――これは果たして仕事と言えるのか甚だ疑問ではあったが、天巳はそんなみちるを労ってくれる。
 
「今日もふたりと遊んでいただけですもの。私はお役に立てるようなことは何もしておりません」
 
 謙遜ではなく真っ正直な思いで伝えるも、天巳は大仰に首を振ってみちるを膝に抱き上げる。
 
「何を言う。充分すぎるほどだ。何せあれの相手は至難の業だからな。あちらへこちらへと鬼でもないのに手の鳴る方へと引きずり回される」
「まさか、天巳様も鬼ごっこや隠れん坊を?」
 
 みちるは想像してくすりと笑みをこぼした。しかし、むすっと口角の下がった天巳に慌てて指で口元を隠す。
 
「やらぬ。するつもりもない。だが……」
 
 そこで天巳は深く溜息をついた。これは相当難儀した証だ。
 
「あの子達は天巳様によって生まれたお水の精……のようなものでしょう? 初めに見せてくださったように、大人の見目になされば違うのではないですか?」
 
 みちるは初めて引き合わされた時を思い出す。あの術があれば淑やかな少女にも柔和な老女にも簡単に変えられるはずだ。しかし、天巳は「ああ」と何かに気づいた風に声を上げた。
 
「初めに見目をどうするか尋ねた時、そなたは童を選んだろう。その瞬間からあれはそなたをに形を与えられた――そうだな、いわば結晶だ。水に戻る時以外、他の形を取ることはない」
「えっ」
 
 みちるは絶句した。まさかあの軽いやりとりで彼女たちの運命を決めてしまっていたとは。先程とは違った意味で口元を覆って青ざめているみちるに、天巳はゆるゆると首を振った。
 
「あれも言っていただろう。幼い見目のほうが楽しめると」
「で、ですが……私の不用意なひと言で一生を定めてしまったかと思うと……」
 
 いっそ笑えてくるほどにおろおろと慌てるみちるを落ち着かせるべく、天巳は言葉を繋ぐ。
 
「そう思うなら、大切にしてやれ。雫ひとつ無くとも雨水と成るが、それ無くば雲は成らぬ」
 
 必要でないものなどないのだ――そう結ばれた言葉に、みちるの心がじんとあたたかくなる。
 父もよく口にしていた。あるならば必要とされている。無いならばそれだけの理由があり、それは現状に向き合うための端緒となる。
 言い回しは異なるものの、芯は同じだ。
 
「天巳様は……本当にお優しゅうございます」
「そなたが言うのなら、そういうことにしておこう」
 
 照れ隠しなのかほんの少し顔を背けた天巳が頷く。さらりと揺れた髪のあわいからほのかに色づいた耳が垣間見えて、みちるはぎゅっと胸の前で手を握った。
 
「――そうだ。そなた、屋敷の外に出てみぬか」
 
 話題を変えようと、少しばかり声を張って天巳はみちるに向き直る。これは効果てきめんで、みちるはぱちぱちと瞬きをしておうむ返しに「外」と呟いた。
 
「そうだ。食事も摂れるようになってきている。歩いても大事ないだろう」
 
 そう言われ、みちるは己の手を握って開いてと繰り返す。確かにここに来た頃より力が入るようになってきた。満ち足りた食事と睡眠、何より天巳からの溢れんばかりの慈愛がみちるを徐々に元気にしている。
 
「はい……! 私、このままこの宮で天巳様のご負担になるのは心苦しかったのです。少しでも自分の面倒を見られるように頑張ります」
 
 切々と語るみちるに天巳も目を細める。こうして翌朝、ふたりは連れ立って部屋を出ることになった。