みちるの意識がぼんやりと浮上していく。
 あたたかいものに包まれている感覚。
 指の先からとろけていく心持ちは、やはりどこか後ろめたい。
 心地良さと落ち着かなさが綯い交ぜになって、沈むみちるの意識を掬って水辺にそっと乗せた。
 
「…………あまみ、さま」
「おはよう。ぐっすり眠っていたな」
 
 水底の宮で生活するようになってから数日。
 みちるが眠りに落ちる時と目覚める時は必ず天巳がそばにいる。
 初めてここで目覚めた時、押し寄せた記憶の奔流が悪夢となってみちるをひとりで苦しませていたことが天巳には耐え難かったらしい。
 寝所に殿方と共にいることが尋常ならざることだとわかってはいるものの、この宮の主人は天巳であり、自分は居候だ。主人に逆らうことが何を意味するか、みちるは痛いほどよく知っていた。
 しかし、天巳は主人といえどみちるをこきつかうような真似はしない。朝はみちるが起きるのに任せ、夜は寝つくまでそばにいてくれる。
 
「今日は寝返りをあまり打たなかったな。私の腕がようやくそなたの枕として馴染んできたか……初めの頃はぐるぐると忙しい寝相であったことよ」
「も、申し訳ございませ……!」
 
 顔を赤くして横になったままぺこぺこと頭を下げるみちるの乱れた髪を、天巳の長い指がひと房つまんではらりと下ろした。
 寝つくまで――とは語弊があった。天巳はよもすがらみちるの寝顔を眺めている可能性がある。睡眠時間を考えれば有り得ない話だが、もし想像が当たっていた時、これからどんな顔で眠ればいいのか悩み続けて眠れなくなりそうで、みちるは追及できていない。
 せっかくこの豪華な寝台には枕がいくつもあるというのに、天巳は己の膝や腕をみちるの枕として使わせる。おかげでふかふかで肌触りのよい枕をみちるは眺めているだけで使ったことがない。
 今日は腕枕の日だった。天巳が言うように、初めの日――浄めの霧に包まれて、促されるままに口を開いていたあの日は、されるがままに腕の中で眠ってしまった。ごつごつとした腕で頭を上手く支えられずにうんうん唸っていた記憶がある。
 
「何を謝ることがある。人は深く眠らねば障りのある体だろう。すぐに目を覚ましてしまっていたそなたがこうしてぐっすり休めていることが我にとっての倖よ」
 
 そう言いつつ天巳はみちるの髪を梳っている。みちるを深く眠らせるためにあれこれ試すうちに癖になったそれは、みちるにとって眠りを誘う仕草でしかなくなってしまった。
 
「あの、天巳様……髪、そうされると眠くなってしまうので……」
 
 目覚めたばかりの夢うつつで眠りを誘われては一日じゅう寝ていることになってしまう。散らばりかけた意識を掻き集めて頭をふるふると振って彼の手から逃げようと試みれば、天巳は「おや、お転婆だ」と芝居がかった仕草で手をひらりと踊らせても梳るのをやめた。
 
「そなたの寝顔を眺めているのも悪くはないが、やはり話ができたほうがいい。これは夜の楽しみにとっておこう」
 
 ようやく天巳から解放されたみちるが起き上がるべくもぞもぞと布団の中で身じろぎをする。寝起きでふにゃりと力の入らないみちるに手を貸した天巳は、枕元の鈴でシノとシュウを呼んで身支度をさせた。
 
「お目覚めでございますか」
「みちる様にはご機嫌うるわしゅう」
 
 そろって大人びた礼をしたおかっぱ頭の女童にもようやく慣れてきた。
 
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
 
 みちるもふたりに頭を下げれば、童は鏡で映したかのように対称的な角度でこてんと首を傾げてくすくす笑った。こうなるとふたりは年相応の悪戯っ子に戻ってしまう。
 
「みちる様によろしくされちゃった」
「わたくしたちだけの誉れ」
「他の雫にはなーいしょ」
「わたくしたちだけのみちる様?」
 
 向かい合って手のひらを取り合い、きゃあと跳ねてはしゃぐシノとシュウだが、天巳が咳払いをひとつすると流石に拙いと思ったのか、地に足をつけて仕事を始めた。
 手水の準備に敷布の回収。みちる達が寝台にいては邪魔になるので天巳がみちるを横抱きにして長椅子に座らせる。寝台で解放されても結局場所が変わっただけで天巳の腕の中にいることは変わりない。
 みちるに対して何故か贖罪の気持ちを抱いている節のある天巳が、これからは何不自由なく暮らしてほしいと心を込めた配慮は本当に有難いものではあるのだけれど、こうして文字通り手も足も出ない状況に押し込められてしまうと、何が自由で不自由なのか、みちるにはわからなくなる。
 そうこうしている間にもシノとシュウはてきぱきと仕事の手を休めない。自分よりうんと年下の童が忙しく立ち働いているのを目の当たりにすると、みちるはどうにも居たたまれず手伝いたくなるのだが、天巳がそれを許すはずもなく、膝の上で縮こまるみちるの背を抱きしめて離さない。
 それを見たシノとシュウがまたくすくす笑うものだから、みちるはどちらの肩を持てば良いものかわからずにおろおろと見守ることしかできずにいた。
 シノに促されて手水で顔を洗うと、シュウが差し出してくれた手ぬぐいで水気を拭う。
 
「みちる様、目をつむってくださいませ」
「?」
 
 言われた通りに目を閉じていると、花の香りが広がった。しっとり湿った柔らかい布がぽんぽんと優しく顔全体を撫でていく。
 
「みちる様、ますますお綺麗」
「天巳様、首ったけ?」
「たけー!」
 
 肌の手入れをしてくれたのだと気づいて、普段からろくに何もしていなかったことが気恥ずかしく、みちるは頬を覆って俯いた。心なしかいつもよりもちもちしている気がする。
 
「残るは御髪、ですが……」
 
 シノの視線がちろりとみちるを飛び越えて天巳を窺う。天巳は何も言わず首を横に振った。
 
「みちる様の御髪は天巳様のもの」
「触ったらシノたち、じゅってされちゃう」
「やーん」
 
 みちるを真似て頬を覆ったふたりがいやいやと首を振りながら寝台へと小走りで向かう。
 シノとシュウの歌うようなおしゃべりは節をつけてますます賑やかになっていく。
 
「天巳様、やーきもち?」
「お水なのに焼ーくの?」
「蒸し焼きかな? 目玉焼きにお水じゅう!」
「たまごがふたつなら、シュウとシノみたい!」
 
 どんどん脱線していくふたりの会話に天巳が頭を抱えて深く溜息をつく。しかし、みちるは彼女たちが見た目相応のあどけない顔を見せてくれたことと、会話の他愛なさにふっと笑みがこぼれた。
 すると、その吐息の気配を感じ取った天巳が後ろからぎゅうと抱きしめる。
 
「笑ってくれたな」
「え? ……そう、ですね。久しぶりかも……」
 
 最後に口角が上がったのはいつだろうか。記憶を手繰るうちに、ぴちゃんと高く跳ねた水音が響く。
 シノとシュウが仕事を終えて退室したのだ。あのとりとめのないおしゃべりに興じながらの仕事の早さにみちるは舌を巻いた。
 それと同時に思い出したのだ。運命のあの日、凪いだ水面がいきなり跳ねて頬を濡らしたことを。
 
「あ……の、天巳様」
「ん?」
「あの日、泉を揺らしたのは天巳様……です、か?」
 
 みちるが振り向いて見上げた先で、天巳は虚をつかれたようにわずかに唇を開けた。しかし、それも一瞬のことで、いつもの穏やかな微笑みに戻ると頷いた。
 
「あの時の我は……あれが力の限界だった。そなたの慰めどころか己のことすら儘ならぬ不甲斐なさよ」
 
 我のせいでそなたを追い詰めさせてばかりだな、と天巳は痛みを堪えるように眉根を寄せてみちるの髪を梳く。
 
「そんなこと……仰らないでください」
 
 みちるは彼の手にそっと触れた。
 
「あの時……毎日が針のむしろで……何も変わらぬ苦しさ、変えられぬもどかしさに息が止まりそうでした。いいえ、寧ろ止まればいいと思っていました。けれど、あの時、あの雫ひとつで、私は前を向けたのです」
 
 今もあの村にいた頃のことを思い出すと胸がきりきりと突き刺されるように痛む。しかし、それだけではない記憶も確かにあった。
 もう儚くなってしまいたいと吐露したみちるに、あの泉が慰めを、励ましの一滴をくれたのだ。
 
「乾ききって、ひび割れて、崩れそうな私にとって、あの雫は生命そのものでした。これは雨巫女である証かもしれないと、まだ私にも何かできることがあるのではと――あの時、確かに笑えました。天巳様は、あの時、雫ひとつで私を救ってくださったのです」
 
 語るうちに力強くなっていくみちるの声に、天巳は目を見開いた。
 青と黒の瞳。同じ色をした瞳でみちるは天巳と向き合う。そこには蔑まれ、虐げられ、絶望の淵に立たされていた儚い娘はおらず、気弱になった雨を司る龍に寄り添い共に立つ、紛れもなく気高い雨巫女がしゃんと背を伸ばして己の片割れを見つめていた。
 
「……そなたは、まことに……」
 
 それだけの言葉を搾り出すと、天巳はたまらずみちるを掻き抱く。いつもの優しく包みこむようなあたたかい抱擁ではない。みちるが天巳と出会った時に思わず縋ってしまった、あの離れ難くも甘美な衝動をぶつけるような抱きしめ方だ。
 
「あ、天巳様? わ、たし……やはり出過ぎたことを申して……っ」
「違う」
 
 天巳はみちるの反論ごと抱き込む。みちるはどうしたものかとおろおろと迷い、かろうじて自由にされていた片腕を天巳の背に回した。
 
「我が……そなたの救いに、なれていたのだな……」
「……はい。天巳様には、助けて頂いてばかりです」
 
 背中に回した手をぽんぽんと叩く。幼い時、母がそうしてくれていた慰め方だ。両腕を使えていたとて回しきれぬ広い背中が、今はみちるの腕の中にある。
 
「血を以て封じられていた我が、そなたが自ら流した血でどれほど救われたか……」
 
 天巳はみちるの頬に顔を寄せる。互いの髪が絡まり、もつれて離れられなくなる。
 
「あ、天巳様。今ほどきますので……」
 
 慌ててひと筋の絡まりをつまんだみちるが恐る恐る指を通して懸命にほどいていると、わざと邪魔をするように天巳はみちるの耳に唇を寄せた。
 
「みちる」
 
 いつもより低い声が、一音一音噛み締めるように名を呼ぶ。びくりと肩を震わせたみちるが何も考えられなくなっているのをいいことに、天巳はみちるから絡まったひと筋の髪を貰い受けて一気に解いた。同時にその低音でみちるの鼓膜を揺らす。

「浅ましき我を赦せ」
「え? ……ん、ッ!?」

 みちるが問い返そうと顔を傾けた時、天巳はその無防備な唇を問いかけごと奪う。
 柔らかな粘膜同士の触れ合い。ただそれだけなのに、重なったそこから熱がじわじわと溶けだしてみちると天巳を混ぜ合わせんばかりに繋ぎ合わせる。
 
「…………っ、ん、んう」

 ひくりとみちるの喉が震える。肩も細かく痙攣している。うまく呼吸ができないのだろう。
 天巳はわずかばかりの距離を取ると、胸に手を当てて小さく咳き込むみちるの丸まった背を撫でてやる。

「す、みませ……けほっ」
「毎度そなたに窒息されては困る。鼻で呼吸せよ」

 天巳はみちるの唇を軽くつまむ。柔く弾力のあるそれはとっておきの上生菓子を思い起こさせた。
 練習とでも言うのか、そのまま呼吸するように促されてみちるは言われた通り鼻で呼吸することに集中した。静かな呼吸音が深いものになってきた頃、天巳は指を離す。

「上出来だ。そなたは聡く、飲み込みが早い」
 
 両の頬をやわやわと包まれ、撫でられる。愛おしげなその仕草と細められた瞳にみちるの強ばりが解けた。
 凍っていた花が咲むように、和らぎ、ほころんだ唇に、天巳は再び祝福のくちづけを落とす。
 啄んでは離れ、頬や鼻先を掠めるそれが、気まぐれに唇に戻る。唇の端にちゅうと吸いつかれるとくすぐったいのか、くすくすと身をよじるみちるの顎を掬って天巳はその瞳を覗き込む。
 片目が青、もう片方が黒。半端な加護の受け手だと、力がないと蔑まれてきた証から、悲嘆の色がわずかながらに薄らいでいる気がして――そして、少しでもそれが気のせいでなくなるようにとの祈りを込めて、天巳は幾度目かの触れ合いで、深く唇を重ねた。
 驚き、跳ねるみちるの背を抱いて安心させながら幾度も角度を変えて愛し続ける。添えられていたみちるの手が、おずおずと求めるように彼の肩を撫でた。
 ふ、と漏れた天巳の吐息が、みちるの細い指先が、互いに甘い痺れとなって互いの内にまろやかな波紋を描く。
 天巳はみちるの髪をそっと梳く。とろけていく瞳を追って、瞼にもくちづけの雨が降った。