「さて、どのあたりから話そうか」
 
 みちるが茶を飲み終えると、天巳はまた彼女を抱えて寝台に戻った。今度は後ろから膝に乗せることはせずに寝台の端にふたり並んで腰を掛ける。
 考えあぐねている天巳に代わって口を開いたのはみちるだった。
 
「あの、天巳様は……雨龍の御方、なのですか?」
 
 すると天巳は少し遠くを見て、それから一度頷いた。
 
「そうだな。みちるは何も知らぬ。そこから話そう」
 
 天巳は枕元の上部にある窓に目を向ける。みちるも伸び上がるようにして窓の外を覗き込んだ。
 
「これは……」
 
 水底の宮、と天巳が称した通り、青に沈む風景の中に流麗な設えの宮殿が広がっていた。
 朽ち果てて沈んだものとは違う群青色の柱がそこかしこで屋根を支え、泡を思わせる丸い戸や窓が目立つ。太鼓橋がいくつかの建物を繋ぎ留めている様は杭に似ており、そこに沿って風にそよぐ波がうねる様は澪を引いているようだった。
 
「ここは、あの泉の底なのですか」
「そうであるといえるし、そうでないともいえる。ここは数多の祠から繋がれた祈りが流れ着く、水底の籠のようなものだ」
「数多の祠……私以外にも何処かで祠を祀る巫女がいるのですか」
「さて、水以外のことは知らぬ。最も、雨がいるなら風も火もいるだろうな。いにしえから神々に縋り、祀るのが人の有り様だった」
「その方達も、同じように……その」
 
 みちるの問いかけが淀む。どこかに生きる己の同類――風を呼ぶ巫女に、火の祝福を受けた巫女。彼女たちのなかにも己の役割を果たせず冷遇される者がいるのか、と口にできず、開きかけた唇を噛み締めた。
 どう答えてやるのがみちるの心に負担にならないのか――天巳はそれだけを考え、己が見てきた祈りの結末を思い出して言葉を繋ぐ。
 
「神に仕える者の扱いは様々だ。遠ざけ敬われるか、蔑まれるか……ただ、他とは違う生き方を強いられる。大多数の人の子が、己の内側だけの世界に閉じこもる。巫女はたったひとりで世界と向き合うというのに。巫女はどこまでも孤独だ」
「孤独……」
 
 ぽつりと繰り返したみちるの語尾が震えて溶ける。それを掬い上げんばかりに天巳は「だからこそ」と力強く言葉を継いだ。
 
「生命を賭して自らに仕える巫女を護り、寵するのが、雨龍という神の有り様だ」
 
 窓の外に目を向けたままのみちるは、その言葉にゆっくりと振り向く。
 強ばったままの頬がわななくのを見ていられず、天巳はそっと手を差し伸べる。
 
「遅くなってすまなかった。何をしていたのだと(なじ)ってくれて構わない。ただ――これからは、共に居られる」
 
 みちるの唇が、何かを言うために開いては閉じ、声にならない思いの奔流を押しとどめる。天巳はその堰を断ち切らんと薄い肩を揺さぶった。
 
「溜め込むな。澱む。穢れなら我に移せ」
 
 互いに青と黒の瞳を映し合わせようとでもいうのか、天巳の視線がみちるを捉える。視線が交差して飛沫が跳ねる。
 
「とうさまが」
 
 みちるの頬に涙は伝わない。その代わりに視線から弾けた水のひとしずくがみちるの声を乗せて空気を泳ぐ。
 
「わたしのせいで、とうさまが」
「みちるのせいではない」
「かあさまみたいに、雨を呼べないから」
「それはそなたの咎ではないのだ」
「わたしがしっかりしていれば、美沙にも、頭領様にも、家を取られなかったのに……わたしが、雨巫女で、なければ」
 
 どろりと迫り上がる、暗い澱。
 みちるの目が虚ろに囚われる。
 天巳は目を逸らさず、何も言わずに待っている。
 わななく唇が声の形を取った。
 
「雨巫女……なんか、なりたくなかった」
 
 それでもみちるの頬に雫は伝わない。
 
「ひとりになっちゃった、もう、とうさまも、かあさまもいない……もういや、どうして、どうして、わたしだけ、こんな」
 
 からからな瞳を歪ませ頭を振るみちるの仕草はひどく幼い。
 天巳は目を伏せると、みちるを抱き寄せた。
 薄い体。華奢な首。二十歳にも満たぬ少女には重すぎる重圧を耐えてきたその体は今にもくずおれそうに天巳に縋る。そのささやかすぎる甘えにもどかしさを抱きつつも、腕の中のぬくもりに自分の体温をすべて与えるように天巳はみちるを掻き抱く。
 
「そなたが今まで強いられてきた苦境を思えば、幾度謝っても足りぬ。しかし、もうひとりにはしない」
 
 みちるの指がぴくりと跳ねる。
 
「……うそ」
「嘘などつかぬ。信じられずとも、これから時間をかけて証明していく。そなたのために雨を降らせる龍はここにいる。今はそれだけ知ってくれればいい」
 
 みちるのこめかみにぽつりと水滴が落ちた。目尻を掠めて伝うそれを指で拭ううちに、手のひらに細かい霧がけぶる。
 
「これ、は」
「浄めの水煙だ。好きなだけ喚け。淀んだ言葉も記憶も何もかも水に流してやる」
 
 天巳に抱き込まれた胸板から顔を上げてみれば、この寝台の上だけが薄ぼんやりと霧に包まれている。
 卓に残された透明な杯には水滴ひとつついておらず、雨で成された鳥籠がみちる達を世界から隔絶していた。
 
「……お布団、濡れてしまいます」
 
「そういう類の雨ではないさ。気を浄め、流し、潤す水。そなたを満たしては巡る、言わばみちるのためだけの水だ」
「……わたしが、雨巫女だからですか」
「うん?」
「わたしがすべてを失った不幸な雨巫女だから、憐れんでくださるのですか」
 
 ゆらゆらとみちるを包んではあやす天巳の腕の鳥籠が凪に留まる。
 
「……少し、違うな。遙か昔から雨が繋ぐ縁……それを手繰り寄せては結び直す……そう、証が必要なのだ」
「証……?」
 
 訝しげに顔を上げたみちるに、天巳は眉を歪ませて微笑んだ。
 
「この話はいずれ。今はこの霧が洗い流すに任せて、溜め込んできたものを聞かせておくれ」
 
 話を聞かせてほしいのはみちるのほうだ。しかし、天巳の微笑みはすべてを受け入れるようでいて、さりげなく大切な扉は閉じてしまっている。
 それに一度口にした寂しさは、堰を切ると押しとどめていることが難しい。
 
「あの家でどうやって生きてきたか……辛い記憶でも、楽しい思い出でも構わない。みちるを形作ってきたものが知りたい」
 
 天巳の親指がみちるの頬を軽く拭う。しかし、それを濡らす湿り気はみちるの涙ではなく、彼の作り出した霧だけだ。
 こんな時に泣けたら、もっと一気に楽な気持ちになれるのだろうか。
 みちるは霧にけぶる記憶の中でぼんやりとそう考えながら、思い出を紐解いていった。