天の底が裂けたような夜だった。
 屋根を打つ雨音にも負けぬ赤ん坊の泣き声。雨のひと粒ひと粒が己の糧であるかのように泣きわめいては産声をあげるその赤ん坊に、女はぐったりと手を伸ばす。
 傍らに寄り添っていた侍女が手早く清めて胸に抱かせた赤ん坊は、これが母の胸とわからぬままに泣き続けている。
 
「まあ! 雨巫女様によく似た玉のようなお姫様」
「ふふ、もう顔立ちが、わかるの? お前は先読みの御加護、持ちだった、かしらねえ……」
 
 大きく胸を喘がせている女は、途切れ途切れに侍女に軽口を返す。それをあっけらかんと笑い飛ばした侍女は「あたしくらいになると、御加護なんて大層なものは頂かなくても、お方様のことならわかるんでございますよう」と言いつつ、汚れ水の入った桶を下に除けた。
 
「まあ、それはありがたい、こと……でも、私にはまだわからないわ……女の子は父親似の方が、幸せになれる、って言うけれど、ねえ」
 
 困ったように微笑む女は、我が子をどう抱き上げていいものかわからずに、ただひたすらに上下する小さな体を見つめている。
 見かねた別の侍女が、女の汗を拭う手を下ろして抱き真似のそぶりをやってみせる。目で頷いた女はそれに倣おうとするが――どうにも形にならない。それでも懸命に半身を起こした女は乱れた袷を直そうともせぬまま、見よう見まねで我が子を抱くことができた。
 細腕の中で泣く小さな小さな赤ん坊。
 その産声に寄り添おうとするのか、ますます雨の勢いは増している。
 屋根を突き破らんばかりの勢いで落下してくる雨粒の勢いに、出産では何も動じなかった侍女達がちらりと顔を見合わせ視線で不安を共有し始める。
 すると、赤ん坊を抱いていた女が「大丈夫よ」とひと言だけ発した。託宣の如く凛と響いたその声は、出産で消耗しきっていたとは思えないほどに張りがある。
 
「雨を司る雨龍(うりゅう)の御方が寿(ことほ)いでくださっているの。新たな雨巫女が産まれたぞ、水の恩恵は瑞波の家から波紋のように広がっていくに違いない――そう、鳴り物で教えてくださっているのだわ」
 
 そう言い切る女の瞳は侍女も、赤ん坊も通り越した遙か彼方を見つめている。憑き物が操っているような常人離れした佇まいは、不自然なほどにぴんと伸びた背筋が物語っている。
 巫女の託宣を引取るよう、部屋に閃光が走る。
 昼間のように煌々と照らされた室内で互いの顔を目に焼き付けた侍女達は、次の瞬間、腹に響く雷鳴に悲鳴を失った。
 近くに落ちたか。振動が皮膚を伝う。
 言葉を忘れて口を開けたままの彼女達だったが、ひとりがすうと深く息を吸い込んだ。
 
「……あっははは! さすがは雨巫女様!!」
 
 彼女の哄笑で呪縛が解けたかのように、片割れも手を叩いてそれに続いた。

「まさに鳴り物! まさに雨龍の御方からの御祝儀でございましたなあ! それを拝領される前に看破なさるとは天晴れなものにございます」
「そしてそれを授けられたこちらの姫君様もまたご立派! 瑞波のお家はこの姫巫女様が恩恵で潤し、更なる発展への流れを生んでくださることでしょう」
 
 彼女たちの心の波をひと言で鎮め、晴れやかな波遊びに転じてみせた女は、口々に贈られる賛辞にはたと我に返ったように目を瞬く。ひと呼吸の後にその瞼はとろんと落ちかけて、巫女の顔から母親の顔に戻っていった。

「……力が無くたって構わないのよ、ただびととしての幸せもあるのだから」
「まァ、そんな勿体ないことをおっしゃらないでくださいな。これほどの雨を呼ぶ姫様ならば天にも届かんばかりの幸せが与えられることでしょうよ」
「さ、お疲れになったでしょう。姫様はお預かりしますゆえ、ゆるりとお休みくださいな」
 
 今だ天高く唸る雷鳴をものともせずに泣き続ける赤ん坊を侍女が軽く抱き上げる。今にも空を引き裂いて赤ん坊を喰らいに降りてきそうな雷鳴に、女は小さく顔をしかめて窓の外を見遣る。
 しばし目に見えぬものと対峙していたことで額に滲んだ汗を拭うこともせず、母になったばかりの女は、離れゆく我が子の輪郭を指の背で撫でた。

「神に愛されることが幸せとは限らないの」
 
 人の瞳のまま、静かな託宣が母の口を動かす。
 忙しく立ち働く侍女達はそれに気がつかない。
 わんわんと泣く赤ん坊をあやそうとでもしているのか、でんでん太鼓のような雷鳴が寄り添っていく様を眺め、母は空っぽになった手のひらを握る。

「幸せであれば……それでいいのよ」
 
 けほ、と浅い咳が喉をついて出る。満ち足りた表情にひとすじ影が差した。
「ほーら能無し雨巫女、供物だ!」
 
 ぱん、と頬を打つ水の感覚に顔を背けた少女は目をつぶってしばし待つ。 ぽたりぽたりと髪から、顎から雫が伝う。
 きゃははは、と幼く甲高い笑い声が少女を取り囲んでいる。重くなった前髪の間からそっと彼らを窺えば、やはり顔を引き攣らせはしたものの虚勢を張るように仁王立ちしていた。
 
「なんだよ、睨んだって何も起きないじゃないか」
「その目は色が違うだけの飾りものでしょ。かかさまがそう言ってたもの」
 
 少女は言い返さない。しかし俯きもしなかった。
 前髪をよけて両の瞳で――黒と青の瞳で、彼らを見据える。
 少女――瑞波(みずは)みちるが、雨巫女と呼ばれる証であり、また能無しと揶揄われこの苦境に甘んじなければいけない烙印でもある。
 雨を司ると謳われる伝説の龍、雨龍の御方を祀る瑞波家の血を引く巫女は皆、青い瞳を携え生まれ落ちる。
 しかしみちるの瞳が青いのは片方だけだった。
 彼女は、自分を取り囲む童をぐるりと見遣り、ひとりひとりの顔をその瞳で青く染めんばかりにじいと見つめる。
 本来ならば瑞波家に仕え、みちるや両親の世話を焼く立場であったはずの童がこうして心無い言葉を投げつけてくる。
 奥歯を噛み締めて一度目を閉じる。
 腹の底でふつふつと沸いてくるものに蓋をして、ゆっくりと目を開ければ耐えきれないとばかりに少年の声がわなないた。
 
「……おい、何か言えよ」
「悔しいなら泣いてみれば? 雨でも降らせてみればいいじゃない!」
 
 隣の少女が触発されたように金切り声を上げる。
 
「そうだそうだ! 雨巫女様のお喜びで畑は潤い、悲しみは村を渡って川を満たすんだろ?」
 
 彼らが舌足らずに叫ぶとおり、雨巫女は雨龍から授かった加護を以って村に慈雨を呼ぶ。
 人あらざるものと通ずる巫女は、その感情すら空に届かせるための道具として操ってみせるという。
 しかし――みちるには、その力は発現しなかった。
 片方しか青を受け継がぬ瞳のせいなのか、はたまた神の戯れなのかは知らねど、彼女がいくら祈ろうが舞おうが空は泣かず雷は応えない。
 
 そして、いつしかみちるは自身の感情も失ってしまった。
 どのようにしたら涙が出るのか、わからない。
 体の痛みも心の痛みも、彼女の内にある泉を揺り動かすことができずに、いたずらに時だけが経っていく。
 
「泣くなり怒るなりしてみなさいよ」
「お前が雨を降らせられないから、最近はいつまで経っても日照りのままじゃないか」
「頭領様のお慈悲で生かされているだけのくせに」
 
 ぴくりと動いたみちるの意識が、幼い声をすり抜けた先に焦点を結ぶ。
 みちるに振り撒いた水を入れてある桶のその向こう側。したたる水のシミをぐしゃりと踏みにじった履物の艶々した黒と、それを川のように渡る水鳥の模様が描かれた着物に身を包んだ、みちると同じ年頃の娘がそこにいた。
 
「みちるさん、子どもたちを怖がらせてはいけませんよ」
 
 丁寧に梳られた真っ直ぐな黒髪。
 細められた瞳の奥は、髪と同じく黒が広がっている。
 うっそりと微笑んだその娘を見るなり、童はぱっと彼女の周りに駆け寄り、背に隠れるように集まった。
 
「ほら、可哀想」
「……申し訳ございません。美沙(みさ)様」
 
 項垂れるみちるを見下ろしながら近づいてきた美沙は、帯に挟んでいた扇を取り出すと、それを開くことなくみちるの顎の下に差し込んで無理にぐいと上向かせた。
 
「簡単に頭を下げては駄目よ。いくら力が無くとも本家の雨巫女様でしょう。あなたが不甲斐ないから、あなたのお父上がわたくしたちの分家で下男の真似事をなさる羽目になっているの。おわかり?」
「……ええ」
 
 返事とともにみちるの髪からぼたりと雫が落ちる。
 
「あら、お泣きになれない巫女様からの貴重な御加護だわ。雨どころか自分の涙ひとつも操れない巫女様のお陰で分家と本家が逆転してしまっているものね、雨巫女様にはお礼参りをしなければならないかしら」
「……美沙様の、お好きなように」
 
 そう答えるや否やみちるは唇を引き結んだ。その一瞬後に、美沙の扇がみちるの頬を打つ。
 淑やかな着物を纏う娘にしては勢いの良すぎる力にまかせて、みちるは横倒しに砂利になだれ込む。擦り切れかけた麻の着物に細かな石の角が容赦なく食いこんで繊維を切った。
 
 みちるが起き上がろうとするより先に、美沙は桶を手に取ると残っていた中身をみちるに浴びせかける。
 
「供物はこのくらいでよろしいかしら。今は水に事欠く有様ですものね。これだってわたくしの家がさる御方と商いをさせて頂いたから用意できたものなのよ?」
 
 高いところから降ってくる美沙の声がくぐもって聞こえる。みちるは何も言わずに体の下で握りこぶしを作って体を動かさないように呼吸をして遣り過ごす。みちるがそれ以上何も反応を返さないと見てとったのか、美沙は長い黒髪をなびかせ踵を返した。
 
「また遊びましょうね、雨巫女様」
 
 歪んだ唇と綺麗な着物が童たちと連れ立ってみちるを置き去りにして歩き出す。
 その黒い振袖が烏のようだと眺めつつ、みちるはゆっくり身を起こした。
 引き結んでいた唇と同じく握りしめていた拳をそっと解く。手のひらに爪がくい込んだ痕が赤々と残されていた。そのまま雫を垂らし続ける前髪をぐいと耳にかけてよけると、すっきりした視界に映るのは――泉。
 否、泉と呼ぶにはあまりに水の少なすぎるそれは、淵を一周する石の装飾がなければ大きな水たまりといったところだろうか。
 少女は淵に沿ってぐるりと周り、小さな祠へたどり着く。地面に膝をつき、深く礼をした。
 顔を伝う水滴が、ぼたぼたと垂れては地面の色を濃くしていく。
 
「……みちる。また、左様ななりを……」
 
 砂利を引きずって歩く不規則な足音が気遣わしげに近づいてくる。少女――みちるは、ゆっくりと振り向いた。杖をついた壮年の男性が、眉根を寄せている。
 
「父様」
「また、美沙か」
 
 みちるは無言で頷く。父親は杖を握り直して重心を取ると、懐から手ぬぐいを引っ張り出してみちるの頭に被せた。ずりずりとゆっくり膝を曲げ、半ば崩れ落ちるようにして膝をつくと、俯く娘の頭からしたたる水気を拭いだす。
 
「父様、汚れちゃう」
「気にするな」
 
 男の手は大きく、そして荒っぽい。がしがしと髪を拭われているうちに頭が揺らされ気分が悪くなりそうだったので、みちるは父親の腕にそっと触れて制止を訴えた。
 
「すまん」
「いいの、自分で拭くから」
 
 みちるは手ぬぐいで髪を押し挟むように水気を取る。手のひらに移る冷たさは、初めこそ体温で上書きされていたものの、幾度も繰り返しているうちにやがて体温のほうが押し負けて指先から冷えていく。
 
「すまない」
「大丈夫、いずれ乾くもの」
「……すまない」
 
 次第に項垂れていく父親の言う「すまない」の意味合いが変わってくる。みちるは髪を拭うのをやめて顔をぐいと拭き上げた。明瞭になった視界に父親の頭頂部が見えて居たたまれなくなる。
 
「すまない、俺があの家でもっと上手くやれればこのような……」
「いいの、私が雨を呼べないんだから当たり前」
「そんなわけあるかッ!」
 
 声を荒らげた父親はみちるをきつく抱き込む。
 
「何が雨呼びだ、雨龍の御加護だ。天候を人間の勝手で操ろうなどという考えこそが傲慢だ。天の理に添わぬことを捻じ曲げて起こしていたらいずれ必ず天罰がくだるものだ」
 
 幾度も同じことを繰り返してきた父親の口舌は澱みなく持論を捲したてる。
 みちるもその通りだと思う。過ぎた時は戻らず、水は高きから低きへ流れる。
 ものの道理を覆して天罰を受けた寓話などは、たった十六年しか生きていないみちるとて山と知っている。
 しかし、父の言う天の理を捻じ曲げる力こそが、今のみちるが置かれている境遇の元凶であることも、また真理なのだ。
 
「いいか。お前が祈らずとも、今まで降るべき時に雨は降ってきた。止まぬ雨はなく、晴れぬ空もない。今は晴れが続く時なのだ。それを見越して備えをしておくのが人が積み重ねてきた知恵の使い所なのだ」
 
 ――そう。雨巫女が悲しんで雨が降るなら、道理を弁えぬ赤子に神力が宿ったら大変なことになる。
 すべて雨巫女の意のままに空が泣くわけではない。それは雨龍を祀る社の書庫に連綿と受け継がれてきた書物にも記されている、至極当然の理だ。
 けれど、今まで雨巫女に頼ってすべてを決めてきたこの村においてその不在は混乱をもたらした。困惑は焦りとなり怒りとなって、その矛先は雨巫女本人とその父親を容赦なく糾弾する。
 続く日照りとて、いつかは終わる。
 しかし、それを今、終わらせることがみちるには求められているのだ。
 十六年しか生きていない細い体は、父親の腕の中でどこまでも頼りなく震えるしかできなかった。
 どのくらいそうしていただろうか。
 じゃり、と乾いた土を踏む音がする。父娘は同時に身を固くした。
 
「あのう、旦那様……」
 
 侍女の、否、元侍女が前掛けを所在なさげに握りしめながら歩いてくるところだった。
 
「なんだ……ああ、また人足が足りんか」
「足を患われた旦那様にこのような事をお願いするのは、申し訳ないのですが、頭領様が」
 
 何処からかの視線を気にするようにちらちらと目を動かす彼女を制して、父は傍らに置いた杖を頼りに立ち上がった。社の神主として雨龍を祀る仕事しかしてこなかった彼だが、雨を呼べないみちるの代わりに分家で下男の如き働きを強いられている。慣れない力仕事で早々に足場から足を踏み外した彼は杖なしでは満足に動けなくなってしまったのだが、かといって分家側では労るような姿勢を見せることは無い。
 
「いい、気にするな。もう私はお前の旦那様ではないのだし、楽にするといい」
「も、申し訳、ございません」
「それにしても頭領様、か。分家が気取っているものだな。祝詞ひとつ挙げられぬあの唐変木なら今の本家の地位はお似合いかもな」
「あ……」
 
 自虐か、皮肉か。肯定も否定もできぬその言葉をどうしたものか持て余した侍女はおろおろと視線を彷徨わせ、父の影に隠れて膝をついたままのみちるに気づいてくしゃりと顔を歪ませた。
 
「姫巫女様……」
 
 そう呼ばれた時、みちるの中でどくん、と何かが脈打った。そのままどくどくと何かが体内を巡る音に耳を奪われる。
 
「あの大雨の日、ようお泣きになる貴方様を取り上げた時には、まさかこのようなことになるとはついぞ思いませんでした。なんと申せば……ああ、おいたわしや……」
 
 みちるは侍女を見上げている。幼い頃、幾度も遊んでくれた彼女からはそのたびに同じ話を聞かされてきた。
 
 みちるは土砂降りの夜に産まれたという。
 次代を担う雨巫女を寿ぐようなその天候に、誰もがみちるが稀代の雨巫女として村に繁栄を齎すだろうと期待を寄せた。
 瑞波家の娘は代々雨を呼ぶ。
 いつの頃からか、伝説のように語り継がれてきたことである。
 国の外れにある小さな村が、中央からの支援も滞りがちな中、飢饉にも負けず生き延びてきたことには理由があった。
 求められるがまま自在に雨を降らせて田畑を潤し、天意を伝える雷すら思いのまま。
 みちるの眼前には顔を歪める侍女ではなく、かの日に神楽殿で舞う母の姿が映っている。
 しゃん、しゃん。
 鈴を鳴らすたびに雫が跳ねる。
 とん、とん。
 足を踏み鳴らすたびに雷鳴が轟く。
 揺れる髪が雨を誘い、伸ばされた指が雲を呼ぶ。
 雨巫女としての風格にふさわしい舞に口をあんぐりと開けて眺めていたみちるを、控えていた侍女はにこやかに諭した。
 
「いずれ姫様もお方様のようになられますよ。雨を司る雨龍の御方とて、姫様の舞をご覧になったら恵みをくださるに違いありません」
 
 あのように堂々と、可憐に、そして気高く舞えるものなのか。
 いつも腕に抱いてくれる母とは違う横顔は、雨巫女としてのものだとしたら、いずれみちるもあのように別人の顔をして舞うのだろうか。
 呆けた顔をした記憶の中の幼いみちると、今、体の中に何かを巡らせたみちるが侍女の言葉によって重なっていく。
 口を開いた女の姿は、果たして記憶か、それとも今か。
 
「今は亡きお方様……貴方様の御母堂様は、類まれな雨巫女であったというのに」
 
 ぞわり、と肌が粟立つ。その先の言葉を聞きたくないのか、はたまた求めているのか、聴覚だけが痛いほどに研ぎ澄まされる。
 
「――何故、貴方様にはひと雫もその血が伝わりませんでしたのでしょうか」
「やめよ!」
 
 ばつん、と耳の真横で何かが弾ける音がした。
 瞬間、世界の輪郭が急激に形を取り戻す。
 父親が、腕を振り上げていた。
 侍女の顔が悲鳴を絞り出す直前の形相で固まっている。
 咄嗟に、体が動いた。
 
「やめてッ!」
 
 父の胴にしがみつく。ぐらりと傾いだ体は杖一本では支えきれずに、ふたりして横倒しになって倒れ込む。
 むき出しになった肘が砂利を擦ったが構わず半身を起こすと、尻もちをついた侍女が見えた。
 
「父が申し訳ございません、お怪我は」
「あ……わたくしこそ、とんだ御無礼を…………ッ」
 
 侍女の砂にまみれた着物を軽くはたいて汚れを落としてやり頭を下げると、みちると同じように伏した侍女とおもてを上げる拍子が重なった。
 かぶっていた手ぬぐいがはらりと落ちる。
 ひい、と喉の奥が引き攣れる音が耳をつく。
 さらりと頬をすべった前髪の下――青い瞳で見つめ返した侍女は、唇をわなわなと震わせ、足早にその場を立ち去った。
 
「……ただ、青いだけなのに」
「そうは言うが、歴代の雨巫女の誰ひとりとして、そのような瞳を持った者はいなかったからな」
 
 ぽつりと零した独白に応じた父親は、おうと声をかけながら杖を頼りに立ち上がる。みちるが手を貸そうとしたが、首を振って拒んだ。
 
「これから頭領様にこき使われに行くのだ。お前に甘やかされては困る」
「頭領様のところなら、私も手伝う」
「馬鹿を言うな、お前の細腕で力仕事は無理だ」
「でも」
 
 言い募るみちるの髪をくしゃりと掻き混ぜるように撫でた父親は「行ってくる」と残して背を向けた。
 その背中をぼんやりと眺めていたみちるだが、手ぬぐいを拾って畳み、懐にしまうと祠に向き直った。
「お見苦しいものを、お見せしました」
 
 物言わぬ祠の前で居住まいを正したみちるは指を揃えて深く頭を下げる。
 いつものように呼吸3回分の拝を終えて顔を上げると、祠の奥に収められた(ぎょく)が青ざめた色でみちるを見つめ返していた。
 この祠の御神体であり、この村全体が祀る神に由来するものだ。瑞波家が恩寵を賜った神であり、その村を潤し続けていた神でもある。
 こうして過去形で語ってしまえることが、みちるの顔色すら青ざめさせる原因だ。
 
「……わたくしは、雨巫女を母として、慈雨に満ちた夜に産まれたと聞いています」
 
 みちるの視線は玉を外れ、祠の周りに設えられた泉の縁を滑っている。石の装飾は砂利に埋もれ、何かが文字のようなものが刻まれていたが読めぬほどに擦り切れている。
 
「わたくしが力にふさわしくないのなら構いません。ですが、このままでは貴方様とて信仰を失い、砂の祠に埋もれてしまいます」
 
 みちるはそっと袖で文字の上に積もった砂を払う。画数の多いその文字は神を称える文言が刻まれていたものだろうか。
 
「去りゆく御加護を見送ることがわたくしの務めなのでしょうか。それとも巫女は別にいて、貴方様はそのお方をひたすら待っているのでしょうか」
 
 わずかな水しか湛えていない水面は何も答えずみちるの独白を受け止め続ける。否、みちるの言葉は水面に降り積もることも許されず石の装飾の上に弾かれているのかもしれない。
 
「歴代の雨巫女は祈りで、思いで、貴方様と通じ合いました。しかし、わたくしにはもう己の不甲斐なさへの癇癪も、無力な自分への涙も残っておりません。渇ききった巫女など不要なら、どうぞ引導を渡してくださいませ」
 
 ようやくみちるは視線を玉に戻す。冴え冴えとしたその青色は、祠の屋根に守られて陽の光すら拒む群青色に沈んでいた。
 それと同じ色をしたまなこで、みちるは玉を見つめ続ける。もの言わぬ玉と少女はその青色を以て静かに、そして苛烈に、届かぬ言葉をひとしずくずつ穿ち続ける。
 その最中、調停者のような風が一陣、水面を切るように渡った。
 鏡のようになめらかだった水面が切り裂かれ、奔流が破片となってみちるの頬に跳ね返った。
 
「っ」
 
 先程も童たちにされたことと同じだ。しかし、みちるはそれを拭うことはしなかった。
 ほたり、ほたりと頬を伝うそれを指の背で掬う。ふるふると踊るように震える雫の表面を見つめ、もう一度玉に、そして再び静かになった水面に目を移す。
 
「…………いまの、は」
 
 上擦った声の問いかけに、祠は何も応えない。
 渇いた瞳の下で、したたり落ちる雫がみちるの顎をつうとなぞって砂利の色を変えていった。
 その日の夕方、みちるは夕餉の支度をして父親の帰りを待っていた。
 みちるの住まいは祠の裏手にある。
 昔は本殿としていたが、瑞波家の隆盛に伴って本殿を更に開けた場所に移築したために取り残された社だ。
 最奥に雨龍の御方を模した装飾の柄が特徴的な神剣が祀られているだけの、粗末な社。
 今は奥宮と呼ぶそうだが、設えは普通の家屋とそう変わりは無い。否、一般的な家屋の方がもっと住み良いように改築されているはずだが、なまじ宮であったために人の生活にはあまり寄り添っていない作りになっている。
 開口部がやたらと広い出入口などその最たるものだ。風通しばかりが良く、寒い季節にはみちるも父も霜焼けが絶えない。
 板を打ち付けるなどすれば少しは変わるのだろうが、神々の出入口を塞ぐなど言語道断だと長に禁じられている。
 
「……信じていないくせに、こういう時ばかり神さまを使うのよね」
 
 野菜の切れ端を煮込んだ鍋がくつくつと煮えている。あかあかと鍋の底を舐める炎を眺めるたびに、みちるは異国のものでも見るかのような居心地の悪さを感じることがある。
 火に克つ水を司る家。
 能力は受け継がずとも、本能的な相性はみちるの中を巡っているのか。
 
「昼間のは、なんだったのかしら」
 
 決して応えぬ水面が、風を得てみちるの頬を濡らした。
 あの雫が、ひび割れかけていた心に一瞬で染み渡った。生まれて初めての感覚だった。
 みちるは頬に指を滑らせる。もうとっくに乾いてしまった肌だが、触れるたびにあの冷たさと温もりを感じることができる。
 
「水があたたかいなんて、おかしな話」
 
 ふ、と口元が綻んだ。ひとりでいる時に表情が動いたのは何年ぶりだろう。
 父親にも早く伝えたい。御加護の欠片でも、否、ひとしずくでも授かった証だろうか。これをきっかけに母のような雨巫女に近づけたら――
 急く気持ちを料理に切り替える。火にかけたままの鍋からはいい匂いが漂い始めていた。お玉からひとくち分を掬って小皿に移す。ふうふうと冷まして味見をすれば、舌に慣れたいつもの味だった。
 火から下ろして膳を整える。もうじき父親は帰ってくるはずだ。そうしたら何かが変わる気がする。何の根拠もない予感がみちるの背を押す。
 戸一枚隔てた外の気配がにわかに騒がしくなった。
 
「父様?」
 
 返事は無い。しかしひとの声の代わりに気配が妙にさざめいて肌をちりちりと焼くようだ。
 みちるの鼓動のように妙に弾んだそれに煽られて、それでも様子を伺いながらそっと戸を引いて――
 
「え?」
 
 そこにいたのは父親だった。
 しかし、いつものように手を挙げて「ただいま」と笑う姿ではない。
 頼りの杖も折れ曲がり――否、潰されたように地べたに倒れ込む姿そのものが折れ曲がっていた。
 
「あ……」
 
 それが父親の形をした物体なのだと、脳が認識するより先にみちるは腰を抜かしてへたりこんだ。
 ざりざりと砂利を引きずるように宵闇から気配が近づく。複数の足音。
 ひときわ深く地を抉る足がぬっと現れたかと思ったらみちるの体が宙に浮いた。
 一瞬の浮遊感の直後、背中に衝撃を感じて熱さが全身を貫く。遅れてやってきた痛みに呼吸を奪われ、自分が壁に激突したのだとわかったのは転がる鍋からこぼれていく味噌汁と同じ目線になっていたからだった。
 太い足に鍋が蹴飛ばされて、自分が殴られたような金属音で耳がわんわんと唸っている。
 太い足が遠ざかる。白く細い足首が前に立った。
 
「こんばんは、雨巫女様」
 
 戻ってきた聴覚が疎ましかった。ぞわりと肌が粟立つ。美沙と良く似た、ざらざらと喉を撫でる甲高い声。
 
「と……うりょう、さま」
 
 美沙の父だ。分家の長。今は頭領を名乗って父をこき使う男だ。まさかこの男が、父を。
 
「おいたわしや。雨巫女ともあろう方が襤褸同然ではないですか。同じ年頃というのにうちの美沙とは比べものにならないねえ」
 
 何がおかしいのか、言葉の途中でけらけらと裏返る声で笑う頭領はつま先でみちるを蹴って仰向けに転がした。見慣れた天井。視界の端にちらつく無頼の男たちが異物だ。
 
「だからね、美沙のほうが相応しいんですよ。人々の称賛と龍の御加護。類いまれな富を成して都も一目置く家の主。そういったものは、美沙に譲るべきだ。そうでしょう」
 
 譲れと言われてはいどうぞと開け渡せるものなら雨巫女など掃いて捨てるほど居てもいい。みちるとて雨巫女の地位を捨て、村を捨てて、父と二人で離れた所で暮らせるならばそのほうがずっといい。
 しかし、駄目なのだ。巫女は龍に選ばれる。
 片目だけの青であろうと力が発現しなくても、雲の彼方の雨龍の御方が選んだのはみちるだ。美沙ではない。分家とてそんなことは承知のはず。
 みちるの口がもごもごとそんなことを呟いているのを見てとった頭領は、「親子揃って頭が固い」と吐き捨てた。
 
「あなたの父親はね、いつも同じことばかりだ。力の発現をしない巫女ならば、それが何故なのか思案する時代だ、そもそも私たち村人に御加護を受け続けるだけの資格があるのか、我が身を振り返り襟を正すべきだ――などと有難くくだらないご高説を垂れるばかりで、村のことを考えようとしない」
 
 父の声音が鼓膜の奥に耳に蘇る。頭領の甲高い声から耳を塞ぐように、いつもの持論がみちるを包み込む。
 それを踏みにじったのは割り込んできた頭領のきんとした鋭い声だ。
 
「少し頭を働かせればわかることでしょう。巫女の力は血によって受け継がれる。ならば、その血を宿した出来損ないの器を砕いて別の新しく美しい器に入れ替えればいい。そう言ったらあの男、杖をかなぐり捨てて暴れるものだからあのザマだ。幸い、こうして屈強な者たちが居てくれたおかげで大事には至らなかったけどねえ」
 
 はは、と声を揃えて嗤った男達の背後に、潰れた父が伏している。
 
「痛めつけたら動かなくなりましたよ。命がまだあるかは知りませんけどね。私は村を治める者ですから慈悲深くあらねばとあなたの元に連れてきたんですよ。先代の雨巫女亡き今、たったひとりの父であり娘でしょう?」
 
 耳の奥でざああと流れていくのは血の気が引く音なのか。
 ぼんやりとした聴覚が拾ったのはカランカランと床を滑る金属音だった。
 ただそれだけなのに、男達がびくりと震える。自分たちのしたことに対して肝が小さすぎて滑稽だな、と現実を俯瞰している自分を自覚しながらみちるは音の方向にゆっくり首を向けた。
 鏡のような峰が粗末な床を映している。奉納されていた神剣だった。みちるが打ち付けられた衝撃で床に落ちたのだろう。
 
「……ああ、これはお誂え向きだ! ちょうどいい。雨巫女様、これで貴方の血を頂きましょう。雨巫女の血を吸った剣で美沙に継承の神楽を舞わせる。あの子が次なる雨巫女だと知らしめられるいい機会だ」
 
 悪趣味極まりない思いつきに酔っているのか、頭領はそれを手に取ると「これが代々受け継がれる神剣ねえ」と値踏みするような視線で舐め回す。
 それは母が帯び、父が手入れをし、みちるに受け継がれたものだ。代々の雨巫女達が大切にその神力を込めて、祈りを捧げてきたものだ。
 
「やめ……」
 
 それを土足で踏み荒らす蛮行に、みちるの中にいる何かがみちるの喉を震わせる。しかし、そのか細い声など届いていないのか、頭領はそれを隣に控えていた男に渡すと自分は後ろに退いた。
 
「えっ、自分がですかい!?」
「なんだ、名誉なことだろう。こんな得物を使う機会などそうそうないぞ」
「いや、美沙お嬢様に捧げるものを自分が……」
「案ずるな。美沙に直接手渡す役目をお前などに任せるわけがないだろう。言わば下準備だよ」
 
 何やらごちゃごちゃとしたやりとりの下でみちるの心臓が体から逃げ回らんばかりに内側から胸を叩き続けている。
 しかし体はちっとも動かない。浅い呼吸が彼女の生命の終わりまで定められた回数をこなしておかねばと躍起になって命の灯火の早回しをするだけだ。
 みちるの体に影が差す。神剣を振りかぶった男の輪郭で覆われる。
 殺される――その恐怖に塗り潰されそうなその片隅に、これで終わりにできるという安堵がちらつく。
 これは逃げだ。否、逃げてもいいのかもしれない。みちるは出来損ないの雨巫女なのだから。
 恐ろしいのに美しい切っ先から目が離せない。男は見えていない。剣が意志を持って貫いてくれたなら。
 終わりにしてはいけない。もう楽になりたい。雨が呼べたなら。
 母様。
 
 振り下ろされた輝きが――みちるから弾かれて視界から消えた。
 
「っぐあ!?」
 
 男が腕を押さえて蹲っている。その巨躯から跳ね飛ばされたのは――折れ曲がった杖だった。
 
「みちる……逃げろ」
 
 上半身だけ起こした父親が、持ちうる力を振り絞って杖を投げたのだ。
 
「と……さま」
 
 呪縛から解かれたようにみちるは体を起こす。後ろから冷たい風が入り込んできて意識が覚醒していく。蝶番が転がっている。みちるがぶつかった時に勝手口の戸が壊れたのか。
 
「こいつ、生きて……!?」
「邪魔をするな!」
 
 戸惑いと怒号が飛び交う中、みちるを殺そうとしていた男が立ち上がる。その足で蹴り飛ばされた固い何かがみちるの手に吸い込まれるように滑り込んでくる。(いかめ)しい顔をした龍と目が合う。神剣の柄だった。
 咄嗟にそれを抱え込んだみちるを、男達の腕にもみくちゃにされた父親が見て頷く。
 
「いきなさい、みちる」
 
 いつもの笑顔だった。手習いを見てくれていた時の、料理を褒めてくれた時の、おはようとおやすみを返してくれた時の。
 不釣り合いすぎるその笑顔に、みちるは何が日常で非日常なのかわからなくなる。
 
「あ……」
 
 父に向かって這い寄ろうとした手が、転がっていた杖で阻まれる。その一瞬、父親はぎっと目を見開いた。
 
「逃げろ!!」
 
 声に突き飛ばされたみちるは壁に背をぶつける。その拍子に勝手口の戸が導くようにばたんと開いた。
 転がり落ちるように奥宮を出る。ざあ、と鎮守の森が風に揺れて葉を騒がせる。
 
「父、様」
 
 怒号が聞こえる。あそこに戻れば父がいる。しかしそれは父の望みに反することだ。
 木々のざわめきで覆い隠せない罵声が、荒れ狂う不協和音が大気を揺らす。

 音がした。

 聞いてはならない音だと――何の音か、認識する恐怖が喉から迫り上がる。
 声にならない叫びを押しとどめて、みちるは神剣を抱きしめて森に入った。
 雨が降っていなかったおかげで土はぬかるんでおらず、走りやすかった。それでも駆けて行く足が土埃を巻き上げずからからにならぬのは、朝露や夜露が土を適度に潤し、葉がその蒸発を防ぐからだろう。
 雨巫女が雨を呼ばずとも、あるがままの有り様で生きている生命が山とある。
 父の教えが耳に蘇った。
 熱くなる胸を抱えた神剣ごと押さえ込み、みちるは枝を避けて駆け続ける。追ってくる男達の怒号を葉が遮っているのか、はたまた彼らが見当違いな所を探しているのか――とにもかくにも耳につくのは自分の呼吸だけになった頃、森の終わりが見えた。
 月明かりに照らされた泉が、みちるを待っていた。
 水かさは変わらず少ない。しかし、人ひとり沈んだところですぐには露見しない深さではあった。
 みちるは泉の淵に沿って祠へ向かう。そこで足首に強い痛みが走って崩れ落ちた。
 
「っつう……」
 
 走っている最中に捻ったのか、はたまた壁に叩きつけられた時に痛めたのか。最早どちらでも良かった。
 痛みを覚えた途端に体じゅうの力が萎えてしまったのか、うまく手足が動かせなくなる。早鐘を打ち続けてきた心臓が喉のあたりで暴れている感覚に咳き込んだら止まらなくなった。
 
「う……」
 
 咳を飲み込み、懸命に立ち上がろうと身を起こせば赤いものがほたりと落ちた。見れば腕の内側やら手のひらやらが引っ掻いたような傷で真っ赤だ。
 抜き身の剣を握りしめて走ってきたのだからあちこちが傷ついているのも当然だった。
 ざり、と泉の淵の意匠を指で掴みながら立ち上がる。足を引き摺りながら祠の前へたどり着く。崩れ落ちるように座り込み、それでもなんとか裾を直すと、昼間と同じく青い御神体が静かにみちるを見据えた。
 
「申し訳、ございません。今代の雨巫女は、お役目を果たせませんでした」
 
 額を地面に擦り付けるように伏す。祠からの答えはもちろん返ってこない。
 何処かで、泉の水面が波打つことを期待していた。叱咤するような冷たい飛沫を。労るような柔らかな雫を。
 だが――風ひとつ吹かぬ森はたまさかの悪戯すら齎してはくれない。
 これこそが祠の答えなのだと認めざるを得ない、凪いだ水面からの無言の宣告を目に焼き付け、みちるは神剣を手に取り刃を首筋に当てた。
 逃げろと言ってくれた父のことを思えば裏切りだが、もうみちるには生きる理由がない。黄泉の国に逃げるのだと思えば少しは気持ちも楽になるだろうか。
 
「……母様、父様には会えましたか。わたしも、そちらへまいります」
 
 全力で駆けて来た体に刃は冷たく、その生命を終わらせようとしている体は熱い。
 
 「……っ」
 
 刃を押し当てる。もっと力を込めて勢いよく引かねばこの生命は終わらない。
 はらはらと揺れては首から逃げようとする刃に手を添えて、歯を食いしばってぐいと引いた。
 熱い。これを感じるということはまだ生きている。
 それでは駄目なのだ。
 みちるはもう一度やり直そうと神剣を膝の上に置いた。改めて見れば、刃の切っ先から柄まで一直線に溝が掘られている。その終点は柄で待ち構える雨龍の大きく開いた口だった。
 生命を丸呑みせんとするその迫力にみちるはすべてを預けるつもりで、静かに刃を押し当て、引いた。
 行きどころを失った血がすうと溝を流れていく。切っ先から柄へ、そして――龍の口が赤く濡れた時。

 空全体が白刃となって、泉を一閃した。