天の底が裂けたような夜だった。
 屋根を打つ雨音にも負けぬ赤ん坊の泣き声。雨のひと粒ひと粒が己の糧であるかのように泣きわめいては産声をあげるその赤ん坊に、女はぐったりと手を伸ばす。
 傍らに寄り添っていた侍女が手早く清めて胸に抱かせた赤ん坊は、これが母の胸とわからぬままに泣き続けている。
 
「まあ! 雨巫女様によく似た玉のようなお姫様」
「ふふ、もう顔立ちが、わかるの? お前は先読みの御加護、持ちだった、かしらねえ……」
 
 大きく胸を喘がせている女は、途切れ途切れに侍女に軽口を返す。それをあっけらかんと笑い飛ばした侍女は「あたしくらいになると、御加護なんて大層なものは頂かなくても、お方様のことならわかるんでございますよう」と言いつつ、汚れ水の入った桶を下に除けた。
 
「まあ、それはありがたい、こと……でも、私にはまだわからないわ……女の子は父親似の方が、幸せになれる、って言うけれど、ねえ」
 
 困ったように微笑む女は、我が子をどう抱き上げていいものかわからずに、ただひたすらに上下する小さな体を見つめている。
 見かねた別の侍女が、女の汗を拭う手を下ろして抱き真似のそぶりをやってみせる。目で頷いた女はそれに倣おうとするが――どうにも形にならない。それでも懸命に半身を起こした女は乱れた袷を直そうともせぬまま、見よう見まねで我が子を抱くことができた。
 細腕の中で泣く小さな小さな赤ん坊。
 その産声に寄り添おうとするのか、ますます雨の勢いは増している。
 屋根を突き破らんばかりの勢いで落下してくる雨粒の勢いに、出産では何も動じなかった侍女達がちらりと顔を見合わせ視線で不安を共有し始める。
 すると、赤ん坊を抱いていた女が「大丈夫よ」とひと言だけ発した。託宣の如く凛と響いたその声は、出産で消耗しきっていたとは思えないほどに張りがある。
 
「雨を司る雨龍(うりゅう)の御方が寿(ことほ)いでくださっているの。新たな雨巫女が産まれたぞ、水の恩恵は瑞波の家から波紋のように広がっていくに違いない――そう、鳴り物で教えてくださっているのだわ」
 
 そう言い切る女の瞳は侍女も、赤ん坊も通り越した遙か彼方を見つめている。憑き物が操っているような常人離れした佇まいは、不自然なほどにぴんと伸びた背筋が物語っている。
 巫女の託宣を引取るよう、部屋に閃光が走る。
 昼間のように煌々と照らされた室内で互いの顔を目に焼き付けた侍女達は、次の瞬間、腹に響く雷鳴に悲鳴を失った。
 近くに落ちたか。振動が皮膚を伝う。
 言葉を忘れて口を開けたままの彼女達だったが、ひとりがすうと深く息を吸い込んだ。
 
「……あっははは! さすがは雨巫女様!!」
 
 彼女の哄笑で呪縛が解けたかのように、片割れも手を叩いてそれに続いた。

「まさに鳴り物! まさに雨龍の御方からの御祝儀でございましたなあ! それを拝領される前に看破なさるとは天晴れなものにございます」
「そしてそれを授けられたこちらの姫君様もまたご立派! 瑞波のお家はこの姫巫女様が恩恵で潤し、更なる発展への流れを生んでくださることでしょう」
 
 彼女たちの心の波をひと言で鎮め、晴れやかな波遊びに転じてみせた女は、口々に贈られる賛辞にはたと我に返ったように目を瞬く。ひと呼吸の後にその瞼はとろんと落ちかけて、巫女の顔から母親の顔に戻っていった。

「……力が無くたって構わないのよ、ただびととしての幸せもあるのだから」
「まァ、そんな勿体ないことをおっしゃらないでくださいな。これほどの雨を呼ぶ姫様ならば天にも届かんばかりの幸せが与えられることでしょうよ」
「さ、お疲れになったでしょう。姫様はお預かりしますゆえ、ゆるりとお休みくださいな」
 
 今だ天高く唸る雷鳴をものともせずに泣き続ける赤ん坊を侍女が軽く抱き上げる。今にも空を引き裂いて赤ん坊を喰らいに降りてきそうな雷鳴に、女は小さく顔をしかめて窓の外を見遣る。
 しばし目に見えぬものと対峙していたことで額に滲んだ汗を拭うこともせず、母になったばかりの女は、離れゆく我が子の輪郭を指の背で撫でた。

「神に愛されることが幸せとは限らないの」
 
 人の瞳のまま、静かな託宣が母の口を動かす。
 忙しく立ち働く侍女達はそれに気がつかない。
 わんわんと泣く赤ん坊をあやそうとでもしているのか、でんでん太鼓のような雷鳴が寄り添っていく様を眺め、母は空っぽになった手のひらを握る。

「幸せであれば……それでいいのよ」
 
 けほ、と浅い咳が喉をついて出る。満ち足りた表情にひとすじ影が差した。