あれから一か月が経ち、先週の日曜日は公認会計士短答式試験だった。つまり、もうすぐ大人気だったクッキープレゼントキャンペーンも終わった。
「常連さん受かってるといいねえ」
 朝食後、例のクッキーを頬張りながら英理香が言った。
 キャンペーンをきっかけに予備校の生徒さんたちがうちの店に通ってくれるようになった。以前より大幅に売り上げが上がっている。
「って、話をうちの同僚としててさー」
 しかも、このキャンペーンは口コミやSNSで広まり、主に時が丘駅沿線から会計士やその卵の人が来るようになった。二週間前までは監査業界が繁忙期だったこともあり、会計士が来るのは土曜日だけだったが、キャンペーン最終週に入ってからは退社後と思われる会計士から「インスタでキャンペーン情報見て来ました」とよく言われた。
「あ、うちの新人君はねー、なんか難しい名前のチョコケーキ推しだってさー。わかる。あれめっちゃうまい。あの子絶対出世するわ」
 それは英理香の会社の人達も例外ではない。というより、英理香が会社で宣伝してくれたり、終業後同僚と一緒に店に寄ってくれたりした。
「宣伝どうも。助かってます」
「まー、推しの布教はオタクの義務みたいなもんですから」
 そう言って二枚目のクッキーを英理香は口に入れた。プレゼントキャンペーンは終わったが、クッキーは大好評だったのでレギュラー商品化した。毎日売り切れ御礼の人気商品である。
「推しっていえばさ、朋佳ちゃんすごいよね」
「それな! アマリリス先生の古参ファンとしてマウントとっていく所存であります!」
 「会計士勇者エル」の絵がインターネットでバズった結果、絵師アマリリスのアカウントのフォロワー数は十倍近くに増え、お仕事の依頼も受けるようになったらしい。朋佳ちゃんのシフトは減ったが、夢に近づいているのだから喜ばしいことだ。
 最近店長も「バイトの朋佳ちゃん」ではなく「絵師アマリリス先生」として彼女に接しているように見える。クッキーのレギュラーメニュー化のポスターも「お仕事」として正式に依頼したらしい。
「それでさ、モデルの会計士勇者エル様にちょっと相談があるんですが」
「はいはい、なんでございましょー? 私、会計士勇者エル様でーす!」
「会計士勇者エルのキャラケーキ出すって言ったら、どう思う?」
 会計士勇者エルの画像が万バズした結果、数は少ないもののネットにはファンアートがアップされたりと、ちょっとした人気コンテンツになっている。予約制の完全受注生産なら売れ残りの心配もないし、著作権を持っている朋佳ちゃんも結構乗り気だ。
「ええええ? うそっ? マジで? キャラケーキって、そんなのアニメの主人公じゃん! 大出世じゃん!」
 英理香が目を輝かせる。
「よしっ。許可とれた。あ、これ完全にオフレコでお願いしますよ。主人公さん」
「言わない言わない! 守秘義務守ることに関しては私最強だから! で、いつ発売すんの?」
「えーっと、早ければ合格発表に合わせて合格祝いケーキとしてだそうと思ってるから一か月後。で、八月の論文式試験の合格祈願バージョンとか色々出していけたらなあ、と」
「買う! 絶対買う! 出たら教えてね!」
「英理香受験生じゃないじゃん……」
「それがさ、自分もうすぐ昇格面談なんすよ」
「えっ、マジで?」
「つーことで、昇格のお祝いケーキはメグのとこで買うって決めてるので。いやー、最高! 期待してる!」
「別にわざわざ店来て買わなくても、英理香のためならリクエストくれたらなんでも作りますけどね」
 繁忙期があけてから、毎日英理香はうちの店に来てくれている。キャンペーンは先週終わったが、今週も毎日ケーキを買いに来ている。結構な出費になるだろうから申し訳ない。
「はあ? 最推しにはお金落としてなんぼでしょーが。私は才原めぐみのファン第一号として、一生人にマウントとって生きていくんだよ。つーことで、今日も現場行きまーす」
 英理香のウインクにドキッとした。推しって、朋佳ちゃんじゃなくて私のこと? ああ、英理香には敵わない。
「あはは、えっと、あんまり無理しない程度に、お願いします」
 返事もなんだかしどろもどろになってしまう。十五年来の親友相手に何照れてるんだ、私。
「余裕。推しに課金するために稼いでんだから」
 お金のハンドサインをしながら英理香がにやりと笑った。

 その後、私よりほんの少し出勤時間が早い英理香を玄関で見送る。靴を履きながら、英理香が独り言のようにつぶやく。
「オタクという存在はさ、与えられるコンテンツをありがたくいただくべき存在であって、推しに対してリクエストなんて行為はおこがましいんですよ。その辺わきまえてないオタクって厄介だからさ、そうはなりたくないわけです」
「はあ」
「全然話は変わるんだけどさ、オタクという生き物はね、伏線回収と原点回帰が大好物なんだよ。わかるかい、ワトソン君?」
 振り返った英理香が、じっと私を見つめる。
「じゃ、行ってきまーす。今日も推しのためにバリバリ稼いでくるわ」
 英理香は親指を立てて笑うと、ハイヒールを鳴らして出ていった。意気揚々と“戦場”へ向かう勇者の背中を見送った。

 小日向英理香は馬鹿だ。私にとって英理香がどれだけ特別な存在か、あの子は全然わかってない。英理香が言ってくれたら、なんだって喜んで作るのに。直接的なリクエストがおこがましいからって、ヒントで情報を小出しにするなんて逆に厄介なかまってちゃん仕草だ。
 そして、才原めぐみはもっと馬鹿だ。英理香の遠回しのリクエストがわかるワトソン君は私だけだと世界中の人間に対して心の中でマウンティングをかましているからだ。そして、英理香の一言一言に舞い上がって、「推し」の一言だけでハードな一週間だって余裕で乗り切れるし、なんなら生涯現役で頑張れる気がするからだ。
 今週の日曜日は家でチョコレートを作ろう。現状、ル・メイヤー・アミでは取り扱っていないナッツ入り生チョコレート。十年前よりもクオリティが高いと思うので期待していてほしい。