英理香が家を出てからだいぶ経つ。一日が千年にも二千年にも感じる。
「家賃振り込んでおきました」
「了解」
 数日前に英理香からラインが来た。ブロックは杞憂だったようだ。きっと頭を冷やすためにラインを開かなかっただけなのだろう。結局、謝るタイミングも肉じゃがのお礼を言うタイミングも失ってしまった。
 普段は朋佳ちゃんをはじめとする応援している絵師のイラストを拡散したりリプライをしたりしているSNSも完全に音沙汰なしだったが、これも忙しいから以上の意味はないのだろう。
 英理香のいない食卓は寂しい。作る張り合いがない。一人じゃ何を食べたっておいしくないし、食欲もわかない。このままじゃ味覚障害や摂食障害になりそうだ。そうなってしまったら私はパティシエールとしておしまいだ。

 今日は私の決戦の日だった。それはパティシエールとして、才原めぐみという一人の人間としての矜持をかけた戦いだ。
 ここに勤め始めて以来最も忙しかった日と言っても過言ではない一日を終える。「CLOSE」の札を掲げたあと、次々にバイト達が帰っていく。
「じゃあ、戸締りよろしくね」
「はい、お疲れさまでした」
 店長も帰り、店には私一人だけが残った。

 今朝、一通のラインを英理香に送った。
「一生のお願い。今日深夜になってもいいから店に来てほしい。何時になっても待ってる」
 長い付き合いだが、今日まで一生のお願いを温存してきてよかった。既読はちゃんとついている。
 ポケットの中でスマホが震えた。
「仕事終わった」
 英理香からのラインだった。続いて『勇者クロニクル』のキャラクターが「今行くぜ」と言っているスタンプが来る。大体三十分くらいか。
「クローズの札かかってるけど、気にせず入ってきてね」
 門灯も含め、電気はつけてある。今か今かと、英理香の到着を待つ。

 バタンと激しい音がして、英理香が息を切らせて駆け込んでくる。
「ちょっと、外の、あれ! 外の、あれ、何?」
 久しぶりの再会だと言うのに情緒も何もあったものではなく、語彙力を限界まで落とした言葉を発した。
「これのこと?」
 私もまた、喧嘩のことにも近況にも一切触れず、店内のポスターを指さす。これと同じものが店の外にも貼ってある。
「なんで、これ、どうして」
 てっきり喜んでくれると思ったが、英理香は驚いてばかりだ。

 我らがル・メイヤー・アミでは本日から一か月間キャンペーンを開始した。私が提案したキャンペーンだ。このポスターが貼られているのは店の前と中だけではない。「公認会計士試験短答式試験受験生応援月間」を銘打ち、向かいの会計士予備校には同じものを何枚も貼ってもらっているし、同じ絵柄のチラシも配った。
「集え! 経済を守る勇者の卵よ」
 キャッチーな見出しでターゲットの目を引く。マーケティングの基本だ。
「公認会計士もしくは公認会計士予備校の学生・関係者であると証明できるものをお持ちの方に、クッキーをプレゼントいたします」
 潜在顧客として会計士予備校の生徒をロックオンした。週四回程度店の前を通る生徒が何十人もいるのだ。一度でも店の味を知ってもらえれば、絶対にリピーターになってくれる人はかなりの数いる。そう店長にプレゼンした。
 店長が予備校の校舎長にかけあってポスターを貼らせてもらうことに成功したらしい。向こうとしても、生徒や関係者限定の特別サービスを受けることができるのだから悪い話ではなかったようだ。
 おかげで今日はたくさんの公認会計士の卵が来てくれた。ポスターのイラストも目を引くものだったからだろう。
 眼鏡をかけた女勇者が「粉飾決算」とお腹にかかれたドラゴンを一刀両断している。右手の剣は鍔が会計士バッジと同じ黒と金の市松模様、左手の盾は電卓モチーフだ。口には今回のキャンペーンで配るクッキーを咥えている。朋佳ちゃんの最も得意とする絵柄であるかっこいい女の子のイラストは破壊力抜群だ。
「糖分補給は大事」
 試験勉強のお供としてのクッキーを勧めるために、女勇者の吹き出しにはそう書いた。
 前代未聞のキャンペーン。この店の未来がかかった大勝負。広告にはインパクトが重要だ。だから、モデルとなる勇者は私の知っている中で一番かっこいい会計士。イラストには「会計士勇者エル」の名前を添えてある。
 朋佳ちゃんには英理香がキャラメイクした主人公エルの画像を資料として渡してある。英理香は絵師アマリリスの大ファンだ。当然気付いているだろう。ポスターのイラストを描いたのが朋佳ちゃんであることも。勇者のモデルが自分であることも。

「おまっ……アマリリス先生に何させてんだよ……」
 英理香は喜ぶより先に気が動転したようだ。口をパクパクさせて、ポスターを指さしている。
「ちゃーんと店長が特別手当出して仕事として依頼してますよ。詳しいことは経理じゃないからわかんないけどさ」
 技術の無料搾取は暴力だ。ものづくりで生きている身としてそんな失礼なことをするわけがない。
「というわけでバッジみーせて、会計士さん」
「だから、バッジ普段からつけてるやつなんていないっつーの」
 そう言うと英理香はスマホで日本公認会計士協会のホームページを検索して私に見せてきた。公式のデータベースに「小日向英理香」の名前と英理香の所属する監査法人の情報が載っている。
「はーい、確認しました。こちら、会計士バッジクッキーです」
 英理香にクッキーの入った袋を手渡す。本当は別の商品を買った人限定のサービスだが、本日は完売御礼なので特別だ。
 公認会計士のバッジと同じ楕円型で黒と金の市松模様のアイスボックスクッキー。黒は英理香の大好きな黒ゴマを練りこんだ生地で表現。プレーン部分は黄金色に焼き上げて、杏ジャムを薄く塗って光沢を出すことでバッジらしさを出した。以前、和スイーツを作っていて発見したことだが、杏と黒ゴマは意外と合う。これが私のパティシエールとしてのすべてをかけて作ったクッキーだ。
「なんで……」
 英理香はクッキーを持ったまま呆然としている。状況が呑み込めていないからだろう。
「英理香の肉じゃがに触発された」
 あの肉じゃがを食べて、私は明日も頑張ろうと思えた。落ち込んだ人を元気にする料理。料理人でもなんでもない英理香はそれができたのに、私が毎日お菓子を持ち帰っても英理香の心を救うことはできなかった。そんなのパティシエール失格だ。

 このクッキーの人気をきっかけにキャンペーンが大成功して店の経営が持ち直したら、私はこの店の運命を変えたことになるかもしれない。あるいは、公認会計士試験を応援することで不正をなくすために働く会計士の力になって、その人を通じて間接的に世界を変えることができたなら、私はお菓子で世界を変えたことになるかもしれない。
 でも、そんなことはどうでもよかった。そのあたりの理由は全部この企画を通すための建前だ。
「ねえ、今食べて感想聞かせてよ」
 私がこのクッキーを食べてほしい相手はただ一人。小日向英理香だけだ。

 たった一言、「ごめん」と言うことは簡単だ。「あなたはかっこいい主人公だ」と言うための口はついている。でも、私は軽率に言葉を発して英理香を傷つけた。言葉は“軽い”。私は言葉に魂を込めて仕事をしているわけじゃない。何も背負わない私が無責任に発した言葉。そんなもので英理香を肯定したところで、力になれるなんてとんだ思い上がりだ。薄っぺらな言葉で取り繕ったって、またいつか同じように傷つけあう未来は目に見えている。
 たとえば私が漫画家ならば英理香を主人公にした物語を書いてあげられる。じゃあ、朋佳ちゃんにお金を払って、かっこよく活躍する会計士としての英理香のイラストを描いてもらえばよいのかと言えばきっとそういうわけではない。
 英理香の公認会計士としての正義を肯定する物語を、私のお菓子を介して作り上げる。誰もが憧れる最強の主人公としての英理香の物語には何が必要か。
 一万ピースの真っ白なジグソーパズルを組み立てるくらいに、考えて考えて考えまくって、寝る間も惜しんで試作してようやくこのクッキーにたどり着いた。
 英理香がお姉さんを羨ましがってくれたバッジモチーフのお菓子。英理香の憧れる勇者としての物語。尊敬する絵師。英理香の偶像に憧れる後進の会計士の卵。最終的に英理香の物語は経営の傾いた店を救い、名実ともに英理香は勇者になる。
 公私混同も甚だしい計画だ。プロ失格と言われても仕方ない。それでもいい。一番大切な人も笑顔にできなくて何がパティシエールだ。友達のために人生フルベットする生き方があったっていいじゃないか。

 英理香が袋を開けてクッキーをかじる。私はじっと英理香の顔を見つめた。
「どうよ?」
 英理香の頬を涙が伝った。つい最近まで、長い付き合いにも関わらず一度も見たことがなかった英理香の涙をこの短期間に二度も見ることになるとは。
「うま……。神……」
 今にも消えそうな声で英理香が呟いた。そうだ。この瞬間のために私はお菓子を作っているんだ。そのあと、ゆっくり味わって残りを食べた後、食レポが始まる。
「これ、私のめっちゃ好きなやつだ。サクサクだし、甘酸っぱい感じもあってほんと無限に食べたい」
 いつもと違うのは声が小さくて震えていることだけだ。
「いくらでも作ってやんよ。そのためにパティシエールやってんだから」
「……ごめんね」
 少しの沈黙の後、英理香の口から出たのはこの場にそぐわない謝罪の言葉だった。違う。そんな言葉が聞きたくてこのクッキーを作ったんじゃない。許すとか許さないとかそんな低次元な話は漫画喫茶に置いてきた。
「謝んなし。てか、泣き止めし。別に私怒ってないんだけど」
「いや、違くて。なんか、ね。ほんとごめん」
 泣いたかと思えば「ごめん」連呼。はっきり言って英理香らしくない。

 もしかして私の思いは伝わっていないのか?
 ああ、やっぱり小日向英理香は馬鹿だ。いつもコンテンツをすごく深い感じで考察しているけれど、その考察が明らかに間違っていることもちょくちょくある。勉強ができるかどうかとアニメの考察力は必ずしもイコールではない。そして、私のことをやたら「ワトソン君」と呼ぶ私のホームズ様はあまり推理力がおありにならない。一緒に推理アニメを見ていても犯人予想は結構外す。
 だから、私の一世一代のメッセージも正しく伝わっていない可能性は大いにある。まったく馬鹿英理香め。しかし、すれちがいが生じている場合、どちらか一人だけが悪いいうことはない。ディスコミュニケーションは二人の責任だ。だから、英理香に私がクッキーに込めた思いがちゃんと伝わっていないとしたら、きっと私も馬鹿なのだ。
「今まで、ちゃんと言葉にできなくてごめん」
 言葉より行動の方が大事。これは絶対だ。でも、言葉は行動を補完する。
「ずっとかっこいい英理香に憧れてたんだ。英理香と友達になるよりもっと前からずっと。世界を変えようとする英理香は、アニメの主人公よりもよっぽどかっこいいヒロインなんだ。世界から粉飾決算なくすんだろ? 自分の信じる正義のために公認会計士になったんだろ? ずっと私の信じた最強の小日向英理香のままでいてよ」
 もっと早く言うべきだった、なんて今更言っても仕方ない。でも、私の信じた勇者様はきっと過去を振り返ってうじうじしたりしない。だから、残りの人生で一番若い今この瞬間に伝えるんだ。
「お客さんがありがとうって言ってくれないなら、英理香の正義は私が肯定する」
 英理香の目をまっすぐ見つめる。その目に似合うのは涙じゃなくて希望の光だよ。
「この世界を代表して言うよ」
 日本で生きている以上、日本経済や株価の影響はどうしたって受ける。誰も“それ”を言わないのなら私が代表として言ったっていいはずだ。
「世界を変えるために戦ってくれてありがとう、勇者エル様」
 英理香はまた大粒の涙を流しながら無言でうなずいた。

「あはは、クッキーだけで伝えられたらかっこよかったんだけどさ。まあ、なんせまだまだパティシエールとしては未熟なもんだからね。才原めぐみ先生の次回作にご期待くださーい」
 照れ隠しに笑い飛ばし、店を閉める準備をするためにバックヤードに戻ろうとするとカウンター越しに服を掴まれた。
「ちゃんと伝わってたよ、全部」
「いや、あんたが泣いてたからさ」
「……感動してただけ。そんくらいわかれ馬鹿。ちょっとは国語勉強しろ」
 つまり、とっくに伝わっていることをべらべらとしゃべっていたということになる。自分のギャグの説明をしてしまう芸人のようなことをしていたということだろうか。恥ずかしい。最悪だ。
「すいませんね、最後に受験勉強したの十二歳の時なもんで」
「知ってる」
 結局、これくらい失礼な方が英理香らしいのかもしれない。私のヒロイック熱烈語りタイムはいったんなかったことにして、改めてクッキーの感想に話を戻す。
「何はともあれ、伝わったならHPとMP、ちょっとは回復した?」
「全回復通り越して最大値あがった」
「ほう、どんくらい?」
「9999無量大数」
「なるほど、それは最強だわ」
 数字を使う職業の人とは思えないような、小学生が大好きなワードが飛び出してきた。食材の名前に全然詳しくないわりにこだわりポイントを見抜いて、パワーワードでほめてくれる英理香が大好きだ。あんたがいなきゃ、食事の時間がつまらなくてしょうがない。
「帰ってきてよ、最強の勇者エル様。私のパーティーにはあんたが必要なの」
 十五年以上一緒にいたくせに喧嘩も仲直りも下手な私たち。クッキー食べて仲直りなんて、他の人から見たらとんだ子供騙しだろう。それでも、最強で不器用な私たちにとってはこれが最高の仲直りなんだ。
「ただいま、ワトソン君」
 明日からも監査業界が繁忙期なのは変わらないし、パワハラ上司は異動にならない。食材の値段は日々高騰しているし、体力勝負の世界で十年二十年後やっていけるかはわからない。それでも、二人ならきっと大丈夫。
 また不安な気持ちになったら、楽しいティータイムにケーキを添えて全部吹き飛ばしてしまおう。