最近、店の売り上げが以前にもまして芳しくない。何か革命的なテコ入れをしないと、この店に将来はない。そうなれば必然的に私も路頭に迷うことになる。仮に失業したとしても、英理香が私を即座に追い出すとは思えないが「家賃が払えません」なんて迷惑をかけながらふてぶてしく居候する鋼のメンタルは私にはない。
それが半年後になるのか一年後になるのかはわからない。杞憂かもしれないが、心配の種は尽きない。
「今日、荷物受け取っといてくれない?」
月曜日、英理香は仕事で私は休み。休みの日と言えども心が休まるわけがない。
「おーい、メグ、聞いてる?」
「うん聞いてる。荷物ね。オーケー」
「サンキュー。今日も遅くなる」
英理香は最近繁忙期に突入したようで、いつも帰りが遅い。疲れ切った顔で帰ってきて、大好きなゲームをする余力もなく、ご飯を食べるとすぐ寝ている。
英理香を見送った後、ふと我に返る。いつまでこの仕事を続けられるのだろう。パティシエールは体力勝負の側面があり、年をとればいずれ味覚も衰えるだろう。材料費の高騰、若者のスイーツ離れ、十年後の製菓業界を取り巻く環境がどうなっているのかもわからない。
ダメだ。一人になるとろくなことを考えない。思い悩んでいるうちに、何もできずに昼になってしまった。昼食は普段通り適当にカップ麺で済ませる。
自分で作った料理は味の予想がつくから、どんなに上手にできても感動がない。お菓子を作るときは仕事モードのスイッチが入るから、完成したものが商品としての価値があるか判断できる。しかし、プライベートの料理では何を作っても正直インスタント食品の方がおいしい気がする。
「英理香、早く帰ってこないかな」
英理香がおいしそうに食べる姿を見て、初めて私も美味しいと感じることができる。最近、その時間だけが私の癒しだ。
その時、突然インターホンが鳴った。英理香が鍵を忘れたのかと思い確認すると、宅配便だった。英理香はぬいぐるみを発注していたらしい。そういえば、この間はまっているゲームのマスコットの等身大ぬいぐるみが発売になったと大騒ぎしていた。
英理香は「かわいい!」と半狂乱になりながら予約開始と同時に購入していたが、お値段は当然可愛くない。英理香の座右の銘は「推しは推せる時に推せ」なので、グッズを買うときは金に糸目をつけない。今は繁忙期だからグッズを買うだけにとどまっているが、時間のある時にはライブに高い交通費と宿泊費をかけて遠征している。漫画やゲームを買うときも値段を見ている素振りはない。
お互いの年収を正確に把握しているわけではないけれど、英理香は私の倍以上は稼いでいるだろう。監査法人はそうそう潰れないし、失業の心配とも無縁。激務ではあるけれど、それに見合った安定と報酬があることが羨ましい。
ダメだ。今日の私、本当にダメだ。英理香に嫉妬してどうするんだ。恨み妬み嫉みは友情が壊れる原因。考えるな。頭を空っぽにしろ。それにしても疲れた。もう嫌だ。何も考えたくない。
「ただいまー。はー、今日もクライアントがカスだったわ。必要だから資料頼んでんのに逆切れしてくんなし」
寝落ちしてしまっていたようだ。英理香が帰ってきた。
「ごめん、寝てた。晩御飯の準備できてない。てか、冷蔵庫なんもない」
今日は買い物に行く予定だったのに。家事分担のうち料理担当は私なのに。最近、仕事だけでなくプライベートもうまくいかない。
何か作らなきゃ。近所のスーパーは二十三時までやっているし、ギリギリ間に合いそうだ。
「あー、別にカップ麺とかでいいよ」
「ごめん」
慌ててお湯を用意する。その間も守秘義務に触れない範囲でクライアントすなわち監査先の愚痴をずっと言っている。
「ったく、もっと感謝しろって感じ。お前らの間違いだらけの報告書そのまま世に出たらお前ら終わりだっつーの」
その言葉も全部右耳から左耳に抜けていく。自分に余裕があるときならもう少し寄り添ってあげられるんだろうけれど、ちょっと今は心に余裕がない。音を立てる電気ケトルをぼーっと見つめていると、なんだか急に全部がばかばかしくなった。
「たまには人が作ったご飯食べたい……」
つい独り言が漏れた。一緒に住んでいたころはあんなに反発していたはずなのに、今では母の肉じゃがが恋しい。
「え、お前が作れって言ってる? めんど……さすがにこの時期は勘弁してよ」
「そんなこと言ってないでしょ。料理に関しては英理香に期待してないし」
英理香はまるで料理ができない。なまじ味覚は人並外れて鋭敏だから、「自分で作ったご飯まずすぎて食べられない」と言っているので、私が料理担当。実に合理的だ。
「期待してないって、ひど。今の言い方うちのモラハラ上司そっくり」
今日の英理香はやけにつっかかってくる。心を亡くすと書いて忙しい、忙しすぎて心に余裕がなくなっているのだろう。でも、さすがに今の発言は看過できなかった。
「いや、自分は散々愚痴言っといて、私が一言独り言で弱音はいただけでモラハラ扱いする方がモラハラじゃない?」
今、言い方すごく刺々しかったな。口調くらいは柔らかくすればよかった。頭ではそうわかっていても、感情がコントロールしきれない。私も心に余裕がない。
「すいませんね、当方ブラック企業の歯車な身なもんで。ちょっとトラウマ発動しちゃいましたー」
ふてくされたような態度で英理香が言う。お湯はとっくに沸いているが、こうなるともうカップ麺どころではなかった。
「なにそれ、私の職場がホワイトでお気楽ですねって? 何も知らないくせに勝手なこと言わないでよ」
わかっている。英理香は何もそこまで口に出してはいないし、被害妄想かもしれない。
でも、英理香は知らない。店長と仲がいいからこそ経営のことで悩んでいる店長を見て心を痛めている。それこそ、職場は遊び場じゃないから仲さえよければ全部の問題が解決するなんてご都合主義は存在しないのだ。
私にだって、仕事の悩みはある。でも、私はそれを家に持ち込まないのに、英理香が一方的に持ち込んで空気を悪くすることがどうしても許せなかった。
「ケーキ屋に来る客みんな上機嫌でまともなんだから、理不尽なクレームとかないだろ」
私の反撃を受けて英理香がますますヒートアップする。そっちが先に始めたくせに。
「そのぶん英理香は稼いでるじゃん! いいよね、何でも好きなもん買いたい放題で、将来の心配がない人は!」
「そっちこそ、好きなことしてるだけで金入ってくることの何が不満なんだよ」
その瞬間、私の中で何かが切れた。こんなの英理香じゃない。幻滅の二文字が私の脳を埋め尽くす。私に夢をくれた日の、嘆願書を書いてくれた日の、同窓会で私を庇ってくれた日のかっこいい勇者はどこにいってしまったんだよ。
「だったら、会計士資格じゃなくて調理師免許とればよかったじゃん! 自分で選んだ道なんだからあとからグチグチ言うなよ!」
私には謝らなくていいから、「世界から粉飾決算をなくす」と夢を掲げた勇者の卵に謝れ。学校という小さな世界を変えようとして児童会長に立候補した正義の少女に土下座しろ。
「今どきモブキャラでもそんなダサいこと言わない。今の英理香、かっこ悪いよ」
私の夢も英理香の夢も否定するつまらない女に成り下がるなら主人公なんて降板してしまえ。わざと一番英理香に刺さる言葉を選んだ。
突然バンッ、と大きな音がした。英理香が机を叩いて立ち上がった。心臓がヒュッとなる。俯いているから顔は見えないが、絶対に怒っている。
あ、やばい。地雷踏んだ。さすがに言い過ぎた。そういえば英理香は小学校の頃、いじめっ子に殴りかかったことがある。さすがに暴力沙汰は避けたい。ここは穏便におさめるために謝るべきか? でも、悪いのは英理香だ。短時間の間に思考がめまぐるしく動き回る。
「お客さんにありがとうって言ってもらえるメグにはわかんないよ」
英理香が弱々しく呟いて顔を上げた。目にいっぱいの涙をためて震えている。
人生の半分以上の時を英理香と過ごしてきた。英理香が泣いているところを見るのは初めてだった。私が英理香を泣かせた。
英理香が先に喧嘩を売ってきた。頭の中でいくら言い訳をしたところで罪悪感に耐えられなくなった。
英理香から目をそらし、ケトルのお湯も蓋だけ開けたカップラーメンも放置して玄関へと向かう。
「ちょっと明日の仕込みしなきゃいけなくなったから、今日店に泊まるわ」
嘘だ。早朝に出勤することはあったけれども、泊まり込みをしたことはない。しかも、突然夜中に呼び出されるような事態はどう考えても不自然だ。おそらく英理香も嘘だとわかっていることだろう。しかし、呼び止められることはなかった。
職場近くの漫画喫茶に泊まることにした。ただでさえ金欠なのにまた出費が増えてしまった。しかし、寝床を確保したはいいものの、長めの昼寝から起きたばかりでメンタルも最悪なので眠れる気がしない。
視界にはたくさんのコミックス。気分転換に何か読むか。
ふと、英理香が以前「公認会計士が主人公のコンテンツが少なすぎる」とぼやいていたことを思い出す。カウンターに行って、スタッフさんに聞いてみることにした。
「すみません、公認会計士が主人公の漫画って置いてますか?」
「えっと、どうでしょう? 僕が知ってる限りだとないんですけど、ちょっとキーワード検索かけてみますね」
スタッフさんが手元の端末で検索してくれた。
「あー、すみません。ちょっと出てこないですね」
「いえ、ありがとうございました。お手数おかけしてすみません」
さすがに世の中に公認会計士を主人公にした漫画がゼロということはないだろうけれど、少なくともこの店舗には置いていない。やはり、きわめて少ないのだろう。もしそういう作品があったなら、「会計士主人公の漫画見つけた」報告で喧嘩のことを有耶無耶にできるかもしれないというかすかな希望があったが、そう人生うまくはいかない。
ブースに戻る途中、高校生の頃に英理香がはまっていた弁護士が主人公の漫画を見つけた。私は結局読まなかったけれど、この機会に読んでみるか。英理香と喧嘩をして家出してきたというのに、行動指針に英理香がいる自分に呆れた。
ぱらぱらとページをめくる。基本的に一話完結のオムニバスだから読みやすい。冤罪で逮捕されてしまった依頼人の疑いを晴らし見事無罪判決を勝ち取った主人公に依頼人が泣きながら「ありがとうございます」を繰り返している。
――お客さんにありがとうって言ってもらえるメグにはわかんないよ。
英理香の泣き顔が頭にちらついた。胸がズキンと痛んだ。
弁護士は依頼人に「ありがとう」と言ってもらえる仕事だ。以前、英理香が教師や医師を主人公適性の高い職業として挙げていた。病気がよくなれば患者は必ず医師に感謝するし、良い教師であれば卒業式で生徒から「ありがとう」のあふれる寄せ書きをもらうことだってあるだろう。
勇者を主人公としたゲームでは、モンスターから子供を助けて「ありがとう」と言われるシーンや村を救って村人から感謝されるシーンは定番だ。プレイヤーに達成感を与えるのだから当然のことだろう。
要するに主人公が誰のために行動しているのかが明確で、その行動によって笑顔になるというプロセスの可視化は重要ということだ。長い間英理香と生活していたせいで、物語の考察癖がうつった。
思い返してみれば、私がお菓子作りにはまったきっかけの漫画もそうだ。主人公がお菓子を作ると、風が吹けば桶屋が儲かるかのごとく様々な問題が解決し、お菓子を食べた人が「主人公ちゃんありがとう」と言って終わり。現実はそう簡単にはいかないけれど、お客さんの笑顔とリピーターさんの「この間のケーキ美味しかったわ、ありがとう」に支えられてパティシエールを続けている。
じゃあ、公認会計士は?
公認会計士は監査先の会社の人をクライアントと呼んでいて、実際にその会社から監査を依頼されているけれど、公認会計士が働くのはその会社のためではない。決算報告書の間違いによる損失から、株主や社会を守るためだ。目の前の人に尽くしているのではなく、そこにいない誰かのために目の前の数字と戦っている。多忙な日々にいくら消耗しても、株主たちが公認会計士に「ありがとう」を伝えることはない。
それでも、英理香は「この世から企業の不正会計をなくす」という自分の信じる正義のために戦い続けた。だってあの子は昔からそうだった。「いじめゼロの北小」を掲げて児童会長になったあの子の原動力は“正義”だ。
本当に?
私たちがちゃんと知り合いになったのは六年生の時だったけれど、学年で一番頭がいい英理香のことは一方的に知っていた。そして、彼女の正義の片鱗も。
五年生の二学期、児童会長選挙の立候補期間の少し前。昼休みにトイレに行こうとしたところで隣のクラスの柄の悪い女子何人かとすれ違った。会話の内容も聞いていて気持ちの良い物ではなかったと思う。中に入ると、気の弱そうな女の子が泣いていた。その子と一緒にいたのが英理香だ。隣のクラスの治安の悪さはなんとなく噂に聞いていた。ものすごく気まずくて、すぐに私は個室に入った。
決定的な現場を見たわけではないけれど、ドア越しに聞こえる会話で英理香がいじめられっ子を助けたことはすぐにわかった。
「英理香ちゃん、助けてくれてありがとう」
泣きじゃくっていて聞き取りにくい声だったけれど、名前も知らない女の子が何度もそう言っていたから。
「泣くなって。もうすぐ会長選あるじゃん? そこでこの英理香様が会長になって、いじめのない学校にしてやんよ」
その二か月後に行われた会長選で私は迷わず小日向英理香に一票を投じた。
英理香は困っている人を放っておけない正義の人。私も英理香に救われた人の一人。長年友達をやっていると、英理香が「ありがとう」と言われる場に何度か居合わせたこともある。そんな時、少し照れたような英理香の笑顔が好きだった。
英理香の原動力は正義。「ありがとう」は感謝であるとともに、英理香の正義への肯定。肯定という回復アイテムがあれば、英理香はいくらでも戦える強い人。
じゃあ、今は?
誰が英理香に「ありがとう」と言ってくれるんだろう。誰が英理香の正義を肯定してくれるんだろう? 病気でも事件でも“事”が起こった後に救いの手を伸べてくれた恩人に人は感謝をするけれど、“事”が起こらないように水面下で戦う人間に感謝して生きている人間がどれだけいるだろう?
私が最後に英理香の正義を肯定したのはいつだろう? 同窓会で助けてくれた親友・英理香に対して感謝の言葉は述べた。でも、世界から粉飾決算をなくすために戦う公認会計士・小日向英理香の正義をちゃんと言葉にして肯定したことはあっただろうか?
英理香が疲弊した理由はオーバーワークとパワハラだけじゃない。英理香を動かす正義という原動力に、肯定という燃料が注がれなくなったからだ。誰も私のケーキで喜んでくれなかったら、私はパティシエールを続けられるだろうか?
英理香の苦しみが少しだけわかった気がした。それでも、それでも……。
「私は悪くない」
最低最悪のかっこ悪いモブみたいな独り言。
だって、英理香にだけは夢を叶えた私を否定しないでほしかったんだ。私だって傷ついたんだ。だから、私からは絶対謝らない。
ねえ、英理香。一言だけでいいから謝ってよ。そしたら、私も謝るからさ。
◇
私たちは大きな喧嘩をしたことがない。私は整理整頓が苦手で、英理香はあまりにも私物が多すぎるから、お互いの領域侵犯に文句を言い合うことはある。その際に少し口調がきつくなると気まずくはなるけれど、荷物を整理して私がケーキを持って帰ってくれば細かいことは大体どうでもよくなる。
だから、ちゃんと謝るという習慣が欠如していたのかもしれない。結局お互い謝罪のラインひとつできないまま朝になってしまった。
今日もケーキを持って帰ろう。そうだ、昨日はまともなご飯もデザートもなかったからよくなかったんだ。そう思っていた矢先にスマホを見ると英理香からのラインが来ていた。
「しばらくお姉ちゃんの家に泊まります」
「了解」
それだけ返事してそのまま出勤する。
寝不足の割には特に仕事に支障が出ることもなく、だからといって売り上げが上がるわけでもない大成功も大失敗もない一日だった。
英理香は今日帰ってこないのに、いつもの癖でケーキを持ち帰ってきたことに気づいたのは家についてからだった。習慣とは恐ろしい。
しかし、晩御飯を作る気力も体力もなかったのでちょうどいい。栄養バランスは悪いけれど、黒ゴマプリンだけ食べてさっさと寝よう。英理香が「神」と言ってくれたプリンを食べる。
美味しくない。自分で作ったものがおいしく感じない症候群なのか、英理香がいないから味気ないからなのか。ただ、空腹を満たすだけの空虚な時間が流れた。
いつもの癖で二個持って帰ってきてしまったので、もう一個は明日の朝御飯にしよう。プリンをしまうために冷蔵庫を開けた。すると、私の視界にひとつの器が飛び込んでくる。昨日はなかったものだ。
ラップの上にメモ用紙が載っていることに気づいた。おそらく英理香の朝食か何かの残り物だろう。冷凍庫に入れといて、なのか、捨てといて、なのか確認するためにメモを見る。
「メグが羨ましかった」
鉛筆書きの乱れた文字でただ一言そう書いてあった。謝罪ではなく言い訳。でも、不思議と怒りは湧いてこなかった。お互い様だからだ。
器の中身は肉じゃがだった。買ってきたお惣菜にしては大きさがばらばらで異様に色が濃く、少し焦げている。それが英理香の作ったものであることはすぐにわかった。
英理香は私の好物が肉じゃがであることを知っている。あの後、わざわざ材料を買いに行って作ってくれたのだろうか。疲れた体とボロボロの心に鞭を打って、貴重な睡眠時間を削って、私のために?
その時、ピピーと電子音が鳴った。炊飯器のご飯が炊けたようだ。私が帰ってくる時間にあわせてタイマーをセットしておいてくれたのだろうか。
べちゃべちゃのご飯をよそい、手を合わせる。
「いただきます」
しょっぱい。醤油の味しかしない。砂糖がちゃんと溶け切っていないからジャリジャリしていて、苦い焦げ目のバリバリ感と合わさって食べたことがない食感だ。表面は舌がしびれるほど味が濃いが、じゃがいもやにんじんの中には一切味が染みていないどころか半生だ。お肉も生ではないかと心配したが、よく火が通っていて噛み切るのが困難なほど堅かった。
お母さんの肉じゃがとは程遠いのに、いくらでも食べたいと思った。現実は厳しいことも多いけど、明日も頑張れる気がした。さっき食べたプリンの百倍美味しかった。英理香の愛の味がして、涙が止まらなかった。
食べ終わった後、英理香に連絡しようと思ってラインを開いた。謝るためじゃない。肉じゃがのお礼を言うだけだ。
今朝送った「了解」の一言に既読がついていなかった。午前中に送ったラインは、必ず昼休みには既読がつく。それに、私が返信した時刻は英理香は通勤電車に揺られて手持無沙汰でスマホを見ているはずだ。
「ブロック」の四文字が頭をよぎった。肉じゃがを作ってから夜が明けるまでの間に心変わりしたんだ。私が謝らなかったから。悪い想像ばかり思い浮かぶ。
「肉じゃが全部食べたよ。ありがとう」
打ち込んだメッセージをどうしても送信できなかった。もしブロックされていたらと思うと勇気がでない。仕事が忙しいだけかもしれない。でも、本当にブロックだったら……。
考えた末に、明日の朝「了解」に既読がついていたらメッセージを送ることにした。そうしたら、きっと元通りになれる。問題を先送りしているだけ、それに目を背けて無理矢理眠りについた。徹夜明けの体は想像以上に疲れていて、私は泥のように眠った。
翌朝、起きるや否やラインを確認する。既読はついていなかった。ああ、ブロックされたんだ。昨日散々泣いたので、今更涙も出なかった。
昨日は片付けもしないで寝てしまった。茶碗と器を水につけて、プリンの空容器を捨てようとゴミ箱を開ける。メモの書き損じと思われる紙が入っていた。
「ごめん」
水滴が落ちて滲んだその三文字に胸が締め付けられた。あの子がどんな思いで肉じゃがを作ってくれたのか。私にメモを書いたのか。自分の矜持を何よりも大事にする英理香に羨ましいなんて言わせてしまった。私はどうすればよかったのか。
英理香に聞いてもきっと二度と答えは返ってこない。英理香の心は戻らない。仲直りの魔法を込めたお菓子なんて漫画の世界だけのご都合主義だ。冷蔵庫に鎮座している黒ゴマプリンにそんな力はない。
「目の前の友達一人笑顔にできなくて、何がパティシエールだよ」
あまりの悔しさにプリンの空容器を握りしめた。
それが半年後になるのか一年後になるのかはわからない。杞憂かもしれないが、心配の種は尽きない。
「今日、荷物受け取っといてくれない?」
月曜日、英理香は仕事で私は休み。休みの日と言えども心が休まるわけがない。
「おーい、メグ、聞いてる?」
「うん聞いてる。荷物ね。オーケー」
「サンキュー。今日も遅くなる」
英理香は最近繁忙期に突入したようで、いつも帰りが遅い。疲れ切った顔で帰ってきて、大好きなゲームをする余力もなく、ご飯を食べるとすぐ寝ている。
英理香を見送った後、ふと我に返る。いつまでこの仕事を続けられるのだろう。パティシエールは体力勝負の側面があり、年をとればいずれ味覚も衰えるだろう。材料費の高騰、若者のスイーツ離れ、十年後の製菓業界を取り巻く環境がどうなっているのかもわからない。
ダメだ。一人になるとろくなことを考えない。思い悩んでいるうちに、何もできずに昼になってしまった。昼食は普段通り適当にカップ麺で済ませる。
自分で作った料理は味の予想がつくから、どんなに上手にできても感動がない。お菓子を作るときは仕事モードのスイッチが入るから、完成したものが商品としての価値があるか判断できる。しかし、プライベートの料理では何を作っても正直インスタント食品の方がおいしい気がする。
「英理香、早く帰ってこないかな」
英理香がおいしそうに食べる姿を見て、初めて私も美味しいと感じることができる。最近、その時間だけが私の癒しだ。
その時、突然インターホンが鳴った。英理香が鍵を忘れたのかと思い確認すると、宅配便だった。英理香はぬいぐるみを発注していたらしい。そういえば、この間はまっているゲームのマスコットの等身大ぬいぐるみが発売になったと大騒ぎしていた。
英理香は「かわいい!」と半狂乱になりながら予約開始と同時に購入していたが、お値段は当然可愛くない。英理香の座右の銘は「推しは推せる時に推せ」なので、グッズを買うときは金に糸目をつけない。今は繁忙期だからグッズを買うだけにとどまっているが、時間のある時にはライブに高い交通費と宿泊費をかけて遠征している。漫画やゲームを買うときも値段を見ている素振りはない。
お互いの年収を正確に把握しているわけではないけれど、英理香は私の倍以上は稼いでいるだろう。監査法人はそうそう潰れないし、失業の心配とも無縁。激務ではあるけれど、それに見合った安定と報酬があることが羨ましい。
ダメだ。今日の私、本当にダメだ。英理香に嫉妬してどうするんだ。恨み妬み嫉みは友情が壊れる原因。考えるな。頭を空っぽにしろ。それにしても疲れた。もう嫌だ。何も考えたくない。
「ただいまー。はー、今日もクライアントがカスだったわ。必要だから資料頼んでんのに逆切れしてくんなし」
寝落ちしてしまっていたようだ。英理香が帰ってきた。
「ごめん、寝てた。晩御飯の準備できてない。てか、冷蔵庫なんもない」
今日は買い物に行く予定だったのに。家事分担のうち料理担当は私なのに。最近、仕事だけでなくプライベートもうまくいかない。
何か作らなきゃ。近所のスーパーは二十三時までやっているし、ギリギリ間に合いそうだ。
「あー、別にカップ麺とかでいいよ」
「ごめん」
慌ててお湯を用意する。その間も守秘義務に触れない範囲でクライアントすなわち監査先の愚痴をずっと言っている。
「ったく、もっと感謝しろって感じ。お前らの間違いだらけの報告書そのまま世に出たらお前ら終わりだっつーの」
その言葉も全部右耳から左耳に抜けていく。自分に余裕があるときならもう少し寄り添ってあげられるんだろうけれど、ちょっと今は心に余裕がない。音を立てる電気ケトルをぼーっと見つめていると、なんだか急に全部がばかばかしくなった。
「たまには人が作ったご飯食べたい……」
つい独り言が漏れた。一緒に住んでいたころはあんなに反発していたはずなのに、今では母の肉じゃがが恋しい。
「え、お前が作れって言ってる? めんど……さすがにこの時期は勘弁してよ」
「そんなこと言ってないでしょ。料理に関しては英理香に期待してないし」
英理香はまるで料理ができない。なまじ味覚は人並外れて鋭敏だから、「自分で作ったご飯まずすぎて食べられない」と言っているので、私が料理担当。実に合理的だ。
「期待してないって、ひど。今の言い方うちのモラハラ上司そっくり」
今日の英理香はやけにつっかかってくる。心を亡くすと書いて忙しい、忙しすぎて心に余裕がなくなっているのだろう。でも、さすがに今の発言は看過できなかった。
「いや、自分は散々愚痴言っといて、私が一言独り言で弱音はいただけでモラハラ扱いする方がモラハラじゃない?」
今、言い方すごく刺々しかったな。口調くらいは柔らかくすればよかった。頭ではそうわかっていても、感情がコントロールしきれない。私も心に余裕がない。
「すいませんね、当方ブラック企業の歯車な身なもんで。ちょっとトラウマ発動しちゃいましたー」
ふてくされたような態度で英理香が言う。お湯はとっくに沸いているが、こうなるともうカップ麺どころではなかった。
「なにそれ、私の職場がホワイトでお気楽ですねって? 何も知らないくせに勝手なこと言わないでよ」
わかっている。英理香は何もそこまで口に出してはいないし、被害妄想かもしれない。
でも、英理香は知らない。店長と仲がいいからこそ経営のことで悩んでいる店長を見て心を痛めている。それこそ、職場は遊び場じゃないから仲さえよければ全部の問題が解決するなんてご都合主義は存在しないのだ。
私にだって、仕事の悩みはある。でも、私はそれを家に持ち込まないのに、英理香が一方的に持ち込んで空気を悪くすることがどうしても許せなかった。
「ケーキ屋に来る客みんな上機嫌でまともなんだから、理不尽なクレームとかないだろ」
私の反撃を受けて英理香がますますヒートアップする。そっちが先に始めたくせに。
「そのぶん英理香は稼いでるじゃん! いいよね、何でも好きなもん買いたい放題で、将来の心配がない人は!」
「そっちこそ、好きなことしてるだけで金入ってくることの何が不満なんだよ」
その瞬間、私の中で何かが切れた。こんなの英理香じゃない。幻滅の二文字が私の脳を埋め尽くす。私に夢をくれた日の、嘆願書を書いてくれた日の、同窓会で私を庇ってくれた日のかっこいい勇者はどこにいってしまったんだよ。
「だったら、会計士資格じゃなくて調理師免許とればよかったじゃん! 自分で選んだ道なんだからあとからグチグチ言うなよ!」
私には謝らなくていいから、「世界から粉飾決算をなくす」と夢を掲げた勇者の卵に謝れ。学校という小さな世界を変えようとして児童会長に立候補した正義の少女に土下座しろ。
「今どきモブキャラでもそんなダサいこと言わない。今の英理香、かっこ悪いよ」
私の夢も英理香の夢も否定するつまらない女に成り下がるなら主人公なんて降板してしまえ。わざと一番英理香に刺さる言葉を選んだ。
突然バンッ、と大きな音がした。英理香が机を叩いて立ち上がった。心臓がヒュッとなる。俯いているから顔は見えないが、絶対に怒っている。
あ、やばい。地雷踏んだ。さすがに言い過ぎた。そういえば英理香は小学校の頃、いじめっ子に殴りかかったことがある。さすがに暴力沙汰は避けたい。ここは穏便におさめるために謝るべきか? でも、悪いのは英理香だ。短時間の間に思考がめまぐるしく動き回る。
「お客さんにありがとうって言ってもらえるメグにはわかんないよ」
英理香が弱々しく呟いて顔を上げた。目にいっぱいの涙をためて震えている。
人生の半分以上の時を英理香と過ごしてきた。英理香が泣いているところを見るのは初めてだった。私が英理香を泣かせた。
英理香が先に喧嘩を売ってきた。頭の中でいくら言い訳をしたところで罪悪感に耐えられなくなった。
英理香から目をそらし、ケトルのお湯も蓋だけ開けたカップラーメンも放置して玄関へと向かう。
「ちょっと明日の仕込みしなきゃいけなくなったから、今日店に泊まるわ」
嘘だ。早朝に出勤することはあったけれども、泊まり込みをしたことはない。しかも、突然夜中に呼び出されるような事態はどう考えても不自然だ。おそらく英理香も嘘だとわかっていることだろう。しかし、呼び止められることはなかった。
職場近くの漫画喫茶に泊まることにした。ただでさえ金欠なのにまた出費が増えてしまった。しかし、寝床を確保したはいいものの、長めの昼寝から起きたばかりでメンタルも最悪なので眠れる気がしない。
視界にはたくさんのコミックス。気分転換に何か読むか。
ふと、英理香が以前「公認会計士が主人公のコンテンツが少なすぎる」とぼやいていたことを思い出す。カウンターに行って、スタッフさんに聞いてみることにした。
「すみません、公認会計士が主人公の漫画って置いてますか?」
「えっと、どうでしょう? 僕が知ってる限りだとないんですけど、ちょっとキーワード検索かけてみますね」
スタッフさんが手元の端末で検索してくれた。
「あー、すみません。ちょっと出てこないですね」
「いえ、ありがとうございました。お手数おかけしてすみません」
さすがに世の中に公認会計士を主人公にした漫画がゼロということはないだろうけれど、少なくともこの店舗には置いていない。やはり、きわめて少ないのだろう。もしそういう作品があったなら、「会計士主人公の漫画見つけた」報告で喧嘩のことを有耶無耶にできるかもしれないというかすかな希望があったが、そう人生うまくはいかない。
ブースに戻る途中、高校生の頃に英理香がはまっていた弁護士が主人公の漫画を見つけた。私は結局読まなかったけれど、この機会に読んでみるか。英理香と喧嘩をして家出してきたというのに、行動指針に英理香がいる自分に呆れた。
ぱらぱらとページをめくる。基本的に一話完結のオムニバスだから読みやすい。冤罪で逮捕されてしまった依頼人の疑いを晴らし見事無罪判決を勝ち取った主人公に依頼人が泣きながら「ありがとうございます」を繰り返している。
――お客さんにありがとうって言ってもらえるメグにはわかんないよ。
英理香の泣き顔が頭にちらついた。胸がズキンと痛んだ。
弁護士は依頼人に「ありがとう」と言ってもらえる仕事だ。以前、英理香が教師や医師を主人公適性の高い職業として挙げていた。病気がよくなれば患者は必ず医師に感謝するし、良い教師であれば卒業式で生徒から「ありがとう」のあふれる寄せ書きをもらうことだってあるだろう。
勇者を主人公としたゲームでは、モンスターから子供を助けて「ありがとう」と言われるシーンや村を救って村人から感謝されるシーンは定番だ。プレイヤーに達成感を与えるのだから当然のことだろう。
要するに主人公が誰のために行動しているのかが明確で、その行動によって笑顔になるというプロセスの可視化は重要ということだ。長い間英理香と生活していたせいで、物語の考察癖がうつった。
思い返してみれば、私がお菓子作りにはまったきっかけの漫画もそうだ。主人公がお菓子を作ると、風が吹けば桶屋が儲かるかのごとく様々な問題が解決し、お菓子を食べた人が「主人公ちゃんありがとう」と言って終わり。現実はそう簡単にはいかないけれど、お客さんの笑顔とリピーターさんの「この間のケーキ美味しかったわ、ありがとう」に支えられてパティシエールを続けている。
じゃあ、公認会計士は?
公認会計士は監査先の会社の人をクライアントと呼んでいて、実際にその会社から監査を依頼されているけれど、公認会計士が働くのはその会社のためではない。決算報告書の間違いによる損失から、株主や社会を守るためだ。目の前の人に尽くしているのではなく、そこにいない誰かのために目の前の数字と戦っている。多忙な日々にいくら消耗しても、株主たちが公認会計士に「ありがとう」を伝えることはない。
それでも、英理香は「この世から企業の不正会計をなくす」という自分の信じる正義のために戦い続けた。だってあの子は昔からそうだった。「いじめゼロの北小」を掲げて児童会長になったあの子の原動力は“正義”だ。
本当に?
私たちがちゃんと知り合いになったのは六年生の時だったけれど、学年で一番頭がいい英理香のことは一方的に知っていた。そして、彼女の正義の片鱗も。
五年生の二学期、児童会長選挙の立候補期間の少し前。昼休みにトイレに行こうとしたところで隣のクラスの柄の悪い女子何人かとすれ違った。会話の内容も聞いていて気持ちの良い物ではなかったと思う。中に入ると、気の弱そうな女の子が泣いていた。その子と一緒にいたのが英理香だ。隣のクラスの治安の悪さはなんとなく噂に聞いていた。ものすごく気まずくて、すぐに私は個室に入った。
決定的な現場を見たわけではないけれど、ドア越しに聞こえる会話で英理香がいじめられっ子を助けたことはすぐにわかった。
「英理香ちゃん、助けてくれてありがとう」
泣きじゃくっていて聞き取りにくい声だったけれど、名前も知らない女の子が何度もそう言っていたから。
「泣くなって。もうすぐ会長選あるじゃん? そこでこの英理香様が会長になって、いじめのない学校にしてやんよ」
その二か月後に行われた会長選で私は迷わず小日向英理香に一票を投じた。
英理香は困っている人を放っておけない正義の人。私も英理香に救われた人の一人。長年友達をやっていると、英理香が「ありがとう」と言われる場に何度か居合わせたこともある。そんな時、少し照れたような英理香の笑顔が好きだった。
英理香の原動力は正義。「ありがとう」は感謝であるとともに、英理香の正義への肯定。肯定という回復アイテムがあれば、英理香はいくらでも戦える強い人。
じゃあ、今は?
誰が英理香に「ありがとう」と言ってくれるんだろう。誰が英理香の正義を肯定してくれるんだろう? 病気でも事件でも“事”が起こった後に救いの手を伸べてくれた恩人に人は感謝をするけれど、“事”が起こらないように水面下で戦う人間に感謝して生きている人間がどれだけいるだろう?
私が最後に英理香の正義を肯定したのはいつだろう? 同窓会で助けてくれた親友・英理香に対して感謝の言葉は述べた。でも、世界から粉飾決算をなくすために戦う公認会計士・小日向英理香の正義をちゃんと言葉にして肯定したことはあっただろうか?
英理香が疲弊した理由はオーバーワークとパワハラだけじゃない。英理香を動かす正義という原動力に、肯定という燃料が注がれなくなったからだ。誰も私のケーキで喜んでくれなかったら、私はパティシエールを続けられるだろうか?
英理香の苦しみが少しだけわかった気がした。それでも、それでも……。
「私は悪くない」
最低最悪のかっこ悪いモブみたいな独り言。
だって、英理香にだけは夢を叶えた私を否定しないでほしかったんだ。私だって傷ついたんだ。だから、私からは絶対謝らない。
ねえ、英理香。一言だけでいいから謝ってよ。そしたら、私も謝るからさ。
◇
私たちは大きな喧嘩をしたことがない。私は整理整頓が苦手で、英理香はあまりにも私物が多すぎるから、お互いの領域侵犯に文句を言い合うことはある。その際に少し口調がきつくなると気まずくはなるけれど、荷物を整理して私がケーキを持って帰ってくれば細かいことは大体どうでもよくなる。
だから、ちゃんと謝るという習慣が欠如していたのかもしれない。結局お互い謝罪のラインひとつできないまま朝になってしまった。
今日もケーキを持って帰ろう。そうだ、昨日はまともなご飯もデザートもなかったからよくなかったんだ。そう思っていた矢先にスマホを見ると英理香からのラインが来ていた。
「しばらくお姉ちゃんの家に泊まります」
「了解」
それだけ返事してそのまま出勤する。
寝不足の割には特に仕事に支障が出ることもなく、だからといって売り上げが上がるわけでもない大成功も大失敗もない一日だった。
英理香は今日帰ってこないのに、いつもの癖でケーキを持ち帰ってきたことに気づいたのは家についてからだった。習慣とは恐ろしい。
しかし、晩御飯を作る気力も体力もなかったのでちょうどいい。栄養バランスは悪いけれど、黒ゴマプリンだけ食べてさっさと寝よう。英理香が「神」と言ってくれたプリンを食べる。
美味しくない。自分で作ったものがおいしく感じない症候群なのか、英理香がいないから味気ないからなのか。ただ、空腹を満たすだけの空虚な時間が流れた。
いつもの癖で二個持って帰ってきてしまったので、もう一個は明日の朝御飯にしよう。プリンをしまうために冷蔵庫を開けた。すると、私の視界にひとつの器が飛び込んでくる。昨日はなかったものだ。
ラップの上にメモ用紙が載っていることに気づいた。おそらく英理香の朝食か何かの残り物だろう。冷凍庫に入れといて、なのか、捨てといて、なのか確認するためにメモを見る。
「メグが羨ましかった」
鉛筆書きの乱れた文字でただ一言そう書いてあった。謝罪ではなく言い訳。でも、不思議と怒りは湧いてこなかった。お互い様だからだ。
器の中身は肉じゃがだった。買ってきたお惣菜にしては大きさがばらばらで異様に色が濃く、少し焦げている。それが英理香の作ったものであることはすぐにわかった。
英理香は私の好物が肉じゃがであることを知っている。あの後、わざわざ材料を買いに行って作ってくれたのだろうか。疲れた体とボロボロの心に鞭を打って、貴重な睡眠時間を削って、私のために?
その時、ピピーと電子音が鳴った。炊飯器のご飯が炊けたようだ。私が帰ってくる時間にあわせてタイマーをセットしておいてくれたのだろうか。
べちゃべちゃのご飯をよそい、手を合わせる。
「いただきます」
しょっぱい。醤油の味しかしない。砂糖がちゃんと溶け切っていないからジャリジャリしていて、苦い焦げ目のバリバリ感と合わさって食べたことがない食感だ。表面は舌がしびれるほど味が濃いが、じゃがいもやにんじんの中には一切味が染みていないどころか半生だ。お肉も生ではないかと心配したが、よく火が通っていて噛み切るのが困難なほど堅かった。
お母さんの肉じゃがとは程遠いのに、いくらでも食べたいと思った。現実は厳しいことも多いけど、明日も頑張れる気がした。さっき食べたプリンの百倍美味しかった。英理香の愛の味がして、涙が止まらなかった。
食べ終わった後、英理香に連絡しようと思ってラインを開いた。謝るためじゃない。肉じゃがのお礼を言うだけだ。
今朝送った「了解」の一言に既読がついていなかった。午前中に送ったラインは、必ず昼休みには既読がつく。それに、私が返信した時刻は英理香は通勤電車に揺られて手持無沙汰でスマホを見ているはずだ。
「ブロック」の四文字が頭をよぎった。肉じゃがを作ってから夜が明けるまでの間に心変わりしたんだ。私が謝らなかったから。悪い想像ばかり思い浮かぶ。
「肉じゃが全部食べたよ。ありがとう」
打ち込んだメッセージをどうしても送信できなかった。もしブロックされていたらと思うと勇気がでない。仕事が忙しいだけかもしれない。でも、本当にブロックだったら……。
考えた末に、明日の朝「了解」に既読がついていたらメッセージを送ることにした。そうしたら、きっと元通りになれる。問題を先送りしているだけ、それに目を背けて無理矢理眠りについた。徹夜明けの体は想像以上に疲れていて、私は泥のように眠った。
翌朝、起きるや否やラインを確認する。既読はついていなかった。ああ、ブロックされたんだ。昨日散々泣いたので、今更涙も出なかった。
昨日は片付けもしないで寝てしまった。茶碗と器を水につけて、プリンの空容器を捨てようとゴミ箱を開ける。メモの書き損じと思われる紙が入っていた。
「ごめん」
水滴が落ちて滲んだその三文字に胸が締め付けられた。あの子がどんな思いで肉じゃがを作ってくれたのか。私にメモを書いたのか。自分の矜持を何よりも大事にする英理香に羨ましいなんて言わせてしまった。私はどうすればよかったのか。
英理香に聞いてもきっと二度と答えは返ってこない。英理香の心は戻らない。仲直りの魔法を込めたお菓子なんて漫画の世界だけのご都合主義だ。冷蔵庫に鎮座している黒ゴマプリンにそんな力はない。
「目の前の友達一人笑顔にできなくて、何がパティシエールだよ」
あまりの悔しさにプリンの空容器を握りしめた。