アルバイトの大学生、朋佳ちゃんは絵がうまい。SNSを相互フォローしているが、彼女が載せているイラストはとても綺麗だ。
「絵のお仕事で食べていけたら最高ですけど、そううまくいかないですよね、人生って」
少し仲良くなった頃、彼女はそう言った。朋佳ちゃんは達観している。頭がいいからだ。朋佳ちゃんが通っている帝明大学は名門校で、英理香の母校でもある。
朋佳ちゃんは時々、窓の外の大学生に手を振っている。向かいの公認会計士資格スクールから出てくる大学生のうち何人かは朋佳ちゃんの大学の友人らしい。英理香のダブルスクール先もあの校舎だったらしいが、当時は私がこの店に勤めていなかったので詳しくは知らない。
「友達をもっと呼び込めたらいいんですけどね」
朋佳ちゃんは申し訳なさそうに言った。
「みんなお金ないので、どうしてもハードルが高いみたいで」
今もたいして稼いでいるわけではないが、私も専門学校生時代は輪をかけてお金に余裕がなかったので気持ちはよくわかる。学生にとってケーキは贅沢品だ。友達のバイト先という理由だけで、学生が気軽に通うことはないだろう。
でも、時々思う。あの校舎から出てくるうちの何人かが常連になってくれるだけでも、もう少しお店は繁盛するのではないかと。
資格スクールに通っている人は、ほとんどが大学生だ。だから、あの校舎からこの店に来る人はあまり見かけない。
世間では大学生は遊んでばかりというイメージだが、私の周りのサンプルを見る限りそんなことはない。私の目に映る大学生はかつてダブルスクールにいそしんでいた英理香のように、夢に向かって頑張る人たちばかりだ。
朋佳ちゃんも例外ではない。かっこいい絵だけでなく、可愛い絵も描けるようになりたい。だから、スイーツを毎日目にする環境に身を置いて勉強したい。堂々と面接でそう言ってのけた朋佳ちゃんを店長が気に入って採用となった。もちろん勉強だけでなく仕事も真面目にこなしている。
誕生花からとった「アマリリス」というハンドルネームでやっている朋佳ちゃんのイラストアカウントには、時々女の子がお菓子を食べているイラストが載っている。
「私、めぐみさんのお菓子に惚れこんでここを選んだんですよ。学校近隣のケーキ屋さんで一番めぐみさんのケーキが綺麗だったので」
なんて嬉しいことを言ってくれる。パティシエールとしてとても誇らしかった。
幼いころからの夢が叶うのは幸せなことだ。だから、朋佳ちゃんにも夢を叶えてほしい。私は陰ながら応援している。
家に帰ると、定時で帰宅した英理香がゲームにいそしんでいた。ガチャガチャとコントローラーを操り、画面の中では女勇者が巧みなさばきで剣を振り回す。
「うおらっ! 死ねパワハラマネジャー!」
敵を嫌いな上司に見立てて、見事四十連コンボを決めた。見事討伐に成功し、“勇者エル”に大量の経験値が入る。画面の中で、英理香と同じ黒縁の眼鏡のようなものをかけている女勇者が決めポーズをした。
「おかえりー! 今日珍しく定時で上がれたんだ。ご飯食べたら一緒にやろうよ」
私の帰宅に気づいた英理香が私をゲームに誘う。英理香と一緒に住み始めてから一緒にゲームをするようになった。ちょっとした上級レイドも英理香がキャリーしてくれるので、そのおこぼれにあずかりながら楽しんでいる。
英理香の影響で私もだいぶサブカルに染まったと思う。英理香のやっているカードゲームのルールとセオリーを教えられ、私も付き合いでたしなみ程度にプレイできる。以前入っていた社会人カードゲームサークルをやめてプレイ相手がいなくなったらしいので、私に白羽の矢が立った。
ご飯を食べ終えたら、毎日恒例のティーパーティーの時間だ。今日のデザートを出すと英理香が目を輝かせた。
「すっごーい! 綺麗! メグ、神じゃん!」
よしっ、「神」いただきました。心の中でガッツポーズをする。
今日持って帰ってきたのはコーヒームースだ。ただのムースではなく、上に飴細工で作った花の飾りを乗せている。結構な自信作なのに売れ残ってしまってショックだが、おそらく原因は値段が高いからだろう。
「すっごいなー、メグこんなすごいの作れるんだー」
飴細工をまじまじと見つめながら、英理香が感動している。
「なんか、食べるのもったいないレベル」
「食べてよ。また作るし。なんなら、バラとか動物とかも作れるよ」
私が促すと、英理香がムースにスプーンを入れた。
「すっご。天才じゃん。てか、ケーキうま」
私も結構な単純馬鹿なので、褒められると調子に乗りがちであることは自覚している。
「お姉さんもうすぐ誕生日だっけ? 飴で弁護士バッジとかも作れるよ」
弁護士バッジは向日葵をかたどっている。そんなに難しい形ではないから、おそらく簡単に作れるだろう。
「え、いいの?」
「うん。いいよ。てか、作り方教えてあげよっか?」
「えー、やめとくよ。私不器用だし」
「そんなことないと思うけどね」
英理香はゲームのコントローラーさばきを見る限りかなり器用な部類だと思う。それに、キャラメイクができる『勇者クロニクル』ゲームではリアルの英理香や私そっくりのキャラをとても上手に作るので芸術的センスもある方だろう。
「まあ、無理強いはしない。手、こんなになるし」
食事中に見せるようなものではないから、一瞬だけ少し遠くの距離から英理香に掌を見せる。高温の飴を扱い続けて、火傷やら切り傷やらの痕で荒れた掌。特に指先はだいぶ大変なことになっている。
「いいじゃん。かっこいいじゃん、職人の手」
英理香が私をまっすぐ見つめて言った。眼鏡越しに強い目力を感じる。不覚にもドキっとしてしまった。一歩間違えたら惚れてしまいそうなキザなことを、英理香は平気で言う。
「その手でスイーツ業界変えてきたんでしょ? かっこいいよ」
「そんな大層なもんじゃないけどね」
別に革命的な新作スイーツを作って製菓史に名を刻んだわけでもない。スイーツコンテストでの入賞はおろか、小さなメディアでとりあげられたこともない。町のケーキ屋さんのしがない雇われパティシエールだ。
「いや、かっこいいって。メグは私と違ってちゃんと身を削って何者かになったわけじゃん。見てよこの何の代償も払ってない手」
爪まで綺麗に整えられたすべすべの手を目の前に突き付けられる。確かに公認会計士は手がズタズタになるような仕事ではない。
「でも、英理香は目悪くなるくらい一生懸命勉強して公認会計士になったわけじゃん。かっこいいと思うけどね。似合ってるよ、その眼鏡」
「そりゃどうも。問題は、私はゲームで目悪くなったってことなんだよな」
褒められて嬉しかったから褒め返したつもりなのに、選択肢を間違えてしまったようだ。恋愛ゲームならゲームオーバーだろう。ミスった。英理香は出会った時には既に眼鏡をかけていて、当時学年で一番勉強ができたから、目が悪くなったのもてっきり勉強が理由だと思っていた。
でも、実際に英理香のことをかっこいいと思っているのは事実だ。英理香は「主人公になる」「何者かになる」「世界を変える」というフレーズをよく使う。「いい年してまだそんなこと」と人の大きな志を笑う輩の方がよっぽどかっこ悪い。
英理香の発言のスケールが大きいのは今に始まったことではない。あれは高二の進路相談面接間近のことだった。
「英理香も弁護士になるの?」
十歳離れたお姉さんは既に弁護士として東京で仕事をしていた。当時からヒーロー願望の強かった英理香はお姉さんと同じ道を歩むのだろうとなんとなく思っていた。
「そう思ってたんだけどさ、お姉ちゃんに聞いた話によると、私が弁護士になったところで世界から犯罪ってなくせないんだよね」
確かに、弁護士は被疑者とされた人や民事トラブルに巻き込まれてしまった人を救う仕事だ。活躍するのは事件が起こってからで、事件を未然に防ぐことはできない。
「だからね、私、公認会計士になる!」
当時、とある大企業の粉飾決算が発覚して連日そのニュースが世間を騒がせていた。関連企業への影響や投資家の破産と自殺など経済に大きな混乱を招いた。
「世の中の犯罪全部なくすのは無理だけどさ、日本から粉飾決算なくしてみせるよ」
そう言って笑った英理香の顔が教室の窓から差し込む夕日に照らされて、ただただ美しかったことを今でもよく覚えている。
あれから十年が経ち、英理香は宣言通り公認会計士になった。しかし、未だに日本から粉飾決算はなくなっていない。それでも、英理香はまだあの日抱いた大きな野望を諦めてはいない。そんな英理香を心底かっこいいと思う。
「ほら、公認会計士もバッジある職業じゃん? そういうの、なんかかっこよくない?」
「つけてるやついないけどね。補習所っつー、会計士の研修やるための場所の講師も会計士がやってるんだけど、補習所の講師くらいじゃない? つけてるの」
「へー、そうなんだ。でも、英理香はまわりがつけてなくてもこれつけてるとMPあがるー、とか言いそう」
「いや、さすがに職場ではオタクは隠してるよ」
英理香にオタクを隠す、という発想があること自体が少し意外だった。いわゆるお堅い職業だとそういうものなのだろうか。
「話戻すけどさー、弁護士バッジの形ってたぶんメグが飴細工で作ったら結構映えると思うんだよね。なんか羨ましいなー。やっぱり私も弁護士になっとくべきだったか?」
「いや、そんなん職業選択の基準にすんなし。ていうか、会計士バッジつけてないだけで存在はしてるんでしょ? 全然私作るけど」
「えー? 飴細工で作るようなもんじゃないって。見る?」
そういえば、一緒に住み始めて五年以上になるのに、英理香がまったくバッジをつけないので公認会計士バッジは目にしたことがない。
「うん、見てみたい」
「オーケー、とってくるわ」
英理香は自室に戻った。五分後、透明なガラスケースに入ったバッジを持ってくる。つけた形跡はない新品だ。黒と金の市松模様で、楕円型のデザインだ。
「なんか映えなくない?」
「いや、バッジあるだけでザ・国家資格って感じで羨ましいけど」
「でも、これ飴細工にして商品にしたって売れないっしょ?」
確かに、これを飴細工にして商品化するとなるとイメージはわかない。以前会計士モチーフのアニメ作品がないことを英理香は嘆いていたが、じゃあ会計士モチーフのお菓子を作ってみろと言われたら実際難しいものがある。天秤みたいに「これぞ」というシンボルが思い浮かばない。
「ふう、世知辛いねえ」
そう一言呟いた後、英理香はお風呂場に向かった。
一人になると手持無沙汰だ。SNSを開いて、タイムラインを更新する。朋佳ちゃんがイラストをアップしていた。クール系の女の子がティータイムをしている絵だ。描いてあるケーキはまさに私がちょうど英理香にふるまった花の飴細工を乗せたコーヒームース。こんなに上手いのに、いいね数もリポスト数も少ない理由がわからない。朋佳ちゃんはイラストの仕事をするのが夢だと言っていた。そのためには、数字が必要らしい。
私や英理香のように夢を叶えたからと言って毎日が薔薇色というわけではない。ケーキが完売御礼になることなんてほとんどないし、世界から粉飾決算はなくならない。初めて夢見たあの日思い描いたイメージと異なることなんて星の数ほどある。要するに社会は世知辛い。
全部が全部思い通りなわけじゃない。夢を叶えたからといって幸せになれるとは限らない。
それでも、自分の信じる正義のために戦う英理香はかっこいい。そして、私のケーキで誰か一人でも笑顔になってくれたらパティシエールになってよかったと思える。だから、私は朋佳ちゃんの夢を応援したい。
そんな願いを込めて、リポストのボタンをタップした。
「絵のお仕事で食べていけたら最高ですけど、そううまくいかないですよね、人生って」
少し仲良くなった頃、彼女はそう言った。朋佳ちゃんは達観している。頭がいいからだ。朋佳ちゃんが通っている帝明大学は名門校で、英理香の母校でもある。
朋佳ちゃんは時々、窓の外の大学生に手を振っている。向かいの公認会計士資格スクールから出てくる大学生のうち何人かは朋佳ちゃんの大学の友人らしい。英理香のダブルスクール先もあの校舎だったらしいが、当時は私がこの店に勤めていなかったので詳しくは知らない。
「友達をもっと呼び込めたらいいんですけどね」
朋佳ちゃんは申し訳なさそうに言った。
「みんなお金ないので、どうしてもハードルが高いみたいで」
今もたいして稼いでいるわけではないが、私も専門学校生時代は輪をかけてお金に余裕がなかったので気持ちはよくわかる。学生にとってケーキは贅沢品だ。友達のバイト先という理由だけで、学生が気軽に通うことはないだろう。
でも、時々思う。あの校舎から出てくるうちの何人かが常連になってくれるだけでも、もう少しお店は繁盛するのではないかと。
資格スクールに通っている人は、ほとんどが大学生だ。だから、あの校舎からこの店に来る人はあまり見かけない。
世間では大学生は遊んでばかりというイメージだが、私の周りのサンプルを見る限りそんなことはない。私の目に映る大学生はかつてダブルスクールにいそしんでいた英理香のように、夢に向かって頑張る人たちばかりだ。
朋佳ちゃんも例外ではない。かっこいい絵だけでなく、可愛い絵も描けるようになりたい。だから、スイーツを毎日目にする環境に身を置いて勉強したい。堂々と面接でそう言ってのけた朋佳ちゃんを店長が気に入って採用となった。もちろん勉強だけでなく仕事も真面目にこなしている。
誕生花からとった「アマリリス」というハンドルネームでやっている朋佳ちゃんのイラストアカウントには、時々女の子がお菓子を食べているイラストが載っている。
「私、めぐみさんのお菓子に惚れこんでここを選んだんですよ。学校近隣のケーキ屋さんで一番めぐみさんのケーキが綺麗だったので」
なんて嬉しいことを言ってくれる。パティシエールとしてとても誇らしかった。
幼いころからの夢が叶うのは幸せなことだ。だから、朋佳ちゃんにも夢を叶えてほしい。私は陰ながら応援している。
家に帰ると、定時で帰宅した英理香がゲームにいそしんでいた。ガチャガチャとコントローラーを操り、画面の中では女勇者が巧みなさばきで剣を振り回す。
「うおらっ! 死ねパワハラマネジャー!」
敵を嫌いな上司に見立てて、見事四十連コンボを決めた。見事討伐に成功し、“勇者エル”に大量の経験値が入る。画面の中で、英理香と同じ黒縁の眼鏡のようなものをかけている女勇者が決めポーズをした。
「おかえりー! 今日珍しく定時で上がれたんだ。ご飯食べたら一緒にやろうよ」
私の帰宅に気づいた英理香が私をゲームに誘う。英理香と一緒に住み始めてから一緒にゲームをするようになった。ちょっとした上級レイドも英理香がキャリーしてくれるので、そのおこぼれにあずかりながら楽しんでいる。
英理香の影響で私もだいぶサブカルに染まったと思う。英理香のやっているカードゲームのルールとセオリーを教えられ、私も付き合いでたしなみ程度にプレイできる。以前入っていた社会人カードゲームサークルをやめてプレイ相手がいなくなったらしいので、私に白羽の矢が立った。
ご飯を食べ終えたら、毎日恒例のティーパーティーの時間だ。今日のデザートを出すと英理香が目を輝かせた。
「すっごーい! 綺麗! メグ、神じゃん!」
よしっ、「神」いただきました。心の中でガッツポーズをする。
今日持って帰ってきたのはコーヒームースだ。ただのムースではなく、上に飴細工で作った花の飾りを乗せている。結構な自信作なのに売れ残ってしまってショックだが、おそらく原因は値段が高いからだろう。
「すっごいなー、メグこんなすごいの作れるんだー」
飴細工をまじまじと見つめながら、英理香が感動している。
「なんか、食べるのもったいないレベル」
「食べてよ。また作るし。なんなら、バラとか動物とかも作れるよ」
私が促すと、英理香がムースにスプーンを入れた。
「すっご。天才じゃん。てか、ケーキうま」
私も結構な単純馬鹿なので、褒められると調子に乗りがちであることは自覚している。
「お姉さんもうすぐ誕生日だっけ? 飴で弁護士バッジとかも作れるよ」
弁護士バッジは向日葵をかたどっている。そんなに難しい形ではないから、おそらく簡単に作れるだろう。
「え、いいの?」
「うん。いいよ。てか、作り方教えてあげよっか?」
「えー、やめとくよ。私不器用だし」
「そんなことないと思うけどね」
英理香はゲームのコントローラーさばきを見る限りかなり器用な部類だと思う。それに、キャラメイクができる『勇者クロニクル』ゲームではリアルの英理香や私そっくりのキャラをとても上手に作るので芸術的センスもある方だろう。
「まあ、無理強いはしない。手、こんなになるし」
食事中に見せるようなものではないから、一瞬だけ少し遠くの距離から英理香に掌を見せる。高温の飴を扱い続けて、火傷やら切り傷やらの痕で荒れた掌。特に指先はだいぶ大変なことになっている。
「いいじゃん。かっこいいじゃん、職人の手」
英理香が私をまっすぐ見つめて言った。眼鏡越しに強い目力を感じる。不覚にもドキっとしてしまった。一歩間違えたら惚れてしまいそうなキザなことを、英理香は平気で言う。
「その手でスイーツ業界変えてきたんでしょ? かっこいいよ」
「そんな大層なもんじゃないけどね」
別に革命的な新作スイーツを作って製菓史に名を刻んだわけでもない。スイーツコンテストでの入賞はおろか、小さなメディアでとりあげられたこともない。町のケーキ屋さんのしがない雇われパティシエールだ。
「いや、かっこいいって。メグは私と違ってちゃんと身を削って何者かになったわけじゃん。見てよこの何の代償も払ってない手」
爪まで綺麗に整えられたすべすべの手を目の前に突き付けられる。確かに公認会計士は手がズタズタになるような仕事ではない。
「でも、英理香は目悪くなるくらい一生懸命勉強して公認会計士になったわけじゃん。かっこいいと思うけどね。似合ってるよ、その眼鏡」
「そりゃどうも。問題は、私はゲームで目悪くなったってことなんだよな」
褒められて嬉しかったから褒め返したつもりなのに、選択肢を間違えてしまったようだ。恋愛ゲームならゲームオーバーだろう。ミスった。英理香は出会った時には既に眼鏡をかけていて、当時学年で一番勉強ができたから、目が悪くなったのもてっきり勉強が理由だと思っていた。
でも、実際に英理香のことをかっこいいと思っているのは事実だ。英理香は「主人公になる」「何者かになる」「世界を変える」というフレーズをよく使う。「いい年してまだそんなこと」と人の大きな志を笑う輩の方がよっぽどかっこ悪い。
英理香の発言のスケールが大きいのは今に始まったことではない。あれは高二の進路相談面接間近のことだった。
「英理香も弁護士になるの?」
十歳離れたお姉さんは既に弁護士として東京で仕事をしていた。当時からヒーロー願望の強かった英理香はお姉さんと同じ道を歩むのだろうとなんとなく思っていた。
「そう思ってたんだけどさ、お姉ちゃんに聞いた話によると、私が弁護士になったところで世界から犯罪ってなくせないんだよね」
確かに、弁護士は被疑者とされた人や民事トラブルに巻き込まれてしまった人を救う仕事だ。活躍するのは事件が起こってからで、事件を未然に防ぐことはできない。
「だからね、私、公認会計士になる!」
当時、とある大企業の粉飾決算が発覚して連日そのニュースが世間を騒がせていた。関連企業への影響や投資家の破産と自殺など経済に大きな混乱を招いた。
「世の中の犯罪全部なくすのは無理だけどさ、日本から粉飾決算なくしてみせるよ」
そう言って笑った英理香の顔が教室の窓から差し込む夕日に照らされて、ただただ美しかったことを今でもよく覚えている。
あれから十年が経ち、英理香は宣言通り公認会計士になった。しかし、未だに日本から粉飾決算はなくなっていない。それでも、英理香はまだあの日抱いた大きな野望を諦めてはいない。そんな英理香を心底かっこいいと思う。
「ほら、公認会計士もバッジある職業じゃん? そういうの、なんかかっこよくない?」
「つけてるやついないけどね。補習所っつー、会計士の研修やるための場所の講師も会計士がやってるんだけど、補習所の講師くらいじゃない? つけてるの」
「へー、そうなんだ。でも、英理香はまわりがつけてなくてもこれつけてるとMPあがるー、とか言いそう」
「いや、さすがに職場ではオタクは隠してるよ」
英理香にオタクを隠す、という発想があること自体が少し意外だった。いわゆるお堅い職業だとそういうものなのだろうか。
「話戻すけどさー、弁護士バッジの形ってたぶんメグが飴細工で作ったら結構映えると思うんだよね。なんか羨ましいなー。やっぱり私も弁護士になっとくべきだったか?」
「いや、そんなん職業選択の基準にすんなし。ていうか、会計士バッジつけてないだけで存在はしてるんでしょ? 全然私作るけど」
「えー? 飴細工で作るようなもんじゃないって。見る?」
そういえば、一緒に住み始めて五年以上になるのに、英理香がまったくバッジをつけないので公認会計士バッジは目にしたことがない。
「うん、見てみたい」
「オーケー、とってくるわ」
英理香は自室に戻った。五分後、透明なガラスケースに入ったバッジを持ってくる。つけた形跡はない新品だ。黒と金の市松模様で、楕円型のデザインだ。
「なんか映えなくない?」
「いや、バッジあるだけでザ・国家資格って感じで羨ましいけど」
「でも、これ飴細工にして商品にしたって売れないっしょ?」
確かに、これを飴細工にして商品化するとなるとイメージはわかない。以前会計士モチーフのアニメ作品がないことを英理香は嘆いていたが、じゃあ会計士モチーフのお菓子を作ってみろと言われたら実際難しいものがある。天秤みたいに「これぞ」というシンボルが思い浮かばない。
「ふう、世知辛いねえ」
そう一言呟いた後、英理香はお風呂場に向かった。
一人になると手持無沙汰だ。SNSを開いて、タイムラインを更新する。朋佳ちゃんがイラストをアップしていた。クール系の女の子がティータイムをしている絵だ。描いてあるケーキはまさに私がちょうど英理香にふるまった花の飴細工を乗せたコーヒームース。こんなに上手いのに、いいね数もリポスト数も少ない理由がわからない。朋佳ちゃんはイラストの仕事をするのが夢だと言っていた。そのためには、数字が必要らしい。
私や英理香のように夢を叶えたからと言って毎日が薔薇色というわけではない。ケーキが完売御礼になることなんてほとんどないし、世界から粉飾決算はなくならない。初めて夢見たあの日思い描いたイメージと異なることなんて星の数ほどある。要するに社会は世知辛い。
全部が全部思い通りなわけじゃない。夢を叶えたからといって幸せになれるとは限らない。
それでも、自分の信じる正義のために戦う英理香はかっこいい。そして、私のケーキで誰か一人でも笑顔になってくれたらパティシエールになってよかったと思える。だから、私は朋佳ちゃんの夢を応援したい。
そんな願いを込めて、リポストのボタンをタップした。