小日向英理香は馬鹿だ。
「世の中、圧倒的にイマジネーションが足りていないと思わんかね、ワトソン君?」
 私の名前は「才原めぐみ」だからワトソンにはかすってもいない。妙な呼び方とともに、SNSに時折出没する厄介オタクみたいなことを食事中にいきなり言い出す。ルームメイト生活が長くなればこんなのは慣れっこだ。
 趣味は漫画とゲームとアニメ、それからカードゲームを数種類。オタク歴イコール年齢。英理香の部屋だけでおさまりきらなくなったグッズはこのリビングのスペースを侵食している。そんな英理香はいったん語りだすと止まらない。早口でしゃべっているのに話がとてつもなく長い。
 話が長いのも、持論を語るときに私を「ワトソン君」呼びするのも、別に問題はない。しかし、創作者でもないのにあらゆるコンテンツをいっしょくたにして批判するのはいかがなものかと思う。
「世の中には名作がたくさんあると思いますよ、ホームズ先生」
「そうなんだよ! 古今東西、いろんな名作がある」
 つい五秒前と発言が矛盾しているがひとまず話を聞くことにする。
「まず世の中には国家資格がたくさんあるじゃないですか。弁護士が主人公のゲーム、医者が主人公の漫画、料理人が主人公のアニメ、ドラマ……はあんまり見ないけど教師主人公の作品を毎クールのようにやってるわけですよ」
 特定の作品名をあげずとも、頭の中には超有名タイトルの作品が何個も思い浮かぶ。確かに間違ったことは言っていない。
「なのに、会計士が主人公の作品は皆無に等しい! 昔のドラマがかろうじてヒットするくらいでそれも片手で数えられる程度」
 それは私にはない新しい視点だった。馬鹿とか厄介オタクとか心の中で思って申し訳ない。
「それなのに、会計士になろうなんて考えるやつは全員馬鹿だと思わんかね? ワトソン君!」
 前言撤回。やっぱり馬鹿だ。世の中の人間が全員アニメや漫画の影響で職業を決めているわけがないだろう。アラサーにもなって何を言っているんだろう。
「ちょうど目の前に公認会計士大先生がいらっしゃるから聞いてみることにしますよ。あなたは馬鹿なんですか?」
 こんな馬鹿なことを言っている英理香自身が公認会計士なのだ。倍率十倍以上の超難関国家資格試験に大学在学中に一発合格した秀才がこんなことを言っているのだから世の中はよくわからない。
「うん。馬鹿だと思う。弁護士になっときゃよかった」
 司法試験の合格率が何パーセントだかは知らないが、当然「なっときゃよかった」でなれるようなものではない。しかし、彼女なら望めばどんな職業になれただろうし、今から一念発起して受験すればちゃんと受かるのだろう。こんなトンデモ理論を展開する人間に裁判が務まるかどうかは別として。
「ちなみに弁護士の仕事って法廷で異議ありって叫ぶことじゃないけどその辺大丈夫? フィクションと現実の区別ついてる?」
「そりゃあ弁護士の妹ですから。ていうか、漫画に憧れてパティシエールになったメグに言われたくありませーん」
 私がお菓子作りを始めたきっかけは確かに、小学生当時買っていた少女漫画の月刊誌でお菓子作りの漫画が連載されていたことだが、それだけで将来を決めるほど単純ではない。ちなみに、タイトルはおろか三冊の月刊誌のうちどの雑誌に載っていたかすら覚えていない。なんとなくのあらすじは覚えているけれど。
「異議あり。語弊しかない」
「異議を却下しまーす」
 けらけらと笑う英理香を見てため息が漏れ出た。まったく、人の気も知らないで。
「いいじゃん、主人公じゃん。親の反対も何もかもぜーんぶぶち抜いて子供のころからの夢叶えるとか主人公だよ主人公。タイトルは『スイーツガール・メグ』で。はあ、いいな。私も主人公になってみたいですよまったく。あー、羨ましい」
 大袈裟に頬を膨らませる英理香。色々と言ってやりたいことはあるが、とりあえず突っ込みやすいところから。
「タイトル、ダサっ。十週打ち切り確定だよ」
「えー、ショック。はー、萎えたわー」
 英理香は机に突っ伏して気だるげな声で返事をした。いつの間にか英理香の皿は空になっている。
「ドンマイ。口直しにデザートでも食べて元気だしな」
 私が雇われパティシエールをしている店「ル・メイヤー・アミ」は、売れ残って廃棄予定のケーキを常識の範囲で持ち帰ってよいことになっている。悲しいことに完売御礼とはいかない毎日なので、比較的持って帰ってくるケーキの種類も選びたい放題に近い。今日はプリンを持って帰ってきた。
「え、今日のパスタ激ウマだったんですけど。味濃くて一口の満足感高いんだけど、さわやかな感じだから無限にいけるし何ならおかわり欲しいレベル。あと、ナッツみたいなの入ってるのもよかった」
 英理香が即座に顔をあげて答えた。口直しというのは夕食に対してではなく、ややネガティブ寄りの話題に対しての発言だったのだが、自分の作った料理を褒められるのは悪い気はしない。
 今日のメニューはジェノベーゼ。バジルを丁寧にすりつぶして、本場のレシピにならって松の実入りなのがこだわりだ。明日は日曜日で二人とも仕事がないからにんにくを惜しげもなく使った自信作だ。英理香がお腹を空かせていると思って多めに作ったけれど、それすらぺろりと平らげてくれるのは料理人冥利に尽きる。
「そりゃどうも。次はもっとたくさん作っとくわ」
「さんくす! で、胃の容量にはまだ余裕あるわけなんですが、今日のデザート何?」
 英理香が子供のように目を輝かせて質問する。
「プリン」
「あー、この間の灰色のやつ? めっちゃおいしかった! 神だった!」
 私の作ったスイーツも晩御飯も大体なんでも美味しいと言ってくれる英理香だが、「神」というのは特に美味しいものに使うフレーズだ。英理香は黒ゴマプリンが特にお気に入り。あとで忘れないようにメモをしておこう。
「ちょっ、その言い方だとおいしそうに聞こえないんですけど。黒ゴマプリンね。残念ながら今日は普通のカスタードプリンでーす」
「えー、黄色いやつも普通に好きだよ」
 英理香は私の手からプリンを受け取るや否やスプーンを入れて口に運ぶ。
「うっま、前食べた時より濃ゆくてうまい」
 英理香は馬鹿だけれど、決して馬鹿舌ではない。事実、先月から卵の仕入れ先を変えた。食べ物関連の語彙力が低いだけで、味の違いは並の人の数倍わかるのだ。
「そしてこのカラメルですよ、そんじょそこらのとは違うリッチなカラメル」
「カラメルにバター入れるのがポイント。メグ先生が料理教室してあげよっか?」
「えー、パス。私、食べる専門なんで」
 黄身がオレンジ色に輝く濃厚な卵とタヒチ産バニラを使ったこだわりプリン。近年とろとろプリンの人気が台頭しているけど、直立可能なしっかりプリンが私のスタイルだ。幸せそうな顔で英理香がプリンを頬張る。私は心の中でガッツポーズをする。
 この顔を見るといつも思う。この子はグルメ漫画の主人公気質だと。あんたが食べてるシーン見たら、みんな幸せな気持ちになるんだから。あんたの笑顔で、ありふれた食卓はキラキラしたティーパーティーの会場に変わるんだよ。
 別に職業物で主人公にならなくたっていいじゃないか。英理香の言葉を借りるなら『スイーツガール・エリカ』の調理担当として明日も私は頑張れる。