◇乾《いぬい》 千景《ちかげ》side◇

 放課後、居心地の悪い三年の教室の並ぶ廊下を歩く。幼馴染のアッちゃんに前回の事をどう謝ればいいかを相談したかったからだ。
 心配なのはアッちゃんのクラスには、若葉(わかば)がいる可能性があるってこと。さっさと稽古に行っててくれよ。アッちゃんのクラスを覗くと控えめな笑い声が聞こえてきたので、ついそっちの方向を向いた。
 教室の窓辺で微笑む若葉と、もう一人の男子生徒。オレはあの男は知っている。あまり良い噂は聞かないけれど、確かアッちゃんの恋人だ。
 そいつと一緒に若葉は、ここ数年オレには見せたことの無いような笑顔で笑ってる。どうして? オレやアッちゃんは幼馴染なのに、そんな顔は見せてくれないじゃないか。
 ……楽しそうな二人に心の底に隠し続けた嫉妬心が顔を出す。本当はこんな事するつもりじゃなかった。でも――

「――ねえ?」

 心より先に口が動いた。驚く自分自身と笑いを止めた二人、でも一度出てしまった言葉を誤魔化すことも出来ず。

「そこのアンタだよ、彼方(かなた) (こう)。オレにアンタの時間をちょっとだけくれない?」

 若葉ではなくこっちのセンパイを呼ぶことでターゲットをこっちだと思わせれば、若葉との関係はバレなくて済む。

「……俺、君と初対面なんだけれど何か用か?」

 センパイはオレのそんないきなりの誘いに、とても冷静に返事をしてくる。

「ちょっと待ってください、乾君。彼方君は上級生ですよ、いきなり失礼じゃないですか?」

 乾君、ねえ? 若葉は相変わらずムカつく呼び方してくる。この呼び方はコイツのワガママ。オレは納得してないけど、若葉の為だから我慢してる。
 彼方センパイが若葉を宥めているが、いつまでも邪魔しようとする若葉に少しだけムカついた。

「彼のいう事を聞く必要はありませんよ、彼方君」

 オレがまるで彼に何かをするような、そんな風に取られてるのだと思うとちょっと傷付いた。過去に一度でも、オレがお前の知り合いに何かしたことあったか?

「はあ、アンタさ本当に邪魔なんだけど? ガリ勉センパイはさっさと家に帰って勉強でもしていたら」

 そう茶化したオレを若葉は強く睨んでくるけれど、それも思いっきり無視してやった。

「楠、俺は大丈夫だから」
「……分かりました」

 若葉は彼方センパイに説得されて渋々頷く。この人の言う事ならすんなり聞くんだな、別にどうでもいいけれど。
 彼方センパイを教室から離れた空き部屋に連れていく。さっきの若葉の笑顔の訳を聞きたかったがそんな事は出来る訳もなく。何か話さなければと、アッちゃんの事をわざと喧嘩を売るように聞いてみた。
 怒らせるように挑発的な態度を取っても、センパイは冷静に素直な感情を話してくれたからアッちゃんを任せても大丈夫だなって思った。
 彼方センパイは噂とは随分違った印象で、やっぱ直接話してみるのが大事だなと思ったりした。
 ……彼方センパイと別れて、一人残された教室でデカいため息をつく。これで終わりじゃないと、ちゃんと分かってるからだ。
 ()()若葉がこんな事されて黙っている訳がない、きっと今夜はオレの部屋にやってくるだろう。どう考えても喧嘩になる気しかしない。
 ……数時間後の事を考えるだけで頭が痛くて、ぼんやりと天井を仰ぎ見た。

 時計の針が二十時半を指した時、「バンッ!」と勢いよくオレの部屋のドアが開かれる。感情的になると乱暴になるのは子供の頃からだけど、もうそろそろ直して欲しいよな。
 その場に仁王立ちしたした若葉は制服にカバンのままで、道場から直接ここに来たのだと分かる。

「……どういうつもりですか? 千景」

 低く唸るように言葉を発し眼鏡をかけても分かるほどの怒りの表情を浮かべたまま、ズンズンとこっちに向かってくる。その姿が夜叉みたいに見えるのは、やはりオレが若葉の本性を知っているからだろうか。

「別にどうもねえよ、アッちゃんの彼氏に興味あっただけ」

 周りのクラスメイト達からはかなり遊んでるセンパイだって聞いてたんだけど、そんな雰囲気の男ではなかったな。

「あの後、彼方君に何をしたんですか? 正直に言いなさい!」
「あのさ、何もしてねえのに疑うのやめてくんない?」

 その瞬間若葉に胸ぐらを掴まれて一気に壁に叩きつけられる。「ダンッ!!」という背中への衝撃で内臓までが揺らされるようだ。

「うぐ……っ!」

 こんの、馬鹿力め! 焦って胸元を掴んだ若葉の手を外そうとするけれど、どうやってもその指は離れない。その上、真下から睨みつけられていて眼鏡の隙間から凶悪な瞳が見え隠れしている。

「……僕に喧嘩を売るつもりならば買ってあげますよ? 小六で道場を止めて喧嘩ばかりしていた千景が、僕に勝てるでしょうかね?」

 馬鹿したような言い方にカッと頭に血がのぼり、全力で若葉の手を叩き落した。そのまま蹴りを繰り出すけれど、軽く避けられてしまう。

「無駄ですよ、千景は僕には勝てません。次に彼方君に何かをしたら許しません、彼は僕が守ります」

 そう言われ一瞬時が止まったような気がした、過去にさかのぼり同じような言葉を反芻する。
 ……あの時だって、オマエがそう言ったんだろーが。

『千景はオレが守るよ』と――――

 昔から大切にしていた宝物が粉々に壊れてしまったようで、目の前が真っ暗になって……若葉が出て行った事にも気付かないで立ち尽くした。
 どれくらい立ち尽くしていただろうか。足を棒のように感じながら引きずりベッドの横までたどり着き上半身を乗せる。

 ――守る対象が俺からあの人に変ったのだ。

 あの一言にずっと縋って生きてきた。オレが彼の守るだけの対象であっても、それだけで傍にいられる権利を与えられたと思ってた。
 シーツを掴んで胸の奥の感情の激流に耐える。指先が白くなっても心がどんなに千切れそうでも泣きたくはなかった。あの時もう泣かないと若葉に誓ったから。
 幼いころから独りだったオレの傍にいてくれた若葉。少しずつ距離を取って離れられて……たった今、不要になったのだと捨てられた。
 オレだって誰かに必要とされて生きていきたい。小さな望みだと思うのに、それすらあっけなく指先から零れていくんだ。
 ……湧き上がるような苦い思いを吐き出すことも出来ず、頭をシーツにこすりつけて闇の中の時間をただただ耐えるしかなかった。