いつもより早い時間にベッドから抜け出して机に座る。まだ外は薄暗いから部屋の照明をつけて、昨日出来なかった宿題に取り掛かる。
 結局ベッドに横になっていたって、一睡も出来やしなかった。

「千景には関係ない、か。まあ、その通りだな」

 若葉の言葉は何回でもオレを傷付けるが、それを頭から振り払うようにして宿題に集中するしかない。しっかり眠れなかった頭は中々働いてくれなかったけれど、何とか目標時間内に終わらせる事が出来た。 
 鞄にワークとノートを入れて、今度は学ランとシャツと下着を持ってそのままバスルームに向かう。シャワーを浴びればこの睡魔くらいは何とかなるかもしれない。そう思って熱めのお湯を全身にあてた。
 シャワーを済ませ眠気が少し取れたことを確認すると、服を着て髪を乾かしお気に入りのピアスをはめて部屋に戻る。
 カーテンの隙間から丁度、若葉が登校しているのが見えた。ああ、やっぱり時間ずらしてたんだな。
 ……今すぐに行けばきっと追いつける。そんな考えが頭をかすめたけれど、流石に昨日の事もあって。

「そんな勇気ねえよ……」

 あんだけ拒絶されたんだ、今はいくらなんでも平気な顔なんて出来ねえし。若葉に対してトコトン弱気になってしまう自分が嫌になりそうだ。ケンカと同じくらい分かりやすくケリが付く事ならラクだと思うのに。
 カーテンを開けてどこにも若葉の姿が無いことを確認して鞄を持った。
 ……こんなんじゃダメだろ。こんな事で落ち込んでたら若葉はさっさと行っちまう。一刻も早く何か考えないと、そう焦るほど何も思いつかなくなるのに。結局、思考回路がグルグルしたままで鞄を持って部屋を出た。

「チカー! おっはよー」

 今日も突撃が趣味なのかケンはオレに飛びかかってきた。斜め後ろからという予想外の場所からの攻撃で、ケンを支えようとしたオレまで尻もちをつかされた。
 ……いてえ。

「いい加減にしろよ? ケン、オマエ何歳だ?」
「へへっ、ゴメーン。チカと同じ十六歳だろ」

 全く悪いとは思ってない顔で謝ってくるのはいつもの事だ、ケンだからこれで許されるのだろうけど。
 ブツブツ言いながらも、ケンの身体を両手で浮かして立たせる。ケンが小柄でなければオレがケガするな。そんな事を思いながら自分の体勢も立て直す。

「ねえ、チカ。昨日の話聞いてくれるよな?」
「あ?」

 ……話? 何だっけ? 昨日は若葉の誕生日で頭がいっぱいで、ケンの話は右から左へだった。なんか、悪いことしたな。

「昨日話したじゃん! ヤな奴がいんの。すげー嫌な感じの!」

 オレの返事にケンはプリプリと怒りながら話してくる。オマエが怒ったって怖かねーからな?

「チカ? 聞いてんの?」

 そう言ってケンがオレの進行方向を塞ぐから、オレももう諦めることにした。

「分かった分かった、ここじゃ聞けないから昼休みに屋上な。カズとショウも呼んどけよ?」

 こんな面倒くさそうな話をオレだけ聞かされてたまるか。しっかり他の奴らも巻き込んで、解決はアイツらに任せよ。
 ……そんな狡いことを考えていた。

 各自昼食を持って集まってきた屋上、オカンなショウがどこから持ってきたのかレジャーシートを広げだす。

「悪いね~、ショウ」

 そう言ってさっそく座って弁当を広げたのはカズ。ショウはカズの横にゆったりとした動作で座る、誰より落ち着いたその様子が彼らしいと思う。
 続いてケンがカズの隣に座ったから、俺は空いてる場所に腰を下ろしてパンの袋を開けた。

「チカは……今日もパン?」

 いつものようにケンが隣から俺の袋の中身を覗く。これは好奇心じゃない、心配しているんだ。

「ああ、朝は苦手だからな」
「……そう、か」

 ケンの言いたいことは分かる。普通ならば親が作るべきだと言いたいのだろう、でもコイツはオレの家庭を知ってるから言えないんだ。
 ……オレの家族は歪んでいる。家族として存在はしているけれど、ずっと前から機能はしていないのだ。
 弁護士の父とアクセサリーショップを経営している母は色々と忙しい。料理は各自、掃除洗濯は家政婦にやってもらっている。
 オレはもうこの環境にも慣れているし、特別不自由はしていない。

「チカ、口開けて」

 ショウの言葉に素直に口を開けると、口の中にふんわり甘い卵焼きの味が広がった。甘い卵焼きはオレの好物だ、きっとショウが親に頼んでくれたんだろう。

「……ん、うまい。サンキュ」

 口をモグモグさせながらそう言うと、

「そっか、じゃあまた作ってくる」
「え? また作るって、じゃあこれって……マジでショウの手作りなの?」

 ショウは「たいしたことないよ」と笑うのだが、何でも器用に出来るのは本当に凄いと思う。それにしてもショウの笑顔はレアなんだ、つられてこっちまで嬉しくなっちまう。ほら、ケンとカズもにへら~ッと笑ってる。
 なんだかなあ、っては思うんだけど。

「……それで話ってなんだ?」

 昼飯をあらかた食い終わって、身体を伸ばしながらケンに聞いた。コイツの話は長いことが多いから、さっさと聞いてしまわないと昼休みが終わっちまう。

「それがさ、最近知らない奴がめっちゃ睨んでくんの。俺はソイツと接点なんて無いのに、一方的に睨まれてんのが続いてんの」

 ケンはよっぽど話したかったのか、興奮したように一気に捲し立てる。ケンは少し短気だから、このまま放っておくと喧嘩しに行きかねない。本当に面倒臭いけどちゃんと聞いておかねえとな。

「それって、どんな奴? 喧嘩強そう?」

 凄くワクワクした表情でカズがケンに尋ねている。
 ……ああ、面倒くせえのはコイツもだった。何でこいつらこんなに喧嘩が好きなのか? いや好きだから不良なのか、もうわけわかんねえ。

「それがさ、すっごく陰気臭い感じで前髪は長くて顔の半分は隠してるし、分厚い眼鏡かけてて目なんか全然見えない。探してたら三年の教室にいたけど、やだよあんなセンパイ」

 その容姿に当てはまる三年をオレは一人しか知らない。いや、一人しかいないだろ絶対。
 若葉がケンを睨む理由なんて思いつかない。若葉と喧嘩なんてぜってえ面倒くせえことになるし、そもそも結果が見えている。
 ノリノリのケンとカズには悪いけどここは止めておかなきゃならない。
 さて、どうやって止めようとかととりあえず悩んでみる。オレは学校では若葉とは接点を持たないように過ごしてる。ちょっと理由があって、知り合いだということは出来れば話したくない。

「瞳の見えないような眼鏡をしている人に、何で睨まれてるって分かるの? それって、ケンの思い込みなんじゃないかな」

 オレが悩んでいる間にショウが冷静な疑問をケンに投げかける。ショウはいつでも落ち着いた判断が出来るケンとカズのストッパーでもある。もちろんだが成績もオレらの中でダントツに良いし。

「だけどさ、いっつも俺の方向いて嫌な顔してるんだ! オーラが出てるんだよ、俺の事が嫌いって!」

 普段の若葉の表情は能面みたいなもので、オレに見せてくれるのも怒った顔くらいだろうか。あの若葉がケンに対してどうして嫌悪感を持っているのかが全く分からねえ。

「ケンの気持ちは分からなくもないけど、根暗のガリ勉だろ? オマエがいちいち腹立てて喧嘩するような相手でもねえんじゃないか? 放っておけよ」
「でも!」

 オレが止めようとするとケンは食い下がってきた。一応だけど、オレはお前の事を心配して言ってるんだけどな?

「チカの言う通りだ。あまりしつこいなら僕から話をしてやるから、今回は我慢しろ」

 ショウにピシャリと言われてケンは渋々「わかった」と呟いた。横のカズが残念そうにしてるのが気にはなったが、今日はそのまま解散した。
 ……解散した後カズとケンがコソコソ話している事に、オレはこの時まったく気付けていなかった。


◇ (くすのき) 若葉(わかば) side◇


「……先輩、そこの瓶底眼鏡の先輩」

 長引いたホームルームの後、さっさと道場に行く予定だったのに変な下級生に声を掛けられました。個性のある三人組で、どこかで見たことがあるなと思ったら千景の仲間でした。
 千景から何か指示されたのでしょうか? ……いや。千景は学校では寄って来ないし、僕との関係を話すことは無いと思うので違うのでしょう。

「僕に、何か用ですか?」

 教科書を鞄に詰め込んで三人組に近寄る。僕はね、学校でこんなゴタゴタみたいなのは嫌なんです。その容姿だけで人を惹きつける千景とは違うのですから。

「先輩さ、いっつも俺の事見てるよね? ちょっとお話したいなって思って」

 僕より背の低い黒髪の男子が下から見上げてきます。有無を言わせないような口調なのだけど、正直僕にはどうでもいいです。
 このまま三人でここに居座られるより、大人しくついて行った方が早く終わるでしょうか。

「分かりました。僕もこの後に用事があるので手短に済ませてくださいね?」

 そう言うと長髪の男子が何か止めようとしたようだけれど、二人が早く付いて来てと五月蠅いので鞄を持ってさっさと後ろを歩くことにしました。
 ……さて、これからどうしましょうか?

 お約束の体育館裏ならちょっとマズイです、なんて考えていたらあっさり校門を出て細い道へと進んでいく。こっちは道場と逆方向だから面倒ですね。
 先頭をズンズン進んでいく小さい男子は何が楽しいのかご機嫌そうです。
 全く……千景の友人でなければ無視するのに、もしここで千景が出てきたら僕はどうするればいいのでしょう?

「ここだよ、センパイ入って」

 連れて来られたのは古い倉庫。きっとだいぶ前から使われてはいないのを、この子たちが勝手に使っているんでしょう。言われるままに無言で倉庫の中に入り、真ん中辺りで止まって周りをしっかりと見渡す。
 ……千景はいないようですね。彼は性格上コソコソ隠れたりなどしないでしょうから間違いないでしょう。無意識にホッとしてしまう。

「さあ、ついてきましたから早く用件をお願いします」

 無駄な時間など使いたくないんです。千景は関係ないようですし、どうでもいい事はさっさと終わらせたい。

「さっきお話しましょって言ったじゃん。それとも他の方法が良いの、センパイは?」

 なるほど、そういうのがしたかったのですか。
 笑いながらこちらを見ている背の低い子を最初のターゲットにして、ゆっくりと体勢を整える。右足にぐっと力を入れて……
 ――そのまま一瞬で距離を詰めると、彼の鼻先まで一気に拳を突き出して止める。

「――ヒッ!」

 放心した様子の彼の鼻先に、軽く自分の拳をあてて引っ込める。千景のお友達のようですし、今回は痛くはしないであげますよ。

「そちらが挑発されるのならば、僕もお応えしましょうか」

 そう言って次のターゲットに視線を移動させた。僕から近い場所に立っている、茶髪の男子にしますか。
 ……一、二、三! 助走をつけふわっと飛ぶようにして横から蹴りかかる。茶髪の子は僕が近づいたことに驚き対応が遅れたようで、避ける間もなく僕の蹴りを頬に受ける。
 まあ、先ほどの様に一度寸止めしたので痛くはないでしょう。
 最後の一人は黒髪、随分背の高い子ですね。扉近くで様子を窺ってた彼は僕を睨んでいましたが、気にせずに走ってそのまま回し蹴りを放ちます。
 彼は他の二人よりもずっと反射神経が良かった。僕が蹴りを繰り出したと同時に両手で上半身を守ったんですが、予想外の反応に僕は寸止めが出来ずに思いきり彼を蹴り飛ばしてしまった。
 だけど、喧嘩を売られて買ってしまった僕の方から「大丈夫ですか?」なんて言えなくて。

「……すいません、意外と強いんですよ僕。その人の手当て、してあげてくださいね」

 視線を合わせないまま、そう残りの二人に告げた。
 もう用はないだろうと鞄を待って帰るときに短髪の子から酷く睨まれたので、この選択は間違っていたようだと思った。
 ……彼はきっと、近いうちにもう一度僕の所に来るでしょう。深いため息をつきながら倉庫を出て道場に向かう。外はもう夕暮れですね。
 稽古はいい、自分の事も千景の事もそれ以外も全部忘れられる。早く身体を動かしたくて普段より早く足を動かした。

 一人にけがをさせたので数日は来ないかと思ったのですが、予想を裏切って次の日の放課後にはまた三人でやって来た。
 長身の子の腕にはサポーターが付けてあり、やはり怪我をさせたのだと心の中で反省しました。

「来るよね?」

 と、短髪君の一言でまた四人でゾロゾロと廃倉庫にやって来た。先に行くように言われ先頭を歩いたら背後から手首に何か触れた。
 嫌な予感がして振り払おうとした手首には玩具でしょうか? 直ぐ壊せそうな、手錠がかけられていました。

「何の真似ですか? 実力で敵わなければ、こんな手を使うのですか?」

 ……はあ、こんな事をする人間を千景の友人だとは思いたくないですね。
 手に嵌めた手錠をシャラリと鳴らし、このまま引き千切ってやろうかと思う。こんな物、僕にとってはなんてことない。

「アンタが話聞かずに殴るからだろ? そんな見かけしてるくせに短気すぎるんだよ」

 茶髪の男子からそう言われて考えてみる、そういえば話も聞かずに殴りかかったのは僕の方だったかもしれませんね。
 ……そんなことを考えていると、背の低い子が拗ねたような顔で話し始める。

「俺はただ、なんでセンパイが俺を見てんのか聞きたかったんだよ。俺がそんなに気になんの?」
「君を? ……何故、僕が?」

 意味が分からなかった。僕はこの子を見ていた記憶なんて無いし、千景の友人としか認識してなかった。あえて言えば、良く千景に抱き着いてたと……ああ、だからでしょうか。
 そう誤解を生んだ理由には気付きましたが、なんて説明しようか悩みますね。

「センパイ、この眼鏡見にくくねえの?」

 分厚い眼鏡に疑問を持ったのでしょう、そう言って僕から眼鏡を取り上げる。考え事をしている最中だったのであっさり取られてしまった。

「わ、センパイすっげえ可愛い顔してんだ! この眼鏡度が入ってないじゃん、なんで顔隠してんの?」

 眼鏡を放り投げて三人はジロジロと僕の顔を観察し始めてしまった。

 ――やめてください! 好きじゃないんです、この大きな瞳も泣き黒子も。全部、全部!!

 もうこの手錠のまま昨日の様に蹴り飛ばしてしまおうか? いや、眼鏡だけでも返してもらわなくては。口を開こうとした瞬間、倉庫の扉が重い音を響かせて開いた。

「……やっぱココかよ」

 倉庫内に入ってきた千景は呆れたような声でそう言って、僕を見た後仲間を確認する。
 こんな姿を千景だけには見られたくないんです。今すぐここから逃げ出したい、身体が熱くなって汗が噴き出す。
 クリアな僕の視界は千景をしっかりと映し出し、千景の視線は僕から移動することなく僕だけをその瞳に映す。千景はゆっくりとこっちに近づいてきて、床に落ちた眼鏡を拾うとまた僕の方に近づいてくる。
 心臓がバクバクと苦しい。冷静な顔で千景を見つめ返してるけれど、これから彼がどういう対応を取るのかがとても怖い。
 僕の目の前まで来た千景は急に進路方向を変えて横に進む。短髪の子の前まで行くとスッと右手を差し出した。

「……ケン、鍵。持ってるだろ」

 有無を言わさぬ目つきで睨むからケンという男もさっと鍵を彼の手のひらに乗せる。
 千景は鍵を手にするともう一度こちらの方へとやってきます。僕の隣を通り過ぎた時小声で「……バーカ」と囁かれた。僕の後ろで千景が手錠の鍵を外すのですが、彼が後ろで動くたびに爽やかな整髪料の香りが漂う。
 ……クラクラとしてしまいそうです。
 僕に付けられていた手錠が外れると、千景はそっと僕の右手に眼鏡を渡してきました。彼はそのまま何事も無かったかのように、立ったままだった仲間たちの所に向かう。

「オマエら、相手が強けりゃどんな手を使ってもいいってのか?」
「そんなわけじゃ……」

 ため息をついた後、千景は一人ずつデコピンをしていった。ああ、千景のアレは結構痛いんですよね。

「これからお説教だ、早く出ろ」

 それだけを言って、千景は倉庫の扉から外へ三人を完全に追い出してしまう。

「悪かったな、若葉」

 結局、その言葉だけを残して千景は自分も倉庫からさっさと出て行ってしまった。

「千景……」

 学校の友人知人の前では千景は僕を知らない人のように扱う。決して雑ではないけれど、特別に優しくもない。僕だってそうだけれど、自分たちはいつからこうなったのでしょうか?
 ……開いたままの扉の向こうに星空が見えて、少しだけ切なくなった。