「悔しいなー……。男子なんか、大半気付いてなかっただろうに、『あいつ、いじめられてかわいそうだったんだ』って思われたかな。小さい時から、何かができなくて目立つようなこと、なかったのに。何だって、私、できるのに。……かわいそうなんて、二度と人に思わせない。絶対」
 彼女の声に含まれているのは、もう、静電気ではなくて、炎だった。
 見る者の目を焼くような、尊大なほどの、自負。
 ――多分、色は違うけれど、似たようなものを私も持っているんだろうな。
 と、寛子はその時、薄っすらとした、共感感情のことを考えた。
 本題とずれそうなのでその場で口を挟むことはしなかったけれど、いつか、彼女にそれを伝えたい、とも思った。
 彼女は、右手を持ち上げた。目元を乱暴に拭う。
「高三まであいつらと別れられないの、気まずいけど、私、この学校へは勉強しに来たから。そんな、将来の夢ってほど本気じゃないから、バスケは諦めてあげる。その代わり、勉強では全員抜く。何の誘惑もなくなって、ちょうど良い。……ちょっと、せんぱい、」
 涙と鼻水交じりの、その割に威勢の良い宣言に聞き惚れていた寛子は、突然呼ばれて驚いた。
 しかも、何だか声には怒気が含まれている。
「……私、教室では泣かなかったんですけど」
「そうなの? えらいじゃん」
「はい。今だって別に泣きたいわけじゃない。ここに来て、勝手に……。つまり、せんぱいが泣かしてるんですよ」
「そうなる?」
 超理論だ。
 まるで自覚のないことを言われて、寛子は戸惑ってしまった。
 彼女は、すん、と鼻をすすり上げて、子どもみたいな声で言う。
「せんぱいが、よりにもよって今日みたいな日に、表彰されて。……かっこよく壇上に上がっていったところ、何度も思い出したら、学級会で何を言われても、我慢できたのに。何で、ここに来たら、かっこ悪いことばかり言っているんですか? 私は」
「……えーと、知らないよ」
「冷たい。……どうにかしてください」
 無茶を言うなぁ、と、お手上げのポーズを取りたくなった。
 ――同情したら怒るくせに……。
 だが、何度も何度も硬い制服の袖で目をこする彼女を見ていると、これ以上、せめて自分の手では自分を傷つけて欲しくない、という気持ちが募る。
 とは言え、放課後なので、一枚しかないハンカチは湿って人に貸せる状態ではない。
「長良ちゃんは、うーんと、泣き止みたいのよね?」
 彼女は何度も頷いた。随分と素直で、今日の彼女がよほど自分の感情を持て余していることが伝わってくる。
 寛子は立ち上がった。角イスが床の上でタップし、かたかたん、と音を立てる。
 彼女の後ろに立った。
 腕を引いて、振り向かせる。
「じゃあ、今からあなたを、ぎゅってしていい?」
 彼女はぐしゃぐしゃの顔を、驚愕の表情に固めた。
「……な、な、な何で……」
「どうにかしろ、って言ったから」
 片腕を腰に回す。これくらいのことは、仲の良い友達同士ならよく見られる範囲のスキンシップに思われたが、彼女は経験が少ないらしく、硬直している。
「はい、ぎゅー」
「ま、まっ、こ、どうにもなりません、こんなっ」
「こういうの嫌い? 嫌いな子もいるからなぁ。やだって言わなきゃダメだよ、そういう時は。言わないとわかんないし」
「…………。嫌い、っていうか、え、変な感じ……これ、何なんですか?」
 戸惑っている。
 嫌がってはいなさそうだ、と判断した寛子は、子守唄を歌うように、小さな声で囁きかけた。
「長良ちゃん……試しにこのまま何度か深呼吸してごらん。吸って、吐いて、……そう。ハグには、ストレスホルモンの血中濃度を下げて、代わりにオキシトシンを上昇させる効果があるらしい」
「……せんぱいの言葉、よくわかりません」
「……人とハグしたら、ストレス値が下がるらしいよ、ってこと。長良ちゃん。下の名前、何?」
「……一佳(いちか)」
「そうか。一佳ちゃん。今日はよく、がんばりました」
 両手を背中に回して、ぎゅう、と抱擁する。そうしてから、彼女が落ち着くまで、背中を優しく撫で上げた。
 少しすると、彼女の背骨の奥に、多めに空気が入るのがわかる。
「……落ち着く?」
「……はい」
「スキンシップは、ストレス全般に良いんだって」
 言いながら、嘘ではない筈だ、と、言い訳めいて寛子は思う。確かに、本で読んだのだ。
 だが、データを見たわけではないのに、理詰めとは言えない説明にあっさり流される彼女がちょろくて、心配になる。
 ――この子、同じことを言われたら、誰にでも身を任すんだろうか。……もっと進んだ行為でも?
 そう思うと、むらむらと、苛立ちめいた感情が立ち起こる。
 これが、独占欲、というものなのだろうか。
 体を離すと、目が合う。
 彼女の目の窪みに溜まった水分が、顎の辺りに伝い落ちている。
 何とはなしに、寛子はそれに触れ、そのまま、口に入れてみた。
 理由が説明できる行為ではなかったけれど、
 ――涙がフェロモンっていう動物も、いるんだよな。
 ということをぼんやり考えながら、そうした自分に気付いた瞬間、体がかっと熱くなった。
 彼女は、意味が分かっていないようだ。それもまた、ストレスに効く行為、とでも思っているのだろうか。無防備にもほどがある。
 ――やばい、何、これ。
 突然、手ひどくしたい、という衝動に襲われた。彼女の髪をぐしゃっと撫で上げて、怒らせたりしてみたい。相手の感情を、振り幅いっぱいに動かしたい。
 嫌われることを望みはしないのに、そんなことを思わせるほどに、彼女が、「かわいい」。
 もっといろんな顔を見たい。この子が見せたくない、そういう表情まで。自分の手で暴きたい。そういう、暴力的な、関心。
 そんなものを、寄せられる方は迷惑だろう、と頭ではわかるのに。
 体温が馴染む。骨の形が、肉の感触が、手放したくないほどにぴったりくる。
 こんな感情は、知らない。
「……あなた。一佳ちゃん。私が泣かせた、って言いたいみたいだけど」
「…………」
「泣きに来たんじゃないの? 私のところへ」
 煽ると、燃える。
 彼女の顔が真っ赤に染まった。
 密着した体が、ぎしりと強張る。
 だけど、彼女はまだ、寛子を突き飛ばしまでは、しない。
 ――ばかみたいにプライドの高い、この子が。
 慕われている、と思うと、寛子の心臓も、やけに煩く奔り出すのだった。
 塩辛い体液に触れた舌が痺れる。
 別の、あまいもので上書きされたがっているのがわかって、寛子は。
「涙、まだ止まらないね。……次はキスしてもいい?」
 問う。
 自ら退路を崩す行為。
 いっそ自分は、その瓦礫に埋まりたいのかもしれない、と思った。
 ――恥ずかしい。何これ。
 けれど、どうしてか、彼女――一佳も等しく、狂気の沙汰で。
「…………。それは……スキンシップと同じで、……ストレス値を下げるんですか?」
「実験してみないと、なんとも言えない」


 暗幕のカーテンに遮られた生物実験室で、唇の合間数センチの距離を、ふたりで踏み越えた――
 好奇心の、行く末はいかに。