「あの地方の同調圧力の中でそれができてたのが、別の意味ですごいです」
「一佳だって同調してなかったじゃん」
「私は……ただ『みんなと同じ』ができなかっただけです」
「……そんな……こと……」
「…………」
「………………」
「よし、注文おっけー! いつもの人気十二種! ……で良かった?」
「聞くタイミング、今ですか?」
「ごめんごめん」
「一番気に入っているやつなので、良いですけど。どうせ訊くならもう少し早めに」
「はい」
 スマホアプリでさくさく注文完了。便利な世の中だ。
 某出前配達サービスも、アプリだけは入れてみたのだが、夜間、玄関先まで知らない人を呼ぶのは抵抗があるし、店舗まで歩いても十分もかからない。
「……なんか偉そうに、すみません。結局こうなるなら、もっと早く見切りつけて、お願いしていれば良かった。そうしたら、寛子さん、会社帰りにお店寄れたのに……」
「いやいや、そもそも、夕食当番、最近は一佳に甘えすぎだ。こっちが、ごめん!」
「いえいえ、移動時間がないぶん、余裕がありますから。……その筈なんですが」
 寛子の職場も、一佳の転職先の職場も、在宅勤務が可能だったので、しばらく夕食当番は曜日を決めてうまくいっていたのだ。
 しかし、「五類」移行後から、寛子の部署では少しずつ、出勤しなければ片付かない用事が増えてきて、出社の比率が高くなった。
 家事負担が、在宅の一佳にかたよってきているのだ。
 疫病にともなう消毒や掃除も、名前のない家事も、細かいことを気にする一佳の方に負担がかかってしまっているのを、寛子も知っていて、調整がうまくいっていなかった。
 寛子はそもそも適度な手抜きをよしとするタイプなので、そこに家事がある、ということにすら気付かないことが多い。
 一人暮らしならそれでいいのだろうが、共同生活は、暮らす相手のことを自分以上によく知る努力をしないと、見えないところで、相手に苦労をかけてしまうかもしれない。
 一佳には、不全のすべてを背負って自分を責めてしまう完璧主義と、責任感の強すぎるところがあるのかな、と、寛子は長い付き合いの中で思っている。
「……私、ほんと、自分がいやになります。親とのことだって、もうこんなに物理的にも離れたのに、自分も大人になったのに、まだ割り切れなくて。悩み事の質が、思春期から変わっていない……四十が見えてきているのに、大人になれない」
「よしよし。一佳は何も悪くないし、よく頑張ってるよ。昔からね」
「もうほんっと……寛子さんと出会ったの、十二……? から成長が見えないって」
「してるよ。成長してる」
「嘘でしょう? いい年して、身内のどうでもいい言葉で傷ついて、自分じゃどうにもできないニュース見て、さらに落ち込んで。情けない……いつまで経っても、この世界に順応できない」
「そんなの無理でしょ!」
「声おっき」
「おっきい声出た」
 テレビから感染者数の速報が消え、観光地やお祭り・外食情報が溢れ、平常化していく世の中に触れても、一佳の心と体は、まだ、安心や解放感の方へは向いていかない。
 情報過多の世の中だ。何が正しい、とこの時点でわかることは少ない。が、疫病が根絶された、治療法が確立された、というわかりやすい解決はまだ得られていないし、ニュースを見れば、戦争にクーデター、気候変動に地震、食料危機。過去の災害の傷と復興の遅れ。痛ましい犯罪事件に事故。搾取と暴力――いち情報として流れていくばかりの人の死。
 生活するために店に立ち寄れば、必需品の値上げに物価高。物価の優等生・卵の価格ですら戻らないまま。
 ここは、彼女が安心して、晴れ晴れ、明るく過ごせる環境では、ない。
「考えてしまう一佳が好きだよ。昔から。あなた自身はつらいだろうけど。考えるたびにすり減るだろうけど、成長してないなんてことはありえない。してる」
「だけど、私みたいに、自分一人でいっぱいいっぱいな人間に、世界は変えられないし、だったら考えても仕方ない。楽しいことでごまかしたり……日々、工夫してご機嫌にやっていく……べきでしょう?」
「そうかもしれない。そうしている人は多いし、私も……そうしてしまう、つい。みんなそうやって、自分を守っているんじゃないかな。でも、私は一佳の過ごし方の方が好き」
「…………」
「いちいち傷ついてあたりまえだって、本当は思っているんだと思う。傷ついて歩みを止める方がまともなんだって。自分が変なの、どこかでわかってる。でも元気で働かなきゃ、最悪の事態が怖い」
「寛子さんは、昔から、自分の手に負えるものとそうじゃないものを見分けて。大人でした」
「親も小器用だからなぁ。勝手に学んだのかもしれない」
「私も、寛子さんと暮らせて、勉強になるなぁと思ってます。そういう考え方もできるんだとか。逃げ方とか」
「そうなの? ……でもあんまり真似できてないよね。良かった。私に似てこなくて」
 本気のトーンで寛子が言うと、一佳はくしゃっと顔を崩して、体を揺らして笑った。
「なんなんですか、その言いよう!」
「えー? だって、普通にいやでしょ?」
 寛子もソファに背中を預けて、くしゃりと笑う。
 ――自分とは全然違う、他人のこの子と過ごすのが、このうえなく幸福だ。
 だから、何もかもゆるく受け流してでも、寛子は守りたい。この生活を。
「なるほど。寛子さんは、私が私らしく、絶望に耐えてるのがお好みなんだと」
「勝手に追い込まれる一佳が愛おしいという話で、敢えて崖から突き落としはしないよ。むしろ私といる時くらい、まったりまどろめ、って思ってる。ご自愛、ご自愛」
「……バランスをとる……?」
「そうそう。できる範囲でね」
「……ほっ」
 一佳が、腹筋の力だけでむくりと体を起こす。と思うと、きびきびした動きで台所へ向かった。体が重そうにはもう見えない。
「残り野菜でお味噌汁……と、小松菜のおひたしくらいは作りたい、です、せめて」
「え、いいよ無理しないで……」
「ビタミンとミネラルがどれだけ大事かわかってます?」
「あ、はい、お任せするわ……」
 健康診断でいくつか要検査項目が出た寛子に、否はない。
 ――一人だったら、それでも好きに生きて、何が悪いと開き直れるけれど。
 でも、縁あっての二人暮らし。
 相手の分まで長く、元気でいなくては。彼女の悲しむ顔は見たくないし、元気でいないと、きっと思いやりだって贅沢品になってしまうから。
 身軽ではない。だけどそれは、寛子には悪くない重みだ。
「じゃ私はお寿司受け取ってくる。ついでに朝食のパンも」
「あっそうだ。切らしてた。何から何まで、すみません!」
「謝ること、なんにもないって」
 二人の人間。不完全が二つ。
 日常は、スムーズに流れて行かない、がデフォルト。
 多少のずれや失敗は、リカバリー前提でいけばいい。
 テイクアウトのお寿司とあったかいお味噌汁、それと一佳ご推奨のビタミンとミネラルをとって、少しまったりしたら、疲れの取れる熱いシャワーを浴びて、歯磨きして、しっかりクーラーのきいた部屋で早めに寝てしまおう。
 

 とは言え。二十二時過ぎは、さすがに眠くない。