「……大体一週間かな」
「カプセルホテルなんて、熟睡できなかったんじゃないです?」
「いやいや。泊まってみると、意外と快適なんだよね。レディースフロアあるし、お風呂広いし」
「そういうことじゃなくて。……うちに泊まってくださいって、私、言いましたよね。同窓会で」
 核心に切り込む時の、一佳の、そらすことを一瞬もゆるさないような力のある目は、少し苦手だ。
 どきっとして、息苦しくなる。
 責められているような心地をごまかすために、ああ、きれいな瞳だな、とか考えてしまう、寛子は相変わらず不真面目だ。
「あー……うん、ごめん。でも、一日二日のことじゃないし。一佳だって仕事あるだろうし、あてにしちゃ悪いかなって」
「悪くないですよ。声かけて欲しかったです。私。だから言ったんです。本当に来て困る人には、社交辞令でも言わない」
「……そうね、知ってる、一佳はそういう子だよね……」
「……はい。私も知ってます。せんぱいがそういう人だって」
「…………」
「だけど、最後の二日か三日だけでも、泊まってくれたって。狭い部屋ですし、落ち着かないかもしれないですけど、そういうふうに距離を、あけられると、」
「……ちょ、待って、待って。距離をあけるって何? そういうんじゃないよ? ないでしょ? あけた? 私」
「だって……」
 クールな一佳、大人になった一佳が、声に感情を乗せている。
 熱を孕んで、怒っているようにも聞こえる声に、寛子は少々焦りながら、弁解した。
「そういうのじゃないって。ごめん! だって、いくらあれだけ仲良かったって言っても、ずっと連絡だって取っていなかったんだし……距離感っていうものがあるでしょ?」
「…………」
「親しき中にも、ってやつ」
「……はい……」
 一応は頷きながらも、一佳は不満顔だった。
 ――だって、続いてきたものは切れた筈だ、十年以上、連絡も満足に取らなかったら、それは、そういうものだと解釈する。誰でも。
 けれど、寛子としても、実際にこうして一佳と過ごしてみると、空白の年月が嘘のようにしゃべることができて、やっぱり気が合うので、何だったんだろう、とは思ってしまう。
 相手のことを知り過ぎて、幻滅するかもしれない。そうでなくても、向こうが、幻滅するかもしれない。
 そうやって無意識のうちに予防線を張っていた結果が「帰る日に会う」という選択肢を寛子に選ばせたような気がするが、これではただの杞憂だったということになりはしないか。
 久しぶりに連絡を取った旧友が、すっかり「旦那」と「うちの子」の話しかしない子になっていたり、仕事の自慢話、いわゆるマウンティングをしてきたり――嫌な思いをしたこともないではなかったから、慎重になる癖ができていた。が、変わらない、壊れなかった関係性もある――と、他ならぬ一佳の時に知ることができて、良かった、と。それは、思う。
 本当に、良かったと。思っている時、突然、テーブルの上のスマートフォンが震え始めたのだった。
「……なんだろう? こんな、時間に……知らない番号」

     ◆

 着信のようだったので、一佳に詫びてから立ち上がり、カフェの入り口あたりで立ち話をする。電話を切って席に戻った後も、寛子はしばらく、心ここにあらずの状態だった。
「ええ~……? どうしよう……」
「何かあったんですか?」
 こんなことが、起こるのか。こんなタイミングで。
 まるで運命の女神に弄ばれているようだとも思うし、ありふれた現実のひとつでしかない、とわざと冷めたことも思うのだが、どちらにしろ、寛子は混乱していた。
 ふわふわした心地のまま、一佳に事情を説明したものの、話しながら、自分が一番信じられない。
「あー……どうしよ、だめだ、頭回らない……」
「冷たい飲み物、頼みます?」
「ああ、どうだろ、いや……水だけでいいかな」
 コップに残っていた水を一気に飲み干したものの、平常心は戻って来ず、胃に当たった氷水の冷たさにのどを詰まらせただけだった。
「え―――――――………どうしたら良いの……? えっ、だって、バス……乗らなきゃ……予約したし」
 寛子は何度もスマートフォンのボタンを押して、時間表示に目を落とす。時間がない。早く決めなければ――人生を――ルーレットが回ったのだから。
 ばくばくと、心臓が膨らむ。液体が流れる音のようなものが、こめかみの辺りを通って、体温が上がっていく。
 暑いような、寒いような。
 寛子はいつの間にか、自身の二の腕を、両手できゅっとかき抱いていた。
「もう、何だろうね、この……あはは、困った」
 顔だけは自棄のように笑顔を作ったが、一佳の瞳は、自身の腕に食い込む指の方をこそ、じっと見ている。
「この一週間のうちに受けた会社の中で、内定が出る、ってことですよね」
 直截な一佳の物言いに、何故か、キリ、と胃が痛んだ。その通り――のようなのだが、素直に首背できず、うやむやな物言いになる。
「えっいや社長に会わせたいって……人事の人に言われたんだけど……やっぱ詐欺かな? 私騙されてる? あっさり決まりすぎだもんね?」
「せんぱい。落ち着いてください」
「疑いすぎかな? はい、行きます、って即答すべきところ? 考えさせてくださいって言っちゃったよ~。印象悪かったかな?」
「うん」でも。「そんなことないよ」でも。
 どちらでも良い。誰かに正解を教えて欲しかった。その瞬間、占い師が答えを教えてくれるなら、飛びついていたかもしれない。
 ……という、脆弱な人間心理には相変わらず忖度しない調子で、一佳は生真面目に、答えを保留する。
「私が人事の人と直に話したわけじゃありませんから、なんとも言えません。なんて言われたんですか?」
 ――つい先ほど、端末越しにした会話すら、うっかり自分の都合が良いように改竄したものを記憶しているんじゃないか、と、そこが心配なのに、言質を取るなんて……。
 容赦がない、と、寛子は恨みがましい気持ちになった。
「もしかしたら、社長は社長面接の後で決めようと思っているのに、人事の人が勝手に楽観的に考えているだけ、かもしれないけど……ほぼ決まりです、って。後は社長に顔通ししてくれれば良いって。……そんな甘いものじゃないよね? 転職って。たった、たった一週間ちょっとしか活動していないのに」
「それは、せんぱいが優秀だから……」
「そんなことないって。まじで。そんなことなかったから! わー……どうしよ! って、私一人で決められることでもないか! ないよね! やっぱり。一度帰って考えるか!」
「……それもありだとは思いますけど……お金もったいなくないですか? 最初から断るつもりなら、良いと思いますけど。迷うくらいの会社なら、社長に会うだけ、会ってみたら……」
「いや! 私の布団、自分の布団にくるまって考えないと、大事なことは何も決められないよ! そういうもの。よし、帰るぞ……!」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないよ!」
 理性が吹き飛んでいるからか、大きな声が出てしまう。
 スタイリッシュな店内で、スマートではない自分の振る舞いに心底しょげそうになっていると、一佳が伝票を取って立ち上がった。