琉斗君が行ってしまうと、どうしたら良いかわからなくなって、私は「座ってもいいですか?」と千鶴さんと呼ばれた女性に聞いた。
「ああ、ごめんなさい。お好きな席へどうぞ」
千鶴さんはニッコリと微笑むと、中へ向かって「笹森君、テーブル席に一名様ご来客よ」と声を掛けた。
「はーい」という声とともに、黒髪に細い眼鏡をかけた細身の男の子が現れて、窓際の席に座った私の前におしぼりと冷水の入ったグラスを置いた。
「いらっしゃいませ。琉斗の友達だって?」
爽やかな笑顔で微笑むと、メニューを広げてケーキセットを示した。
「ケーキはショーケースにあるものどれでもOK。ここはフルーツタルトが種類が多くて人気だよ」
「じゃあ、見てきてもいい?」
「はい、どうぞ」
オーソドックスなイチゴやオレンジやベリー系のタルトから、マスカットやマンゴーや洋ナシにいちじくにアメリカンチェリー、色んなフルーツのタルトが並んでいた。その他にも、チョコ系のケーキが数種類に、ショートケーキやシュークリームも少しずつ置いてあった。
「ハハッ、迷ってんな」
聞き覚えのある笑い声に顔を上げると、コック服に着替えた琉斗君が立っていた。
「えっ? ケーキ屋さんのバイトって作る方なの?」
「おう。裏で製造の手伝いしてる。けど、レシピ作っているのはちゃんとしたパティシエだから安心しろ」
接客の方だとばかり思っていたから、なんだか意外だった。だけど、琉斗君が作るのを手伝ったものを食べられるってことだと思うと、なんだか嬉しい。
そんなことを思って内心はしゃいでいる自分に、冷静な自分が呆れているような気がした。
「どれがお薦め?」
「どれもお薦めだけど、今日はメロンかマスカットかな」
「意外とあっさり系だ」
「ハハッ。好きなの食えよ。んじゃ、またあとでな」
ショーケース越しに私の頭をくしゃっと撫でると、琉斗君はそのまま中へ消えていった。
そして、少し離れたところでそれを見ていた千鶴さんと笹森君がこちらを見て、必要以上に微笑んでいることに気が付いた。
な、なんだか恥ずかしい……。
私が席に戻ると、すぐに笹森君が「決まった?」とやって来た。
「えっと、マスカットのタルトとアメリカンコーヒーのセットで」
「了解。今出ているマスカットタルトは琉斗が作ったんだ。だからきっと薦めたんだよ」
そんな言葉をまた爽やかな笑顔で言うと、笹森君は嬉しそうにメニューを持って中へ入って行った。
なんか……彼女だと勘違いされてる? そんなこと無いよね? 友達って言ってたもんね。
私は恥ずかしさを隠すようにスマホを出して、月にこのお店に来たことを伝えるLINEを送ろうと思った。一人じゃ何だか恥ずかしいし、次は月と一緒に来よう。
そう思った時に、LINEが上手く開けずにハッとした。
そして、月と一緒にここに来られたらいいけど……と思い直して、小さくため息をついてスマホをしまった。
「どうかした? 大丈夫?」
私の様子を見ていたのか、千鶴さんが不思議そうに声を掛けてきた。
「えっと、大丈夫です……。あ、あの、失礼ですけど、携帯ってスマホですか? ガラケーですか?」
「私の携帯? ガラパゴスよ。あなたはスマホなのね。買い替えを考えているの?」
「えっ、そうじゃないけど……スマホは使わないんですか?」
おかしな質問だと思ったのか、上品にクスクスと笑われた。
「以前は使っていたけど、色んな機能があり過ぎて逆に不便を感じてね。あなたはきっと機械に強いのね」
そう言われると、私も元々入っているアプリの半分も使っていない。使うものって限られているから……。
「ふふっ、余計なことだけど、今日の長久保君はとっても嬉しそうよ」
そう言いながら、何故か千鶴さんも嬉しそうにまたレジの方へ戻って行った。そして、入れ替わるように笹森君がケーキセットを手に私の前に立った。
「お待たせしました。これ、あいつが書いたんだよ」
金縁の大きな平皿に乗ったマスカットのタルトの周りは、チョコレートソースのペイントで飾られていて、中央には〝Thank you〟の文字があった。
「俺は〝Love〟にしろって言ったんだけどね。琉斗のやつ、照れてそれ書いたんだよ」
その爽やかな笑顔とは不釣り合いな茶化しに、私は思わず赤面してしまった。
「そりゃあ、そんな文字は書かないでしょ?」
私のそんな言葉も気にしないような顔で微笑まれて、「ごゆっくり」と言って去って行った。
絶対に彼女だって勘違いされている気がする…………。
だけど私の中にある、とてつもなく恥ずかしい気持ちの奥には、とっても嬉しいという感情が湧き上がっているのを認めていた。複雑な気持ちがたくさん交錯しているけど、私は自分の気持ちはハッキリと感じてきていた。
それを認めながら、琉斗君が作ったというマスカットタルトを口へ運んだ。それは細やかな甘さで、とっても優しい味がした。
「おまたせ。三時間も一人で過ごすの大丈夫だったか?」
十時を過ぎて閉店になると、間もなく琉斗君がやってきた。
「それ、聞くの? 毎週土曜日に一人で過ごしていたから慣れてる。宿題もやったし」
「ハハッ、そうだったな」
そんな会話をしながら、「お疲れさまでした」と琉斗君が千鶴さんや笹森君たちに声を掛けると、他の裏にいた従業員もみんなで並んでニコニコしながら見送っていた。
「なんだ、あれ」
驚いた顔をしながら、琉斗君は口をへの字にしていた。
「なんかね、みんな私が琉斗君の彼女だと勘違いしていたような気がするんだけど。大丈夫だった?」
「へっ?」
琉斗君は目をまん丸くして、だけどすぐに照れた表情をして「あ、そう」と言って前を向いた。
意識してしまったのか、帰りは手を繋いでこなかった。そして、会話もあまりないまま、電車で二駅先の〝黄河駅〟に到着した。
「あっ、送って行くよ。さすがに遅いから」
「…………うん。じゃあ、〝幻想珈琲館〟まで送ってくれる?」
「……おう」
再び沈黙が訪れた。さっきまでの、照れ臭いような恥ずかしいような、そんな静寂ではなく、微妙な気まずい感じの沈黙だった。
行く時に来た住宅街を通り抜けると、琉斗君が立ち止まったから私も立ち止まった。
「この辺から行けるんだけど。ちょっと目ぇ瞑って」
そうだった。普通に歩いて辿り着けないのが幻想珈琲館だ。私は言われるまま目を閉じた。
すると、ふわりと温かいものに包まれたと思うと、琉斗君に抱きしめられていた。
「えっ?」
「ちょっと、そのまま聞いて欲しい」
思わず反射的に琉斗君の胸を押そうとした私を宥めるように優しく囁かれて、恥ずかしかったけどそのまま力を緩めた。
「俺さ、この腕の傷を人に見られたら、いつも適当に事故で負った傷だって話していた。母さんのことも、単に小さい頃に親が離婚したってこと以上は別に誰かに話す必要もねえって思っていたし、親父の暴力なんかも同じだった」
ちょうど琉斗君の胸に耳が当たって、少し響いて聞こえる声に聴き耳を立てながら、私は「うん」と小さく頷いた。
「けど、実莉には――――なんでだか何でも話せるっていうか……。なんか、素の自分でいられるのかな。あの不思議な店とか、夜中の独特な空気とかもあるのかも知れねえけど」
それは少し分かるような気がした。私もあの時間の幻想珈琲館では何だか特別な感覚があって、素直な自分の心で居られるような気がしていた。
「けど、それだけじゃないっつうか……」
そう言いながら、琉斗君が身体を少し離した。離れた途端に、私の頬を冷たい風が通ったのを感じた。
そして、琉斗君が真っ直ぐこちらを見ていた。
「俺、実莉が好きだ」
ドキン、と私の心臓が大きく鼓動を打った。
「ずっと自分の気持ちに気が付いていたけど、今日バイト先に来てくれて、みんなにおまえのこと〝好きな子〟って言ってたんだ。その時に、もう今日言っちまおうって自分で決めてた」
私も琉斗君のことが好きだって、ちゃんと自分の気持ちに気づいていた。
だけど、その言葉を言うには喉が詰まって上手く言葉にできず、目に涙が滲んできた。
「俺さ、おまえと一緒にいたらマジで楽しいし。そんな時間をもっと増やしたいなって単純に思った。だからさ……」
琉斗君の手が私の頬に触れて涙を拭ってくれた。
「俺の彼女になれよ」
そう言った琉斗君は笑っていたけれど、その瞳は切ないような寂しいような、そんな色をしていた。それは多分、私が哀しそうな顔をしているからだろう。
相変らず喉が詰まって言葉にならず、ただ涙が零れ落ちていったけれど、そのまま琉斗君の顔をただ見ていることしか出来なかった。
「……実莉の気持ちを聞きたい」
「わた……しも、琉斗君が好き」
そう言いながらも、哀しい気持ちのまま涙が流れていくから、私は琉斗君から目を離して薄手のコートのポケットに入れていたハンカチで顔を拭いた。
「だけど、彼女にはなれないよ」
「…………なれるって。お互いに好き同士なんだから」
「だって……だって……」
琉斗君もちゃんとわかっているんだ。そのうえで想いを伝えてくれたんだ。
そう思うと嬉しさと切なさが溢れてきて、よく分からない涙で景色が滲んできた。
私の頭をクシャっと撫でると、琉斗君は前を指差して笑った。
「ここってさ、中間地点なのかな」
いつの間にかいつものポプラ並木に立っていて、琉斗君が指を差したのは相変らず電気が消えたままの幻想珈琲館だった。
「俺の世界と、実莉の世界の」
「…………わかんないけど、そう思う」
琉斗君が手をギュッと強く繋いできたから、私も小さく握り返した。
暫くの間、二人で少し遠くに佇んでいる幻想珈琲館をぼんやりと見ていた。
「琉斗君は、いつ気が付いたの……?」
「まあ、少しずつおかしいとは思っていたけど。でも、やっぱり昨日、実莉の世界の方に行った時かな? 全然知らない場所だったし、あの大通りって大きなビルやマンションが立ち並んでいたじゃん?」
私がここに来る時にいつも通っている、あの大通りのことだろう。確かに背の高い建物が多い通りかもしれない。
「俺の世界ではさ、ああいう高層型の建物が建てられる都市って限られているんだ。少なくとも俺の住んでいる地域は違うし、俺の知っている街では無いってことは分かった。おまえの高校も俺の世界には存在しないし」
存在しない、その言葉は寂しさを増長させる。だけど、それが事実だった。
「実莉もやっぱり、俺の世界に来て分かったのか?」
「うん。ここからの最寄り駅は〝黄河〟って名前じゃない? 〝黄金〟なの。私の世界ではね。駅の造りも全然違ったし。琉斗君の出身中学も高校も存在しなかった……。何度行こうとしても、山咲駅にもさっきのケーキ屋さんにも辿り着けなかったしね」
「ハハッ、だよな」
もう一度、琉斗君が私の頭をくしゃくしゃっと撫でた。そして、満面の笑みで私に語りかけてきた。
「だけど、俺らはここで出会えたわけじゃん。で、今もこうして一緒にいる。しかもラッキーなことに、お互いに好きだって思えているんだ」
「それはそうだよ、そうだけど……付き合うとか、無理じゃない」
「どうして? 今だって別に一緒にいられているし、また次の約束だって出来るだろ?」
「でも、お互いに違う世界にいたら、メールがリアルタイムに届かないよ。声が聞きたい時に電話も出来ない」
そんなの付き合っているのに寂しいって、絶対に思ってしまうのが分かった。きっと琉斗君と一緒じゃないとさっきのバイト先にも行けないだろう。月と一緒に行って驚かせるとか、月に彼氏だよって紹介するとか、きっと出来ないんだ。
「だとしたら、付き合わない? それってどういう意味? もう会わねえってことか?」
琉斗君の言葉が胸に刺さった。
そこまでは考えていなかった……。
「……やだ。もう会えないなんて、嫌だよ」
「俺だって嫌だ。じゃ、付き合うってことでいいじゃん」
明るい声で琉斗君にそう言われると、それでいいような不思議な感覚になる。
「その後のことは、これからゆっくり考えていこうぜ。まず、二人で会うことは可能なんだし。メールも送れば、会った時とか、この辺りにお互いにいれば届くんだからさ」
「……うん、そうだね」
「俺、実莉が好きだよ」
私の目を真っ直ぐと見たまま、嬉しそうに琉斗君が笑った。
「私も琉斗君が好き」
「やった! じゃ、今日から俺の彼女な!」
そう言って、また一瞬だけ抱きしめられた。
「次はいつ会おうか。あっ、とりあえず今日は家まで送って行く」
「……そしたら、琉斗君は帰れなくなるかもしれないよ」
「あ、そっかな? そんなこと、マスターが言っていたんだっけ? 一人でここに来てもダメなのかな? それやべえな」
困ったように琉斗君が自分の髪をくしゃくしゃと掻きむしった。
「私の家は人通りのある大通りの方だから大丈夫」
「ごめん、もう遅い時間に帰さないようにするから」
そんな会話が彼カノっぽくて、なんだか照れてしまうけど嬉しかった。
単純に考えても、違う世界で暮らしている私たちが付き合うということは、付き合う先にずっと一緒にいられる未来があるのか? という疑問が付きまとう。
だけど、それはまだまだ先のことで、私たちは一緒に時間を重ねながら何か方法を見出すことも可能のような気がしていた。
この時は、そんな幸せを感じることが出来た時間だった。