今日もモーニングを食べ終わると、八時半にはお店を出た。
毎回なぜか一緒にお店から出られない気がするけれど、今日は私の家の傍の〝雪之橋〟を教えるからそこまで一緒に行く。
お店を出るときにマスターが心配そうな表情で「今日は一緒に帰るのかい?」と聞いたことが何だか引っかかったけど、気にせずにそのままお店を後にした。
幻想珈琲館を出ると、いつも霧がかっていて視界が悪く前方がよく見えないような気がする。
「雨が降りそうだな」
空を見上げた琉斗君が呟いた。確かに空はねずみ色の雲が広がっていた。
ふいに、私は琉斗君が消えてしまうような気がして琉斗君の上着の袖口を掴んだ。
「なに? どうしたんだよ」
「ごめん、なんか不安になって」
意味がわからない、という表情の琉斗君が私の顔を覗き込んできた。
「なんか、琉斗君が消えちゃう気がした」
バカみたいな子どもっぽい発言だと自覚しながらも、俯いてそう言うと、琉斗君が私の手を強く握って笑った。
「消えねえよ、バーカ!」
その笑顔にホッとすると、いつの間にかポプラ並木が消えていつもの大通りに来ていたことに気が付いた。
「あ、いつの間にか戻っている」
「おっ? ここ……?」
「〝雪之橋〟見に行くんだよね? すぐそこの信号の角を曲がるんだよ」
手を繋いだまま歩くのが気恥ずかしかったけど、それでも離す気持ちにもなれずにそのまま信号待ちをした。琉斗君はずっと落ち着かない様子で、キョロキョロと辺りを見渡していた。
信号が青になると広い横断歩道を足早に渡って、渡り切った角を曲がったところにある遊歩道のような広めの道に白い橋が架かっているのが見えた。下には少し大きめの川が流れている。
「そこだよ、雪之橋。知らない?」
「ん? あ、ああ。つうか、この辺って全然見たことねえな。こっち側もたまに来るはずだけど……」
かなり驚いているようで、繋いだ手には汗が滲んでいるのが分かった。
「そうなの? いつも幻想珈琲館にはあの大通りから来るわけじゃなくて?」
「大通りは大通りだけど、あんなゴチャゴチャしたビル街じゃなくて、もう少し落ち着いた住宅地だよな。なんか、少し違う道から来ているようだ」
確かに西口方面は住宅地が多い地域かもしれない。だけど、そっちからも幻想珈琲館に行く道があるということ?
あのお店の先は行き止まりだし、あそこに続くポプラ並木は一本道だから矛盾を感じるけど……。でも、確かに不思議なカフェだからよく分からない。
「とりあえず、駅まで一緒に行く? そしたら、帰れるでしょう?」
「ああ、そうかな……? いや、それよりさっきの店に戻った方が早いような気がする」
「分かった」
私たちは手を繋いだまま、また信号を渡ってあの大型家電量販店の手前で立ち止まった。そして、さっきと同じように空を仰いで今にも雨が降り出しそうなねずみ色の雲を見た。
間もなく思惑通り、幻想珈琲館へ戻って来ることが出来た。
すると、カフェの扉の前にマスターが立っていた。
「傘が必要だと思って、待っていたよ」
そう言うと、持っていたビニール傘を二本、にこやかに私たちへ差し出した。私たちは繋いでいた手を離して傘をそれぞれ受け取った。
「ありがとう、マスター」
「今度は一人ずつお帰り」
マスターの不思議な言葉に私たちは顔を見合わせた。
「一緒に帰らずに、一人ずつお帰り」
「……どういう意味なの?」
「ああ、琉斗君は戻ったね」
振り向くと、私がマスターの顔を見ている間に琉斗君の姿が無くなっていた。
「なに? どういう意味? 私たちはどうして一緒に帰ってはいけないの?」
「…………どちらかが、帰れなくなるからだよ」
「えっ?」
「だけど、キミたちは出会うべくして出会った。ここはそういう場所だから」
マスターはそう言い残してお店の中へ戻って行った。
その言葉の意味を考えながら、振り向くとさっきの大通りに戻っていた。
私はスマホを出して、今のマスターの言葉を琉斗君にメールで送った。その場で立ち尽くしてスマホを見つめていたけど、やはり暫く待っても返事は来なかった。
「実莉ぃ、週末の琉斗君タイムはどうだった?」
月曜の朝から、月がニヤニヤと近寄って来た。
「そう言うルナは好きな人いないの? 彼氏と別れて二ヶ月くらい経つでしょ?」
「ああ、それね。元カレが復縁を迫ってきてるの。うっとおしくて無視しているところ」
月は小さくため息をつくと、窓辺に腰を掛けて肩より長い少しウェーブした金髪の先を指でクルクルといじった。
「うちの親、うるさいの知っているでしょ? 今までも口煩かったけど、高校生になってあの元カレと付き合いだしたら、尚うるさくなったんだよね」
「そりゃ、そうでしょ? 箱入り娘だもんね、ルナは」
「あたしが髪を染めたのとか、服装も派手になったのも元カレのせいだと思われてるし。ていうのも、あいつがチャラい外見だからだけど」
知り合ったのもナンパだったと言うし、確かに親からは印象が良くない男の子だったかもしれない。だけど、私は普通に月のことを好きで大切にしているいい子という印象だった。
「ルナは面倒くさくなって別れたの? その、剛志《つよし》君だっけ?」
「うん、剛志。……面倒くさそうに見えた?」
「まあね。付き合ったのも受け身に見えたし。親に色々と言われるのが嫌で別れたように見えた」
「そうだねぇ……」
月がもう一度ため息をついて、哀しそうな可笑しそうな複雑な表情で微笑んだ。
「よく分からないんだよね。正直言って。うちは生活の中でいつも親が干渉してくるから。誰かと付き合う時も、親に文句を言わせないようなちゃんとした人がいいと思ったり、逆に親がドン引きするほどの人でもいいや、とか思ったり。この前の元カレは後者だったの。親は思った通りドン引きして、それでなんか私は満足っていうか」
ふっと小さく笑うと、月は私から視線を外して窓のどこか遠くの方を見つめた。
「だけど、付き合っていると意外といいヤツでね。けど、親には既に印象最悪なわけじゃない? 家に連れて行かなくても、最後は家まで送ってくれるから必ずと言っていいほど親と会うの」
話している月の瞳は寂しそうに見えた。きっと月は剛志君を好きだったのだろう……。
「なんで別れたの?」
「うん……。なんか、巻き込んじゃったなって思って。親子の問題に」
「好きだったんでしょ? だったら親子の問題とか以前に、好き同士が付き合うって自然なんじゃないの?」
月は少し小首を傾げると、綺麗に微笑んで「そうかもね」と呟くように言った。
「でも、よくわからなくなっちゃって。面倒くさくなったんだよね、結局は。実莉が言った通り」
「でも、彼は復縁を望んでいるんでしょ?」
「もう、私の話はいいよ。おしまい!」
私のおでこをペチンと叩くと丁度先生が入って来て、寂しそうな笑顔のまま月は自分の席へ戻って行った。
私は中学の頃には友達の延長でなんとなく彼氏っぽい子がいたけど、恋愛というものはよく分かっていない。
そんなことを考えていると、琉斗君の顔が頭をかすめた。
琉斗君のことは恐らく気になっているし、恋愛という意味じゃないとは言い切れないけど、まだ名前をつけずに二人の関係を楽しんでいたいというのが本音かもしれない。
だけど、月の場合は付き合っていて一度は別れたけど、お互いにまだ好きなら付き合うのが自然なんじゃないのかな……?
余計なことだし、口を挟むつもりは無いけど。
それでも私には月が何を考えて躊躇しているのか、そこがよく分からなかった。好きな人に好きだと言われているのだから、素直に付き合ったらいいのに。
親に干渉されるって、付き合う人にまで影響することなんだ……。
そうだとしたら、今の私はやっぱり親に無関心であってもらって良かったのかもしれない。
あっ、そうだ。月に今度こそ琉斗君のバイト先に付き合ってもらおうと思っていたんだった。
それを思い出すと、私はスマホを出してブックマーク登録していた〝coco〟のHPを出そうとした。
「こら、飛嶋。もうHR始まっているぞ。スマホは仕舞いなさい」
担任の低い声が飛んできて、いつも真面目な優等生で通っているだけに、みんなが驚いた様子でこちらを見た。
「実莉らしくないと思ったんだ。担任来ているのにスマホなんか出して。やっぱり琉斗君関係だったのね」
放課後、琉斗君のバイト先へ付き合って欲しいと言ったら、月は嬉しそうに茶化してきた。
「もう、すぐにそういう言い方するんだから」
ブツブツ言いながら、〝coco〟のウェブサイトを出そうとした。だけど、何故かエラーになってしまう。
「変だな? 電波が悪いのかな?」
確かに登録したはずのHPはやっぱりエラーメッセージしか出ない。
「担任に見つかって焦って何か誤操作したんじゃないの?」
「そうかなあ? でも、山咲駅への行き方が分かったから、お店には行けると思うんだ」
今度は乗換案内を出して、この前と同じように森の丘学園駅から山咲駅までのルートを検索した。だけど、これも山咲駅が存在しないという表示になって、エラーメッセージが出る。
「やだ、なんなの? この前はちゃんと検索できたのに。ここから十八分だったんだよ。どこかで乗り換えて……」
「それ、どこで乗り換えか覚えている?」
「えっと、〝硫黄〟って駅だった」
そして硫黄駅経由で検索しなおしたけど、硫黄駅も存在しないとエラーメッセージが出た。
「んんっ? なんだか致命的に相性悪いね。そのお店と」
私はふと、マスターが言った言葉を思い出した。琉斗君と一緒に帰ったらどちらかが帰れなくなる、と言われた。
あれはどういう意味だったんだろう?
結局、琉斗君のバイト先である〝coco〟へ行くのは諦めて、月と駅前のショッピングモールをブラブラしてスタンドカフェでお茶して別れた。
私はどうしてもマスターの言葉が気になって、平日の夕方だけど〝幻想珈琲館〟へ行ってみようと思った。
いつもの大通りを歩いて、いつもの大型家電量販店の手前で止まる。そして、紅色に滲んでいる綺麗な夕焼け空を見上げて少しだけ目を閉じて深呼吸をした。心が落ち着くのを待ってそっと目を開けると、あのポプラ並木が紅い夕焼けで美しく色を変えて映った。
思わず「やった」と小さく呟くと、私は幻想珈琲館に続くオレンジ色の道を小走りで駆け抜けた。だけど、いつもは明かりが灯っている店内は暗く静まり返っていて、金色のドアノブに手を掛けると鍵が掛かっていてその扉は開かなかった。
「ええー、定休日なの?」
思わず独り言を漏らすと、背後から「実莉?」という聞き覚えのある声が耳を捉えた。振り向くと、そこには学生服姿の琉斗君の姿があった。
「えっ? 琉斗君? まだ月曜日なのに、すごい偶然!」
「ビックリした。実莉も今来たんだよな? マジで偶然だ!」
会えると思っていなかったからか、なんだか二人ともテンションが高くてお互いの顔を見て笑ってしまった。
そのとき、二人の携帯に同時に着信音が鳴った。
「おっ、メールだ」
「私も……しかも、琉斗君からだ」
昨日の夜に送られた、相変らずの何気ないおやすみメールが今届いた。だから、その時に届けてよ! と心の中で叫びたくなる。
「こっちも実莉から」
少し真剣な表情になった琉斗君を見て、そう言えば昨日のマスターの言葉を送ったことを思い出した。
「そういえば、昨日は俺だけ先に帰っちゃったよな。あの後に言われたのか? 一緒に帰ったら、どっちかが帰れなくなるって」
「うん。だけど、どういう意味なのか分からなくて……」
「……そっか」
少しの間、なんとなく沈黙してしまった。琉斗君は何か思い当たるのだろうか……? なんだか神妙な顔をして考えているように見えた。
「今日は店は開いてないのか?」
「うん。マスターに昨日の言葉の意味を聞こうと思って来たんだけどね。琉斗君はどうして来たの?」
「や、なんとなく。バイトの時間まで少し時間があったから、普段の日にも来てみたくなって。前に来ようとして失敗したから再チャレンジしてみた」
その言葉を聞いて、私は〝coco〟の情報が無くなってしまったことを思い出した。
「そうそう! 琉斗君のバイト先に今日行こうとしたんだけどね。登録したはずのウェブサイトも乗換案内で検索した行き先も出て来なかったの」
「えっ? 昨日はここで一緒に検索できたのに?」
「そうなの。何故か友達と一緒に見た時には全然ダメで」
そう言いながらスマホを出して、さっきと同じようにブックマークから〝coco〟のウェブサイトを出そうとしたら、何の問題もなくサイトが開かれた。
「あれ? なんで?」
「うーん、なんだろうな。あっ、だけど今日来てくれようとしたんだ?」
「うん、友達と一緒にね。でも、辿り着けていたとしても、その時間に琉斗君はいなかったんだね」
「ああ、今日は六時からだから。今からでも遅くなければ、一緒に行くか?」
「本当に!? 行く!」
平日に遅く帰ることはあまりなかったけど、それでも親にはメールしておけば大丈夫だろうと思えた。それよりも、いつもと違う琉斗君を見られるのが新鮮だった。
「琉斗君の学生服姿、初めて見た」
「ハハッ。おまえだって制服じゃん。その制服やっぱ見たことねえなあ」
「そうなの? この辺だったらよく見かけない?」
「そうか? まあ、女子高生の制服なんていちいち覚えてねえもんな」
そんな言葉を聞いて、ナンパ男子じゃなくて何だかホッとしている自分に気が付いた。
「じゃ、行くか」
琉斗君に昨日と同じように手を取られて、思わず胸が高鳴った。こんな風に自然に手を繋ぐけど、いつも琉斗君は誰とでも手を繋ぐのだろうか……?
そんなことを考えながら、琉斗君に手を引かれるまま来た道を戻ろうとすると、ポプラ並木が消えて、だけどいつもの大通りではない、知らない住宅街の大きな通りの信号の前に立っていた。
「えっ? ここって……?」
「俺はいつも、この道から来ているんだ。とりあえず、こっから二駅な」
裏道かな……? 最寄駅から二駅で山咲駅ね。
だけど、黄河駅と大きく書かれた入り口に着いた時に自然に私の足は止まってしまった。
「どうした?」
琉斗君はなんの違和感も無いのか、きょとんとした表情で不思議そうに私を見ている。
「う、ううん。なんでもない」
「あっ、おまえの定期で使える方面かな?」
「……一応、お金もチャージしてあるから……」
とりあえず、パスケースをかざして改札を通ることができてホッとした。ホームに降りると丁度電車が来ていて、手を繋いだまま階段を駆け下りたから私は転びそうになって、琉斗君は「ごめん」と言いながらもいつものようにケラケラと笑っていた。
「ねえ、琉斗君。今日はバイト、何時まで?」
「閉店の十時までだけど、実莉は適当に帰れよ」
「…………待っていても、いい?」
「えっ? 遅くなるじゃん。まあ、おまえん家は大丈夫だろうけど……」
ちょっと握っていた手が強く握られて、琉斗君が照れたのが分かった。照れられると私も照れるけど……。
「せっかくだから、もう少し一緒にいたいのもあるんだけどね。多分、帰り道が分からなくなりそうで」
「あっ、そうか。オッケー、一緒に帰ろうぜ」
山咲駅はこじんまりとした小さな駅だった。
改札口は一か所で、自動改札機も三台ほど並んでいるだけの小さな改札だった。
cocoはそこから通りをひとつ渡ってすぐのところにある、地元ではちょっとお洒落な洋菓子店という存在じゃないかと思えた。
ガラス張りの店内はカフェスペースが数席だけあり、ショーケースには主に色とりどりのフルーツ系のタルトが並んでいる。
「いらっしゃい……あら、長久保君」
店主らしい年配の女性が目を丸くしてこちらを見た。
「千鶴さん、おはようございます。友達連れてきたんで、すぐ裏に回りますね」
調子のいい口調でそう言うと、琉斗君は私に「好きなとこ座って」とカフェスペースを指差して、片手を挙げるとお店の外へ出て行った。