あれは小学校の何年生だったかな。丁度、女子の中に少しずつマセた子が増えてきた頃。そう、四年生だった。

「ねえ、実莉ちゃんって良い子ぶっていると思わない?」

 放課後、私が忘れ物を取りに教室に戻ると、いつも仲良しの優海《ゆうみ》ちゃんが女子特有の意地悪な言い方でひそひそと話している声がした。

 教室の中に入るのをやめて、隠れるように中を覗き込むと、他にも二人のいつも仲良くしている女の子がいた。

「えっ? そうかな……?」

「だって、今日なんて先生に花瓶の水をこぼしたのに放っている人がいるってチクっていたじゃない?」

「ああ、あれで佐伯君怒られていたよね」

「そっか、優海ちゃんって佐伯君を好きだもんね」

 冷やかすような声に優海ちゃんはフフッと笑いながらも、また目を吊り上げて怒り口調になった。

「だけど、それ実莉ちゃんも知っているはずじゃない? なのに、佐伯君の失敗を先生にチクるなんて。普通、友達の好きな子を陥れたりする? 頭に来ちゃった」

 私は陥れたつもりなんて無かったし、佐伯君がやったことも知らなかった。ただ、花瓶の水がこぼされて、花が下に落ちてしおれていたのが嫌だっただけで、それを誰も気にしなかったから、私が零れた水を拭いて花瓶に水を入れなおした。

 そこに先生が来て事情を聞かれたから「誰かがこぼして放っていたから直しました」と言っただけだった。

 それを弁解しようと教室の中に入ると、驚いた顔をした優海ちゃんが「やだ、盗み聞きしていたの?」と言って更に怒った顔になった。

「違うよ、優海ちゃん。誤解なの、聞いて」

 と言っても、「言いわけなんて聞きたくない!」と一蹴されて、他の二人を連れて帰ってしまった。

 それまではその四人で仲が良かったのに、その日から私は無視されて仲間外れにされた。

 クラスの女子の中にはワガママタイプの優海ちゃんに反感を持っている子もいたから、他のグループの子たちが声を掛けてくれてクラスの中で孤立したわけではなかった。
 だけど、今まで仲良しだった友達に掌を返された形になって、私は困惑していた。

 誤解を解こうと先生に相談すると、先生からお母さんにその旨を伝える電話があったようだった。

 家に帰ると、いつもは「おかえりなさい、おやつあるわよ」と、顔も見ずに言われるだけなのに、その日のお母さんは玄関まで出てきて「今日、先生から電話があったわよ」と声を掛けてきた。

「今まで仲良かった友達に誤解されちゃったんですって?」

 だけど、いつも弟の遥介に向けられるような優しい口調とは違い、どこか厳しい言い方で怒っているようだった。

「クラス中から無視されているわけじゃないって聞いたわ。他の友達と仲よくしているって。そうなの?」

「う、うん。でも今まで仲良かった子に無視されて――――」

「良かったじゃない、意地悪な子たちから離れられて。そんな小さなことで、先生もお母さんも煩わせないでちょうだい」

 良かっただなんてひどい……。
 そう思って泣きそうになったけど、お母さんは本当に迷惑そうにイラついているのが分かったから言えなかった。

 もうその話は終わったようで、お母さんはすぐにうしろを向いてしまった。

 「おやつあるから手を洗っていらっしゃいね」

 そう言い残して、いつものようにキッチンへ消えていった。

 そのまま、私の目からは涙が零れ落ちたけど、誰にも見られることはなかった。

 優海ちゃん達とはそれっきり仲直りすることもなく、次の年にクラス替えになった。そして、次の学年ではその三人とは違うクラスになって、小学校卒業するまで関わることはなかった。




「実莉、実莉、起きろよ」

 肩をゆすられて、私は幻想珈琲館で眠ってしまっていたことに気が付いた。

「ごめん、寝ていた?」

 外を見ると、まだ夜だったからホッとした。だけど目をこすると、涙で手が濡れて驚いた。

「なんか、寝ながら泣いていたから起こした。なんの夢見ていた?」

 そうか、夢だったんだ。夢だけど、昔の実際にあった出来事だった。

「小学四年生の頃にね、友達に陰口叩かれて仲間はずれにされたの。その時のことかな」

「はあ、いかにも女子って感じだな。そんなに辛かったんか?」

「それ自体は嫌だったし誤解を解きたかったけどね。でも、他の子はみんな仲良くしてくれたし、大きないじめに遭ったわけじゃないから……」

 あの頃、お母さんは遥介のママ友付き合いで忙しかったのを覚えている。丁度、遥介の喘息が良くなってきた時期で、少しずつ学校へ行ける日が増えてきていた。

 だけど、たまに休んだり体育を見学したりと、軟弱でバカにされたりズル休みだと非難されないかと心配していた。だから親しいママ友を沢山作って、お互いの家を行き来して遥介の味方になってくれる子を作っていたのだ。

「お母さんがね、弟に対して友達を作る手伝いを必死でしていたのを見ていたのね。うちの弟、喘息もちで低学年の頃は学校になかなか通えなかったの」

 私はココアの入ったカップを両手で覆って、その温もりを感じながら窓の外へ目をやった。窓には明るい店内が映り、外の景色はよく見えなかったけれど、それでも私の目には窓の向こうに昔の情景が浮かんでいた。

「私が友達との仲がおかしくなったことで先生に相談したらね、先生からお母さんに電話がいったみたいなの。帰った時にお母さんにそう言われて」

 あの時、出迎えてくれたお母さんの姿が一瞬だけ浮かんだ。そう、怒っている顔を見る前は、珍しく玄関で迎えてくれたのが嬉しかったのだ。

「だからね、あの時の私は期待しちゃったんだよね。自分にも弟と同じようにお母さんが頑張って友達のお母さんと仲良くして、友達との仲を取り持ってくれるんじゃないかって」

 そう言いながら、私は自分でも四年生にして幼稚な考えをしていたと笑ってしまった。

「してくれなかったのか?」

「そりゃあね。もう四年生だもん。その子たちと離れて良かったって言われたの。そんなことで煩わせるなって。その子達とは疎遠になったけど、今考えたらお母さんの言う通り、そんな子達とは離れて正解だった。親の力を借りたいなんて思った自分が幼稚だったなって思う」

 そんなことで哀しくて泣いた自分がバカみたいだったな、と改めて思い返した。

「……そうかな? 俺は幼稚だとは思わないけど」

 茶化すわけでもなく真剣なトーンで言われて、私は思わず琉斗君を見た。彼は真顔で私の目を真っ直ぐ見ている。

「俺には兄弟はいねえけど、小学生の子どもが弟と同じように平等に扱って欲しいって思うのは当然だよな。普段は我慢しているなら、そういうピンチの時くらいは尚更思うよな」

「そう……かもね」

 なんだかあの頃の自分の代弁をしてもらった気がして、心の中から温かいものが溢れてきた。あ、なんか泣きそう。

 だけど、子どものころのことで泣くなんてみっともないから、私は笑顔を作って「ありがとう」と言った。

「いや。ていうか、おまえも心ん中に小さい頃の感情が溜まってんだな」

「あはは、情けないよね。そういうの、普段は思い出さないんだけど」

「いや、吐き出した方が良いよ。俺も時々あるからさ」

 そのことを詳しく聞いていいのかな?

 聞きたいけれど、そんなにズケズケと聞いていいのか分からなかった。だけど、無言で訴えていたのだろうか、私はかなりジロジロと琉斗君の顔を見ていたようだ。

「そんな目で見るなって」

 琉斗君が苦笑いして、私のおでこを軽く押した。

「俺はさ、やっぱり小学四年生だったか……三年生だったかな。母親が出て行ったんだよな。ほら、うち暴力親父だからさ。母親にも手をあげる最低な親父で」

 相変らず軽い感じでケラケラと笑いながら話すけど、その瞳は寂しげだった。

「出て行く前に、クッキーを山ほど焼いてくれてさ。母さんの手作り菓子が好きだったから、俺はすげえ喜んでいて。俺がクッキーを夢中に食っている間に、大きな荷物持って出て行ったんだ。『ちょっと買い物に行ってくる』って声だけかけて」

 その情景を思い浮かべるだけで、胸が詰まって哀しかった。琉斗君も実際のその場面を思い出して、お母さんを引き止められなかったことを何度も後悔してきたのだろう……。

「親父に嫌ってほど殴られたよな。『おまえは母さんが大荷物を持っていても気が付かなかったのか!』てさ。マジで気が付かなかったんだよな。母さんだって、それを見越してクッキーを山ほど焼いたんだろうし……」

「お母さんは最後に琉斗君の笑顔を見たかったんだと思う。それに、琉斗君の好きなものを食べさせてあげたかったんだと……」

 私が泣いてどうするって思いながらも、涙が流れてしまって急いで拭いた。

「……ああ、かもな。だからかな。俺、そんな別れ方させられたのに、母さんを恨めないんだよな。あんな親父の元に一人残されて、俺だけ苦労してんのにさ」

 琉斗君は立派だ、と、そのとき心の底から思った。

 比べるようなことじゃないかもしれないけど、琉斗君と比べたら私なんて甘ったれのように感じた。ただ、親から関心を持たれなかっただけで、手をあげられたわけでも無ければ育児放棄をされたわけでも無い。

 それでも琉斗君は自分を見失うことなく、真っ直ぐな道を自分の力で歩こうと頑張っている。

「泣くなよ。そんな可哀想な境遇じゃないって」

 相変らず琉斗君はケラケラと笑って私の頭に手を乗せた。

「ごめん、可哀想だなんて思ってない。ただ琉斗君って凄いなって……」

「ハハッ。だろ? 俺もそう思う」

 軽く笑ってそう言ったと思うと、琉斗君は小さく息を吐いて今度は少しトーンを落とした。

「やっぱりさ、こんな話できるの、実莉が初めてだな」

 それから、この前の傷跡を見せるように腕を捲った。

「これもさ、親父が怒り狂って振り下げた包丁は、多分、俺の頭から顔の辺りを狙っていてさ。それを手で払いのけたからこの傷なんだよ。まともに当たっていたら、どんな傷になっていたかと思うとゾッとするよな」

 そう言った琉斗君の顔はもう笑っていなかった。確かにそんなことを考えるとゾッとする。

 私は思わず手を伸ばして、その傷跡を両手で覆うように触れた。

 一瞬、琉斗君が驚いたような表情を見せたけど、私の口からは自然に「この傷は痛々しくて辛いけど」と言葉がこぼれた。それから、彼の瞳を真っ直ぐ見た。

「琉斗君がちゃんと無事でここにいて、今こうして目の前で話をしてくれて…………私は嬉しい」

 少しの間お互いに言葉がなく、ただ見つめ合った状態になって、それに気が付いた琉斗君がいきなり照れたように目をそらした。

「ハハッ。そんなマジに言われると照れるじゃん」

「やだ、そうだよね、ごめん」

 慌てて琉斗君の腕から手を離すと、私も視線を下に向けた。

「けど、サンキューな」

 そう言った琉斗君は満面の笑みだったから、私も同じように笑顔を返せた。


 窓の外が少しずつ明るくなってきた。この時間になると、眠気もあって少し気だるくて。朝になっちゃったな、という残念なような不思議な感覚に囚われる。

「今日も朝が来ちまったな」

 琉斗君も同じように思ったのだろうか? なんだか余計に親近感を覚えた。

「実莉は今は親とは上手くやってんのか?」

「まあ、昔と変わらないけどね。そつなく暮らしていれば親は何も言わないし、私はもう何も親に期待していないから楽になったかな」

「そうか。……けど、期待しないって意外と難しいよな」

 琉斗君が眠気覚ましに頼んだ追加のコーヒーを口に運ぶと「苦っ」と呟いた。私は言葉の真意を知りたくて、ただ彼の顔を見ていた。

 私と目が合うと、琉斗君は少し苦笑いして「だからさ」と言葉を続けた。

「俺は母さんが出て行ってから、当たり前だけど暫くは待ち続けたんだよな。帰って来るだろうって。俺を置いて行くはずないって。けど、出て行って一年が過ぎた頃に親父に言われたんだ。『母さんを待っても無駄だ』って」

 そう言うと、琉斗君はもう一度苦いであろうブラックコーヒーを口に含み、今度は表情を変えることなく話を続けた。

「そのうち、母さんは再婚したんだって知った。相手との間に子どもも出来たらしい」

 淡々とした口調だけど、どこか寂しさを感じてギュッと胸が痛んだ。

「頭ではもう見捨てられたって分かっていたけど、心のどこかではずっと迎えに来るような気がしていた。親父との生活はマジで苦痛だからな」

「…………今でも、そういう気持ちもあるの? お父さんとの生活……」

「いや。親父との生活は相変わらず苦痛だけど、中学くらいからは親父の身長も抜かしたし、力もついてきたから恐怖でしかなかった親父の暴力も恐くなくなった」

 そうか。男の子は小さい頃は力でねじ伏せられていても、成長したら立場が逆転するのか。私は暴力は受けていないけど、親の保護のもとで生活している限りは、どこか親の支配下にあるような感覚がある。

 だから、きっと親の言いなりになって優等生を演じているのだろう……。だからと言って反抗するのも得策とは思えず、ただ自立するまでの我慢だと思っている。

「母さんのことは中二の頃に見かけたんだ。たまたま通り抜けた大きな公園に、母さんが新しい家族で遊びに来ていた。レジャーシートの上に弁当広げて、母さんは赤ん坊を抱いて、となりには小さい女の子と新しい旦那さんがいて。普通に幸せな家族連れをやっていたんだよな。俺のガキの頃にはあり得なかった風景っつうか」

 それまでどこか遠くを見ながら話していた琉斗君が私に視線を向けて笑った。

「そんな顔すんなって。それ見たとき、俺は別に辛くも哀しくも無かったんだ。ただ、もう俺の母さんじゃないんだって自覚できた。あの人は違う世界で生きているんだって」

 そんな言い方をされると余計に切なくなる。だけど涙なんか零したら憐れんでいるように見えるだろうから、それはグッとこらえた。

「母さんが幸せになって良かったな、って思えたんだ、俺。だからさ、母さんを恨まずにそう思えた自分にホッとしているんだ」

「うん」

 ただ頷くしか出来なかったけど、本当にそう思える琉斗君は人として凄いと思えた。

「おまえを見ていても、そんな感じに見えるんだよな」

「えっ?」

「だから、弟と同じように可愛がって欲しかった、愛情が欲しかったって気持ちも勿論あるとは思うけどな。それを諦めたって気持ちと同時に、親を(ゆる)しているっていうか。そんな感じに見える」

 赦す……? 私にはあまりピンとこなかった。

 私は親に暴力を振るわれたわけでも、見捨てられたわけでも無いのに?

「どういう意味?」

「だからさ、親だって人間だから完璧じゃねえっつうか。特に俺とかおまえんとこの親は未熟だと思うんだ。おまえの親は弟を溺愛して、おまえのことは放置している。そういう親の未熟さを赦してやってるっていう……分かるか?」

「そっか。うん、何となく分かるかも」

 私は遥介への嫉妬とか、親にもっと自分も見て欲しいとか、昔はそういう気持ちと闘っていたけれど、それを言葉にすることは出来なかった。それはきっと、言っても無駄に自分が傷つくと無意識のなかで知っていたから。

 だから、自分が傷つかないように親に期待するのを諦めようと思っていた。諦めようとしているうちは、きっと複雑な気持ちが続くのだろう。

「私はまだ、そこまでは行き着いていないのかもしれない。けどね、今の話を聞いたことが、本当の意味で親への気持ちを切り離す糸口になったような気がする」

 未熟な親を赦す。
 そういう気持ちを心の底から持てたら、小さい頃から不満だった私の心は親離れできるのかもしれない。

「琉斗君にそんな風に教えてもらえて良かった」

「別に教えたわけじゃなくて、実莉を見ていたらそう思えたんだけどな。まあ、まだ途中だったってことかも知れないけどさ。なんにしても、親の呪縛から抜け出せそうなら良かった」

 琉斗君が微笑むと、私たちを包む空気が柔らかくなるような、そんな錯覚さえ感じてしまうほど安心感に包まれた。

 私には琉斗君の言葉の一つ一つが、自分の心に気付きを与える魔法の言葉のような気がしてならなかった。

 出会ってからそんなに経っていない。たくさんの会話を重ねたわけでもない。
 それでも、こんなに感覚で通じ合える人がいるなんて。そんな相手と出会えて私はラッキーだ。