今日も宿題を琉斗君に見てもらっていると、腕まくりをした彼の手首から肘裏にかけて大きな傷跡があるのが見えて、思わず息を飲んで琉斗君の顔を見た。
手首から斜めに何十針も塗ったような、新しくはなさそうだけど痛々しい傷跡だった。
「おっと、驚くよな?」
それでも琉斗君は隠すこともせずに、その傷跡を指で突いて見せながらケラケラと笑った。
「……ねえ、それってまさか……」
聞いていいのか分からなかったけど、どう見ても手首を刃物で切ったような気がしてならなかった。それも、いわゆるリストカットというレベルじゃない。思いっきりザックリと切っているとしか思えなかった。
「ああ、違うよ。つっても信じねえかな」
小さくため息をついて、琉斗君はそれでも笑っていた。
「言っただろ? うちの親父、暴力的でさ。時にはこういうこともするんだよ」
「えっ、それって……犯罪じゃん」
「だよな」
そう言いながらも、尚も琉斗君はケラケラと笑っていた。笑いごとではない気がする。だけど、そんな風に強く言えない私がいた。
だって、子どもというものは扶養されているうちは、嫌でも親の支配下にあるのだと感じているから。どんなに理不尽なことがあっても、親に反抗して家を出てしまうとロクなことにはならないし、それは警察に逃げ込んだとしても同じだと思えた。
「これは中学の時なんだけどな。親父は中卒で働けって言ったんだ。けど、俺は勉強も頑張っていたし、奨学金もらってでも高校に行きたいって言ったんだ。そしたら、キレて包丁出して来やがってさ」
「…………うん」
なぜか涙が溢れて下を向いたけど、テーブルに涙がポタポタと落ちてしまった。
「ごめん、想像したら辛くなって」
下を向いたまま、私は言い訳をするようにテーブルをおしぼりで拭いた。
「いや、実莉は女子だから恐いだろうけど、俺は別に恐くも何ともなかったんだ。ただ、負けたくねえって思っていた」
明るくそう言うと、琉斗君は私の髪をぐしゃぐしゃっと乱暴に撫でた。
「で、こうやって高校生になってんだから、負けなかったってことじゃん。親父も勢い余って切りすぎやがってさ。やり過ぎたって青くなってんだぜ。だから、それでも高校に行くって言い張ったら、病院でうまく言いわけできたら制服代くらいは出してやるって」
勝ち誇ったようなドヤ顔で話しているけど、私はその時の光景を想像すると胸が痛んだ。
「……けどさ、おまえだって多かれ少なかれ親に虐げられてんだろ? 弟だけ溺愛でおまえには無関心ってのもそうだと思う」
「……よく分からない。関心が無いのは確かだし、それが寂しいと拗ねた時期もあったけど、そんなの小学生の頃までだからね。今更、親に何か期待したりしていない。ただ、早く親元を離れて自立したいって思うだけかな」
「それな。俺もそれだけだな。高校出たら奨学金もらって大学に行こうと思っているけど、その時は親の家からは出るつもりでバイトしてる。高校三年間は勉強とバイトに明け暮れる」
笑いながらコーヒーカップを口に運んでいる琉斗君を見て、真っ直ぐ現実を見ているんだな、と感心した。私はただ親の手前優等生を演じて、週末はこうやって現実逃避をしているだけなんだ……。
そう思うとなんだか恥ずかしくなって、視線を琉斗から手元にあるココアのカップへ移した。まだ口をつけていなかったココアの上の生クリームの元気がなくなっていたから、私はスプーンを取ってそれを崩し始めた。
「だからさ、親父に追い出されて仕方がなく外で過ごしていたけど、この時間って貴重だなって思うんだよな」
生クリームをスプーンで崩す手を止めて、私はもう一度顔を上げて琉斗君を見た。彼は爽やかな笑顔を私に向けると、すぐにまたコーヒーカップへ視線を戻した。
「夜間は高校生はバイトできないしな。学校がある日はほぼバイトしているし、日曜は親父が家にいないから出来るだけ勉強しているんだ」
確かに誰もいない家は集中して勉強ができるかもしれない。私の家はお母さんが専業主婦だし、お父さんはリモートの仕事も多くていつも誰かしら家にいる。誰も家にいないっていう状況が少し羨ましく思えた。
「たまに友達付き合いもするけど、金は貯めたいから出来るだけ遊びたくねえんだ。だから、俺が一週間の中で否が応でも家から出てバイトも勉強もしねえで過ごす時間って、土曜の夜から日曜の朝の今の時間なんだよ」
「そっか。もしかして、貴重なお休み時間に邪魔しちゃってる?」
笑いながらそう言うと、琉斗君は少し照れたように「いや」と言って目をそらした。
「俺さ、こんな話を人にしたことなんかねえんだよな。けど、なんか実莉には出来る。まだ会って二回目なのにな。だから、この時間は貴重だなって」
ああ、そうか。私たちは、どこか似た者同士なのかもしれない。
「うん、私も同じ。琉斗君と話せて良かった」
「ハハハッ。だろう? おまえにとってもそうだよな、良かった。そんなこと言っちゃって、俺だけだったらカッコ悪りぃって思った」
「あはは。こんな時間のせいかな? なんか、普段は友達にはできない話もしちゃうね」
なんだか気恥ずかしくてそんな言い方をしたけど、時間というより、早く親から自立したいという気持ちが同じだからなのかもしれない。私たちは心に共通するものを持っている同志のような気がした。
「モーニングの時間になったけど、ご注文はいかがかな?」
マスターの声で私はテーブルに顔を伏せて寝ていたことに気が付いた。目をこすりながら顔を上げると、琉斗君も同じように顔を伏せたまま寝ていた。
「琉斗君、いつの間にか朝になってる」
私が琉斗君の肩を揺すると、眠そうな目が開かれてこちらを見た。
「おっと、ビックリした。寝てた? 俺」
慌てて起き上がった琉斗君に思わず笑ってしまった。
「私も寝ていたの」
「ホントだな、顔にセーターの跡が付いてる」
いつもの調子でケラケラ笑いながら琉斗君が私の頬に触れるから、思わず胸が高鳴った。赤面しそうだったけど、「やだ、ホントに酷い顔」なんて手鏡を出して誤魔化した。
七時半からモーニングセットを注文できる。八時過ぎには琉斗君の父親が家を出て、九時には私が毎週行く健康センターが開く時間になる。
だから、ゆっくりモーニングを食べて八時半くらいには解散にしようと話した。
「なんか、寝ちゃって勿体なかったな」
モーニングのトーストを頬張りながら、ボソッと琉斗君が呟いた。私も同じことを思っていたから嬉しかった。
「でも、また来週があるよ」
また来週も会いたくて、その一言を言うのに少し勇気が必要だったけど、琉斗君がこちらを見て「そうだな」と笑ってくれてホッとした。
「マスター、ごちそうさま」
「ああ、また来週おいで」
会計をして二人で一緒にお店から出たあとで、鈴の音が響いて扉が開いたのがわかった。私も琉斗君も振り向くと、マスターが顔を出していた。
「テーブルに携帯が残っているよ」
私はスマホを手に持っていたから琉斗君の顔を見た。
「やべっ、俺のだ。ちょっと取って来るな」
扉の中へ琉斗君が消えていったのを見送ると、私は弱い日差しの太陽を見上げた。背の高いほんわりとしたポプラの木の上に顔を出している太陽という図はなんだか絵になる。
今日もいい天気だな。
ぼんやりとそんなことを想いながらカフェの方を振り向いた。
振り向いて、カフェを見たはずだった。
眠気と気だるさでぼんやりとしていた頭の中が一瞬のうちにハッキリと覚醒した。
すぐ後ろにあったはずの〝幻想珈琲館〟がどこにも見当たらない。もう一度前を振り向くと、今度はポプラ並木は跡形もなく消えていて、いつもの大通りが広がっていた。
「やだ、どういうこと……?」
背筋に冷たいものが走って、どうしたらいいのか分からない奇妙な焦りのような感覚が自分の中を貫く。
ふいにスマホの着信音が鳴って、画面に琉斗君の名前が表示された。
「なんだよ、先に帰ったのか?」
「違うの、琉斗君。私、待っていたんだよ。お店の前にいたの。なのに、いつの間にか大通りにいて。ポプラ並木を見ていたはずなのに、それもなくなっていて」
「わかった、落ち着け」
泣きそうになりながら早口で話したから、驚いた口調で琉斗君に宥められた。
「とりあえず、知っている道までは出られたんだよな?」
「……うん」
「じゃあ、そのまま人口温泉に行って来いよ。俺も帰るからさ。また来週会おうぜ。またメールするよ」
「わかった。私もメールする」
バイバイ、という前に通話が切れた。
なぜだか寂しくなって涙が零れた。楽しい充実した時間を、理由もわからず外側からの大きな力で引きちぎられたような、そんな虚無感が残った。
だけど、考えても仕方がない。来週また会うのだし、それまではいつも通り生活していればいいんだ。いや、いつもと同じじゃなくて、琉斗君にメールも出来る。
そして彼からメールが来ていたことを思い出して、スマホをチェックした。
三通のメールはどれも短文で、「おはよう、今日は学校だよな? 俺が見てやったから宿題はバッチリだな」とか「実莉は今何している? 俺はバイト終わったとこ」とか、そんな他愛のないメールだった。
でも、そんなメールに心が温かくなる。
次はきちんとリアルタイムで受け取りたいな。
いつものように夕方まで時間を潰して家に帰ると、遥介が両親と激しく言い合っていた。
いつものらりくらりと両親のお小言をかわしている遥介なのに、こんなに強く言い合うなんて珍しいな、と思った。
遥介は過干渉の親にウンザリしている部分はあって、時々私には愚痴をこぼしたりはする。だけど、今まで真正面からぶつかり合うことは無かった。それは多分、遥介自身も両親に溺愛されてきたことを自覚しているからだろう。
なのに、今日の遥介は「うるせえな、干渉し過ぎなんだよ! 俺の人生だろうがっ!!」という言葉を吐いていた。
詳しい内容はよく分からないけど、恐らく進路に関しての話だろうということは予想がついて、私はそのままリビングから続く階段を上がって自分の部屋へ行こうとした。
そして、それを引き留めるお母さんの叫びに近い声が背中を追って来た。
「実莉からも何とか言って! 大体、あなたが自由にしているから、遥介まで自由にしたいと思うのよ」
「姉ちゃんは関係ねえじゃん。つか、姉ちゃんが自由にしているってよりは、母さんたちが放っているだけだろう? 俺の半分でも姉ちゃんの方を見てやれよ」
いやいや、今更こっちに目を向けられても迷惑なんだけど。
私は心の中で苦笑いした。恐らく、遥介は小さい頃にいじけていた私のことを覚えているのだろう。
「なんなの? 外まで声が聞こえていたけど。ご近所さんに恥ずかしいよ、お母さん」
そういう言い方をすると、世間体が気になるお母さんは我に返る。
「えっ? そんなに大きな声だった?」
「うん、丸聞こえだと思う」
お母さんは小さくため息をついて、隣にいたお父さんの顔を見た。お父さんも遥介を溺愛しているけれど、ヒステリックなお母さんとは対照的に温和で口調も穏やかだ。
「だけど、遥介がいけないぞ」
小さく咳ばらいをしながら、静かな口調で諭すようにお父さんが遥介の顔を覗き込んだ。
「今更、志望校のランクを落すなんて。本当は父さんも母さんも塾の先生だって、もっと上を狙えるって思っているくらいなんだ。第一志望にしていた霧ヶ沢高校だって安全圏だろう」
「だからさ、ランクだけで選んでいた時は良かったけど。やっぱり美術科のある高校に行きたいんだ。絵を習わせてくれたのは父さんだろう? おかげで色んな賞をもらって認められた。もう少し本格的に続けたいんだ。将来にだって繋がるような進路を選びたい」
しっかりと自分の気持ちを両親に伝えている遥介とは対照的に、塾の模試で優秀な成績を取り続けている遥介は塾でも期待されているし、いい高校に入っていい大学に入って、というエリートコースを望んでいる両親は納得が出来ずに感情論で言い返していた。
とりあえず、私の出る幕ではないと思って静かに二階へ上がった。
「あーあ、期待されるってのも困ったもんだな」
小一時間ほどした後、ノックもせずに私の部屋へ入って来ると、遥介はベッドの上に寝転がった。
「折り合いはついたの?」
ベッドを背もたれにファッション雑誌を見ていたけれど、私は後ろを向いて遥介の顔を見た。
「どうだか。うちの親たちって頑固じゃん。思い通りに動かしたいんだよな、俺たちのこと。姉ちゃんは口出しはされなくても、勝手に優等生にしてなきゃいけないし大変だよな」
「まあ、私は優等生だと思わせておけば放任されているからいいけどね。遥介は溺愛されてる分、過干渉で大変そう」
くすくすと笑いながら、私は雑誌をパラパラとめくった。
「昔は有難かったけどな。身体も心も軟弱だったからさ。友達なんて母さんに与えられたようなものだったよな。母さんが同級生のママ友を作ってくれていたからさ。でも、それはそれで本当に有難かったと思っているよ」
それは私もよく覚えている。学校を休みがちな遥介でも、親同士が仲が良くてお互いの家に行き来をする関係を作っていたから、友達が仲間意識を持って遥介を受け入れてくれていた。
だけど、同じ時期に私は同級生に仲間外れにされていたことがあった。先生に相談したからお母さんにも話がいったけど、「実莉はしっかりしているから、自分で何とか出来るわよね」とそっけなく言われただけだった。
「今まで捻くれずに生きて来れたのは、確かに両親のおかげだとは思っているんだよな」
そんな遥介の言葉がいちいち胸に刺さる。私の心はあの頃から綺麗に捻くれてしまったから。
そんな私の事情を知らない遥介には、そんなことを伝える気はなかったし、病弱だった遥介が友達に恵まれて真っ直ぐここまで育ったことは、姉として嬉しいと思っていたのも本心だった。
「けどさ、進路は別だろう? 俺の進路なんだからさ。そのまま仕方がなく親の言う通りに進んじゃったら、少しでも何かがあったら親のせいにしそうだよ」
「それ言った? 自分の選んだ道だったら頑張りきれるけど、敷かれたレールの上を走るのは苦痛だって」
「まあな。でも、イマイチ伝わんないんだよな。自分の想いが強すぎるんだよ、特に母さんは」
そうだろうな、と思った。私に関してはほぼ傍観しているけど、遥介に関しては一歩引いて物事を見ることが出来ないように見える。琉斗の父親のように明らかに危害を加えるのも毒親だけど、こういう過干渉も毒親って言うんだろうな……。
「けどさ、実は俺、彼女出来たんだよね」
「はっ? この受験真っ只中の時期に?」
「うん、へへっ。それがさ、同じ美術部だった子でさ。彼女と一緒に高校の美術科に行きたいんだ」
遥介は小さい頃と変わらない無邪気な笑顔でそう言うと起き上がって私を見た。
「それって、お母さんにも言ったの?」
「言わねえよ。言ったら最後、絶対に折れてくれないじゃん。そんな理由を認めてくれるわけがない」
そんな理由で進路を決めることを認めないというより、恐らく溺愛している息子に彼女が出来るなんて許せないだろうな、と簡単に予想できた。
「ま、賢明だね。そこは隠したまま自分の道を進めばいいよ。でも、無事に彼女と同じ高校に進学できたら、早いうちに彼女の存在は知らせた方が良いよ」
お母さんに早めに免疫つけてあげないと、いつまでも子離れができないように思えた。
「姉ちゃんはさ、ぶっちゃけどこ行ってたの?」
「なにが?」
「昨日の夜から帰って来るまで。本当に友達の家で宿題やってるわけじゃないだろ?」
我が弟ながら鋭いな、と思いつつも、私は笑って首を横に振った。
「高校の友達の家だよ。一緒に宿題をやっているのも本当。一晩中話しても足りないんだよ、女子トークっていうものは」
「ふうん。ま、なんにしても自由でいいよな。親からのメールや着信に悩まされねえもんな」
そうか。遥介は日に何度も親からメールや着信があるのか、と改めて思い知らされる。私のところに親から着信があったのは、数ヶ月前に遥介の帰りが遅かった時だけだったかも。
まあ、今さら同じ扱いをして欲しいとは決して思わないけど、この違いにはやっぱり複雑な想いを抱える自分がいた。