〝雪之橋〟が見えてきたところで、私が立ち止まったから琉斗君も立ち止まってこちらを見た。
「もう、すぐそこなの。あの上半分がグレーで下が白い壁の家」
「そっか。俺はどこかで待っている?」
ダイバーズウォッチに目をやると、まだ五時過ぎだった。この時間ならお母さんもまだ帰っていないし、遥介もきっと彼女と受験勉強でいないだろう。
「一緒に来る? 最初で最後の機会だろうし」
そう言葉にすると、私自身もこの家に帰るのは最後になるんだ、と思ってしまう。感傷に浸ってしまってはダメだから、とにかく寂しい気持ちにはならないようにしないと。
そう思いながらも動揺してしまったようで、私は玄関で鍵を開けようとしてもなかなか鍵が刺さらなかった。
不審に思ったのか、怪訝な表情の琉斗君と目が合った。
「な、なんか、うちの鍵、最近調子悪くて」
笑ってごまかしたけど琉斗君は表情を変えずに私から鍵を取って、そのままスムーズに鍵穴に差し込み、あっという間にドアを開いた。
「あっ、すごい」
「別に、調子悪くねえだろ」
あっさりと言われてしまったけど、恐らく敏感な彼は私の心の動揺に気が付いている。でも、仕方がないよね。私はこれから、もう二度とこの世界に戻れなくなったんだから、動揺くらいするし感傷的にもなる。
それでも、琉斗君と一緒に行くことを選んだんだから、それでいいんだと思えた。
玄関を開けると、可愛らしいリボンがついた黒い靴がちょこんと揃えてあった。
「なんだ、姉ちゃんかよ」
階段の上から顔を出した遥介がホッとした表情を見せた。そして、すぐに琉斗君を見て「こんちは」なんてニヤニヤしながら挨拶した。
「受験生の弟だな。よろしく」
琉斗君も白い歯を見せてニカッと笑った。なんだか気恥ずかしいような、不思議な光景だ。
「そうなの、弟の遥介。遥介、長久保琉斗君」
彼氏を家族に紹介なんて初めてだな、なんて思いながら、やっぱり気恥ずかしくて遥介の顔は見られずに紹介していた。そして、靴を脱ごうとした時に女の子ものの黒い靴が目に入った。
「あっ、この靴って遥介の彼女が来ているの?」
「うん。母さんが帰ってきたんだと思って焦った。姉ちゃんも母さんがいない時間だから連れてきたんだろ? 彼氏」
「ま、まあね」
遥介とこんな話をするなんて無かったから、やっぱり気恥ずかしかった。だけど、そんなことも最初で最後。
「そうだ、私にも紹介してよ。遥介の彼女」
階段を上がりながら遥介に言うと、今度は遥介が気恥ずかしそうに「だよな、いいけど」とか言いながら、いそいそと自分の部屋へ戻って行った。
「おまえの部屋、どこ?」
「一番奥なの。そっちが遥介の部屋」
その遥介の部屋のドアが開いて、遥介の後ろから小柄の可愛らしい女の子が現れた。ふわふわした白いセーターがよく似合う、ウサギを連想させる女の子だった。
「うちの姉ちゃん。と、彼氏さん」
照れ臭そうに、まず彼女にそう言うと、「はじめまして」とはにかんだ笑顔にえくぼが見えて、より可愛らしく見えた。
「かわいい!」
思わずハグしたくなる可愛さだったけど、さすがに初対面でハグなんてしたら引かれそうだったからそこは抑えた。
だけど、私のその言葉に彼女の方も恥ずかしそうに顔を赤く染めてしまった。
「だろ? 自慢の彼女なんだ。佐藤千菜美ちゃん」
その言葉にますます照れてしまった千菜美ちゃんが真っ赤になってしまって、それがまた可愛らしく思えた。
「じゃ、俺たち受験勉強中だから」
役目は果たしたとでも言うように、遥介は千菜美ちゃんの背中を押して、バタンと部屋のドアを閉めた。
「意外だなぁ。遥介って少し頼りないから、もっとしっかり者タイプの子かと思っていたけど。あんな守ってあげたいタイプのかわいい子が好きなんだな」
私の部屋に入るとすぐにクローゼットを開けながら、少し興奮気味にそう言うと、琉斗君が可笑しそうに吹き出した。
「ハハッ。弟だとそんな風に思うんだな。俺はお似合いに見えたけどな」
「えっ? そりゃ、お似合いはお似合いだよ。けど、あの遥介があんな可愛いタイプの女の子って、やっぱり意外だ」
「それはおまえ、姉貴の前と彼女の前じゃ違う顔になるんじゃねえの? ちゃんと男らしい面もあるだろ?」
「ええー、そうなのかな? そうだよね」
どうしても弟の顔しか知らないから、私には男らしい遥介なんて想像がつかない。昔から、身体が弱くて両親に大切に守られてきた弟でしかないから。
そんなことを考えながら、キャリーバッグを開けて中に洋服を詰めていった。下着は琉斗君が私の本棚を見ている隙に、見えないように気を遣いながら入れた。
幻想珈琲館の居住スペースにはバスルームの横にちゃんと洗濯機もあったな、なんて思い出しながら、これからはあそこで私がお洗濯もするのかな? と思うと、それはそれで緊張してくる。
それって琉斗君のものも全部洗うのかな? 下着とかも?
いや、今は深く考えるのはやめよう。
私は邪念を追い払うように、最低限の持っていく荷物の選別に集中した。
「これ、持って行けよ」
ふいに琉斗君が本棚から何冊かのミニアルバムを取り出してきた。
写真はパソコンに取り込んであるけれど、小さいころから家族行事ごとに写真屋さんでミニアルバムを作ってあった。
琉斗君が差し出したのは、小さいころから最近までの家族旅行や友達と出かけた時のアルバムだった。
「懐かしいな……」
思わずめくってしまうと、ちょっと感傷に浸りそうになる。今日で最後だって思ってしまうと哀しくなりそうだったから、私はすぐに閉じて荷物の中へ入れた。
パラレルワールドじゃないなら、琉斗君の世界には私の世界と同じ人はいないはず。ということは、きっと同じ本はないだろう。
そんなことを思いながら、お気に入りの本やマンガを何冊か選んだ。
そうか。選ばなかった本はもう読むことが出来なくなるかもしれないんだ。
だけど、これからは私の世界にはない本を読むことが出来る。そう思えば前向きになれた。
「琉斗君の世界にはDVDとかブルーレイはある?」
「ブルーレイってのも録画機能のあるもの? こっちはDVDとレーザーディスクだな」
レーザーディスクって、聞いたことはあるような気がする。でも、昔の電子機器じゃなかったかな? 携帯といい、やっぱりその辺りの違いは多少はあるのかもしれない。
ということは、ゲーム機も違うのかな? とは言っても、ゲームは持っていることは持っているけど、ハマるほど好きなわけじゃないからいいかな。
とりあえず、お気に入りのDVDをいくつか選んで入れた。
それから、簡単な化粧用品にとりあえずのお金。貯金通帳はきっと意味がないから、全部おろして行った方がいいのかな?
「幻想珈琲館に行く前に、銀行に寄っていい? お金をおろしてくる」
「ああ……。そうだよな。預金通帳とか使えねえよな、きっと」
それから、私は勉強机の前に立った。文房具一式はあった方がいいかな? どこにでもあるだろうけど、買うよりは持って行った方がいいよね?
そして、私の目に教科書が飛び込んできた。これは、琉斗君の去年の教科書があるから…………。
そこまで考えて、学校ってどうするんだろう? と思った。
いや、どうするも何も、行けるわけがない。
てことは中卒ってことになるのかな……?
だけど、私はパティシエのお嫁さんになるわけだし、幻想珈琲館を経営するなら、とりあえずはそこに力を入れてみたら、それほど大きな問題でもないような気はする。
うん、とにかく今は深く考えずに当面は琉斗君と暮らすことだけを考えよう。
その先のことは、あっちの世界で考えるしかないのだから。
「用意できたよ」
私が声をかけると、琉斗君はベッドの棚に並んでいるぬいぐるみたちを見ていた。
「これは、いいの?」
小さいころからの想い出がある子もいれば、誕生日に友達にもらったり、最近になって自分で気に入って買ったものもある。
持って行かなければ、あとで後悔するのだろうか……?
だけど、今はそういう想い出につながるものは持って行きたくなかった。アルバムのように、見たい時だけ手に取って見れるものならいいのだけど。
「うん、それは置いて行くからいい」
私が微笑むと、なんとなく琉斗君がまた不機嫌になったような気がした。
「ひとつでもいいから、持って行けよ」
きっと私が後悔するだろうって思ったんだろう。それは、そうかもしれないから、私は小さいころに欲しいとねだって買ってもらえず、だけどサンタさんが持ってきてくれた、抱っこしてちょうどいいくらいの大きさのテディベアを選んだ。
これはキャリーバッグには入らないから、ちょっと恥ずかしいけど抱えて行くしかない。
気が付かれないようにそっと遥介の部屋の前を通ると、琉斗君に腕を掴まれた。
「なにも言わなくていいのか?」
「えっ? むしろ言わないよ。この荷物見たら、なに言われるか分かんない」
ひそひそ声でそう言いながら、私は転がして音を立てるわけにもいかないキャリーバッグを持ち上げて運ぼうとすると、琉斗君が持ってくれた。
そして、そっと玄関に鍵をかけると足早に家を後にした。
雪之橋を渡って大通りに出るとようやく歩く速度を緩めて、一度だけ家の方を振り向いた。私が小学五年生のときに新築で買って引っ越してきた家だ。
遥介も喘息が良くなって学校生活もすっかり慣れたから、半年ほどかけて学区内で家を探して購入した家。住んで五年くらいだけど、それまでのマンションでは遥介と同室だったのが自分の部屋が出来た。
思春期に入り始めた多感な時期からだから、あの部屋には友達を呼んだりひとりで涙にくれたり、遥介がいきなり入ってきてグダグダ話をしたり、親はほとんど来なかったり……いいことも悪いことも色々と思い出す。
だけど、もうここには帰らないんだ。
私は前を向いて「行こう」と琉斗君に微笑んで自分から手を繋いだ。琉斗君はなにも言わずに、その手をギュッと強めに握った。
大通りにはいつも通り車が勢いよく行き交っていた。確か、琉斗君の世界ではこういう雰囲気ではなく、もう少し落ち着いた住宅街だったな。これからは、そっちの風景に慣れていくのかな。
途中のコンビニのATMでまとめてお金をおろした。定期預金にしているものもあったけど、それを担保に普通預金から下ろせたから、とりあえず下ろせるだけの金額を出した。ここに残しても仕方がないから。
コンビニから出ると、いつもの家電量販店が見えてきた。
そろそろ、この世界ともお別れだ。
「ちゃんと考えたのか?」
ふいに立ち止まって、真剣な眼差しで……というより、やはりどこか怒ったような表情で琉斗君が私を見た。
「なに? 幻想珈琲館で暮らすこと? 考えたよ」
「ていうより、この世界を離れることだよ。家族や友達と永遠に離れるってことだって分かっているか?」
「分かっているよ。そのつもりで準備してきたよ」
「いや、分かってねえよ」
琉斗君はそう言い放つと、繋いでいた手を離した。私はビックリして、そっぽを向いてしまった琉斗君の顔をのぞき込むように見た。
「私は家族や友達よりも、琉斗君と一緒にいたいから。だから、ちゃんと覚悟したんだよ」
「それは、分かっている。けど、一時の感情で人生決めていいのか? おまえには俺しかいなくなるんだ。もしも俺の身に何かあったら、どうすんだよ」
「や、やだ。恐いこと言わないでよ」
「ほら、恐いだろ? 今、お前の頭ん中、真っ暗になったろ? 俺だって同じだよ。そこまでのリスクをおまえに負わせるわけにいかねえ」
そりゃあ、考えると恐くなる。
だけど、ここは……この場所はもう幻想珈琲館へ行ける場所に辿り着いている。私ははぐれないように琉斗君の腕をつかんだ。
「話をするなら、少し場所を変えたい。ここで言い合いたくないよ」
「実莉。おまえの高校は有名な大学の付属校なんだろう? てことは、よほど頑張って受験したんだよな? それを無駄にするのか?」
「関係ないよ。だって、将来はもう決まったんだもん。私、パティシエのお嫁さんになるんだよ。琉斗君と家族になるの。だから」
「インテリアでも経営でも、自分の夢を見つけるんじゃなかったのか?」
「それは、琉斗君の世界に行ってから考えてもいいじゃない。だって、琉斗君がいてこその話でしょう? 私ひとりだったら、なんの夢も目標も無かったよ」
琉斗君はわかっていない。どんなリスクを背負っても、私には琉斗君しかいなくなっても、それでも琉斗君を選ぶ私の気持ちをわかっていない。
だけど彼の心には、私に対する責任が重く感じるのだろうか?
もしもそうだったら、私は自分の想いを貫いていいのだろうか……?
そんな迷いが湧いてきた。
自分の心には迷いなんかない。だけど、琉斗君の重荷にはなりたくないしなるわけにはいかない。
「実莉はここに残れよ」
琉斗君の真剣な目が真っすぐとこちらへ向いている。
「なんで今さら、そんなことを言うの?」
「今までは頭ん中でしかなかったんだよ。おまえの家族とか。けど、実際に弟に会って、家族の写真を見たり住んでいる家を見たりすると……このまま連れて行っていいのかって思っちまう」
「だって、悩んでいる時間なんてないんだよ。私がどうしたいか、その心は決まっているんだから」
どうして、この期に及んで琉斗君を説得しなければいけないんだろう?
そんなことが、哀しいやら情けないやらで泣きそうだった。確かに離れたくないっていう、ふたりの気持ちが同じになったのは感じられたのに。
「なあ、俺たちはまだ若すぎるよ。運命的に出会ったんだ。本当に縁があるなら、もう一度繋がるんじゃないか? 今はこの世界の扉が閉じたとしても、時間が経ってまた開くということもあるんじゃないかな」
「そんなの、ただの想像でしょう? そんな低すぎる可能性に賭けたくない。だって、この時期に出会ったんだよ。私は今、一緒にいたいんだよ。私がこの世界から出られなくなったら、もう二度と会えなくなるんだよ」
必死に訴えるけれど、琉斗君の心に届いている様子はなく、ただ苦しそうな表情を浮かべている。
そんな顔は見たくなくて、思わず私から琉斗君に抱きついた。
「琉斗君が好きなの。ずっと一緒にいよう」
その言葉に答えるようにギュッと抱きしめられた。
「俺だって好きだ」
良かった、伝わった。不安で泣きそうだった心の中に安堵が広がった。
だけど、それは一瞬だけだった。
「それでも、おまえはここに残れ。縁があれば会えるし、無ければ俺のいない世界で幸せになれ」
次の瞬間、ふっと身体が軽くなって琉斗君がいなくなった。
幻想珈琲館のある世界へ行ってしまったんだ。
すぐにそう思って、動揺する心を鎮めようと深呼吸をすると、私も目をつぶってあちらの世界へ思いを馳せた。
そっと目を開けると、そこはまだ私の世界の大通りだった。
「やだ、どうしよう……」
入れなくなっちゃったのだろうか?
いや、きっと心が動揺しすぎているんだ。まず、落ち着こう。
そう自分に言い聞かせるけれど、胸が嫌な気持ちでドキドキして鳴りやまない。
そうだ、この場所なら携帯が通じるかもしれない。
私は急いでスマホを出して、琉斗君に電話をかけた。呼び出し音が鳴ったから、やっぱりあの狭間の世界に近いこの場所なら話せるんだ。
「実莉……?」
「琉斗君、一人で行かないで。私、動揺してそっちに行けないみたいなの」
「違うよ、閉じたんだ。俺がこっちに戻ったときに、閉じてしまったのが分かった」
「えっ……?」
目の前が真っ暗になった。
つまりは、もう琉斗君には会えないということ?
「や、やだよ。そんなの。嘘でしょう?」
「実莉、ごめん。だけど、これで良かったんだよ。おまえが犠牲になることじゃない」
「犠牲じゃないよ。私は今まで独りだったって思ってきた。だけど、琉斗君と出会って〝ふたり〟になれた。心の埋まらなかった隙間がなくなったの。ねえ、また元に戻るなんてできないよ」
大通りで涙を流しながらそう言っても、琉斗君にはもうどうしようもできないのだ……。
「ごめん。いつまでも好きだよ、実莉」
「私だって」
ふいにブチッと通話が切れた。
琉斗君が切ったわけじゃない。もちろん、私も切っていない。
この場所からの世界の繋がりが切れたんだ…………。
「好き……」
宙に放たれた言葉が虚しく響いた。
胸の奥からえぐられるような哀しみと喪失感があふれ出してくる。
私は大通りで人目もはばからずに、しゃがみ込んでボロボロと涙を流して泣いた。