「あのさ、マスター。ここは普段は出会えない者同士が出会う場、みたいなこと言ってたじゃん? 前に」

 琉斗君がカウンターテーブルに頬杖をつきながら、カウンターの中で私たちのために飲み物を入れているマスターを見た。

「ああ、そうだね。長い間ここにいると、そういうことが見えてきたんだよ。色んな世界から来ていて、普段は会えない人たちが集う場所だから。そして、みんながみんな、出会うべく人たちだったんだって感じている。キミたちのようにね」

 そんな言葉に胸の奥と目頭が熱くなる。
 やっぱり私は出会うべく人に出会ったんだ。

「だったらさ。ルナちゃんたちは同じ世界から来ているわけだから、ここは単なる再開の場だろ? てことは、また付き合うようになった今、ここに来る意味もなくなったっつうか。だから、来られなくなっただけじゃないんかな? って思っているんだけど」

「そうだね。わたしもそれもあると思っているよ」

 いつものように静かに微笑んだけれど、そこには少しの寂しさが混じっているように見えた。

「それもあるって、やっぱり他にもあるの? ルナと剛志君が来られなくなった理由……」
 
「…………ルナちゃんたちの世界の……つまり、実莉ちゃんの世界でもあるわけだね。キミたちの世界の扉は閉じ始めているんだよ。実際に、キミの世界から来ていた人が来られなくなっているのはルナちゃんたちだけではない」

 それはまるで死刑宣告のような、目の前が真っ暗になって絶望が伴う言葉だった。

 私の好きな生クリームたっぷりのホットココアを差し出されて、条件反射のようにカップを口へ運んだけれど、その温度も甘さもなにも感じられなかった。

 ただぼう然として、マスターが放った〝世界の扉が閉じ始めている〟という言葉が、頭の中で何度も何度もリプレイされていた。

「や、やだよ…………そんなの……」

 自分の声が涙で震えているのがわかる。
 胸の中には恐怖しかない。琉斗君を失うという恐怖。

 カウンターの上で琉斗君の手が私の手をギュッと握ったのがわかったけど、彼も何も言わないし、私もそれ以上は何も言えなくて、ただ重なったその手を見つめていた。

「毎年、年末になると多いんだよ。わたしの世界も閉じ始めている」

 私は顔を上げてマスターを見ると、やはり寂しそうな微笑みがそこにあった。
 そうだった、マスターもなかなかここに来られなかったと言っていた。

「だから、完全に来られなくなる前に、キミたちにここを任せたかったんだ。キミたちには他の客は知り得ないことをたくさん話してきた。何よりキミたちがここを一番必要としているように見えるからね」

 そう言うとフッと口元を緩めながら、琉斗君の前に入れたてのカフェオレのカップを置いた。

「それに、琉斗君はきっといいマスターになるよ。まだ今は高校生だけどね」

「へっ? 俺がマスター?」

「キミもわたしのように、店に立っているうちにこの世界や客のことが手に取るように分かるようになるだろう。敏感な感性を持っているからね」

「わかるな、それには私も納得できる」

 琉斗君は本当に人の心に敏感だもん。優しいし前向きだし、ズカズカと踏み込んでこない。
 だけど頼りになって…………。

 そんなことが浮かんでくると、どうしても離れたくないという衝動に駆られる。

「わたしはね、いつも自分の世界からこの店の奥の部屋へ行く通路に辿り着いていたんだよ」

 マスターがおもむろにカウンターの向こう側の壁にある、壁と同化していて分からなかったドアを開いて見せた。そこからは短い廊下の向こうにもう一枚開いたドアがあり、そこはガランとしたスペースのようだった。

「この先には、ひと部屋ではあるが居住スペースになっている。もともとはちょっとした物置と控室だったようだけど、世界がここしかなくなってから、瞳さんがここで暮らしていた」

 そういえば、マスターに出会った瞳さんは一度はマスターの家に行ったけれど、お店を拠点にしてマスターの世界を行き来しながら生活をしていたという話だった。この奥の部屋で寝泊まりして、マスターの世界で買い物をしたりと必要なものを調達しながら、幻想珈琲館を営んでいたのだろう。

「ふたりとも、ちょっと来てごらん」

 手招きするマスターに促されるまま、私たちは短い通路を通ってドアの向こう側にある部屋をのぞき込んだ。

 一面に大きな窓が二つ並び、他には大きなクローゼットの扉があるだけの、思たよりもかなり広い空間が広がっていた。
 
「わたしの荷物は全て引き払っている。通路の左手にはバスルームもあるから、ここで生活することは可能だよ」

 マスターの言わんとすることが少しずつ見えてきた。
 私たちがもっと先だろうと考えていた未来の話。
 だけど、私たちが思い描いていた未来とは内容がずいぶん変わってしまっている。

 それでも、これが現実なんだ…………。
 
「わたしは今日でここに来るのをやめようと思うんだよ」

「えっ?」
「大晦日に営業するんだろ?」

 マスターの決意のような言葉に、私は動揺して思わずマスターの着ているシャツの袖を掴んでしまった。琉斗君は今にも掴みかかりそうな勢いで、同じくらいの身長のマスターに顔を近づけていた。

「ふたりとも落ち着きなさい」

 両手で琉斗君の胸を軽く押しながら、マスターが私たちをお店の方へ促しながら部屋のドアを閉めた。

「飲み物が冷めてしまうね。カウンターで話そう」

 私たちはさっきのカウンター席に戻ると、ふたりともほぼ同時にぬるくなった飲み物を一口ふくんで気持ちを落ち着けようとした。

「わたしはもう四十年以上もこの店のマスターをしている。瞳さんのことは今でも懐かしく思い出す。彼女のことはずっと心の中にある一番切なく美しい時間だからね。この店はわたしにとって特別なんだよ」

 相変わらず寂しそうな微笑みを浮かべながら、マスターは想い入れたっぷりにお店の中を見回した。

「だからこそ、自分で引き際を決めたい。この世界に入れなくなるのは時間の問題なんだよ。次は来られないかもしれないし、次は来ることが出来てもその次は分からない。だったら、自分で決めた日を最後にしたいんだよ」

 マスターがおもむろに琉斗君の前にチャリンと金色のキーホルダーのようなものを出した。そこには鍵がいくつか付いていた。

「この店と、奥の部屋の鍵だよ。キミに託したい」

 琉斗君は何も言わずに少しの間その鍵を見つめ、それから静かに顔を上げてマスターを見た。だけど、何も言えないという気持ちは痛いほど伝わってくる。

「ここは……マスターの店だろ?」

「…………琉斗君。どんなに抵抗しても、確実にこの世界への扉が閉まっているのは事実なんだ。この店にこだわって、他の世界で生きるという選択肢がないわけではないけれどね。だけど、わたしには他の世界で生きるほどの情熱も、これからの時間も果てしなくあるわけではない。余生は自分の世界で静かに生きることにしたんだよ」

 それでも、琉斗君は抵抗をするようにマスターから目を離して俯いている。
 
 琉斗君の抵抗する気持ちもわかるけど、この現実を目の前に、マスターの考えた末のこの決断は当然のことのようにしか見えない。

 きっとマスターは人生の大半の週末をここで過ごしてきたのだろう。そのマスターがこの幻想珈琲館を手放したいはずがない。

「わたしは嬉しいんだよ、キミたちに出会えて。キミたちがわたしの叶えられなかった夢を現実にしてくれるような気がしてね」

「叶えられなかった夢ってなあに?」

「そうだね。瞳さんとこの店を営みながら一緒に年を重ねたかったという、わたしの叶わなかった身勝手な夢だよ」

 どこか遠くを見つめるマスターの目は、それでも昔の綺麗な思い出が映っているのだろうと思えた。何十年も前に失恋した相手を想い続けることができるなんて、マスターは世界一のロマンチストに見える。

 そんなマスターを身勝手だなんて思うことはできなかった。

 それでも、琉斗君はただカウンターの上に置かれた鍵を見つめていた。

「その鍵をどう使ってもキミの自由だよ。別にすぐにこの店を営業しなくてもいい。琉斗君が自分で店を持てる自信がつくまで、ふたりで過ごす場所として使ってくれてもいいし、すぐに開店してもいい」

 まるで子どもに諭すような口調で、ゆっくりと話すその声を聞きながら、私は今までこのお店に来ると語り掛けてくれた、穏やかなマスターの姿が次々と浮かんできた。
 琉斗君がどんな選択をしても、このマスターとは今日でもう会えなくなるんだ……。

「それに、イヤだったら店を続けなくてもいい。全ての判断をキミに任せて託すよ」

 その言葉で、琉斗君が再び顔を上げてマスターを見た。マスターは相変わらず穏やかな表情で微笑んでいる。

「んなこと、できねえの知ってんだろ?」

 いつになく乱暴な口調で琉斗君がマスターを睨んだ。

「マスターのこの店への愛を散々聞かされてんだ。俺にマスターの代わりが務まるかって、そんな簡単に引き受けられねえって思ってるだけだよ」

 琉斗君が片手でギュッと鍵を握りしめた。

「急にはなんの決心もできねえよ。少なくとも大晦日に店を開くとか、そんなのは無理だ」

「ああ、勿論それはいいよ。店を開くと伝えたのは、キミたち二人だけだ。わたしの世界も、そして実莉ちゃんの世界も、年明けには扉が完全に閉じてしまうと分かるんだよ」

「えっ……? それは本当なの……?」

「残念だけど、恐らくそうなると思う。毎年閉ざされていく世界からは、年明けにはもう人が来なくなっていた」

「そんな……」

 年末までもう何日もないのに。
 ここのお店を提供してもらっても、私はここに来ることが出来なくなる。
 もしくは、大晦日にここで過ごしてしまったら、自分の世界へ帰れなくなってしまう…………。

 だけど、例えそうなっても、私は琉斗君と同じ世界で生きていたい。

 胸の奥の方で、私の心が決まったような気がした。

「これも、どう使おうが自由だからね」

 次にマスターがカウンターの上に置いたのは、瞳さんのレシピノートだった。この幻想珈琲館を開くには、必要不可欠なアイテムだろうと思えた。

「…………もっともっと、ずっと先の話だったら、きっと手放しで喜べたと思うのに」

 複雑そうな苦笑いをして、琉斗君は小さくため息をついた。

「どうなるかは分かんないけどさ、とりあえず前向きな気持ちで受け取っておくよ、マスター」

「ありがとう」

 そのマスターの微笑みに、もう寂しさはなかった。全てを琉斗君に託したのだろう。

「なあ、実莉」
 
「ん?」

 珍しく深刻そうな瞳がこちらを見ていて、私は冷めてしまったココアのカップを口元まで運んでいたけれど、そっとソーサーに戻した。

「俺はさ、やっぱりおまえと離れるとか考えられねえからさ。予定より大分早まったし、想定外だったけど……年末を待たずに、ここで一緒に住まないか?」

「…………一緒に?」

「や、おまえ一人でここに住んで、俺は自分の家でもいいんだけどさ。けど、こんなところに一人で置いておくのはやっぱり俺の方が心配になるし」

「ふふっ。私だってここに一人なんて不安で嫌だよ」

 思わず笑ってしまったけれど、焦った顔をしていた琉斗君はまた真顔になった。

「そうだよな。今すぐに自分の世界を捨ててこいなんて、無謀だよな」
「じゃなくて……」

 私はカウンターテーブルに置いていた琉斗君の手に自分の両手を重ねた。彼の手の中にはさっきの鍵が握られていて、なんだが硬くてゴツゴツしていたけれど温かかった。

 そう思った途端に、心の中までふわっと温かさを感じた。

「ここで一緒に暮らしたい」



 気が付いたときには、いつの間にかマスターの姿がなくなっていた。
 居住スペースの方も見に行ったけど、私たちにサヨナラの言葉を残すことなく、マスターは自分の世界へ戻ってしまったのだろう。

 最後まで不思議な人だったけれど、もう会えなくなってしまったということだろうか……。

「そういえば、日曜の朝に帰るとき。琉斗君、マスターが涙ぐんでいたって言っていたよね? あれって、もうあの日が最後だって決めていたのかもしれないね」

「そうだな。今考えてみれば分かるよな。あれはマスターにとって最後の客を見送っていたんだな」

 そう思うと胸に込み上げてくるものがあるのだけれど、今の私たちには感傷に浸っている余裕さえないような気がしていた。

 私はとりあえず、着替えや簡単な荷物を取りに家に帰って、それで自分の世界に戻るのは最後にしようと思った。だけど、そう思った途端にまた不安に襲われる。

 もしも、次にここに戻ってこられなくなってしまったら…………?

「お、お願いがあるの。琉斗君」

「どうした?」

「あの……一緒に来てくれないかな? 私が荷物を取りに帰る間……私の世界に」

 ヤケに甘えたようなことを言っている気がしてなんだか恥ずかしいけれど、今はそれしか確実に離れない方法は思いつかない。もしも、それで二人とも私の世界から出られなくなってしまったら……そう思うと、また不安だけど。

 それでも、琉斗君が幻想珈琲館の鍵を持っている限りは、あそこに辿り着けるような、そんな気がしてしまう。

「いいよ」

 満面の笑みを見せてあっさりと承諾してくれて、少し気が抜けた。

「いいの? だって、私の世界の扉が閉まっちゃったら、琉斗君の方が私の世界に閉じ込められちゃうんだよ。幻想珈琲館にさえ行けなくなる」

「いいよ。それでも、実莉に会えなくなるよりはマシだ」

 その言葉に軽く感動してしまって、思わず真顔で琉斗君を見てしまった。

「実莉だってそう思ってくれたから、よく考えもせずに一緒に暮らすことを了解してくれたんだろ?」

「えっ、そうだけど……」

 よく考えもせずって、なんだかあんまりな言い方な気がする。確かによく考えてはいないけれど、どんなに考えたところで気持ちが変わるとは思えないのだから。

「まあ、いいよ。とにかく一緒に荷物を取りに行こうぜ」

 気のせいだろうか……?

 なんとなく琉斗君の様子がおかしい気がした。どこか不機嫌になったような、そんな感情が見え隠れする。

 私、なにか間違った?
 無意識のうちに何か怒らせたの……?

 だけど、それからはお互いに無言のまま、手を繋いで一緒に私の世界へ入った。