クリスマスの朝、月からLINEが入っていた。学校はもう冬休みに入っていたけど、月とはなんとなく毎日のようにLINEをしていた。

『おはよう、昨日のイブは楽しかった? 私はこれもらったよ』

 プレゼントの絵文字入りで、ちょっと派手な金色リボンが付いている、月好みの黒いショートブーツの写真が送られてきた。

『かわいいね! 一緒に選んだの?』

『当たり。ホントは選んでほしかったんだけど、確実に喜ぶものがいいって。土曜日に履いていくから実物見せるね!』

 剛志君は懸命だと思った。だって月って好みがうるさいから、好きな人からなら何をもらっても喜ぶというタイプではない。

 私は適当なスタンプを選んで月に送ると、メールアプリを開いて琉斗君とのやり取りを見た。やり取りといっても、お互いに一方通行で送ったものばかりだ。
 
 自分の世界で送って、狭間の世界である幻想珈琲館で会ったときに届くのが常で。だけど、日記のように毎日その日にあったことや思ったことを送り合うようになっていた。

 届くのは相変わらず会ったときだから、目の前で読んだり読まれたりはお互いに恥ずかしくて。だけど、別れた後に読むとその内容がまた先送りになってしまうから、お互いのメールした内容をふたりで見ながら話したりしている。

 本来ならその日に何度かメールを送り合って会話できるような内容なのに、と寂しくもなるけど、すぐに返信が来ない分、あれもこれもと色々と書いて長文になるから、会えない間のどうでもいい出来事をたくさん書いてしまう。



 冬休みはどうしても起きるのが遅くなるから、もうお母さんはパートへ出かけている時間だった。ダイニングには誰もいなくて、朝食のパンが置いてある。

 家で一人だと思うと少しホッとする。

「あっ、姉ちゃん。今起きたの?」

 すでに着替えて出かける格好をしている遥介が入ってきて、キッチン戸棚からステンレスボトルを取り出した。

「おはよ。どこか行くの?」

「うん、彼女と受験勉強。デッサンの練習だけどな」

「デッサン? じゃ、美術科受験することにしたの?」

「うん。第一希望はそっちだ。私立は大学付属とか進学校とかも受けるっていうことで、母さんも塾も納得したよ。第一志望が公立の美術科だから、そっちが受かれば必然的に行けるしさ」

 そうか、この県の公立高校は受かったら辞退は出来ないんだっけ。お母さんは有名な学校に受かれば、遥介の気持ちも変わると思っている可能性はあるとは思うけど、どう見ても遥介は第一希望の高校しか見えてないんだろう。

「デッサンが受験勉強なの?」

「だって、入試の課題にデッサンがあるからな。お題はその時に出されるんだぜ。いろんな物を描いておこうと思ってさ」

 そんなことを言いながら、ステンレスボトルに麦茶を注いでいる遥介はなんだか楽しそうというか浮かれ気味に見えた。

「ふうん、頑張ってね。ま、クリスマスだしね」

 なんだかんだ言いながら、クリスマスデートも含まれているんだろう、ということは明確だった。

「まあね。姉ちゃんだって、それ、ペアウォッチだろ? ダイバーズウォッチなんて姉ちゃんの趣味じゃねえもんな」

 ニヤニヤと悪戯っ子の笑顔を浮かべる遥介は小さいころの面影が見え隠れする。弟って不思議だな。こうやって時々、昔の懐かしい顔と重なることがある。

 ハハハッと笑いながらリュックを背負って出て行く遥介の背中を見ながら、そんな不思議な感覚に囚われた。




「へえ、俺は兄弟がいねえから、そういう感覚は分かんないけど」

 私の送った遥介のことを書いたメールを見ながら、琉斗君が頬杖を突きながらそう言った。その表情がなんだか嬉しそうで、それがちょっとくすぐったい気持ちになる。

 というか、いつもいつも琉斗君は嬉しそうな表情で私のメールを読むから照れ臭くなるのだった。

「良かったな、弟。自分の思う道へ進めるみたいで」

「うん。といっても、たぶん親はまだエリートの道を諦めてないと思うけどね」

「ハハッ。期待されている子ってのも大変なんだな」

「うん、最近は本当にそう思うの。小さいころは親に見てもらいたかったけど、今となっては親がこっちを見ていなくて楽だなって」

 こんな会話を誰かと自然にできるようになるなんて、琉斗君と出会う前の私には考えられなかったな。なんとなく、家族の話は自分の中でタブーになっていた。

 親と仲が良くないというのがどこかコンプレックスだったし、親に対して自分の子どもじみた思いが残っていたことも気が付いているから、そういうのを悟られると恥ずかしいという想いもあった。

「琉斗君がいて、本当に良かった」

 思わずそんな言葉がこぼれると、琉斗君が明らかに顔を赤くして照れてしまった。

「コーヒーのおかわりはどうかな?」

 琉斗君の文句が飛んでくる前に、マスターが銀製のコーヒーポットを片手に現れた。

「私は大丈夫」
「俺はもらおっかな」

 マスターがニコニコと琉斗君のカップにコーヒーを注いだ。

「ねえ、マスター。なんだか最近は新しいお客さんが増えたね」

 毎週土曜日だけの営業だから、喋らなくても顔を覚えてしまう人もいて、毎週来る人はなんとなく分かる。その日だけたまたま来た人もいるだろうし、毎週じゃなくても時々来ている人もいるのだろうと思うけれど。

「ああ、そうだね。新しい世界とつながったようだからね」

「へえ、そうなんだ。そんなこともあるんだ」

 マスターの言葉に琉斗君が興味を持ったように目を輝かせたけど、私は琉斗君とは反対に不安が込み上げてきた。

「そうだね。ここは狭間の世界だから、いろんな世界とつながる可能性がある」

「だけど、お客さんの数自体はそんなに増えていないよね……?」

 思わず不安が言葉になって出て行ってしまう。琉斗君にもそれが伝わったようで、ふいに膝に置いていた手を握られた。

「ああ、そうだね」

「それって……それって、逆につながりが切れてしまう世界もあるってこと?」

「…………そうだね」

 マスターが静かにうなずいた。

「瞳さんは好きな人の世界に暮らすと決めて来なくなったと言ったけど、いや、それは事実ではあるけどね。彼女はそれでもお客として来ると言っていたんだ。でも、結局は叶わなかった」

 つまり、瞳さんの世界はここへ来る扉を閉められてしまったのだろう。

「だからね、わたしもいつ店に来られなくなるか分からないんだよ」

 マスターが目を細めて寂しそうに笑った。まるで何かを予感しているような瞳で……。

「どの世界が閉じていくって、マスターには分かるの?」

「厳密には分からないよ。ただ、わたしの世界は長い期間ここと行き来ができているからね。いつ離れてもおかしくないと思っているんだよ」

 確かに、マスターが二十歳の時からということだから、何十年という期間をつながっていたことになる。

「といっても、期間が決まっているわけじゃないからね。常連さんでも数年で会えなくなる人もいれば、何十年も未だに通い続けている人もいる。だから、もちろん分からないよ。ただ、わたしは年齢のこともあるからね。できればキミたちに託したいんだ」

 いつもの癒しの笑顔で微笑むと、マスターはコーヒーのおかわりを注ぎに他の客席へ回って行った。

 私は琉斗君と顔を見合わせた。
 確かマスターは前にもそんな話をしていたけれど……。

「ねえ、琉斗君は将来お店を持ちたいって話、マスターにしているの?」

「いや、してない。けど、将来的にはそんな話があっても有難いかもな。おまえの世界で店を持ってから、そのもっと先の話だろうし。マスターが年老いて店に立てなくなったらって頃だろ?」

「でも、ケーキ屋さんじゃないよ」

「おまえが調理やって俺が製菓、とかさ。バリスタにも興味あるんだよね。ゆくゆくはそっちも勉強したいとは思っているから」

 私たちのように違う世界で生きるカップルには、この狭間の世界でのお店を持てるのは一緒にいられるという意味でも最高の場所かもしれない。

「そういえば、ルナちゃんと剛志、今日は来ないのかな。遅くね?」

「ルナは今日は来るって言ってたけど……」

 急に不安が押し寄せてきた。月は剛志君に買ってもらったブーツを見せたいはずだから、絶対に来るつもりだと思う。そして、この前は剛志君が来られなかったから、月がいつも来ている道から一緒に来ると言っていた。

「来られないのかな……?」

 不安がそのまま言葉になってこぼれ落ちる。

「私の世界、大丈夫なのかな……?」

「あんまりそっちばっかり考えんなよ。先週はたまたま剛志が道を間違えて、今日は喧嘩でもしてんのかもしれねえじゃん」

 確かに、そんなことも有り得るから、単に私が心配し過ぎているだけなのかもしれない。だけど、やっぱり今のマスターの話もあるし、その不安を取り除くのはなかなか難しいのかもしれない。

「私たちって不思議な関係だよね。とっても近いのに遠距離って感じなんだもん」

「ハハッ。そうだな。だけど、それも今だけだって」

 うん、そうだよね。高校を出たら、お互いに家を出て、それぞれの世界で一人暮らしをする。そしたら、そこを行き来する生活になれば、一緒に暮らしているようなものになる。

 まるで自分に言い聞かせるように具体的に考えると、ようやく少しずつ心が落ち着いていく。琉斗君との未来が具体化されると安心するのだ。

 だけど、その日は月たちは幻想珈琲館には現れず、どこか心の奥に不安が残ったまま朝を迎えた。

「そうそう、今年の土曜日は今日で終わりだけど、年末は営業しようと思うんだ」

 私たちがコートを着ながら帰り支度をしていると、カウンターの中からマスターが声をかけてきた。

「年末って三十一日の大晦日?」

「そうだね。ここにはキミたちのように、違う世界に住んでいる恋人や友達が集まることがあるからね。キミたちも良かったら一緒に年を越しにおいで」

 私が琉斗君を見ると、満面の笑みでうなずいた。

「じゃあ、待っているね」

 にっこりと微笑むとマスターがドアを開けてくれて、チリンチリンという鈴の音が鳴り響いた。外から入ってくる冬の晴れた朝の空気は冷たいけれど、お店で一夜を明かした気だるい身体には、どこか心地よさを感じさせられて目が覚める。

「マスター、今日も朝までありがとう」
「ご馳走さまでした」

 そんな私たちのいつもの帰り際の挨拶に手を振りながら、今日のマスターはいつもよりも長く見送ってくれていた。

「なんか、涙ぐんでいなかったか? マスター」

「えっ? 気が付かなかったけど……。でも、いつもよりも長く手を振っていたよね」

 そう言って振り向いたときには、もうすでに幻想珈琲館の扉は閉まっていて、マスターの姿はお店の中に消えていた。
 急におかしな胸騒ぎがした。それは琉斗君も感じたのか、表情が変わって目つきが鋭くなった。

「ちょっと……戻ってみようぜ」
「うん」

 思わず小走りで戻ってドアに手をかけると、もう鍵がかけられていて開かなかった。琉斗君がドアをドンドンと少し乱暴にたたきながら、「マスター!」と呼んだけれど、中から物音はなく誰も出てこなかった。

「琉斗君、もう電気も消えて真っ暗だよ」

 窓から中を覗いても明かりも人影もなく、いつも平日に来るときのように、すっかり営業していない状態に戻っていた。

「マスターって謎だよな。マスターんとこからは、店の中に着くのかな?」

「そうなのかもね。朝帰りはいつも私たちだけだから、他のお客さんが帰ったら閉店準備しているもんね。ホントは早く帰りたいのかな?」

「ハハッ。イヤだったらそう言うだろ。好きで営業してくれてんだよ」

 それは、そうなんだとは思うのだけど。でも、ときどき気になることがある。特に最近はマスターが後釜の話もしているから、そう感じさせる何かがある。

「今は実莉の中ではさ、俺たちの付き合っていくうえでの不安が色んなところに飛び散っているんだろ? なんでもかんでも不安になんなよ」

 そう言いながらも、琉斗君もマスターへの違和感をなにか察知していたように見えたのだけど……。でも、確かにあまり不安がっても仕方がないし、やっぱり気のせいだと思う方がいいんだろう。

「明日は朝イチからバイトで早めに上がるから。三時にここでいいかな?」

「うん。じゃ、三時にね」

 明日も会える、そう思うことが今の私にとっては一番安心することができた。そして、そういう不安を察してくれるのか、付き合ってからはこの場所から帰るとき、いつも琉斗君が私を見送ってくれていた。

 特に今の私は琉斗君が消えていくのを見るのは不安で恐くなるような気がしたから、毎回だけどそれはとっても有難かった。

「琉斗君は不安にならない? こうやって、私が琉斗君とは違う世界に帰って行くのを見送るとき」

 思わず、帰る間際に振り向いて聞いてしまった。
 琉斗君は一瞬だけ少し驚いたように目を見開いて私を見たけど、すぐに余裕のある笑顔を見せた。

「おまえの後ろ姿、好きなんだ」

「えっ?」

「出会った頃は凛とした姿勢を保っていたけど、最近は結構気が抜けているのが分かる。実はちょっと猫背気味だよな」

「はっ?」

「気を張っていたのが、どんどん心を許してくれてんだなっていうか、俺が実莉を楽にしてやってんのかな、とか、そんなことを思いながら、後ろ姿を見たりしている」

 きっと私はマヌケな顔をしているのだろう。琉斗君がこちらを見ておかしそうにケラケラと笑いながら近寄ってきた。そして、私の頭にポンポンと手を乗せると「不安にはならねえな」とハッキリ言った。

「そんなこと考える隙もねえっていうか。他にも、歩いていると髪が揺れるじゃん。なんかそういうのが綺麗だなって思うし。やっぱ華奢だなあとか、手足も細すぎじゃんとか」

「やだ、そんなジロジロ見てんの?」

「ハハッ。見送ってんだから、そりゃ見るだろ。ずっとさ、ただおまえの後ろ姿を見ているだけだから、消えちまう瞬間は行っちゃったって思うけど、不安になったり寂しくなったりはしないな」

 なんだろう。とっても照れ臭いんだけど、とっても温かい気持ちが心の中に込み上げてきた。私はなんだか損をしているような気がしてしまった。せっかく好きな人と両想いになって一緒にいられるのに、その気持ちを満喫することもなく、離れる不安ばかり抱いてしまっているんだから。

「ありがとね、琉斗君」

「ハハッ。後ろ姿ジロジロ見てたこと?」

「いや、それはちょっと嫌だけど。でも、なんか琉斗君の考え方って前向きで好き」

「前向きっつうか、単におまえに惚れてるだけ」

 照れ屋の琉斗君がそれでも照れながらそんな言葉を言ってくれるのが、私には何よりもうれしかった。

 そうだよね、こういう時間を大切にしないともったいない。きっと付き合い始めの初々しい気持ちなんて今だけなんだから。

 きっとこうやって、何度も琉斗君の考え方に救われながら、私たちは違う世界に住みながらも、永遠を感じられるその日までどうにかやっていくのだろう。




 だけど、そんな浮き浮きした前向きな気持ちも、次の日に月と話していて一瞬にして消え去ってしまった。

 いつもの土曜の夜に幻想珈琲館に現れなかった月から連絡があって、私の地元である黄金駅近くのファミレスでランチをしていた。

「行けなかったのよ、あの珈琲館に。なんか、前は行けたのに。でも、いつもどうやって行っていたかって聞かれたら定かじゃないし……。行き方が分からなくなっちゃって」

 剛志君に続き月まで幻想珈琲館へたどり着けなかったと聞くと、どうしても不安が募っていく。ふたりは間違いなく私の世界の人間で、つまりは私の世界から行ける道が閉ざされていっているような気がしてならない。

「でもさ、思ったんだけど。地理的におかしいのよね、あのお店。私の家の近所だと思っていたけど、剛志の家からの行き方を聞くと、なんか地図上で見るとそんなはずないって場所なの。けど、実莉の家はこの辺なんでしょ? また全然違うから」

 そうか、月は幻想珈琲館が他の世界とつなぐ場所にある、またこことは違う世界だということを知らない。だから、そこからの話になるとどう説明していいのか分からなくて困ってしまう。

「まあ、あのお店にこだわらなくてもいいと言えばいいんだけど。あそこには実莉と琉斗君も来ているから、行きたいなって思っていてね」

「そうだよね。ルナたちはあのお店じゃなくても、どこでも好きな場所で会えるもんね」

「実莉たちだって……ああ、朝までとなると、確かにあのお店は貴重よね」

 月に全てを話すべきなのかどうか、迷っている自分がいたけれど、彼女が適当な解釈をしてくれて少しホッとした。月もあのお店に行っている当事者だから話してもいいのだろうけど、きちんと話すと将来的に琉斗君が私たちの世界で暮らすときに秘密を共有することになってしまう。

 それは今は仲が良くて大好きな友達でも、そこまでのことを話すべきではないと思えた。月は同じ世界の人と付き合っているのだから……。

 
 月と別れていつもの大通りに出ると、私の中に変な緊張感が走った。そして、目印にしている家電量販店が近づくとそれはピークに達して、思わずギュッと目をつぶって下を向いたまま、しばらくの間は恐くて目を開けることができなかった。

 だけど、大通りの車が行き交う音が聞こえなくなったような気がして、そっと目を開けると、足の下には素焼きのオレンジ色のレンガが敷き詰められているのが見えた。

 黒いアイアンの街灯が並んでいる、霧がかったいつものポプラ並木だ。

「良かった……」

 零れ落ちるようにつぶやくと、ホッとして辺りを見回した。
 霧の向こうには、うっすらと大きな黒い門が見える。もしもここから飛び降りたら、その先は宇宙だなんて…………なんだか神秘的だ。

「ごめん、待たせた?」

 ふいに琉斗君の声がして振り返ると、その笑顔にまた安心する。
 だけど、安心するってことは、それまでの不安を象徴しているようにも思えた。

 二人の時間を前向きに楽しもうと思ったばかりなのにな……。

 そんなことを考えていると、敏感な琉斗君が鋭い視線でこちらを見ているのが分かった。

 あ、また心配させたかな。



「そっか、ルナちゃんが来ていた道もダメだったのか」

 月たちの話をすると、アイアンの門に寄りかかりながら、琉斗君は考え込むように腕を組んだ。

「けどさ、俺、想うんだけど。幻想珈琲館って普段は出会えない人が出会える場所だって、いつかマスターが言ってたじゃん?」

「うん、そうだったかも」

「剛志とルナちゃんは再会の場所になったけど、普段は同じ世界に暮らしているわけだから、もう必要がなくなったってことはないか?」

「あっ、そっか。そうかも」

 確かに、そう言われると、それが正しいような気がしてきた。きっとルナたちは、私たちの世界では再会するチャンスがなかなか無かったのかもしれない。だから、お互いの想いが通じる形で幻想珈琲館に辿り着いた……とか?

「もしもそうなら、私は大丈夫だね」

「と思うけどな。大丈夫、変わんねえよ、俺たちは」

 琉斗君にそう言われると、不思議と大丈夫だと思えてしまう。やっぱり、この人と一緒にいられて良かったな。

 そんな気分に浸っていると、「あれ?」と琉斗君が寄りかかっていた門から離れて、二、三歩前に進みながら前方を指差した。

「誰かいないか? 幻想珈琲館」

 私もお店に視線をやると、遠目ではあるけど、明かりがついているのが分かる。いつもは土曜日にしか営業していないし、次は大晦日だということだった。

 私たちは顔を見合わせて、お互いに何も言わないまま手を繋いで幻想珈琲館へ向かった。

 幻想珈琲館の窓にはカーテンが引かれていたけれど、中から明かりが漏れていた。琉斗君が金のドアノブに手をかけると、いとも簡単に開いた。

 いつものようにチリンチリンと鈴の音を鳴らしながらドアを開くと、いつも流れているクラシック音楽は聞こえなくて、電気もカウンターの方しかついていなかった。

「こんにちは。マスター、いるの?」

 琉斗君がカウンターの方へ入って行ったから、私も後に続いて中を覗いてみた。マスターの姿はなく、カウンターには一冊の古びたノートが無造作に置かれていた。

「なんだろ? 黄ばんじゃっているけど……」

 ノートをパラパラとめくってみると、丁寧な文字でメニューや調理方法が書かれていた。きっとこれが前にマスターが言っていた、瞳さんの残したレシピ帳なのかもしれない。

「この店のメニューだな。瞳さんが書いたやつか」

「そうだよね、やっぱり」

「マスターが来ていたのは確かだよな。マスター!」

 中に向かって琉斗君が呼んでみたけれど、やっぱり返答はなかった。

「マスターって、やっぱり自分の世界から直接このお店の中に出られる道があるのかな?」

「かもしれねえな。大晦日の準備でもしてんのか。そのうち戻ってくんのかな?」

 そう言いながら、私たちはカウンターのイスに座って待ってみているけれど、なかなかマスターは現れない。カギが開いていたとはいえ、勝手に入り込んで待っているのはどうなんだろう? と思って、私はだんだん落ち着かなくなっていった。

「ねえ、出直した方がいいんじゃない? マスターの留守中に勝手に入るのはやっぱり気が引ける」

「そうだけど、鍵が開いていること自体が不用心だよな。誰が迷い込んでくるかも分からないってのに」

「確かに……」

 そう思うと、留守番代わりにマスターを待っていた方がいいのだろうか?
 迷い込んできた人には定休日だと伝えられるし……。

「おや、やっぱり来ていたんだね」

 ごちゃごちゃと考えていると、ふいにマスターがカウンターの奥の方から現れた。

「ごめんなさい、勝手に入って」
「鍵が開いていたからさ。不用心だよ、マスター」

 するとマスターはいつもの穏やかな笑顔でにっこりと微笑んだ。

「いや、キミたちが来ると思って待っていたんだよ。だけど、一度戻ったらなかなか入れなくなってしまってね」

 私たちは思わず顔を見合わせると、カウンター席から身を乗り出してマスターを見た。

「えっ……?」
「入れなくなったって、この世界にってこと?」
 
「……そうだね。キミたちも、薄々それを心配してきているんだろう?」

 不安が恐怖に変わっていくような気がした。
 今日はここに来られたけど、次は分からない。
 今日は琉斗君と会えたけど…………。