すっかり幸せな気持ちに浸ってしまって、笹森君の彼女が来るまでのんびりと居座ってしまった。
「悪いな、短い時間で追い出しちまって」
大して悪びれた様子もなく、笹森君は普段の落ち着いた雰囲気は封印したかのように目に見えてウキウキしていた。
「浮かれてんな、あいつ」
琉斗君もそんな笹森君を見て冷やかすようにニヤニヤしながらお店を後にした。
帰り道はなんだか余韻に浸っていたのか、お互いに口数も少なくて、ただどことなく幸せな感覚を共有しているのは感じるくらい、私たちは微笑みがこぼれていたような気がする。
琉斗君が遠回りをして帰っているのがわかったけれど、なんとなく離れがたくて私もゆっくり歩いていた。
「八時前か……」
呟きながら夜空を見上げる琉斗君につられて私も空を見ると、ちょうどクモの中から丸みを帯びた月が顔を出してきたところだった。月の出現で辺りがほんの少し明るくなったと思ったら、いつの間にか幻想珈琲館に続くレンガの道に立っていた。
「門限、大丈夫?」
「そんなのはないけど、平日は遅く帰ることはないから、これくらいで丁度よかった」
離れがたいけど帰らなくてはいけない。
そう思った途端に、今日過ごしてきた時間がとても幸せだった分だけ、本当にまた会えるのかという不安がドッと押し寄せてきた。
だけど、幸せそうな琉斗君の気持ちはそのまま終わらせたくて、私は下を向いて琉斗君と繋いでいない方の手をコートのポケットに入れた。そこに入っていた自分の手袋に触れて、琉斗君にプレゼントを買っていたことを思い出した。
「ちょっと、ごめんね」
私は琉斗君の手を離すと、背負っていたミニリュックからラッピングされた手袋を取り出した。
「編み物とか無理難題を課せられたから……。まともな物も贈りたくて」
そんな言い訳のような言葉とともに差し出すと、一瞬きょとんとした表情をしたけれど、「いいの?」なんて言いながら受け取ってくれた。
マフラーと合うようにと思って、グレーだけど黒の網目も混ざっている毛糸の手袋にした。
「サンキュー」
照れながらも、すぐに手にはめて眺めている姿を見ていると、私の心がうずくのを感じる。
なんだろう? この感覚。
幸せ……というのとも、少し違う。
カッコイイとかカワイイとか、そういう感情に似ているけど、少し違う。
そんなことを考えていると、ふわりと抱きしめられた。
「好きだ」
呟くような琉斗君の言葉を聞きながら、あっ、これだ、と思った。
私もきっと、〝好き〟って感情が溢れたんだ。
「あのさ、なにかあった?」
ふいに顔をのぞき込まれて、真剣な眼差しでこちらを見ている琉斗君の視線がぶつかる。今さらながら、なんだか恥ずかしいという気持ちがほんのり頬をほてらせる。
「なにかあった?」
好きだって気持ちがあふれている中で、琉斗君の言わんとしていることがよく分からずに、ただ言葉をオウム返しにしていた。
「実莉、店にいる時に時々不安そうな顔してたからさ。誰かに何か言われたのかなって」
「ううん、違うの」
私の頭にはふたつのことがパッと浮かんだ。ひとつはパティシエになりたいという琉斗君の夢を千鶴さんに聞いたこと。
だけど、それはきっと琉斗君がそのうち話してくれるはずだって思うし、自分の夢も徐々に具体的に持てるかもしれない。今は少し幸せな気持ちになれて、そんな風に前向きに思えた。
「土曜日に、剛志君がここに来なかったでしょ?」
私は閉店中で明かりの消えている幻想珈琲館を見た。
「ルナが言うにはね、あの日は剛志君はいつもみたいに来ることができなかったんだって。ほら、ここに来る時って、なんか確実な道があるわけじゃないじゃない? そのピンポイントの場所はあるけど、そこから目を逸らしているうちに着く、みたいな」
「……ああ、みんなそうだよな。狭間の世界だからな」
「うん。だけど、ルナたちはそれを知らないし。本当に道を間違えただけなのかもしれないけど……。もしも来れなくなったら、って思ったら不安になって」
「そういえば、マスターも来られなくなったら店を頼む的なこと言ってたよな」
琉斗君は腕組みをして考え込むようなポーズでうなずいた。
そう、あのマスターの言葉も私は気になっていた。やっぱり、来られなくなる可能性があるのだろうか……?
「だから、そういう不安に駆られないように、これがあるんだよ」
琉斗君が自分の左腕を私の目の前に突き出して見せた。そこにはお揃いのダイバーズウォッチが光っていた。
「俺たちは離れたりしない。同じ時を刻むことができるんだよ。実際に一緒にいない時だって、俺はこれを見ながら、この時計は実莉の時計と繋がっているような気がしていた」
「そう……」
私はここ数日間、不安で不安で仕方が無かった。次に本当に琉斗君に会えるのか。会えたらこんなに嬉しくて〝好き〟があふれてしまう分、離れている間は本当に不安になってしまうのかもしれない……。
「しっかりしろって、実莉。俺たちは大丈夫だって」
満面の笑みでそう言われても、なんの根拠も見えないその言葉は私の中の安心にはならなかった。
「だって、ここに来られなくなったらどうしようもないよ。もう二度と会えないどころか、電話もメールも通じないんだから。私たちは……もう交わらない世界で別々に生きることになる」
言った途端に涙がこぼれ落ちた。この不安を拭い去ることができるとは到底思えなくて、流れていく涙を止めることができなかった。
「泣くなって」
困ったような笑顔が見えたと思ったら、またふわりと抱きしめられた。
彼のダッフルコートが私の涙で濡れていくけれど、琉斗君は気にする様子もなく私の頭を撫でた。
「俺さ、パティシエになりたいんだ」
「……うん、さっき千鶴さんに聞いた」
「あ、そうなんだ。面接のときにそんな話したかな、そういえば」
そっか、バイトの面接の時に話したんだ。
そう思うと、なんとなくホッとする気持ちが胸に広がった。彼氏の夢を他の人から聞くなんて、やっぱり複雑な気持ちだったのかもしれない。
「高校卒業したら、cocoともうひとつ違うケーキ屋で働こうと思うんだ。複数の店のパティシエの元で学びたくて。で、夜学で製菓専門学校に行こうと思っている。二年制で奨学生制度があるところがあってさ」
琉斗君は本当に将来のことを考えている。その点、私はなにも考えていないな……。そんな気持ちになって寂しさが増していく。
だけど、琉斗君のその夢を応援したいなって気持ちは強まっていく。
「卒業したら、できれば一流ホテルとか星付きのレストランとか、そういうところで働きたいと思っているんだ。今から修行しているようなもんだから、留学するような奴らと張り合えるかどうかは分からないけど、可能性はあると思っていて」
私はその世界のことはよく知らないけど、少し高みの夢を語っているような、だけどそれが嬉しそうな口調で、こちらまで温かい気持ちになっていく。いつの間にか涙も止まっていた。
「それで、資金が溜まったら必要な資格を取って店を持つ。はじめは本当に小さな店でいいんだ。カフェスペースなんてなくて、小さなショーウィンドウでいっぱいになっちまうくらいの店。そんなところから始めたい」
「うん」
私はそのとき、何をしているんだろう? そのお店に立っているのかな?
そんなことを想像したら、なんとなく自分の姿が浮かんできた。裏では彼がケーキや焼き菓子を作っていて、私は接客をしているのかもしれない。
そんな結婚生活だったら素敵だな、と漠然と思った。
だけど、それまで私は何をしているんだろう……?
「おまえの世界でどこまで俺の世界の資格とか経歴とかが使えるのかは全く分からないけど……」
そんな言葉で我に返った。
そうだった。私たちは別々の世界に生きていて、安易に一緒の夢を思い描くことは難しい……。
「だけどさ、その頃には職人としての腕一本でケーキ屋を営めると思うんだ。必要な資格は取れるならおまえの世界で取る。でも、身分取得に時間がかかるなら、とりあえず店が持てればそこから始められる。実莉の世界で」
「……どういうこと?」
「だから、おまえの世界で店を持てるようにして、結婚しよう。食品衛生責任者とか、店を持つのに必要な資格は別に俺じゃなくてもいいんだ。それはちょっとした資格だから、実莉でも取れる。街のケーキ屋は腕さえあれば成功できる。どこの世界でも大丈夫になるよう頑張るから」
それは、琉斗君が自分の世界を捨てるということを意味している。行き来はできるかもしれないけど、自分の戸籍も全て失くして私の世界で生きるということだ。
「だからさ、それまで何年かはかかる。だけど、目標は五年で独立だから二十五歳だ。あと八年。長いって思うかもしれないけど、目標として掲げると、きっとあっという間だよ」
「八年か……。そう思うと長そうだけど、目標ができると確かに気持ちは違うかもしれないな。私には夢って無かったんだよね。適当に学科も選択して普通に大学行って、できるだけ大手の一般企業に就職くらいしか考えていない」
なのにたった今、具体的な将来のビジョンが浮かび上がってきて、それが琉斗君だけではなく私の夢でもあることが実感できた。
琉斗君の胸にもたれたまま話していたけど、私はようやく離れて彼の顔を見上げた。
「だからね、まだ具体的になにって浮かばないけど、お店のインテリア関係でもいいし、経営面でもいいし、琉斗君とは違う方面でお店に役立つことを学んでいきたいって思ったの。そこから、私の夢が見つけられるような気がする」
「そっか、良かった」
嬉しそうに笑う、その笑顔が私の心を安心させていく。
実際には、まだまだ不安定なことは多すぎる。いつお互いの世界に行けなくなるか分からないなんて、常にある不安なのだから当然といえば当然で。
だけど、こうやって具体的にこれからのことを話し合うことで、それが漠然とした夢から具体的なふたりの目標となっていくから、ただそこに向かって未来へ繋げていけばいい。
そう思うことが心を安定させた。
「不安は減ったか?」
「うん、ありがとう」
「じゃ、これからは実莉もこの腕時計で俺と繋がっているって思えよ。俺たちは別々の世界にいる時だって、同じ時を過ごしているんだからな」
さっきは反発していた心も、今は素直に同意することができた。
琉斗君は不思議な人だな。私の不安を半減させて、幸福度を倍増してくれる。
本来なら交わるはずのない世界で生きていた人だからこそ、彼との出会いは奇跡でしかないと思える。そして、この先も一緒にいられるなんて、本当に奇跡なんだろうと…………。