それからも私たちは変わらずに、お互いの世界を行ったり来たりしながら、付き合っているという実感を得ながら前に進んでいる気がしていた。
変わったことは、毎週末の土曜日、幻想珈琲館に月と剛志君も現れるようになったことだった。月たちは再び付き合い始めて平日も会っているようだけど、土曜日の夕方から夕食後まで私たちの隣の席で過ごして帰っていた。
「ねえ、実莉たちはクリスマスはどうするの?」
まだ琉斗君も剛志君も来ていない幻想珈琲館で、いつになく機嫌が良さそうな月がそっと囁いてきた。
店内にある大きなファイバーツリーが目に飛び込んできて、もう数日後にクリスマスが迫ってきていることを感じさせられた。
「もうすぐクリスマスだねって話はしたけど、特に何も決めていないな。ルナたちは?」
「今日、その話をしようって剛志君からメッセが届いてさあ」
「なあんだ、ノロケか」
だからそんなにニコニコしているのね、なんて思いながら、幸せそうな月の笑顔を見ながら心の中がほっこりした。
「実莉たちもそんな話したらいいじゃない。クリスマスイブなんてちゃんと計画してないと、どこに行っても人混みでいっぱいだよ」
「けど、琉斗君のバイト先はケーキ屋さんだからね。特別に忙しい時期じゃない。いつも通りでいいかな」
「いつも通りって、彼のバイト先行ってひとりで時間をつぶすってこと?」
あり得ない! という怒ったような目で月が私を見た。
そして、扉の鈴の音とともに、タイミング悪く琉斗君がお店に入ってきたのが見えた。
「ねえ、琉斗君はクリスマスイブはバイトなの?」
こちらの席に向かってきた琉斗君に、いきなり月が声を張って大きな声で話しかけた。
「はっ?」
突然のその言葉に驚いたのか、私を見る前に月の方を見て目を丸くしていた。
「だから、クリスマスイブは実莉とふたりで過ごせないの?」
「ちょっと、ルナ。いきなりそんな話やめてよ」
「だって、つき合ってはじめてのクリスマスでしょ?」
なぜだか月がひとりで目を吊り上げて怒っていて、琉斗君も戸惑っているのがわかった。
「いらっしゃい。今日は新メニューがあるよ」
マスターが私たちと月の席の間に立って料理のメニューを差し出したから、月はそのまま口を閉じて、手元にあったメニューに視線を落としていた。
そして、私たちの注文が終わって、マスターが月に「ご注文、決まったかな?」と話しかけた時、琉斗君が小声でボソッと言った。
「…………クリスマスイブさ、バイトではあるんだけど。早めに上がって、そのあとにcocoでそのままクリスマス料理を出してくれるって千鶴さんが言ってくれてさ。そんなんでもいい?」
「えっ? すごい! 琉斗君はバイトの日だから、いつも通りcocoで終わりまで待って、一緒に帰れたらいいなって思っていたの」
そうすれば、きっと琉斗君が作ったケーキは食べられるし、帰りにプレゼントだって渡せるから。だけど、ケーキもご飯も一緒に食べられるなら最高だ!
そうだ、プレゼント…………。
何がいいんだろう?
これは聞くわけにはいかないけど、全然想像がつかなかった。
「良かった。じゃ、そうしよう。実はもう千鶴さんには二つ返事でOKしていたんだ。嬉しくてさ」
千鶴さんが琉斗君を可愛がっているのがよくわかる。そして、そういうのが彼も嬉しいんだろうな。
琉斗君の彼女である私にも良くしてくれる。
親には恵まれなくても琉斗君には味方がいるから、私はcocoに行くととっても温かい気持ちになる。
「あ、なぁんかラブラブモードだぁ」
横から月が茶化すように私の頬を突いてきた。
「あーあ、早く剛志も来ないかなぁ」
わざとらしくケラケラと笑って、月は自分のスマホをいじっていた。きっと、「早く来て」とか剛志君にメッセージでも送っているんだろう。
なんだかんだと、月たちだってラブラブだ。そう思うと、自然に笑みがこぼれてしまう。
「おまえ、ホントにルナちゃんが好きなんだなあ」
そんな様子を隣で目ざとく琉斗君に見られてしまった。
「うん、好きだな。あっ、でも琉斗君も好きだよ」
「〝も〟かよっ」
ケラケラ笑って私の頭をクシャクシャッとする。これ、髪が乱れて嫌だけどやっぱりちょっと嬉しい。なんか、親しくなったんだなぁって気がするから。
私たちのテーブルに料理が運ばれて来ても、隣の席にはまだ剛志君の姿はなかった。
「もう! 剛志に何度送っても、メッセージが既読にならないし、電話もつながらないんだよね。携帯の電源が入ってないって感じ」
ちょっとイラついた口調で月がブツブツと文句を言っていた。剛志君は見た目が派手なわりにマメで生真面目な人だから、そういうのも珍しいような気がした。
「なんか事情があるんじゃない?」
「だとは思うけどね。大切な話をする日なのに!」
月は近場のイルミネーション特集が載った雑誌をパラパラめくりながら、口をとがらせている。月はイルミネーションを見に行きたいのかな? なんて思ってしまうと、遅刻してきた剛志君に文句を言いながらも、可愛くどこに行きたいか話す月の姿が想像ついて微笑ましく思えた。
だけど、その日はとうとう剛志君は現れなかった。
携帯もずっと繋がらないままで、とっても不機嫌になってしまった月はずっと文句を言いながら、散々私たちに当たり散らして帰って行った。
「あのルナちゃんバカの剛志が音信不通になるなんてな。よっぽど何かあった上に、携帯を失くしたか忘れたかしてんだろうな」
琉斗君がケラケラと笑っていた。だけど、これが自分だったらと思うと私には笑うことができなかった。
「それでも、ルナは気になれば剛志君の家に行けるんだもんね」
思わず不安が言葉になってこぼれてしまった。
琉斗君と会うはずの日に音信不通になるだけで、私はきっととっても不安になるに違いない。たとえ、それがたった一日だけだったとしても。
敏感な琉斗君にはきっとそんな心が伝わってしまったかもしれない。そう思うと、顔を上げられなくなって、暫くの間はスマホをいじりながら俯いていた。
「じゃあ、もしもわたしがこの店に来られない事態になったら、キミたちでこの店を開店してくれるかい?」
聞いていたのか、突然マスターが会話に加わってきた。
「えっ? マスターがお休みしたら、ここにだって入ることができないじゃない」
思わず吹き出して笑ってしまったけど、マスターの瞳はいつになく真剣だった。
「もしもの場合だよ。店が開ける状態で、わたしがいなかったら、とか、ある日突然わたしがいなくなったら、とか、あり得ないことではないだろう?」
「やだ、マスター。そんな寂しい話しないでよ」
「そうだよ。ここがなくなったら、とか考えたこともねえし」
私たちは持っていたナイフとフォークを置くと、食べる手を止めてマスターを見上げて抗議した。
「ありがとう、瞳さんのこの店を愛してくれて。琉斗君のハンバーグも、実莉ちゃんのビーフシチューも全て彼女のレシピ帳があって、味もずっと同じなんだ。冷めないうちに食べなさい」
静かな口調で意味深な言い方をすると、マスターはカウンターの方へ去って行った。
「マスター、引退を考えているってことなのかな?」
「どうだろうな。他に従業員もいないし、マスターが休んだら営業できないからかもしれないぞ」
単に休みたいだけのことならいいけど、なんだかマスターの言動が気になった。
ここは琉斗くんの世界でも私の世界でもない、全然別の世界。なのに、どこかでふたりの世界が交わっている不思議な空間だ。
この場所が無くなるというのは、ふたりが会えなくなることを意味するような気がした。厳密にはこのお店がなくなってもこの世界が存在する限りは会えるけど…………。
だけど、この幻想珈琲館は私たちが一緒に土曜の夜を過ごすには貴重な空間だった。
朝になってお店を出て、いつものように別れ際につないでいた手を放そうとすると、琉斗君がその手をしっかりと握りなおした。いつもと様子が違うのを察して、思わず琉斗君の顔を見ると、どことなく照れたような表情をしていた。
「どうしたの?」
「なあ、この後さ、ちょっと時間ある?」
「今? 琉斗君、眠いんじゃないの?」
「眠いけど……。昼前まで、ちょっとだけだから」
スマホで時間を確認すると、もうすぐ十時になろうとしていた。あと一、二時間ということだろうか?
「私は別にいいけど。まだ一緒に居られるのは嬉しいし」
「……おまえって、素直というか、そういう恥ずかしいセリフも照れずに言うよなあ」
そう言って手をつないで歩き出した琉斗君の方が照れた顔をしている。
私も自分で不思議なことがある。琉斗君には心が開けているからなのか、照れずになんでも伝えられてしまう。決してほんの少しも恥ずかしくないわけじゃない。
ただ、それよりも言いたい気持ちの方が勝ってしまうのかもしれない。
「たぶん、相手が琉斗君だからだよ」
「また、そういう言葉も照れずに言う。言われた俺が恥ずかしいっつうの」
いや、私だってそれなりに恥ずかしいのだけどね。伝わってないのかなぁ?
「余裕だな、おまえ」
そんなこと言っておでこをペチンと叩かれた。
やっぱり伝わっていないんだなあ。これは可愛くないってことかな。
まあ、仕方が無いな。
「あっ、やべ、お前の方に来ちまった」
気がついたら、確かに私の世界に戻っていた。〝やべっ〟ってことは、自分の世界のどこかに行きたかったのだろう。
「もう一度戻って出直す?」
「いや、いいかな、こっちでも。つうか、おまえが可愛いこと言ってるから、気ぃ取られちゃったんじゃん」
「えっ? 可愛かったの⁉」
思わず声が大きくなってしまって、照れていた琉斗君がますます照れたのが分かった。
「もう、おまえ嫌いだ」
明らかに照れた琉斗君のほうが可愛い、とか思ってしまったけど、これ以上何か言ったら本当に怒らせそうだったから言わなかった。
「その顔やめろ!」
またおでこを叩かれた。ああ、かなりにニヤてしまっていたかもしれない。何も言わなくても、心の中がダダ漏れだったのね。
「ね、どこに行くの?」
なんだか嬉しい気持ちを抑えながら、できるだけ普通に話しかけた。
冷たい北風が耳の横を通り過ぎたけれど、それさえも爽やかに感じるほど心がウキウキしているのがわかる。
照れてしまうような言葉は平気で言えるのに、そんな自分に気が付くと、なんだか無性に恥ずかしくなるのが不思議だ。
「ああ、百貨店とか……。この辺にある?」
「うん。駅前にあるよ。黄金駅に」
「黄金、ね。慣れねえな」
琉斗君がさっきまでの照れた表情から一転して、可笑しそうにケラケラと笑う。彼の世界では最寄り駅は黄河駅だからね。
百貨店に着くと開店したばかりだったからか、入口でスタッフの人たちが並んで「いらっしゃいませ」とお辞儀をされたから、なんだかくすぐったい気持ちになった。
そういうのには一切気にする様子もなく、琉斗君はエレベーターの方へ行くと行き先を確認していた。
「何か買うの?」
「クリスマスプレゼント、一緒に買わないかと思って」
「えっ? 一緒に?」
「そう、揃いのやつ……」
またまた非常に照れているのが分かったけど、精一杯ポーカーフェイスをしようとしているから、私も頑張ってそれに気が付かない振りをしないと。
「笑ってんじゃねえよ」
「えっ、嬉しいからだよ」
本当は照れている琉斗君がかわいいからだけど、口が裂けてもそんなことは言えないな。というか、やっぱり私の心はダダ漏れみたい……。
「あっ、用意とかしてた? プレゼント」
「ううん、まだ。何買っていいのか分からなくて、どうしようって思っていたところだったの」
「んじゃ、丁度良かったな」
その笑顔は心底嬉しそうだったからホッとした。
ただ、なにを買うのかということが気になっていた。というのも、バイトをしている琉斗君と違って、私は貯金と毎月のお小遣いでやりくりしている。
親がお金だけはホイホイくれるから、家を出る資金は貯めているのだけど……。まあ、バイトしていても琉斗君も無駄遣いする気はないだろうし、そんな高級品を買うわけじゃないはず。
だけど、百貨店だから安物でもないような気がする……。
そんな不安で頭がいっぱいになっている間に、琉斗君が連れてきたのは時計売り場だった。
「ペアウォッチ?」
真剣にショーケースを見ている琉斗君に声をかけると、「うん、腕時計がいいなって思って」と言いながらも、視線はこちらに向くことなく時計を見定めているようだった。
「実莉はダイバーズウォッチとか嫌い? 俺、文字盤が黒か青のヤツがいいんだ」
まるでお祭りの日の子どものように、目を輝かせて一心に時計を見ている琉斗君に反対意見を言う気にはなれない。だけど、値段がそこそこしているのが気になった。
一般的には決して高級品というものではないのはわかるけど、バイトをしていない高校生の身分には高価なものだ。
「あのさ、駅ビルにもあったよ。時計屋さん。ダイバーズウォッチもいっぱいあった気がする。そっちも行ってみない?」
そこはもう少しリーズナブルだったはずだ。私の言葉で、はじめて琉斗君は顔を上げてこちらを見た。
「あっ、これは俺が支払うから」
「ヤダよ。琉斗君の分は私が払わないとプレゼントにならない」
「そうだけど。どうせそのうち結婚指輪だって俺が支払うだろ? ペアなんだから別にいいじゃん」
結婚指輪⁉ いきなりサラリとそんな言葉が出て動揺してしまう。
いや、もちろん将来の話までしているんだから、そういうことなんだけど……。
「えっ? ここで照れんの?」
心底驚いたといった表情で、琉斗君が目を見開いて私を見ている。なんだかさっきの仕返しをされたような気がして悔しいけど、そりゃ、照れるでしょう。
「はじめてのプレゼントだからさ。で、はじめての揃いのだから、妥協したくないんだ。もう、一生使うくらいの気持ちで買いたい」
うわっ、何も言えなくなったじゃない。
じゃあ、私はやっぱり別にプレゼントを用意しなきゃ。これに見合うものを――――。
結局、青い文字盤で銀色の金属製のベルトのダイバーズウォッチに決めた。ふたつとも綺麗にラッピングしてもらったけど、支払いは琉斗君だから、琉斗君の分も自分へのプレゼントってことになる。
「一緒にいない時間も、違う世界にいる時間も、これ見ていたら一緒に過ごしている気持ちになれると思うから」
そう言いながら、店員さんが可愛らしく結んだ大きめのリボンで飾られた時計の箱を渡された。
やっぱり、さっき剛志君が来なかったときに一気に不安になった私の心を感じたのだろうか。もともと考えていたのかもしれないけど、まだクリスマスまで数日あるこのタイミングで買ってくれたのは、そういうことなのかもしれない。
「ちょっと来て」
ろくにお礼も言えないうちに、また手を引っ張られて下りのエスカレーターに乗せられた。
「今度はなに?」
「今度はおまえが買ってくれる番」
「へっ?」
たどり着いたのは手芸用品売り場だった。琉斗君はキョロキョロと見回して、「あった」と連れて行かれたのは毛糸が並んでいる棚の前。
「実莉は編み物できる?」
「できない」
思いっきり首を横に振ったのに、フワフワと変わった形をした太めのグレーと黒が絡まったような毛糸を差し出された。
「これでマフラー作ってよ」
「だから、できないってば! しかも、イブまで一週間もないんだけど」
「大丈夫、大丈夫。この前、千鶴さんが指で編んでいたんだよな。一時間くらいでマフラーが出来上がってたから、イブに店に来た時に実莉に教えてくれるって言ってたんだ。いくらおまえだって、二、三時間もあればできるだろ」
指編みって、そういえば中学の頃に流行ったかも。今のクラスでも休み時間にやっている子を見かける。
だけど、私はそういうの苦手で、誘われてもやろうとも思わなかったんだよね……。
こんなことになるなら、みんなと一緒に編んでおけば良かった!
時計を買ってもらった手前イヤとは言えずに、言われるがまま毛糸を買ってしまった。
月曜日、教室に入ると、私の姿を見つけてすぐに月が「おはよう、聞いてよ」と、ドアのところまで迎えに来るように駆け寄ってきた。そして、すぐに腕時計に気が付いた。
「まだクリスマス前なのに、プレゼントは先にもらったの? それとも、クリスマスは会えないの?」
「あ、ううん、会えるよ。プレゼントだけ一緒に選んだの」
「へーえ、安心した!」
そう言った月の表情も明るかったから、あのあと、剛志君と連絡が取れたんだろうと想像できた。
「それより、なにを聞いてほしいの?」
自分の席に座ってカバンに入っているものを机の中に移しながら、前のイスに座った月の顔を見た。
「そうだった! ほら、土曜日に剛志君が来なかったじゃない?」
「ああ、うん。なにかあったの?」
「何かあったというか、いつもの道を通っていたはずなのに、あの珈琲館に行けなかったんだって」
「えっ? どういうこと?」
行けなかった……?
月はまだ分かっていないようだけど、幻想珈琲館はこの世界とは違うところにある。だから、ハッキリとした道があるわけじゃなく、ちょっとよそ見をしているうちに辿り着くという不思議な方法でしか行くことができない。
つまり、行けなくなる、ということがあり得なくもないのは私も心のどこかではわかっているはずだった。だけど、とってもショックだったし、行けなくなる恐怖のようなものがドンッと落ちてきた気がした。
「で、でも、ルナは行けたよね? 私も行けたし……」
「うん。だから、今週末は私の家の近くで待ち合わせして、一緒にあの珈琲館に行くことにしたの。彼もあのお店気に入っているみたいだから」
そうか。同じ世界に住んでいたら、そういう方法もあるんだ。だけど、琉斗君とはあそこで会わないと、ひとりで琉斗君のいる世界に行けることはできない。
そう思うと急に不安になって、お揃いのダイバーズウォッチを右手でギュッと包み込むように触れた。
今日は会う約束はしていなかった。
こんな時、同じ世界に住んでいたなら、気軽にメールしたり電話したりして、会えない不安なんて持たなくて済む。
もしくは、いきなりバイト先に会いに行くとか、遠目から姿を見るだけでも安心できるはずなのに。だけど、今の私たちにはそんな普通の彼氏と彼女だったら当たり前のことでさえ出来ないのだ。
そんな風に考えても仕方がないと分かっているけれど、その日はずっと実際に会えなくなったらという不安に押しつぶされそうだった。
次に会う約束をしていたのはクリスマスイブ当日だった。
毎日会いたいなんて重いだろうし、お互いの時間も必要だから、いつも平日は週に一、二日しか会っていなかった。特にクリスマスシーズンというこの忙しい時期にバイト先にも迷惑だろうと思っていたから。
だけど、私の不安はピークに達していたから、早めに幻想珈琲館の前に着くと心底ホッとした。ここにちゃんと来ることができた。
そして、すぐに琉斗君にメールをしてしまった。
〝送信が完了しました〟と表示されると、次は返信が来るか本人が来るかをただ待ち続ける。
ふいにメール着信音とともに、琉斗君がオレンジ色のレンガの道の上に現れた。
「おっ、今、実莉からメールが来た」
その笑顔を見て、ようやくこの数日間の不安が解消されて安心を得ることができた。
「どうした? なんかあったのか?」
琉斗君が敏感なのか私が分かりやすいのか、彼が心配そうに私の顔をのぞき込んだ。その優しい瞳を見て泣きたくなった。
だけど今日はクリスマスイブだし、一緒にいる時間はただ楽しみたい。
「なんでもない」
笑顔で首を横に振ると、少し不満そうな表情は見せたけど「ま、イブだもんな」と琉斗君も切り替えたように笑顔を見せて私の手を取ると、そのままダッフルコートのポケットに入れた。
「毛糸持ってきたか?」
「えっ? うん、まあ」
「〝まあ〟ってなんだよ」
「いや、やっぱりその場で編むのはちょっと勇気がいるから」
一応、プレゼントに手袋を用意してきていた。でも、やっぱり琉斗君のリクエストには応えておこうと思って、あのときに買った毛糸も持ってきてはいた。
「だけど、本当に私、編み物なんてしたことないし、不器用なんだからね!」
「だから、それがいいんだって。そんな実莉が頑張って作ってくれたものが欲しいんだ」
「変なの。もしも不格好になっても絶対に使ってよね」
もしも、というより、不格好にしかならないだろうと思えた。だけど、琉斗君は嬉しそうに「あったりまえじゃん」ってケラケラと笑うと、それはそれで私の方も嬉しかったりする。
忙しいクリスマスイブのケーキ屋さんにお邪魔しちゃっていいのかな? と思っていたら、カフェスペースはガランとしていた。
「今日はケーキの販売のみなの。だから、貸し切りよ」
千鶴さんはそう言って微笑むと、白いブラインドが閉まっている窓際へ案内してくれた。小さな丸テーブルの前に座ると、千鶴さんが隣にイスを持ってきて座った。
「ごめんなさい、一番お店が忙しい日なのに」
「大丈夫よ、今日は私はシフトには入ってないの。一応、経営者の妻だからお店には来ているけどね」
「えっ? ここって旦那さんのお店なの?」
「ええ。長久保君に聞いていない? あの子、うちの人みたいなパティシエになってお店を持つのが夢みたいよ」
「……そうなん……だ」
そういえば、彼の夢を私は知らなかった。とにかく家を出たいとは言っていたけど、そんな夢を持っているなんて。
しかも、他の人から聞かされたことで、複雑な気持ちになってそのまま沈んでいく感覚が自分でもわかった。
いやいや、このケーキ屋さんでバイトしているんだから、ここの人にはそういう話をしやすいのだろう。私には他の話をたくさんしていて、そこまで追いついていないだけだろう。
頭ではそう思える。
だけど、とっても大切な将来のこと…………。
だって、私も関係するかもしれない……そんな将来の話なのに、他の人から聞いてしまうなんて。
千鶴さんがにこやかに不器用な私にもわかりやすく、指編みを教えてくれる。こんな気持ちで編んではいけないな、と思いながら、まるでタバコの煙をそのまま胸に取り入れてしまったような、モヤモヤと消えないものをどうにかお腹の底まで追いやって編み物に集中した。
一通り編み方を教えてくれたら、千鶴さんは席を外してレジの裏の方へ消えた。やはりシフトに入っていなくても、旦那さんのお店なら手伝って当たり前なのだろう。
琉斗君は自分のお店を持ちたいのか……。
てことは、私は千鶴さんみたいに――?
なんて考えると顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなった。
気が早いよね、そんなこと考えるなんて。
編み物というものは無心になれるような気がする。
ただ、編み目だけを見てていねいに編んでいれば、何かを考える暇がない。
だけど、ふと考えてしまう。彼の夢がパティシエになってお店を持つことだったら、私の夢って何だろう? って。
それなりの優秀な高校へ行っていて、そのまま付属の大学へ行けたらそこそこの学歴になる。だから、そこそこの企業に勤めてそこそこのお給料をもらって。
それくらいのことしか考えていなかった。
一般企業というものはどんな仕事をするものなのか、そんなこともよく知らなかった。
たとえば旅行会社とか出版社とか銀行とか、予想がつく業界はわかるのだけど。たとえばIT企業とか商社とか、大きなオフィスビルの中ではどんな仕事が待っているのか全く予想もつかなかった。
だからと言って、専門職に就きたいとかそんな夢や希望もなく、漠然と大手企業に勤められたら安泰なんだろうなって、そんな意識しか持っていなかった。
私は一体なにをしたいんだろう…………?
もしもこのまま琉斗君とお互いの世界を行き来しながら、ずっと一緒にいられることになっても、こんな私だったらいつか愛想をつかされるのかもしれない。
今は同志のような気持ちになれているけど、私の中には琉斗君のようなしっかりとした何かが無いのかもしれない……。
ただでさえ不安定な関係なのに……いや、恐らく不安定な関係だからこそ大きな不安に駆られた。
「おっ、かなり編めてんじゃん」
いつの間にか私服に着替えた琉斗君が私の隣のイスに座った。
「もうバイト終わり?」
「うん、今日は早めに上がったから」
時間はまだ六時だった。二時間くらいバイトしただけかな?
「これから一時間半貸し切りで、その後は笹森が彼女と貸し切りなんだ」
「あははっ。いいバイト先だね」
笹森君はまだケーキを箱詰めしてお客さんに渡していて忙しそう。
ケーキを作るのはきっともう終わっていて、今日は接客の方が忙しいのかもしれない。
「最後の始末を教えてほしいんだけど、千鶴さんが奥に入っちゃったんだよね」
もう長さはマフラーくらい編めたと思うけど、最後をどう仕上げたらいいか分からなくなった毛糸を見せた。
「へえ、ちゃんと出来上がったんだ。ありがとう」
嬉しそうに笑う琉斗君に照れそうになるけど、私はポーカーフェイスを保ちながら「普段はやらないから楽しかった」と言った。
あっ、普通は「琉斗君を想って編んだから幸せだった」とか、もっと可愛い言葉を言うのかもしれないな……。まあ、自然に出た言葉だから仕方がない。
「千鶴さんがクリスマス料理を作ってくれたんだよ」
つまり、千鶴さんは普段ほぼ毎日バイトに出ている琉斗君と笹森君を労って、それぞれに彼女とのクリスマスディナーを振舞ってくれるということだったらしい。
だから、シフトに入っていない千鶴さんがお店に来て厨房で何かをしていたのかな。私ではなく琉斗君のためだけど、それでもなんだか嬉しくて感動してしまった。
千鶴さんの料理は家庭料理の域を越えたコース料理で、私には少なめの量にしてくれていたのがわかった。
「今日の本当のメインはこれだから」
そう言った千鶴さんの笑顔とともに運ばれて来たのは、デザートのケーキだった。切り株をイメージさせるチョコレートの生クリームを使ったロールケーキで、金粉や色とりどりの小さく薄い星形の砂糖菓子で飾られて、サンタクロースが乗っている。
「はい、仕上げお願い」
千鶴さんから琉斗君にトッピング用のチョコレートクリームが手渡される。
私の顔をチラリと見ると、サラサラッと慣れた手つきでプレートの縁に〝Forever love〟と描いた。
不意打ちで、しかも千鶴さんも見守っている目の前でそんな文字を書くなんて反則だ……!
そう思ったときには手遅れで、照れるを通り越して感動しちゃって涙がこぼれ落ちていた。
「うわっ、泣くかよ普通」
「じゃ、泣かせないでよ」
千鶴さんがプッと吹き出して「ごめん、つい」なんて言いながら戻って行ったから、琉斗君が不愉快そうに口をとがらせて私の頭をくしゃっとした。
「笑われたじゃん」
「……琉斗君が作ったの? これ」
「おう。店で売っているヤツじゃない、俺のオリジナルな。食ってみてよ。自信作なんだ」
琉斗君が満面の笑みで促すけれど、涙を拭いてもう一度きちんとケーキを見ると崩してしまうのが惜しくなる。思わず、携帯を取り出して写真を撮った。
「なんか、もったいないな」
フォークを刺すのをためらってしまうと、もう既に崩しながらケーキを食べ始めている琉斗君に笑われた。
「食わない方がもったいない!」
「それは、そうだね」
思わずつられて笑いながらフォークをケーキに刺し入れると、チョコレートケーキにオレンジやベリー系フルーツの入った生クリームが巻かれたロールケーキが現れた。チョコレートケーキはほんのりと洋酒の味がして、甘すぎないビター系の味だった。
「美味しい!」
「だろ? こんなに腹いっぱいでも、美味いって思えるだろ?」
本当に嬉しそうな顔の琉斗君を見ながら、このケーキもそんな表情を見せる琉斗君も、全てがクリスマスプレゼントなんだと思えた。琉斗君と付き合う前の、ただ優等生的に率なく生きてきた私は、こんなクリスマスを迎える日がくることを想像もしていなかったな。
そう思うと、心の中がほんわりと温かくなった。