瞳さんは小柄な細身の女性で、ちょこまかと動く姿がリスやウサギの小動物を思い起こすような可愛らしい人だったという。
マスターは私たちと同じように、この幻想珈琲館へ迷い込み、たったひとりの生き残りである瞳さんから、その衝撃的な世界が消滅した経緯を聞いた。
マスターは帰り方が分からずに、瞳さんと一緒に自分が来た道を戻ってみると、いつの間にか自分の世界へ帰ることができた。もちろん、瞳さんも一緒に。
「えっ、もしかして、瞳さんってマスターの奥さん?」
思わず話の途中で口を挟んでしまった。そうだったらロマンティック!
それだけじゃなく、私たちの今後の参考になることも聞けるかもしれない。違う世界の二人がひとつの世界で暮らす方法として……。
「ハハッ。一緒に連れて帰りはしたけど、当時のわたしはまだ二十歳の学生でね。親元で暮らしていたんだよ。親には火事で家を失くした友達ということにして、しばらく泊めて対策を考えた」
「で、どうしたの?」
琉斗君も興味津々に身を乗り出していた。
「数日すると、瞳さんは残してきた店を気にしてね。唯一の彼女に残された世界だからね」
それは、そうだよね。家族も友達も全て失って、どんなに似ていても自分の知らない世界に来て、これから先を思うと不安と孤独でいっぱいだったに違いない。
「幻想珈琲館へ戻ってくると、彼女はここで暮らしながらわたしの世界に通うことができないか、と話していたよ。わたしの家でずっと世話になるのは難しいから、自分の家が欲しかったのだろう。それに、この店を捨てたくなかったようだ」
「でも、世界を行き来するには、いちいちマスターが一緒にいなきゃいけないだろ?」
「そうだね」
マスターは目を細めて微笑むと、私たちを通り越して、どこか遠くを見つめていた。
「そんな話をしていたらね、ふいに扉が開いて、わたしと同じように迷い込んで来た人がいたんだ。喫茶店だと思い込んでね。そのときは店を開けられる状態じゃなかったから、その人はそこが他の世界だとは気がつかずに帰って行った」
この世界がこんなに狭いと気がつく前は、私も近所を歩いていたらこの行き止まりにぶつかって、知らない可愛いカフェがあったとしか思わなかった。
だから、もしも営業していないと言われたら、なんの疑問も持たずに帰っただろう。だけど、この世界のことがわかった今は、ここに間違って来てしまっても気がつかない人が、どれだけいたのだろうか? と考えてしまう。
「やがて、そうやってここへ来る人が増えてきた。みんなそれぞれの世界から来ているようで、ここはそういう世界の狭間の世界なんだって思えたんだ。つまり、決して交わらない世界の者同士が交わる場所ということだね」
普通なら信じられないような話だけれど、今の私たちにはこんな話がすんなりと受け入れられてしまう。それがなんだか滑稽でもあり哀しくもある。
だけど、もしもひとつの世界しか知らなかったら、私たちは出会えなかったという現実もある。
そんなことを考えながらも、私はマスターの話の続きが気になって耳を傾けていた。
「それが分かってくると、瞳さんはこのカフェを営業したいと言い始めた。もともとは彼女のご両親が経営していた店だけに、彼女の思い入れは大きくてね。わたしの世界に来たとしても、なにも出来ないだろうという不安もあるのだろう。店で得たお金をわたしの世界で使い、ここで暮らしていく。そんな生活を彼女は始めたんだ」
この世界の生き残りである瞳さんは、並行したマスターの世界を使いながらも、きちんとこの世界を守って生きていこうと決めたんだ。そして、それが他の世界で存在しない人だから、戸籍も何もない瞳さんの唯一の生きる道でもあったと言えたのかもしれない。
だけど、今はその瞳さんがここにいるとは思えない。
「マスター。やっぱり、瞳さんてマスターの奥さんじゃないの?」
私の問いかけに、マスターは目を細めて微笑んだ。
「まあ、そんなに先を急いではいけないよ。話は順序だてていくからね」
否定をしないということは、ここからマスターと瞳さんのラブストーリーが始まるのだろう。私は期待してちょっとワクワクした。
「実莉ちゃんのご期待通りかどうかは分からないけれど、わたしは徐々に瞳さんに魅かれていったよ。そんな孤独な状況になっても真っすぐ前だけ見て、懸命に生きていこうとする瞳さんを応援したかったし、何よりも話し方と笑顔が可愛くてね。会って喋っているだけで、とにかく魅かれていくんだよ」
そう話すマスターの目は初恋の話でもするような少年のようだった。
「やがて、瞳さんも恋をした」
琉斗君と私が同時に奇声に近い歓声をあげたから、マスターがまた微笑んだ。
「残念だけど、相手はわたしではなかったよ」
「「えっ?」」
琉斗君と声が重なった。てっきり両想いでめでたしめでたしかと……。
いやいや、まだ続きがあるはずだ。
「この店を再開して一年くらいした頃かな? お相手は毎日のように通っていた常連のサラリーマンだった。毎日話しているうちに心を許す関係になって、いつの間にか世界の話も全てしていたようだった」
それはきっと、それまで特別だったはずのマスターの存在が彼女の中で薄れていったことを意味するのだろう。それよりも、魅かれた相手が本当の意味で特別になったのだ。
「ある日、ひさしぶりに二人で話す機会があった。……というより、彼女がそういう時間に私を呼んだんだ。話したいことがあると言って。わたしはある程度予想はしていたけど、まだ浅はかな期待もしていたんだ」
「浅はかな……?」
思わず聞き返してしまうと、マスターは苦笑いしながら頷いた。
「そうだね。つまり、彼を好きではなくなって、わたしを好きだと言うのではないか、などという類のことだよ。心のどこかでそうだったらいいって思いながらも、そうじゃないことは分かっていたけれどね」
大きなため息をつくと、マスターは琉斗君と私を交互に見た。
「キミたちは今後、どうするんだい?」
「へっ?」
急に話を振られて、琉斗君が目を丸くしてとっさに変な声を出した。
「つまり、世界が違う者同士が付き合うのは大変だろう? 週に一度ここでだけデートっていうのも辛いよね」
私たちは顔を見合わせた。
マスターの言っていることは、まさに今の私たちの前に立ちはだかる問題のようなものだ。
「今はいいんだ。平日もここを拠点にして会えているから。ここで会って、どちらかの世界に移動する。そういう生活をしている」
琉斗君がボソッと呟くようにそう言った。
「これからも、ずっとそうやって会っていこうかって話を、さっきしていたところなんだよ、マスター」
「そうか。まあ、まだキミたちは若いから、これから何があるかは分からないからな」
「離れたりはしないよ。……離れたりはしない。この方法がうまくいかなかったら、また違う方法を考えるまでだよ」
琉斗君がムキになるように語気を強めた。その言葉は嬉しい反面、どこか彼を縛っているようにも感じた。
とりあえず、今は楽しもうよ、なんて呑気なことを言える状況じゃないのかもしれないし、私自身、琉斗君を掛け替えのない人だと思っている。
だけど、琉斗君の方がそう感じて私に固執してしまうことが、はたして良いことなのだろうか……? そんな風に考えると自信がなくなってしまう。
彼は同じ世界に理解し合える子が出来たら、それはそれで幸せなことじゃないだろうか…………?
「それで? マスター。話の続きしてよ。瞳さんは何の話で呼び出したんだよ。結局はハッピーエンドなんだろ? もったいぶるなよ」
イライラした調子で琉斗君がカウンター越しにマスターを睨んだ。
「そうだったね。なにをもってハッピーエンドなのかは分からないけど、そうだね…………」
マスターは遠い目をして、いつも私たちが座る端の席を指差した。
「彼女はわたしをあの席に呼んで、〝話があるの〟と頬を茜色に染めながら恥ずかしそうに言ったんだ。わたしは嫌な予感と背中合わせに浅はかな期待もあって、そのせめぎ合いで心の中は奇妙な緊張感でいっぱいだった」
私たちも当時のマスターの気持ちが乗り移ったように、その先を聞くのに妙な緊張感があふれていく。
「結局は、前者でね。瞳さんの好きな人を打ち明けられて……まあ、それは知っていたんだけどね。追い打ちのように、結婚する決意を聞かされた。つまりそれは、彼の世界で生きていくんだという決意だったんだ」
「えっ? 結婚⁉」
「戸籍もないのに?」
私と琉斗君は同じことが頭に浮かんでいた。
「そうだよ。瞳さんは記憶喪失を装って、身分の提供を相談するつもりだと言っていた。上手くいったのかどうかは確かめようがなくて分からないけど、上手くいったんだと信じているよ」
記憶喪失を装う……。
どちらにしても、その世界には彼女の身分というものは何もないのだから、そこでおかしなことにはならないのかもしれない。もしもそれが身分取得のための詐欺だったら何かしらバレる可能性はあるけれど、瞳さん自身は同じ日本人であり、そしてその世界に存在しない人だから、偽る身分もないわけで……。
「キミたちのことに口を挟む気はないよ。キミたちはキミたちで最善の方法を見つけるといい」
マスターそう言って優しくほほ笑んだ。
「老いぼれの昔話で引き留めてしまったね。もう帰りなさい」
幻想珈琲館を出てからも、私たちはただドアの外に立ち尽くしていて、暫くの間はお互いに何も言葉を発することができなかった。
「さっき、言えなかった二つ目の可能性だけど」
ふいに琉斗君が沈黙を破った。
「俺も考えていたんだ。お互いの世界を行き来するんじゃなくて、どっちかがどっちかの世界に永遠に行く、ってこと」
その言葉に、私はなにか言いたかったけれど、とても言葉が出なかった。
お互いに家庭には恵まれなかった。だから、家を出るという決意はできる。
だけど、自分の生きていた世界全てを捨てることは、今の私にはとても考えられないし、それは琉斗君も同じだろうと思えたからだ。
だって、相手だけが頼りで本当に全てを捨ててその世界に入ったところで、ふたりの関係がダメになってしまったら……?
そんなことを想像するだけで恐怖の渦に飲まれてしまう。
今は別れたくないから、そんなことを考えることも出来ない。
だけど、だからと言って確実な未来なんてどこにもない。
「可能性として、な」
私の心を察したのだろうか、琉斗君が私の頭をポンポンとすると白い歯を見せて笑ってみせた。なんだかすべてを見透かされたような気がして気まずくて、彼の視線を避けるようにうつむいた。
「実莉に自分の世界を捨てろとは言わないよ。行くなら俺が行くよ。おまえの世界に」
「えっ?」
顔を上げると、琉斗君の満面の笑顔があった。
「そのときは、全てを捨てておまえの世界に入る」
その言葉は私の胸の奥に温かいものが灯った。言葉にすると、安心とか安らぎとか、そんなものかもしれない。
琉斗君は大きく伸びをして「眠いなあ」と言いながらあくびをした。
「ま、当面は今まで通り、二つの世界を行き来しようぜ」
「……うん」
琉斗君は不思議な人だ。いつもいつも、うつむきがちな私の考え方を一蹴して、前が向けるよう顔を上げろと導いてくれるようだ。
彼の言葉で、不安がいっぱいだった未来が幸せ色に輝いたような気がした。