顧問がやってきたのか、グラウンドから聞こえていた野球部員たちの意味不明な声がひときわ大きくなる。
俺は生徒会室で、笹川さんと机を挟んで向かい合って座っていた。
「やっぱりさ、神谷くんもおかしいと思うでしょ?」
笹川さんが前のめりになったため、制服の胸元が少し緩んだ。そこに視線を向けたのに興奮がやってこなくて、内心で落ち込む。もし橋川だったら、鼻血垂らして喜んだだろうに。
「だから私と一緒にお願いしてくれない? 今どきありえないでしょ。女子はスカートしか穿けないなんて」
「たしかに、世間もそういう流れではあるけど」
机の上の要望書に視線を落とす。
笹川さんはパソコンが苦手なのか、手書きでそれを作っていた。
俺の前にあるのはコピーで、彼女の前にあるのが原本だ。
「でしょ?」
笹川さんの目が、油を差したみたいにとろりと光る。
「みんな好きでスカートを穿いてるわけじゃないのにさ。そういう押しつけって絶対よくない。理不尽すぎるよ」
机に突っ伏しながらぼやく笹川さんは、ボールペンを手に取って要望書の原本に落書きしはじめる。
「鳥だから飛ぶ、魚だから泳ぐみたいにさ、女だからスカートって固定観念はやっぱりおかしいよ」
しっぽがやたらと大きく、目は少女漫画の登場人物のように独特で、なんとも個性的な魚の絵だ。
「たしかに安易すぎるとは思うけど」
まあ、要望書は俺がパソコンで作り直すからいいとして。
綺麗にカールしている彼女のまつ毛を見ていると、とある疑問が浮かんできた。
「笹川さんはスラックス穿きたいの?」
「え? 私は別に穿かないけど」
いきなり変なこと言い出さないでよ、とでも言いたげに首を傾げる笹川さん。メイクのことはよくわからないが、彼女のまつ毛にはいったいどれだけの時間とお金がかかっているのだろう。
「あれ? だったらなんでそんな必死に」
「必死っていうか、女として当然じゃん」
笹川さんの、綺麗に整えられている爪がきらりと光る。
「みんなも絶対そう思ってるし、だから私がなんとかしないといけないんだよ。おかしいを正しいに変えていくのは当然だよ」
語気を強める笹川さんを見て、俺はなぜ彼女が苦手なのかを明確に理解した。
彼女が、自分勝手に『みんな』を主語にするからだ。『みんなのために』感を如実に出すからだ。
たしかに制服の自由化は推し進めるべきだと思う。だけど、現時点で生徒たちの総意をアンケート等で確認したわけでもないのに『みんなそう思ってる』と断定するのは、少し気持ちが悪い。
私が、みんなの代わりに正しいを代弁している。
正しい意見には、みんな賛同してくれるに決まっている。
そういう、自分が常に正しい側にいると信じて疑わない姿勢が苦手なのだ。
俺はいつだって正しい側にいられないから。
「まあ、今は多様性の時代だしな」
「そうなの! 多様性だよ!」
立ち上がった笹川さんのスカートは既定よりも短い。自分のやっていることはすべて正しいから、女子高生はみんなやっているから、彼女は自分が校則を破ってスカートを折ることに疑問を感じていない。
「だから本当にお願いね。私たちでもっと学校をよりよくしていこう! 神谷くんと一緒に改革していくのってすごい楽しいし!」
「わかった。今度学校に話し合いの場を作るよう掛け合ってみるよ」
「ありがと! さすが会長!」
それからちょっとだけ世間話をして、笹川さんは帰っていった。
ようやく終わった、と背伸びをしてから眉間をもみほぐす。スマホをポケットから取り出して長澤さんにメッセージを送る。
『もう用事済んだから、来ても大丈夫』
既読がついたのを確認してから要望書とそのコピーを机の引き出しにしまい、生徒会室のカーテンを閉めにいく。
今日の一限と二限の間に、長澤さんから生徒会室で密会できないかと持ちかけられたのだ。
『生徒会室って使えない? 昨日のつづき、いいこと考えたから』
『大丈夫だけど、用ならこれで伝えればいいだろ』
『いいから。とりあえず使えるんだよね。じゃあ放課後は?』
長澤さんに強引に押し切られてこうなったが、いったい長澤さんはなにを思いついたのか。
「ごめん。わざわざありがと」
すぐに長澤さんがやってきて、後ろ手で扉の鍵を閉める……あれ? 今日長澤さんって黒のストッキングなんか穿いてたっけ。意識して見てたわけじゃないけど、たしか生足だった気がする。
「笹川さんとなにしてたの?」
そう聞かれたので、机の上の要望書を手に取って長澤さんに渡そうと――。
「あ! 笹川さんが神谷くんの女王様ってことね。ごめん無粋なこと聞いて」
「違うわ。相談事があって話をしてただけだ」
「次の鞭の素材どうする? みたいな話?」
「俺は錬金術士かよ。ってかそのネタあんまり引っ張らないでくれ」
昨日は特殊性癖がバレてしまったせいで冷静さを欠いており、適切な思考ができていなかった。
「え? 笹川さんが女王様じゃないってことは……もしかして告白されてたとか?」
「それも違うって。女子にもスラックスをって意見を一緒に主張してくれって頼まれ……いや、巻き込まれたっていうか」
要約して伝えると、長澤さんは怪訝そうに目を細めた。俺から要望書を受け取り、じっくり目を通していく。
「笹川さんがやりたいと思ってるなら、笹川さんだけでやればいいじゃん」
「そんなの俺に言われても。でもま、たしかに優秀な俺から言った方が説得力はすごいだろうしさ」
なんで自慢げなの? 的な感じでツッコんでほしくて軽く胸を張った。
説得力は、言葉の内容ではなく誰が言ったか、がすべてである。
まあ、俺は言葉の説得力を求めて優秀な人間になったんじゃないけど。みんなから尊敬されるってのは、自分で言っちゃうが結構な快感だ。性的興奮のためにその快感を手放すのは割に合わない、その快感を得るために費やした膨大な時間を無駄にするなんてありえないって思えるように、俺は誰もが羨む優秀な人間になった。
「それはそうかもしれないけど」
長澤さんは俺の予想に反し、顎に手を当ててなにやら考えはじめた。
「それって神谷くんを利用してる……いや、そういうことか」
結論が出たのか、にやりとする長澤さん。
「そういうことって?」
「笹川さんって神谷くんが好きなんだよ。神谷くんと一緒にいたいから、わざわざ神谷くんを巻き込むんだよ」
「そう……なのか?」
長澤さんは確定事項のように言うが、いまいちピンとこない。
そういや、橋川もそんなこと言ってたな。
「俺はただの承認欲求お化けとしか思ってないけど。すごいって褒められて、みんなから一目置かれたい! って感じの」
「それもあるかもしれないけど、それだけだったら一人でやるよね。神谷くんを巻き込むってことは、神谷くんと一緒にいたいってこと。自分の行動力とか改革力とかも神谷くんにアピールできるし」
「それを俺にアピールしてなんの意味があるんだ?」
「神谷くんの好みのタイプに当てはまってるアピだよ。尊敬し合える人がタイプだって、神谷くんが言ったんじゃん。女子の中では割と有名だよ」
「俺が? ……あ、言ったことはあるか」
いつだったか、他クラスの女子から「神谷くんの好みのタイプってどんな人?」と質問された。友達に頼まれたんだろうなぁと思いつつ「尊敬し合えて、お互いに高め合える人かな」と答えておいた。優秀な俺が尊敬できる人って結構なハードルだから、こう言っておけば面倒事、つまり無駄に告白されないと考えて。
「でもあれ、そんなに広まってたんだな」
「そりゃあ広まるよ。神谷くんのタイプなんだから」
「真っ赤な嘘だけどな」
「本当の好みは女王様だもんね」
「だからもう掘り返さないでくれって」
「笹川さんは神谷くんの真実を知らないから、あなたの好みのタイプがここにいますよー、って健気にアピールしてるんだよ」
納得できるような、できないような。
笹川さんが俺のことを好き……ねぇ。
ま、別にどうでもいいか。
「そんなことよりなんの用? 笹川さんの話をしたかったんじゃないでしょ」
立ったまま会話しつづけるのもあれなので、俺はとりあえず椅子に座る。長澤さんにも対面に座るように目で促した。
「あれ? 今日は床に正座じゃないんだ」
「だからもう掘り返さないでくれって! 昨日は冷静じゃなかったんだよ!」
「ごめんごめん。ちょっと楽しくなっちゃって」
顔の前で手を合わせた長澤さんは、それから、やけに明るい声で。
「実はさ、今日ここでエッチしようと思ってるんだよね」
「……は?」
口を大きく開けすぎて、乾燥していた唇がピキとひび割れた。
「そういうことしようと思って、今日は呼び出したの」
窓際まで歩いた長澤さんは、閉まっているカーテンをさらにしっかりと閉めた。
「いいことって、それかよ」
どういう理屈でそこに至ったのか。正常な性癖を手に入れようっていう契約は結んだけど、いきなり飛躍しすぎてないか? 昨日できなかったんだぞ。
「考えたんだけどね、手をつなぐとかハグとかって性的とは言えないと思うの。好きな人とじゃなくてもするっていうか。ほら、なにかに感動したときとか」
長澤さんの言う通りではある。
手をつなぐもハグも、もちろん恋人同士ならドキドキするのかもしれないが、俺と長澤さんはそういう関係ではない。俺たちがやったところで、それは政治家同士がカメラマンの前で握手やハグをするのと同じだ。
そこに性的興奮の要素が入り込むはずがない。
「しかも私たちは普通じゃない。普通じゃない人が普通になろうとしてるのに、普通の関係でもやっちゃうような普通のことをやったって意味ないよ」
長澤さんの表情が曇っていく。
彼女が言わんとしていることはわかるのだが、やっぱり考えが飛躍しすぎていると思う。
「普通って連呼しすぎで、普通がゲシュタルト崩壊起こしそうだよ」
「私たちには強烈な刺激が必要なんだよ」
適当に話題を逸らそうとしたが無駄に終わった。
長澤さんは床の黒ずみをじっと見つめている。
「人間がなにかに目覚めるときって、強烈な刺激を受けたときだと思わない? 将来の夢が決まる瞬間とかも大体そうじゃん」
「ドMに目覚めるときとかもな」
「神谷くんが言うと冗談に聞こえないからね」
「普通に冗談だから」
「ここでエッチをするって、私は冗談で言ってるんじゃないからね。冗談で誤魔化さないで」
ああ、きっと俺がどれだけ冗談で抵抗しても長澤さんは揺るがないのだろう。
だったら、もう彼女に合わせるしかない。
「私たちが普通を手に入れるためにはさ、私たちに眠っているはずの普通の性欲が爆発するくらいの、超刺激的なことが必要なんだよ。普通の高校生がまずやらない、たとえば妄想はするけど実際には相手に遠慮して行えないような、性癖を暴走させたようなシチュエーションをやるとかしないとダメなんだよ」
長澤さんは控えめに唇を噛んでいる。
女子にここまで言わせたら、普通は好意があろうとなかろうと興奮で熱くなったり硬くなったりするはずだ。
自分のどんな妄想も押しつけられるってことだから。
「性癖を暴走、ねぇ」
呟きつつ考えてみる。
俺は長澤さんを、女をどうしたい?
普通の高校生がまずやらない、たとえば妄想はするけど実際には相手に遠慮して行えないような――。
瞬間、胸の奥に激しい痛みが走った。頭に浮かび上がったシチュエーションを消し炭にできるなら、ドMに覚醒したって構わない。
――昔から裂くことに興奮してきた、失うものもないし、人を裂いてみたくなった。
俺自身、してみたいと思っていないはず。
その境地にたどり着きたくもないはず。
けれど同じ性癖を持つ人がたどり着いた場所だから、俺の最終到達地点もそこなのではないかと思ってしまう。絶対に違うと言い切れないことが悔しい。
棘のついた鞭で叩かれたいって思う方が何倍もマシだよ!
「極端なことをしないとさ、私たちの正常な感覚は呼び起されないんだよ……っていう希望があって」
尻すぼみに小さくなっていく長澤さんの声に反比例するように、俺の中で醜い感情が肥大していく。
ああ、早くこんな異常性癖は捨てて普通にならなければ。
後戻りができなくなる前に。
俺の人生が、誰かの人生を壊してしまう前に。
「わかった。やろうそれ……あ、でもごめん。どういうので普通の人が性癖を暴走させるのか、ピンとこないんだけど」
俺は、裂くという行為に対してしか性的興奮を覚えない。
普通の人がどんな場所で、どんなシチュエーションで、どんな体勢のどんな格好をした女性にどんなことを言わせ、どんなことをやらせ、どんなことを要求するのが性癖を暴走させたシチュエーションなのかわからないのだ。
「そこは大丈夫」
顔をほんのり赤く染めている長澤さんが親指を立てる。
「大丈夫っ……て、俺がわかんないんだから長澤さんだって知らないだろ」
彼女だって異常者だ。
「そうだけど、でも私、勉強したから」
「勉強って、まさかみんなに聞いて回ったとか?」
「違うよ。ってか逆になんて聞くの? みんなが一番興奮するシチュエーションを教えてなんて、どんな罰ゲームよ」
「じゃあ」
「エロ本」
目に見えるすべてが止まったように感じた。
いきなり飛び出した衝撃的な単語に頭がフリーズする。
「エッチな内容が書かれた本。神谷くんだって知ってるでしょ」
エロ本の説明をしてほしかったわけじゃない。
「見たこともあるでしょ。さすがに」
「ずいぶん前に友達の家で、そういう流れのときに」
その家に住む男子が、そいつの兄ちゃんの部屋からかっぱらってきたのだ。みんなが食い入るように見ていたので俺ものぞき込んでみたが、みんながなにに魅了されているのかわからなかった。
おっぱいもお尻も、突き詰めて考えればただの紙とインクなのに。
「だからさ、私たちもそれの真似をしたらいいんだよ。エロ本って非現実を詰め込んだ妄想の宝箱でしょ」
「そうかもしれないけど、でも俺、内容なんてほとんど覚えてないし」
興味のない、しかも一度見ただけのものを覚えるなんて無理な話だ。
「だから大丈夫って言ったじゃん。私がエロ本を見て、ネットでも調べて勉強したから」
「あ……、そういう」
エッチをするためにエロ本やネットで予習してきた女子がいる。
普通の男子なら絶対に興奮の対象だろうから、俺はやっぱり普通ではない。
だって今俺が抱いているのは、興味のないものを勉強するという苦行をやるくらい長澤さんは追い詰められているのか、という憐みの感情だけだからだ。
「うん、だから生徒会室で、しかもまだ生徒や先生が残ってる中でやるんだよ」
長澤さんはゆっくりと俺に近づいてきて。
「それともうひとつ、仕込んであるの」
スカートをゆっくりとたくし上げる。
いきなりの展開についていけず、長澤さんの動きを見つめることしかできない。
「こういうのがいいって、書いてあったから」
長澤さんの声は震えていた。さっきまでスカートが隠していた場所が俺の視界の中にある。黒のストッキング越しに見える肌色の太ももと、水色のショーツ。白のフリル部分が黒のストッキングに押しつぶされてくしゃっとしている。
「透けてる感じに、興奮するんだって」
「……へぇ」
気の抜けた返事しかできない。そういえば、生足よりストッキングの方がそそられるとクラスの誰かが話題にしていた。
「神谷くん。どう? 興奮する?」
呼ばれたので顔を上げると、長澤さんは恥ずかしそうに目を泳がせていた。
俺だって異性に下着姿を見られるのは恥ずかしい。
正常な人間どもは、この恥ずかしさを性的興奮につなげることができる。
「いや、どうって言われても」
もう一度、長澤さんの身体を見る。
黒のストッキング越しの柔らかそうな肌。
黒みがかった水色の下着。
震えている手。
「……俺は」
膝をついて、長澤さんの腰の高さに顔を配置してみる。
彼女の女性的な部分を凝視しても一向に熱くならない身体がひどく恨めしい。
「ごめん。なんとも思わなかった」
「じゃあ、ちょっと触ってみる?」
「それすらも、なんかいいやって思ってる」
女の身体に触れたいと思えないことに対する苛立ち、下着を間近で見ているのに興奮できない自分に対する嫌悪が体内で暴れている。
「そっか」
長澤さんがスカートから手を放す。
「そうだよね。そういうもんなんだよね、私たちって」
スカートの揺れが収まる前に、長澤さんはその場にへたり込んだ。
両ひざを立てて座っているため、またスカートの中が見えている。
一縷の望みをかけて再度下着を凝視してみたが、やっぱりなにも感じなかった。
「男子はこういうので喜ぶらしいからさ、やっぱり神谷くんは普通じゃないね」
「長澤さんに言われたくないよ」
「こんなことなら棘のついた鞭でも持ってくればよかったよ」
「……もしかして、今後もずっといじるおつもりですか?」
「批判を真摯に受け止めて、誠心誠意検討させていただきます」
「約束守らない政治家の常套句だからねそれ」
「ごめんってば。あとでチーズ買ってあげるから、神谷くんはキンメダイ釣ってきてね」
「俺だけ難易度高すぎない?」
互いの言葉が空虚すぎて少し笑えてきた。
「なんかさ、普通の男子は、ここからストッキングを破って好きなように触るんだって。普通の女子もそれに応えて、男子を触ったり恥ずかしがったり喘いだりして盛り上がるんだって。ほんと意味わかんな」
長澤さんは吐き捨てるように呟く。
「本当にさ、普通っていったいなんなの」
髪を手でかき上げる長澤さんは苛立ちを隠そうともしていない。しんどそうに息を吐き出してから、舌打ちを繰り返している。
「まあ、そんなに焦る必要はないんじゃない」
励ましにもならない言葉を発しながら、長澤さんに背を向ける。
だって俺は今、長澤さんのご機嫌を取っている場合じゃないから。
長澤さんのとある発言を聞いて、ちょっとだけ想像してしまったから。
――ストッキングをめちゃくちゃに裂いたら、俺の心はどうなるのだろう。
こんなことを考えてしまう神谷宗孝は、どうしようもない異常者として今すぐマッドサイエンティストに解剖されるべきだ。
俺は生徒会室で、笹川さんと机を挟んで向かい合って座っていた。
「やっぱりさ、神谷くんもおかしいと思うでしょ?」
笹川さんが前のめりになったため、制服の胸元が少し緩んだ。そこに視線を向けたのに興奮がやってこなくて、内心で落ち込む。もし橋川だったら、鼻血垂らして喜んだだろうに。
「だから私と一緒にお願いしてくれない? 今どきありえないでしょ。女子はスカートしか穿けないなんて」
「たしかに、世間もそういう流れではあるけど」
机の上の要望書に視線を落とす。
笹川さんはパソコンが苦手なのか、手書きでそれを作っていた。
俺の前にあるのはコピーで、彼女の前にあるのが原本だ。
「でしょ?」
笹川さんの目が、油を差したみたいにとろりと光る。
「みんな好きでスカートを穿いてるわけじゃないのにさ。そういう押しつけって絶対よくない。理不尽すぎるよ」
机に突っ伏しながらぼやく笹川さんは、ボールペンを手に取って要望書の原本に落書きしはじめる。
「鳥だから飛ぶ、魚だから泳ぐみたいにさ、女だからスカートって固定観念はやっぱりおかしいよ」
しっぽがやたらと大きく、目は少女漫画の登場人物のように独特で、なんとも個性的な魚の絵だ。
「たしかに安易すぎるとは思うけど」
まあ、要望書は俺がパソコンで作り直すからいいとして。
綺麗にカールしている彼女のまつ毛を見ていると、とある疑問が浮かんできた。
「笹川さんはスラックス穿きたいの?」
「え? 私は別に穿かないけど」
いきなり変なこと言い出さないでよ、とでも言いたげに首を傾げる笹川さん。メイクのことはよくわからないが、彼女のまつ毛にはいったいどれだけの時間とお金がかかっているのだろう。
「あれ? だったらなんでそんな必死に」
「必死っていうか、女として当然じゃん」
笹川さんの、綺麗に整えられている爪がきらりと光る。
「みんなも絶対そう思ってるし、だから私がなんとかしないといけないんだよ。おかしいを正しいに変えていくのは当然だよ」
語気を強める笹川さんを見て、俺はなぜ彼女が苦手なのかを明確に理解した。
彼女が、自分勝手に『みんな』を主語にするからだ。『みんなのために』感を如実に出すからだ。
たしかに制服の自由化は推し進めるべきだと思う。だけど、現時点で生徒たちの総意をアンケート等で確認したわけでもないのに『みんなそう思ってる』と断定するのは、少し気持ちが悪い。
私が、みんなの代わりに正しいを代弁している。
正しい意見には、みんな賛同してくれるに決まっている。
そういう、自分が常に正しい側にいると信じて疑わない姿勢が苦手なのだ。
俺はいつだって正しい側にいられないから。
「まあ、今は多様性の時代だしな」
「そうなの! 多様性だよ!」
立ち上がった笹川さんのスカートは既定よりも短い。自分のやっていることはすべて正しいから、女子高生はみんなやっているから、彼女は自分が校則を破ってスカートを折ることに疑問を感じていない。
「だから本当にお願いね。私たちでもっと学校をよりよくしていこう! 神谷くんと一緒に改革していくのってすごい楽しいし!」
「わかった。今度学校に話し合いの場を作るよう掛け合ってみるよ」
「ありがと! さすが会長!」
それからちょっとだけ世間話をして、笹川さんは帰っていった。
ようやく終わった、と背伸びをしてから眉間をもみほぐす。スマホをポケットから取り出して長澤さんにメッセージを送る。
『もう用事済んだから、来ても大丈夫』
既読がついたのを確認してから要望書とそのコピーを机の引き出しにしまい、生徒会室のカーテンを閉めにいく。
今日の一限と二限の間に、長澤さんから生徒会室で密会できないかと持ちかけられたのだ。
『生徒会室って使えない? 昨日のつづき、いいこと考えたから』
『大丈夫だけど、用ならこれで伝えればいいだろ』
『いいから。とりあえず使えるんだよね。じゃあ放課後は?』
長澤さんに強引に押し切られてこうなったが、いったい長澤さんはなにを思いついたのか。
「ごめん。わざわざありがと」
すぐに長澤さんがやってきて、後ろ手で扉の鍵を閉める……あれ? 今日長澤さんって黒のストッキングなんか穿いてたっけ。意識して見てたわけじゃないけど、たしか生足だった気がする。
「笹川さんとなにしてたの?」
そう聞かれたので、机の上の要望書を手に取って長澤さんに渡そうと――。
「あ! 笹川さんが神谷くんの女王様ってことね。ごめん無粋なこと聞いて」
「違うわ。相談事があって話をしてただけだ」
「次の鞭の素材どうする? みたいな話?」
「俺は錬金術士かよ。ってかそのネタあんまり引っ張らないでくれ」
昨日は特殊性癖がバレてしまったせいで冷静さを欠いており、適切な思考ができていなかった。
「え? 笹川さんが女王様じゃないってことは……もしかして告白されてたとか?」
「それも違うって。女子にもスラックスをって意見を一緒に主張してくれって頼まれ……いや、巻き込まれたっていうか」
要約して伝えると、長澤さんは怪訝そうに目を細めた。俺から要望書を受け取り、じっくり目を通していく。
「笹川さんがやりたいと思ってるなら、笹川さんだけでやればいいじゃん」
「そんなの俺に言われても。でもま、たしかに優秀な俺から言った方が説得力はすごいだろうしさ」
なんで自慢げなの? 的な感じでツッコんでほしくて軽く胸を張った。
説得力は、言葉の内容ではなく誰が言ったか、がすべてである。
まあ、俺は言葉の説得力を求めて優秀な人間になったんじゃないけど。みんなから尊敬されるってのは、自分で言っちゃうが結構な快感だ。性的興奮のためにその快感を手放すのは割に合わない、その快感を得るために費やした膨大な時間を無駄にするなんてありえないって思えるように、俺は誰もが羨む優秀な人間になった。
「それはそうかもしれないけど」
長澤さんは俺の予想に反し、顎に手を当ててなにやら考えはじめた。
「それって神谷くんを利用してる……いや、そういうことか」
結論が出たのか、にやりとする長澤さん。
「そういうことって?」
「笹川さんって神谷くんが好きなんだよ。神谷くんと一緒にいたいから、わざわざ神谷くんを巻き込むんだよ」
「そう……なのか?」
長澤さんは確定事項のように言うが、いまいちピンとこない。
そういや、橋川もそんなこと言ってたな。
「俺はただの承認欲求お化けとしか思ってないけど。すごいって褒められて、みんなから一目置かれたい! って感じの」
「それもあるかもしれないけど、それだけだったら一人でやるよね。神谷くんを巻き込むってことは、神谷くんと一緒にいたいってこと。自分の行動力とか改革力とかも神谷くんにアピールできるし」
「それを俺にアピールしてなんの意味があるんだ?」
「神谷くんの好みのタイプに当てはまってるアピだよ。尊敬し合える人がタイプだって、神谷くんが言ったんじゃん。女子の中では割と有名だよ」
「俺が? ……あ、言ったことはあるか」
いつだったか、他クラスの女子から「神谷くんの好みのタイプってどんな人?」と質問された。友達に頼まれたんだろうなぁと思いつつ「尊敬し合えて、お互いに高め合える人かな」と答えておいた。優秀な俺が尊敬できる人って結構なハードルだから、こう言っておけば面倒事、つまり無駄に告白されないと考えて。
「でもあれ、そんなに広まってたんだな」
「そりゃあ広まるよ。神谷くんのタイプなんだから」
「真っ赤な嘘だけどな」
「本当の好みは女王様だもんね」
「だからもう掘り返さないでくれって」
「笹川さんは神谷くんの真実を知らないから、あなたの好みのタイプがここにいますよー、って健気にアピールしてるんだよ」
納得できるような、できないような。
笹川さんが俺のことを好き……ねぇ。
ま、別にどうでもいいか。
「そんなことよりなんの用? 笹川さんの話をしたかったんじゃないでしょ」
立ったまま会話しつづけるのもあれなので、俺はとりあえず椅子に座る。長澤さんにも対面に座るように目で促した。
「あれ? 今日は床に正座じゃないんだ」
「だからもう掘り返さないでくれって! 昨日は冷静じゃなかったんだよ!」
「ごめんごめん。ちょっと楽しくなっちゃって」
顔の前で手を合わせた長澤さんは、それから、やけに明るい声で。
「実はさ、今日ここでエッチしようと思ってるんだよね」
「……は?」
口を大きく開けすぎて、乾燥していた唇がピキとひび割れた。
「そういうことしようと思って、今日は呼び出したの」
窓際まで歩いた長澤さんは、閉まっているカーテンをさらにしっかりと閉めた。
「いいことって、それかよ」
どういう理屈でそこに至ったのか。正常な性癖を手に入れようっていう契約は結んだけど、いきなり飛躍しすぎてないか? 昨日できなかったんだぞ。
「考えたんだけどね、手をつなぐとかハグとかって性的とは言えないと思うの。好きな人とじゃなくてもするっていうか。ほら、なにかに感動したときとか」
長澤さんの言う通りではある。
手をつなぐもハグも、もちろん恋人同士ならドキドキするのかもしれないが、俺と長澤さんはそういう関係ではない。俺たちがやったところで、それは政治家同士がカメラマンの前で握手やハグをするのと同じだ。
そこに性的興奮の要素が入り込むはずがない。
「しかも私たちは普通じゃない。普通じゃない人が普通になろうとしてるのに、普通の関係でもやっちゃうような普通のことをやったって意味ないよ」
長澤さんの表情が曇っていく。
彼女が言わんとしていることはわかるのだが、やっぱり考えが飛躍しすぎていると思う。
「普通って連呼しすぎで、普通がゲシュタルト崩壊起こしそうだよ」
「私たちには強烈な刺激が必要なんだよ」
適当に話題を逸らそうとしたが無駄に終わった。
長澤さんは床の黒ずみをじっと見つめている。
「人間がなにかに目覚めるときって、強烈な刺激を受けたときだと思わない? 将来の夢が決まる瞬間とかも大体そうじゃん」
「ドMに目覚めるときとかもな」
「神谷くんが言うと冗談に聞こえないからね」
「普通に冗談だから」
「ここでエッチをするって、私は冗談で言ってるんじゃないからね。冗談で誤魔化さないで」
ああ、きっと俺がどれだけ冗談で抵抗しても長澤さんは揺るがないのだろう。
だったら、もう彼女に合わせるしかない。
「私たちが普通を手に入れるためにはさ、私たちに眠っているはずの普通の性欲が爆発するくらいの、超刺激的なことが必要なんだよ。普通の高校生がまずやらない、たとえば妄想はするけど実際には相手に遠慮して行えないような、性癖を暴走させたようなシチュエーションをやるとかしないとダメなんだよ」
長澤さんは控えめに唇を噛んでいる。
女子にここまで言わせたら、普通は好意があろうとなかろうと興奮で熱くなったり硬くなったりするはずだ。
自分のどんな妄想も押しつけられるってことだから。
「性癖を暴走、ねぇ」
呟きつつ考えてみる。
俺は長澤さんを、女をどうしたい?
普通の高校生がまずやらない、たとえば妄想はするけど実際には相手に遠慮して行えないような――。
瞬間、胸の奥に激しい痛みが走った。頭に浮かび上がったシチュエーションを消し炭にできるなら、ドMに覚醒したって構わない。
――昔から裂くことに興奮してきた、失うものもないし、人を裂いてみたくなった。
俺自身、してみたいと思っていないはず。
その境地にたどり着きたくもないはず。
けれど同じ性癖を持つ人がたどり着いた場所だから、俺の最終到達地点もそこなのではないかと思ってしまう。絶対に違うと言い切れないことが悔しい。
棘のついた鞭で叩かれたいって思う方が何倍もマシだよ!
「極端なことをしないとさ、私たちの正常な感覚は呼び起されないんだよ……っていう希望があって」
尻すぼみに小さくなっていく長澤さんの声に反比例するように、俺の中で醜い感情が肥大していく。
ああ、早くこんな異常性癖は捨てて普通にならなければ。
後戻りができなくなる前に。
俺の人生が、誰かの人生を壊してしまう前に。
「わかった。やろうそれ……あ、でもごめん。どういうので普通の人が性癖を暴走させるのか、ピンとこないんだけど」
俺は、裂くという行為に対してしか性的興奮を覚えない。
普通の人がどんな場所で、どんなシチュエーションで、どんな体勢のどんな格好をした女性にどんなことを言わせ、どんなことをやらせ、どんなことを要求するのが性癖を暴走させたシチュエーションなのかわからないのだ。
「そこは大丈夫」
顔をほんのり赤く染めている長澤さんが親指を立てる。
「大丈夫っ……て、俺がわかんないんだから長澤さんだって知らないだろ」
彼女だって異常者だ。
「そうだけど、でも私、勉強したから」
「勉強って、まさかみんなに聞いて回ったとか?」
「違うよ。ってか逆になんて聞くの? みんなが一番興奮するシチュエーションを教えてなんて、どんな罰ゲームよ」
「じゃあ」
「エロ本」
目に見えるすべてが止まったように感じた。
いきなり飛び出した衝撃的な単語に頭がフリーズする。
「エッチな内容が書かれた本。神谷くんだって知ってるでしょ」
エロ本の説明をしてほしかったわけじゃない。
「見たこともあるでしょ。さすがに」
「ずいぶん前に友達の家で、そういう流れのときに」
その家に住む男子が、そいつの兄ちゃんの部屋からかっぱらってきたのだ。みんなが食い入るように見ていたので俺ものぞき込んでみたが、みんながなにに魅了されているのかわからなかった。
おっぱいもお尻も、突き詰めて考えればただの紙とインクなのに。
「だからさ、私たちもそれの真似をしたらいいんだよ。エロ本って非現実を詰め込んだ妄想の宝箱でしょ」
「そうかもしれないけど、でも俺、内容なんてほとんど覚えてないし」
興味のない、しかも一度見ただけのものを覚えるなんて無理な話だ。
「だから大丈夫って言ったじゃん。私がエロ本を見て、ネットでも調べて勉強したから」
「あ……、そういう」
エッチをするためにエロ本やネットで予習してきた女子がいる。
普通の男子なら絶対に興奮の対象だろうから、俺はやっぱり普通ではない。
だって今俺が抱いているのは、興味のないものを勉強するという苦行をやるくらい長澤さんは追い詰められているのか、という憐みの感情だけだからだ。
「うん、だから生徒会室で、しかもまだ生徒や先生が残ってる中でやるんだよ」
長澤さんはゆっくりと俺に近づいてきて。
「それともうひとつ、仕込んであるの」
スカートをゆっくりとたくし上げる。
いきなりの展開についていけず、長澤さんの動きを見つめることしかできない。
「こういうのがいいって、書いてあったから」
長澤さんの声は震えていた。さっきまでスカートが隠していた場所が俺の視界の中にある。黒のストッキング越しに見える肌色の太ももと、水色のショーツ。白のフリル部分が黒のストッキングに押しつぶされてくしゃっとしている。
「透けてる感じに、興奮するんだって」
「……へぇ」
気の抜けた返事しかできない。そういえば、生足よりストッキングの方がそそられるとクラスの誰かが話題にしていた。
「神谷くん。どう? 興奮する?」
呼ばれたので顔を上げると、長澤さんは恥ずかしそうに目を泳がせていた。
俺だって異性に下着姿を見られるのは恥ずかしい。
正常な人間どもは、この恥ずかしさを性的興奮につなげることができる。
「いや、どうって言われても」
もう一度、長澤さんの身体を見る。
黒のストッキング越しの柔らかそうな肌。
黒みがかった水色の下着。
震えている手。
「……俺は」
膝をついて、長澤さんの腰の高さに顔を配置してみる。
彼女の女性的な部分を凝視しても一向に熱くならない身体がひどく恨めしい。
「ごめん。なんとも思わなかった」
「じゃあ、ちょっと触ってみる?」
「それすらも、なんかいいやって思ってる」
女の身体に触れたいと思えないことに対する苛立ち、下着を間近で見ているのに興奮できない自分に対する嫌悪が体内で暴れている。
「そっか」
長澤さんがスカートから手を放す。
「そうだよね。そういうもんなんだよね、私たちって」
スカートの揺れが収まる前に、長澤さんはその場にへたり込んだ。
両ひざを立てて座っているため、またスカートの中が見えている。
一縷の望みをかけて再度下着を凝視してみたが、やっぱりなにも感じなかった。
「男子はこういうので喜ぶらしいからさ、やっぱり神谷くんは普通じゃないね」
「長澤さんに言われたくないよ」
「こんなことなら棘のついた鞭でも持ってくればよかったよ」
「……もしかして、今後もずっといじるおつもりですか?」
「批判を真摯に受け止めて、誠心誠意検討させていただきます」
「約束守らない政治家の常套句だからねそれ」
「ごめんってば。あとでチーズ買ってあげるから、神谷くんはキンメダイ釣ってきてね」
「俺だけ難易度高すぎない?」
互いの言葉が空虚すぎて少し笑えてきた。
「なんかさ、普通の男子は、ここからストッキングを破って好きなように触るんだって。普通の女子もそれに応えて、男子を触ったり恥ずかしがったり喘いだりして盛り上がるんだって。ほんと意味わかんな」
長澤さんは吐き捨てるように呟く。
「本当にさ、普通っていったいなんなの」
髪を手でかき上げる長澤さんは苛立ちを隠そうともしていない。しんどそうに息を吐き出してから、舌打ちを繰り返している。
「まあ、そんなに焦る必要はないんじゃない」
励ましにもならない言葉を発しながら、長澤さんに背を向ける。
だって俺は今、長澤さんのご機嫌を取っている場合じゃないから。
長澤さんのとある発言を聞いて、ちょっとだけ想像してしまったから。
――ストッキングをめちゃくちゃに裂いたら、俺の心はどうなるのだろう。
こんなことを考えてしまう神谷宗孝は、どうしようもない異常者として今すぐマッドサイエンティストに解剖されるべきだ。