神谷くんを見送りに玄関までついていくと、なぜかお母さんまでやってきた。
玄関の扉が閉まると、後ろから肩に手を乗せてきて。
「もう、彼氏がいるなら言ってくれればいいのに。男が好きな料理とか教えてあげるから」
「だから違うって。神谷くんは友達」
気だるげに否定しつつ手を払うが、お母さんはにやにや笑ったまま。
「はいはい。友達ね。わかったわかった」
絶対わかってないだろ。
「でも本当によかったわ。姫子も普通の高校生だったってことだもんね」
「別に彼氏がいなくたって私は普通ですが?」
自分を普通だと偽るとき、胸の奥底が激しく疼く。
それがお母さん相手だとなおさらだ。
「そんな怖い声出さないでよ。姫子が普通なことくらい知ってるわ。あの人とは大違いね」
お母さんはルンルンと鼻歌を歌いながらリビングへと消えていく。
私はその場にとどまったまま奥歯を噛みしめた。
「……自分の元夫じゃん」
お母さんは自分があの人のことを口にするとき、声が鋭くなることに気づいているだろうか。
お母さんがあの人に裏切られたことも、嫌悪の対象でしかないことも、私のせいでこうなったことも、私はよく理解しているつもりだ。
「ごめんなさい。お父さん、お母さん」
だから、私は絶対に普通にならなければいけない。
セックスが怖いなんて、怖いからできないなんて言っていられない。
「相手は私と同じ、神谷くんなんだから」
女に対する性欲に支配されることがないから、嫌って言えば、今日みたいにやめてくれる。
「……違う。嫌とか、気持ち悪いとか、言ってる場合じゃないんだ」
自分に言い聞かせる。普通の女は、男の性欲を普通に受け入れてるんだから、それで興奮できるんだから、私だって、私だって……。
お母さんをこれ以上、悲しませたくはない。
***
小料理屋を営む我が家からはたくさんの笑い声が漏れ出ている。一階が店舗で、居住スペースである二階へいくには店の奥にある階段を使わないといけないが、お客はみんな顔見知りなので気を遣う必要はない。
「いらっしゃー……なんだ、宗くんじゃない。おかえりんごー」
この店をひとりで仕切っている母さんは、カウンターの中でハイボールを作っておらず、常連客達と席を囲んでハイボールを飲んでいた。カウンター席が六つと四人掛けのテーブル席が二つというこぢんまりとした店内には、いつもの陽気さが充満している。
「おお、天才くんのお帰りだな」
なぜかカウンター内の調理場で食器を洗っている白髪陽気おじさん――常連客のしげっちが声をかけてくると、他の常連客達もそれにつづく。
「いやぁ、ママとはえらい違いだよな」
「このママからこんな優秀な子が産まれるんだから、不思議なもんだよなぁ」
「もう失礼しちゃう。みんなそれはママをバカに――本当だったわ!」
ママのツッコみで常連客達がどわっと笑う。
小料理屋と言ったが、さしずめここはスナックだ。
まだ午後七時すぎなのにみんな真っ赤。
「俺なんか全然ですよ」
「もう、照れちゃって、そういうとこほんと私に似て可愛いんだからっ」
母さんは星が弾けそうなウインクをしてから、横を通りすぎようとした俺を捕まえ、むぎゅっと抱きしめてきた。
「宗くーん。大好きぃ!」
まただよ、と母さんの胸の中で呆れる。酔っているせいで体温が高くなってるから暑苦しいし、抱きしめる力も強すぎて、胸に顔が埋まって呼吸ができない。
「もういいから放せって!」
「んあっ! もう、宗くんのいけずぅ」
いじける母さんを無視して奥の階段へ向かい、二階にある俺の部屋へ。常連客達の浮かれた声はここまで届くのだが、もう慣れっこなので気にならない。
「いいかげん子離れしてほしいよ」
ベッドにあおむけに寝転がりながらぼやく。
俺は、俺を育てるために働いてくれる母さんのことを尊敬している――わけがない。
だって俺には普通に父親がいる。サラリーマンとか公務員とかじゃなくて、家にほとんど帰らないまま各地を転々としつつフリーのライターをしている、普通じゃない父親だ。生活費はそんな父親がすべて稼いでくれるので、母さんがわざわざ店をやっている理由は単純にこの店が好きだから。また、母さんは競馬が大好きで、土日になると昼間からお酒と競馬新聞を相棒に飲んで叫んで一喜一憂している。
「自由すぎんだよなぁ、うちの親は」
束縛せずに互いを尊重しているとも言えるが、結婚ってそういうものじゃないと思う。父さんは男の常連客達からちやほやされている母さんに文句を言わないし、母さんも家にほとんど帰ってこない父さんに文句を言わない。けれど、子供の俺から見ても二人は心の深い部分で、愛情以上のなにかでつながっているように感じられるから、余計にムカつく。
「俺には選べない生き方しやがって」
大抵の人間が歩む人生の正規ルートから逸脱している両親が本当に羨ましい。
そうなりたいわけではなく、その人生を選べる資格を持っていることが。
「なんでこんな風に産みやがったんだよ」
俺みたいなやつは自由を選んじゃいけない。両親は普通の性癖の持ち主で、形はどうあれ結婚もしているから、こういう自由奔放な人生が許されている。
人間としてちゃんとしていますよという保証書である婚姻届けを役所に提出し、その生活を形はどうあれ破綻させることなく継続させ、俺という子供を産んでちゃんと育てることで生き物としての最低限の義務を果たしているから、「まあ、結婚して子供も育ててるし」と大抵のことは世間が大目に見てくれるのだ。
「ふざけやがって」
対して俺は、裂くという行為に性的興奮を覚える根っからの異常者だ。
性的対象が異性ではないから、結婚という正常者の証明書が貰えない。
そんな異常者が両親みたいに普通のレールから外れる生き方を選んだら、身体の内側も外側も異常で覆われてしまう。だからこそ俺は、性癖爆発を防ぐ頑丈な鎧を身にまとうべく常に品行方正を心掛け、誰もが羨む優秀さを必死で集めてきた。
「ママ孝行な息子を祝してかんぱーい」
母親の愉快な声が床下から響いてくる。
ママ孝行って、こんな異常な性癖を持つ子供が孝行息子なわけがない。母さんだって俺の異常を知ったら、俺への態度を改めるに決まっている。俺が正常だと思っているから、ストレートに愛することができるのだ。
「……ふざけやがってよ」
ってか、俺が生徒会長をしているのも高年収を求めるのも、断じて母親のためではない。
――殺人容疑で逮捕されたのは、『住所不定無職』の金濱隆俊容疑者です。
誰もが羨むエリートコースを歩まないと、いつか開き直ってしまうかもしれない。
失うものがない人間、引きこもりは最強で最凶、悪い意味での無敵の人間だと言われている。
俺は、失うものがない無敵の人間になってはいけない。
身体の外側に貼りつける肩書きはきちんとしておかないと、内側からあふれ出る異常さにのみ込まれる。
こんなしょうもない人生ならもう異常者でいいや! 自由に生きてやる! って開き直ることを躊躇わせるような、開き直ることが明らかに損だと瞬時に理解できるような肩書きを持ちつづけなければ、金濱と同じように異常を爆発させてしまう。
――昔から裂くことに興奮してきた、失うものもないし、人を裂いてみたくなった。
特殊性癖がバレて気持ち悪がられることよりも、もう異常者でいいやと開き直って、性癖が暴走してしまうことの方が何倍も怖い。
「俺は、ちゃんと生きなきゃ」
ベッドから起き上がり、勉強するために机に向かう。
落ちぶれることが許されない俺は、今日も頭に知識を詰め込んでいく。
玄関の扉が閉まると、後ろから肩に手を乗せてきて。
「もう、彼氏がいるなら言ってくれればいいのに。男が好きな料理とか教えてあげるから」
「だから違うって。神谷くんは友達」
気だるげに否定しつつ手を払うが、お母さんはにやにや笑ったまま。
「はいはい。友達ね。わかったわかった」
絶対わかってないだろ。
「でも本当によかったわ。姫子も普通の高校生だったってことだもんね」
「別に彼氏がいなくたって私は普通ですが?」
自分を普通だと偽るとき、胸の奥底が激しく疼く。
それがお母さん相手だとなおさらだ。
「そんな怖い声出さないでよ。姫子が普通なことくらい知ってるわ。あの人とは大違いね」
お母さんはルンルンと鼻歌を歌いながらリビングへと消えていく。
私はその場にとどまったまま奥歯を噛みしめた。
「……自分の元夫じゃん」
お母さんは自分があの人のことを口にするとき、声が鋭くなることに気づいているだろうか。
お母さんがあの人に裏切られたことも、嫌悪の対象でしかないことも、私のせいでこうなったことも、私はよく理解しているつもりだ。
「ごめんなさい。お父さん、お母さん」
だから、私は絶対に普通にならなければいけない。
セックスが怖いなんて、怖いからできないなんて言っていられない。
「相手は私と同じ、神谷くんなんだから」
女に対する性欲に支配されることがないから、嫌って言えば、今日みたいにやめてくれる。
「……違う。嫌とか、気持ち悪いとか、言ってる場合じゃないんだ」
自分に言い聞かせる。普通の女は、男の性欲を普通に受け入れてるんだから、それで興奮できるんだから、私だって、私だって……。
お母さんをこれ以上、悲しませたくはない。
***
小料理屋を営む我が家からはたくさんの笑い声が漏れ出ている。一階が店舗で、居住スペースである二階へいくには店の奥にある階段を使わないといけないが、お客はみんな顔見知りなので気を遣う必要はない。
「いらっしゃー……なんだ、宗くんじゃない。おかえりんごー」
この店をひとりで仕切っている母さんは、カウンターの中でハイボールを作っておらず、常連客達と席を囲んでハイボールを飲んでいた。カウンター席が六つと四人掛けのテーブル席が二つというこぢんまりとした店内には、いつもの陽気さが充満している。
「おお、天才くんのお帰りだな」
なぜかカウンター内の調理場で食器を洗っている白髪陽気おじさん――常連客のしげっちが声をかけてくると、他の常連客達もそれにつづく。
「いやぁ、ママとはえらい違いだよな」
「このママからこんな優秀な子が産まれるんだから、不思議なもんだよなぁ」
「もう失礼しちゃう。みんなそれはママをバカに――本当だったわ!」
ママのツッコみで常連客達がどわっと笑う。
小料理屋と言ったが、さしずめここはスナックだ。
まだ午後七時すぎなのにみんな真っ赤。
「俺なんか全然ですよ」
「もう、照れちゃって、そういうとこほんと私に似て可愛いんだからっ」
母さんは星が弾けそうなウインクをしてから、横を通りすぎようとした俺を捕まえ、むぎゅっと抱きしめてきた。
「宗くーん。大好きぃ!」
まただよ、と母さんの胸の中で呆れる。酔っているせいで体温が高くなってるから暑苦しいし、抱きしめる力も強すぎて、胸に顔が埋まって呼吸ができない。
「もういいから放せって!」
「んあっ! もう、宗くんのいけずぅ」
いじける母さんを無視して奥の階段へ向かい、二階にある俺の部屋へ。常連客達の浮かれた声はここまで届くのだが、もう慣れっこなので気にならない。
「いいかげん子離れしてほしいよ」
ベッドにあおむけに寝転がりながらぼやく。
俺は、俺を育てるために働いてくれる母さんのことを尊敬している――わけがない。
だって俺には普通に父親がいる。サラリーマンとか公務員とかじゃなくて、家にほとんど帰らないまま各地を転々としつつフリーのライターをしている、普通じゃない父親だ。生活費はそんな父親がすべて稼いでくれるので、母さんがわざわざ店をやっている理由は単純にこの店が好きだから。また、母さんは競馬が大好きで、土日になると昼間からお酒と競馬新聞を相棒に飲んで叫んで一喜一憂している。
「自由すぎんだよなぁ、うちの親は」
束縛せずに互いを尊重しているとも言えるが、結婚ってそういうものじゃないと思う。父さんは男の常連客達からちやほやされている母さんに文句を言わないし、母さんも家にほとんど帰ってこない父さんに文句を言わない。けれど、子供の俺から見ても二人は心の深い部分で、愛情以上のなにかでつながっているように感じられるから、余計にムカつく。
「俺には選べない生き方しやがって」
大抵の人間が歩む人生の正規ルートから逸脱している両親が本当に羨ましい。
そうなりたいわけではなく、その人生を選べる資格を持っていることが。
「なんでこんな風に産みやがったんだよ」
俺みたいなやつは自由を選んじゃいけない。両親は普通の性癖の持ち主で、形はどうあれ結婚もしているから、こういう自由奔放な人生が許されている。
人間としてちゃんとしていますよという保証書である婚姻届けを役所に提出し、その生活を形はどうあれ破綻させることなく継続させ、俺という子供を産んでちゃんと育てることで生き物としての最低限の義務を果たしているから、「まあ、結婚して子供も育ててるし」と大抵のことは世間が大目に見てくれるのだ。
「ふざけやがって」
対して俺は、裂くという行為に性的興奮を覚える根っからの異常者だ。
性的対象が異性ではないから、結婚という正常者の証明書が貰えない。
そんな異常者が両親みたいに普通のレールから外れる生き方を選んだら、身体の内側も外側も異常で覆われてしまう。だからこそ俺は、性癖爆発を防ぐ頑丈な鎧を身にまとうべく常に品行方正を心掛け、誰もが羨む優秀さを必死で集めてきた。
「ママ孝行な息子を祝してかんぱーい」
母親の愉快な声が床下から響いてくる。
ママ孝行って、こんな異常な性癖を持つ子供が孝行息子なわけがない。母さんだって俺の異常を知ったら、俺への態度を改めるに決まっている。俺が正常だと思っているから、ストレートに愛することができるのだ。
「……ふざけやがってよ」
ってか、俺が生徒会長をしているのも高年収を求めるのも、断じて母親のためではない。
――殺人容疑で逮捕されたのは、『住所不定無職』の金濱隆俊容疑者です。
誰もが羨むエリートコースを歩まないと、いつか開き直ってしまうかもしれない。
失うものがない人間、引きこもりは最強で最凶、悪い意味での無敵の人間だと言われている。
俺は、失うものがない無敵の人間になってはいけない。
身体の外側に貼りつける肩書きはきちんとしておかないと、内側からあふれ出る異常さにのみ込まれる。
こんなしょうもない人生ならもう異常者でいいや! 自由に生きてやる! って開き直ることを躊躇わせるような、開き直ることが明らかに損だと瞬時に理解できるような肩書きを持ちつづけなければ、金濱と同じように異常を爆発させてしまう。
――昔から裂くことに興奮してきた、失うものもないし、人を裂いてみたくなった。
特殊性癖がバレて気持ち悪がられることよりも、もう異常者でいいやと開き直って、性癖が暴走してしまうことの方が何倍も怖い。
「俺は、ちゃんと生きなきゃ」
ベッドから起き上がり、勉強するために机に向かう。
落ちぶれることが許されない俺は、今日も頭に知識を詰め込んでいく。