長澤さんはカーテンを開けてから俺の隣に腰を下ろした。

 窓から差し込んでくる光は、ソファに座る俺たちのところまで届かない。

 日の当たらない影の中に二人きりで座っている事実が、なぜかすごく心地よかった。

「で、ご存じの通り俺はなにかを裂くことに対して性的興奮を覚えるんだけど」

「全然ご存じじゃないからね、その性癖。はじめて聞いたよ」

 苦笑した長澤さんが、髪を耳にかけながらぼそぼそとつづける。

「ちなみに私は陸上でぴちぴち跳ねる魚が好きっていうか、魚のつぶらな目とか鱗の煌めきとかがクリーンヒットっていうか、そんな感じです」

 そんな性癖もあるんだなぁと感動を覚える。

 俺の性癖もかなり特殊だと思っていたが、長澤さんの方が希少かもしれない。

「長澤さんのって、結構変わってるね」

「神谷くんの方が特殊すぎでしょ。私は一応生物に対してだけど、裂くってただの行動じゃん」

「いや、魚の方が絶対おかしいって」

「私の方がまだましだって」

「いいや、俺の方がまだましです」

 二人してムキになって言い合えたことが面白くて、同時に吹き出す。

 こんなの、正常な人間からしたらどんぐりの背比べだというのに。

「はぁーあ、私たちおかしい。こんなことで張り合ってさ」

 ひとしきり笑った後、長澤さんは窓の外に広がる空を見た。その遠い目は、昔絵本で見た、陸上に憧れる人魚の挿絵にそっくりだった。

「どうせ私たちは、そもそもの核がおかしいのに」

 そう。

 俺たちは張り合うときだって『まだまし』としか言えないのだ。

 お尻派かおっぱい派か、貧乳派か巨乳派かでアホみたいに盛り上がれる同級生とは違うのだ。

「でも俺は長澤さんと話せて、少しだけ楽になったけど」

「楽に?」

「仲間が見つかったから。俺、自分の性癖のことを誰かに話したのはじめてだし」

「たしかに、それは私も」

 長澤さんが太ももの下に手を滑りこませる。

 彼女が俺と同じで、共犯者が見つかった喜びを感じてくれていたらいいなと思う。

「ちなみになんだけどさ、俺が特殊性癖持ちだってこと、いつから気づいてた?」

 かかわりのなかった男子の後をつけた理由が裂けるチーズを買っているのを見たから、は少し不自然だと思う。その後の言動も含めると、長澤さんは俺が特殊性癖持ちだと気がついていた可能性が高い。

「今日まで気づいてなかったよ。気づきかけてはいたけど」

「気づきかけてた?」

「同じ異常者として感じるものがあったっていうか、勘に近い? だって神谷くんっていつも普通を演じてるって感じだったし」

 顎に手を当てた長澤さんが、言葉を選びながら説明してくれた。

「そっか。ってことは結構わかりやすい……他のみんなにもバレてる可能性あるのかぁ」

 俺は特殊性癖持ちがバレないよう細心の注意を払って生きてきた。

 バレた瞬間、人生が終わるから。

「たぶん大丈夫じゃない? 私が確信持ったのって、神谷くんがめちゃくちゃヤバい目をしながら裂けるチーズを買うのを見たからだし。あのときの神谷くんの目が私の心にビビッときたの」

 うまく説明できなくてごめんね、と長澤さんは苦笑する。

「つまりね、そこまで心配する必要はないってこと。そもそも神谷くんの普段の言動に違和感を覚えたからって、絶対に特殊性癖のことはバレないよ」

「なんで?」

「普通のやつらが思いつきもしないことじゃん」

 長澤さんは両足をローテーブルの上に乗せる。

 その行儀悪さが今は羨ましい。

「どうせ『進路で悩んでるの?』とか『友達となんかあった?』とか、そんなありふれた悩みしか普通の人間どもは思いつかないんだよ」

 笑顔で他人をバカにする長澤さんの態度は、見ていてとても清々しい。

「私が神谷くんと同じ異常者だからその可能性を追えただけで、正常な人はそんなこと考えもしないんだよ」

 長澤さんの意見に納得する。特殊性癖バレはありえないと確信できたのに心は安心で潤わず、むしろ急速に乾燥していった。

「なんで俺たちって、こんな風に産まれちゃったんだろうな」

「やっぱり神谷くんも自分が嫌いなんだ」

「嫌いっていうか、嫌ってないとやっていけないっていうか、嫌われる存在ではあるっていうか」

「なにそれ。ちゃんと認めれば? 私は私が大嫌いだよ」

 長澤さんはきっぱりと言い放った。

「こんな自分が大嫌い。絶対に普通がいい」

 だからね、とつづけた長澤さんが顔をぐっと近づけてくる。

「神谷くん。もう一度お願いしていい?」

 長澤さんの真剣な瞳に、安易な言葉を返せないことだけは理解する。

 どうすべきかはかりかねていると、彼女は可愛らしく首を傾げた。

「私に気持ちいいを教えてほしいの。正常な人間と同じように、私はなりたい」

 なにが長澤さんをここまで突き動かすのだろう。

 彼女と俺は明確に異なっている。

 俺は自分の性癖を一生隠し通し、普通を演じて生きようとしていた。

 対して長澤さんは、自身の性癖をどうにかして改善しようとしている。異性にきちんと興奮できるようになって、人には絶対に言えない秘密を抱えているというプレッシャーや、自分を異常だと思わなければいけない苦しみから解放されたいと望み、そのために行動している。

「正常な人間になりたい、か」

 人として正しいのは俺と長澤さん、どちらだろうか。

 どう考えても長澤さんだ。

 異常を異常のまま放っておくことは、それ自体が罪である。そもそも異常を隠し通すのは不可能ではないか。本当の自分を抑え込みつづけた先に待っているのは、取り返しのつかない現実ではないか。

 俺は、取り返しがつかなくなった人間を知っている。

 俺が自分の異常性を認識してからすぐ、夕方の報道番組でとあるニュースが取り上げられていた。

「殺人容疑で逮捕されたのは、住所不定無職の金濱隆俊(かなはまたかとし)容疑者です」

 美人しかなれない職業である女性アナウンサーが、神妙な面持ちでニュースを読み上げていく。

「調べによりますと、金濱容疑者は『昔から裂くことに興奮してきた、失うものもないし、人を裂いてみたくなった』と供述しているとのことです」

「人を裂いてみたいって、おかしいですよこの人」

 その報道番組に出演していた女性タレントが即座に犯人を非難する。こいつは旦那を悪く言うことで人気を得ているママタレントだ。

「きっと……そうですよ! こいつは自分をジャックザリッパーだと思い込んでいるんです。こんなやつが今まで野放しにされていたと考えるとぞっとします」

 女性タレントはそう断罪したが、俺にはこの二人こそが俺の心をずたずたに切り裂くジャックザリッパーに見えていた。

「人を裂きたいなんて、普通の人間ならそんな思考にはならないですから」

 もちろん、その殺人犯がたまたま『裂く』という言葉を使っただけかもしれない。

「こんなやつが生きてるなんて、被害者が可哀想すぎます」

 でも『裂く』という特殊性癖を持っている俺は、この殺人犯の動機を完全に否定できない。もしかしたら俺もいつかこうなってしまうのではないか、という不安を拭い去れない。

 ――昔から裂くことに興奮してきた、失うものもないし、人を裂いてみたくなった。

 異常が見つかれば即座に対処するのは世の常だ。アプリだってすぐデバッグされるし、悪性腫瘍は手術で取り除かれる。つまり、異常な性癖を抱えた俺たちは、その異常と正面から向き合って改善しなければいけない。

 ――人を裂いてみたいって、おかしいですよこの人。

 これまでの俺は、こんな風に産まれたのは自分の意思じゃないから仕方がないと悲劇のヒロインを気取っていただけ。本当の意味で異常と向き合っていなかった。取り返しがつかなくなる前に長澤さんに出会えてよかったと心から思う。

 俺も普通を目指さなければ。

 でも、美人しかなれない職業や誰かの悪口を言う人間だって、デバックされるべき異常じゃないの?

「わかったよ。それで俺はなにをすればいい?」

 前のめりに尋ねると、長澤さんは耳を少し赤らめた。

「ふ、普通の人と同じようにキスとか、セ、セックスとかで興奮できるようになればいいと思うんだけど」

「セックス」

「そう、セックス」

 その言葉が腹の底を重くする。

 性器と性器で遊ぶ行為のなにが面白いのだろう。性器なんて男のも女のもよく見たら――いやよく見なくても普通にグロい形をしている。しかも正常な人間は、その性器を互いに舐め合ったりもするのだ。

「まあその、セックスまでできるようになるかはわからないけど、俺たちが目指す場所としては適切だとは思う」

 ぼそぼそとそう伝えると、長澤さんは安心したように目を細めた。

「そうだよね。セックスはあくまで目標。私、もしかしなくても先走りすぎてたかも」

 両手を突き上げて大きく伸びをする長澤さん。

 それによって胸が強調されたが、そんな重いものをつけて邪魔そうだなぁとしか思えない。

「実はちょっと怖かったんだ。あんな気持ち悪い形をした性器どうしをくっつけ合うなんて無理って、普通に思っちゃうから」

 なるほど。

 だから実験に、異性に興奮しない俺が選ばれたのだろう。

 長澤さんは普通の性癖を理解したいが、普通の性癖を持っている人間にさっきのようなことをすれば、歯止めが利かなくなって、長澤さんの感情を無視して暴走する可能性がある。

 対して異性に興奮しない俺は、絶対にそうならない。

 長澤さんは俺の異常性を、ある意味で信頼していたのだ。

「俺も同じこと思ってた。性器って普通にキモくない? あんなのを舐めたりするとかマジ無理なんだけど」

「わかるそれ!」

 目を輝かせて共感してくれる長澤さん。

 こんな下世話な話を誰かとできることが本当に嬉しくて、心が少しだけ軽くなった。