母さんはごちそうさまをすると、「ねむねむねむねたかの時間なのよねー」と謎の言葉を発しながら寝室に戻ってしまった。当然残された俺が食器を洗うことになるが、面倒を押しつけやがってとは思わない。登校中もずっと長澤さんのためになにができるか考えてみたが、具体的なことはなにも思いつかなかった。

 けれど、これまでのことを謝るくらいはできる。

 長澤さんともっと話がしたい。

 世間とか普通とか喧嘩中とか同じとか違うとか特殊性癖とか関係なく、ただ俺が長澤さんとかかわりつづけたい。

 よしっ、と心の中で呟いてから三階の教室へと向かう。

「……ん?」

 なぜか二年三組の教室の前に人だかりができている。

 美人かイケメンの転校生でも現れたのか?

 なんだろうと思いつつ教室まで向かい、野次馬たちをかき分けながら教室に入ったところでクラスメイトたちの視線が俺に集まった。え? 俺が原因? と思って心臓が縮んだが、次の瞬間にはクラスメイト全員がため息をついた。

「違ったな」

「まだ来ねぇのかよ」

 あちらこちらから嘲笑交じりの声が飛んでくる。

 なにがなんだかわからず立ち尽くしていると、にやにやしている橋川が近づいてきた。

「黒板、見てみろよ」

「黒板?」

 言われた通り俺は黒板を見て――眉間にナイフを突き立てられた。

「え」

 という情けない声が漏れ、右足を一歩だけ前に出して固まる。

「これ、誰がやったんだろうな」

 橋川がなおも笑いながらつづける。

 黒板にはでかでかとこう書かれてあった。

『長澤姫子は魚にしか発情できないキモい女』

 そのほかにも『半魚人かよ』『人間失格』等の長澤さんを貶める言葉がびっしりと書かれている。文字と文字の間には魚が跳ねている絵が描かれていて、長澤さんと魚が見つめ合っている低クオリティの合成写真も散見された。

「え」

 呼吸の仕方を忘れる。

 いじめが、はじまったのだ。

 恐れていた事態が起こってしまったのだ。

「いや、誰が」

 こんな最低なことをやりやがったのか。

 明らかに教室内の空気が変わった。

 高校生なんて、その場を支配する空気ひとつで行動が百八十度変わる。スカートを短くするという違反が普通になるみたいに、みんなの中にくすぶっていた『長澤さんキモっ!』って感情を面白がっていいんだって空気が出来上がってしまった。

「これやったやつひどすぎじゃね? ま、本当だからしょうがねぇけどよ」

 橋川の言葉がなおもつづく。

「そもそも魚って、よく考えなくてもマジありえねぇ。なぁ近藤。お前もそう思うだろ」

 橋川が近藤に話を振ると、机の上をじっと見ていた近藤が顔を上げる。

 真っ青だった。

「え、俺は」

「だってよ、お前いいように遊ばれたんだぞ。ムカつくだろ。こんなキモいやつ」

「俺は……別に」

「たしかに、近藤かわいそうだよね」

 近藤の力ない声をクラスメイトの女子が遮る。それを皮切りに、歪んだ正義が一気に広がっていく。

「私、噂が出たときから思ってたんだよね。長澤さん最低だって」

「俺も、近藤の気持ちを弄んでさ、マジないよな」

「近藤くんの気持ち考えたらさ、本当最悪。私だったら許せない」

 近藤を弄んだ悪人の長澤さんならどんな言葉で糾弾しても問題ない。そういう歪んだ空気が教室に広がっていく。

 なんて臭い空気だ。

 吐き気がする。

 魚の生臭さの方が何万倍もマシに思える。

「長澤さんって本当に最低だよね」

 百歩譲って、長澤さんを糾弾していいのは近藤だけだ。その近藤もクラスに充満している歪みは感じ取っているようだが、対処法を思いつかないのか「ちょっと、みんな」以上の言葉を言えないままおどおどするだけ。

「わかる、マジ最低すぎ」

 クラスメイトたちの身勝手な断罪はとどまるところを知らない。

 聞いているだけで胸がむかむかして、彼らと同じ空気を吸っていることにすら苛立ちを覚えて、正義に酔っているみんなの態度が本当に気に食わなくて――。

「あっ……おい来たぞ」

 廊下からそんな声が聞こえて、野次馬たちが一瞬だけざわめく。すぐに声の出し方を忘れたかのように一斉に静かになる。

 目を見開いた長澤さんが立っていた。

「おっ、長澤さん、おはよー」

 橋川が長澤さんに話しかけにいく。今まで話したことなんかなかったのに、まるでこれまでずっといじりいじられの関係性でしたよみたいに、馴れ馴れしい態度で。

「さっそくだけどこれマジ? 魚が好きって、いったいどんなところが好きなんですかー。ぴちぴち」

 橋川が身体をくねらせると、教室や廊下から笑いがこぼれた。橋川は聴衆の反応を満足げに確認したあと、長澤さんに少しだけ顔を近づけ、真顔で、ドスの利いた声ででつづける。

「近藤のことさ、マジ調子乗んなよ」

 長澤さんの肩がわずかに跳ね、すぐに橋川を睨み返した。三秒ほど牽制し合ったあと、長澤さんは俺の横を通りすぎて黒板の元へ。黒板消しを手に取って文字を消していくが、二、三回手を往復させただけでやめてしまった。

 今、長澤さんがどんな顔をしているのか、後ろ姿しか見えない俺にはわからない。

 黒板消しを持つ手が震えていることだけはわかる。

 ってかもしかしてこれ、近藤のためを思った橋川が、頼まれてもいないのに長澤さんを成敗しようとしたんじゃ……。

「ちょっと、なによこれ!」

 そのとき、廊下から女子の怒号が聞こえてきた。

 笹川さんだ。

 笹川さんも俺の横を駆け抜けて、長澤さんの肩を抱いて、涙ながらにみんなを睨んだ。

「いったい誰? これやったの? 高校生にもなっていじめなんて幼稚すぎじゃん」

 笹川さんが正しい意見を投下して、長澤さんを守ろうとしている。

「魚が好きだからなによ? 別にいいじゃん! こんなことでいじめるなんてひどすぎだよ!」

 ただ、俺は気がついてしまった。

 黒板に描かれていた魚のしっぽがやたらと大きく、少女漫画のような目をしていることに。

 以前、生徒会室で、笹川さんが描いていた魚のイラストと同じであることに。

「長澤さんがなにを好きだって別にいいじゃん」

 ――なんか神谷くんの手柄みたいになってたじゃん。

 制服問題を解決したときに笹川さんが発した『手柄』という言葉を思い出す。

「みんなに長澤さんをバカにする権利なんてない」

 そういえば笹川さん、長澤さんがいじめられていないかをやけに確認してきていたような。

 もしかして、いじめを救った人っていう手柄を欲して、自作自演ってこと?

「弱い者いじめはよくないよ!」

 正論を言えばみんなが納得するって勘違いしてる、ただの世間知らずってこと?

「みんな、もっと長澤さんの気持ち考えなよ!」

「いや、でも普通に変だろ」

 案の定、正しさだけを並べつづけるだけの笹川さんに、橋川が平然と言い返した。

「は? 変って、あんたなにを」

「だって魚が好きなんて変じゃん。気持ち悪いじゃん普通に」

「気持ち悪いって、そんなこと言っていいと思ってんの?」

 笹川さんが橋川を睨みつけ、同意を求めるかのようにみんなを見渡すが。

「たしかに、キモいことに変わりないしなぁ」

「正義感ぶって、アホくさ」

「キモいものをキモいって言うのだって自由だろ」

 クラスメイトが擁護したのは橋川の意見だった。廊下にいる野次馬たちも表立ってなにか言うことはないが、橋川側に立っていることがその雰囲気から伝わってきた。

 一度場を支配してしまった空気は、そう簡単に覆らない。

「え、なに? みんななに言ってるの?」

 笹川さんがあからさまに動揺している。

「おかしいでしょ、正しいのは私でしょ」

 自分の思った通りに事が運ばなくて、明らかに困惑している。

「こんなこと許されるわけがないでしょ」

 黒板を指さしながら橋川を注意するが、橋川は彼女の言葉を鼻で嗤う。

「いや、それやったの俺じゃないし。関係ないし」

「か、関係なくはないでしょ」

「そもそもおかしいやつにおかしいって言ってなにが悪いんだよ。噂が出たときからキモって思ってたし」

 橋川の言葉に「私も」「俺も」とみんなが賛同していく。

 その大きなうねりを笹川さんは止められない。

「え、みんな、なに言って」と呟くだけ。

 そりゃそうだ。

 だって笹川さんは何者でもない。

 なんの肩書も持っていない。

 どこにでもいるただの一般人が、すでに出来上がった空気を簡単に変えられるはずがない。

「みんなちょっと、なに、言ってるか、わかって」

 ただ、この場にはその強固な空気に風穴を開けられる、言葉に最大の説得力を持たせられる人間がいる。

「わかってないのはお前。キモいって言われたくなかったら普通になればいいだけだろ。魚なんか好きになんなきゃいいだけじゃん。そうなれないのがキモいって言ってんだろ」

 空気と聴衆を味方につけた橋川の言葉がさらなるうねりを作り出した瞬間。

「もういい!」

 長澤さんがいきなり叫んだ。

「みんなみんな、もういいんだよ!」

 力なくみんなを睨む長澤さんの目から、くすんだ涙が流れ落ちていく。

「こんなのに望んでなってるわけないだろうがっ!」

 長澤さんが困惑している笹川さんを突き飛ばす。窓際まで走る。窓を開け放ち、そのままの勢いで窓枠に足かけようと――。

「そんなこと言うなよっ!」

 今度は俺が叫んでいた。

 俺以外に、この腐りきった空気を変えられる人間なんかいない。

 自分が必死で作り上げてきた善人という名の殻を、身にまといつづけてきた誰もが羨む肩書きを酷使するときがやってきたのだ。

「なにを、好きだっていいじゃねぇか」

 新たな異質の登場に教室は騒然とする。

 窓から飛び降りようとした長澤さんも動きを止めて、俺をじっと見ている。

「それが自分だろ! それにお、俺だってなぁ!」

 自分がなにをしでかそうとしているのか、まだよくわかっていない。

 全細胞の奥底から恐怖が湧き上がってくる。

 なんでこんなことしてるんだ、早く冗談ですと言え! と焦っている自分もいる。

「長澤さんと同じなんだよ!」

 でも、やめられるはずがない。

 パリ、パリ、とどこかから亀裂音が聞こえてくる。

「俺は裂くのが好きなんだよ!」

 身体がなにかを突き破った気がした。

 後悔はしていない。

 今ここでなにもしない自分でいたくないから。

「俺は物が裂けてく様子を見て興奮する、長澤さんと同じ特殊性癖の持ち主だ!」

 困惑の視線がいくつも向けられている。

 非常に不愉快だ。

 俺は黒板に貼られていた合成写真を掴むと、それをみんなに見せつけるようにして勢いよく引き裂いた。

「どうだ! これに俺は興奮する! おかしいだろう! 俺だってそう思う! 普通じゃねぇって思うさ!」

 もういい。

 全部ぶちまけてやる。

 俺がどう思われようがどうだっていい。

 どうでもいい他人からの評価なんか、どうだっていい。

「でもなぁ、それがどうしたよ! 普通のお前らにとっては、魚が好きなんて気持ち悪いのかもしれねぇけどなぁ!」

 長澤さんが迫害されるような世界に、どんな期待をすればいいのだろう。

「俺が裂くことに興奮したとして、お前らにどんな迷惑をかけてるよ! 自分たちとは違う、たまたま自分たちが多数派だったってだけでこうも威張れるものなのかよ。見下せんのかよ。そうじゃない人をバカにできんのかよ」

 ああ、ほんと俺、なにやってんだろう。

 今まで積み上げてきたもの、全部台無しだ。

「お前らの方が狂ってるよ! 男の性器も女の性器もよく見なくたって気持ち悪すぎだろうが! それで遊ぶとか常人ができる行為じゃねぇだろうが! お前らだって気持ち悪いことして興奮してんじゃねぇか!」

 パリ、パリ、パリ。

 そうか。

 俺が甲殻類になったのは、ありとあらゆる肩書を集めてきたのは、今この瞬間に長澤さんを守るためだったんだ。

 長澤さんのために俺のこれまでを使えるなんて、本当に誇らしい。

「か、神谷?」

 橋川が困惑気味に名前を呼んできたが。

「うるせぇ黙れ!」

 即、拒絶した。

 まだだ。

 まだまだ言いたいことは山ほどあるんだ!

「多数派ってことだけしか価値がないんだよお前らは! 受け入れられない、理解できないからって迫害してきやがって。気持ち悪いって思うならかかわろうとしてくんなよ! ほっといてくれよ!」

 みんなが黙って俺を見ている。

 それでいい。

 パリ、パリ、パリ、と空気が変わる音がする。

「違う場所で生きてる、違う価値観で生きてる、それでいいじゃねぇか! なんでわざわざ理解できない存在にかかわろうとしてくんだよ。マジ意味わかんねぇ。そういうお前らの腐った思考回路が一番気持ち悪いんだよ!」

「神谷くん! バカじゃないの!」

 長澤さんの声で、ふっと我に返る。

 あれ、俺は今なにを言っていた?

 これまで抱え込んできた思いを吐き出せてとにかくすっきりしているから、どうでもいいや。

「バカじゃねぇ! 俺は俺だ! これが俺なんだ!」

「そんな自己犠牲いらない! ただの自己満なんだよ! 偽善で私なんか庇うな!」

 俺を糾弾することで俺を救おうとしてくれる長澤さん。

 その怒っているような、泣いているような表情に胸をまさぐられる。

 俺は何度も裏切ってきた。

 不用意に傷つけてきた。

 そんな俺のことを、まだ彼女は救おうとしてくれる。

 それが嬉しかった。

 長澤さんの方こそ自己犠牲じゃないか!

「嘘ついてまで救わなくていい! 私はそんなの望んでない! そんな優しさはいらない!」

「うるせぇ。誰がなんと言おうと俺は裂けるチーズに興奮する男なんだよ! 悪いかよ!」

 ひときわ大きな声で叫ぶと、長澤さんの目から涙があふれた。

 言及するまでもないが、この場にいるその他大勢は充電の切れたロボットのように固まっているだけ。

「だから長澤さんも恥ずかしがらなくていい! 生きていいんだ! 普通になれなくたって、俺たちは俺たちとして生きてていいんだよ!」

「私はっ」

 長澤さんがなにかを言いかけて、歯を食いしばるようにしてこらえた。

「もう望むのをやめたの」

「そんなこと言うなよ!」

 そんなの俺が望んでいない。

「俺がずっとそばにいて、長澤さんがずっと笑って生きられるようにするから!」

 俺は長澤さんの本心が聞きたいんだ。

 長澤さんに一番似合っているのは、好きなものを語るときの楽しそうな笑顔なんだから。

「長澤さんの笑顔が見られるなら、全世界を敵に回してもいい! 無視されてもいい! それだけで俺の世界は平和なんだ! 長澤さんとの繋がりが、俺を無敵にしてくれるんだ!」

 体内の優しさや温かさや思いやりをすべてかき集めて、言葉に、声に乗せていく。

「長澤さんが幸せだって思えるように頑張るから、幸せにするから、だからもう望んでないなんて言うなよ。俺とずっと一緒にいてほしいんだよ!」

 本心を言葉にするのは恥ずかしいけど、とても晴れやかな気分だ。

「長澤さんのことが大切だから、これからもずっとかかわりつづけていたいんだよ! 一生一緒にいたいんだよ! 俺を選んでくれよ!」

「……神谷、くん」

 険しい顔で泣いていた長澤さんが、その細い人差し指で涙を拭い。

 嬉しそうに笑ってくれた。

「なに、それ」

 つづけて急に吹き出し、腹を抱えて大笑いしはじめる。

「いや、ほんとなにそれ。ずっと一緒で、笑って、幸せにしていくって、もはやプロポーズじゃん」

「なっ……」

 身体が溶けだしそうなほど熱くなる。

 必死だったとはいえ、心にあった言葉をそのまま吐き出しただけとはいえ、たしかに今の俺の言葉はそう取られてもおかしくはない。

 というよりそうにしか聞こえないんじゃね?

「いや、まあ、その」

 さっきまでの勢いはどこへやら。

 身体が羞恥に支配され、言葉が口から出てこない。 

「ねぇ、どうなの? 神谷くん」

 不敵な笑みを浮かべながら長澤さんが近づいてきた。

 俺の目の前に立ち、上目遣いで見つめてくる。

「今のって、結婚しようってこと?」

「……そ、そういうことだっ!」

 ああもうやけくそだ、と吐き捨てるように告げる。

「俺は長澤さんの裸を見たって興奮しないけど、一生長澤さんのことを好きにはならないけど、それでもずっと一緒にいたいと思うから。いずれは結婚という形をとることはやぶさかではない。長澤さんのために一千万稼いでやる!」

「やぶさかって言葉、本当に使う人はじめて見た」

 面白いおもちゃを見つけたかのような笑顔は非常に不服だが、長澤さんは笑っていた方がやっぱり素敵だ。

「神谷くんってほんとバカだ。私のために立場を失って、優しくて、本当にありがとう」

「もうこそこそすんのが嫌だったんだよ。偽善者で、演じて、しょうもない世界の一部になるくらいなら世界のはみ出し者として生きてた方が何倍もマシだ」

「なにその開き直り。ほんと、神谷くんって私が手綱を握っていないと苦労するのが目に見えてるし」

 長澤さんは、少しだけ頬を膨らませてからそっぽを向く。

 よく見ると耳まで真っ赤だった。

「仕方がないから、私も神谷くんと一生一緒にいてあげる」

 これが噂に聞くツンデレというやつか。俺はこんなのでときめかないけど、長澤さんとこれからも関係をつづけられる、そういう意味のときめきなら身体の中でビックバンを起こしている。

「でもさ、本当に私なんかでいいの?」

「もちろん。長澤さんじゃなきゃダメなんだ」

「私、私のためにすべてをかけてくれた神谷くんを見ても、ここまで尽くされても好きにならないよ? まな板の上のメダカ以下なんだよ?」

「マジかよ。ここまでしたのにメダカに負けんのかよ」

 苦笑しながら長澤さんの右手を両手でしっかりと握り、胸の前まで持ち上げた。

「まあでも、俺だって長澤さんを好きにならねぇよ。普通に裂けるチーズ以下だからな!」

 そうバカにし返してやると、長澤さんは「うわっ、うざっ」と唇を尖らせた。

「すぐ言い返しちゃうその心の狭さ。やっぱ神谷くんと一緒にいると苦労しそうだからやめようかなぁ」

「お互い様だろ。長澤さんだってすぐ俺をからかうくせに」

 二人して呆れたように笑い合う。

 心地よい時間だ。

 心地よい温度だ。

 これも幸せの形だ。

「長澤さん」

「神谷くん」

 相手に恋をしなくても。

 特殊性癖の持ち主だとしても。

「「これまでありがとう」」

 二人でいれば、どんな世界の荒波も乗り越えていける。

「「これからもよろしく」」

 俺たちはしっかりと手をつないだまま、呆然としている一般人たちを見渡した。

「いいかお前ら! 俺たちのことはもう放っとけよ。性癖が気持ち悪いコンビで結構だけどな、俺たちは性癖よりも深いところでつながってんだ!」

「私たちは誰にも、どんなことにも負けない!」

 長澤さんもつづく。

 クラスメイトたちは黙ったまま、固まったまま。

 もうこんなやつらどうでもいいや。

 ってか俺らは本当になにやってんだろう。

 最悪だ。

 これまでの努力が全部、水の泡。

 これで普通の人生を失ったわけだけど。

 すごく楽しい。

 長澤さんと一緒なら、人生のすべてが楽しくなる。

「神谷くん。私、学校サボってめちゃくちゃに遊びたい気分なんだけど」

「奇遇だな。俺もそう思ってた」

 もう真面目に振る舞うことも、普通を演じることもしないでいいのだから。

 今日くらいは学校をサボっても、多様性という言葉が許してくれるだろう。

「じゃあいこう! 神谷くん!」

「ああ!」

 俺たちは手をつないだまま教室を飛び出した。

 ふと振り返ると、俺がさっきまで立っていた場所に、背中が真っ二つに割れた神谷宗孝の抜け殻が転がっている気がした。