気がついたら眠っていた。
目覚めたとき体力は回復したと感じたが、心は重いままだった。朝日をしっかり浴びれば気分も晴れるかなとカーテンを開けたが、今日はあいにくの曇り空。
洗面所で顔を洗ってからリビングに向かう。
「おはよう。宗くん」
この時間はいつも寝ているはずの母さんが、なぜか起きていた。
しかもいつ振りかわからないエプロン姿だ。
ダイニングテーブルの上には焼き鮭とお味噌汁、冷ややっこが用意されていた。
「ちょっと、なんで固まってるのよ」
動けなくなっていた俺を見て母さんが唇を尖らせる。
「だって母さんが朝ご飯って、何か月ぶりだろって感じで」
「これでも私はちゃんとした母親よ。そこは何年ぶりの間違いでしょ」
「いや期間長くなってるから」
母さんの料理はオリンピックかよ。
「そして最後にナポリタンも用意してみましたー」
「いや和食に統一しろよ。しかもチョイスが朝から重すぎる」
「いいじゃない。おいしいんだから」
「おいしいって、それが理由には……、まあいいけど」
自然と笑みがこぼれる。母のいい意味での適当さが心地いい。テーブルの上の真っ赤な麺の場違いさに、心の中で感謝を述べる。
「ほら座って。早くしないとおいしさが逃げちゃうでしょ」
母さんと向かい合わせで座る。
いただきますと言った途端、母さんはナポリタンに大根おろしをドバドバかけはじめた。
「これよこれ。ナポリタンには大根おろしよ」
「大根おろしって、パスタの中でも和と洋が混じってるんだが」
「和洋折衷って言葉、なんか格好いいわよね」
「朝食の場で言われても全然響かないよ」
「じゃあ今度は響くように、コンサート会場を貸し切るわね」
「たいてい飲食禁止だよ、コンサート会場は」
しょうもない話をしつつナポリタンをお箸で――フォークは用意されていなかった――一口。朝から食べるには味が濃すぎて、一口だけでお腹いっぱいになったように感じる。
だけど箸は止まらない。
他愛もない話をしながらの朝食が楽しくて、俺は用意された料理をすべてたいらげていた。
「ごちそうさまでした」
息子が手を合わせているのをニコニコした様子で見ていた母さんは。
「デザートデザート、砂漠もデザート」
なんて言いながら、冷蔵庫から一口大にカットされたパイナップルを持ってきた。マジかと思うが、パイナップルは俺の好物なので嬉しい。母さんは何食わぬ顔でマヨネーズをかけているが、今は触れないでおこう。
「ごちそうさま」
パイナップルを食べ終えたあと、緑茶で口の中をリセットさせる。
そして。
「あのさ、母さん。相談があるんだけど」
自然と言葉がこぼれ落ちてきた。
「いいわよ。どうしたの?」
対面に座る母さんは驚くことも慌てることもせず、俺を受け入れてくれた。まるでこうなることがわかっていたみたいだ。
本当に敵わないなぁ。
俺は小さく息を吐いてから、ぐちゃぐちゃな心の奥から聞こえてくる悲鳴を、そのまま声にしていく。
「母さんは、離れたくないって思っていた相手の信頼を裏切ってしまったとき、どうすればいいと思う? 相手は離れたがっていて、でも俺は離れたくないって思っているときはどうすればいいと思う?」
一度口火を切ってしまえば、次から次に言葉が出てくる。
「俺は母さんに相談したことで救われた。同じように救われてほしかっただけなんだ。人に対してこんな気持ちを抱くのがはじめてで、なんにもわからないんだ」
おかしなことを言っている自覚はある。
俺は人を好きになんかならないのに、長澤さんを特別な存在として見ている。
長澤さんの大切な存在でありたいと願っている。
「離れたくない相手……。宗くんにもそういう人ができたのね。母さんはそれがまず嬉しい」
その言葉通り、母さんは顔をほころばせる。
すぐにきりっとした表情に戻り、俺の目をまっすぐ見て。
「宗くんが離れたくないと思っているなら、その信頼を取り戻したいのなら、相手のためになにができるか、ずっと、いつまでも考えなさい」
身を乗り出してきた母さんに頭をなでられる。「ちょっと母さん」と恥ずかしさから目を逸らしたが、頭に乗っている手を払うことはしなかった。
「一度壊れてしまった信頼を積み上げるのは本当に大変だけど、宗くんならできる。その大切な関係が、友達なのか先輩なのか恋人なのか、そんなのはどうでもいい」
母さんに頬を軽く引っ張られ、強制的に笑顔を作らされた。
「一番大事なのはつづけようとすること。大切な人と一緒に居つづけるためには、相手の理解できないところも受け入れて、自分たちなりの関係性でいいから、その関係性をつづける努力をしなければいけないの」
母さんの言葉が胸に溶けていく。
理解できないところも受け入れる。
自分たちなりの関係性をつづける努力をする。
俺は長澤さんのために、これまでなにかできていただろうか。
「宗くんはその大切な人と、どうありたいの?」
単刀直入に聞かれ、俺は自分の本心と向き合うために目を閉じる。
瞼の裏側に映ったのは、魚のどこに興奮するかを嬉々として語る長澤さんだった。
「俺は、長澤さんが長澤さんのままで笑っていてほしい。それだけでいい。その笑顔の側にいたい」
「じゃあそれを目指せばいいだけじゃない」
目を開けると母さんの満面の笑みが俺を優しく包み込んでくれた。
母さんの言う通り、ただそれだけのことだった。
「うん。ありがとう、母さん」
心が整理され、身体が軽くなったと感じる。
さすがに空は飛べそうにないけど、トランポリンの世界記録くらいは更新できそうだ。
「俺、長澤さんのためになにをしたらいいのか、探してみる」
俺はこれまで、本当の意味で長澤さんのことを考えていなかった。
特殊性癖を抱えていた俺は、本当の意味で他人に興味を持ったことがなくて。
他人の心の深くまで入り込もうと思ったことなんかなくて。
他人を好きになれないから、他人のことを第一に考えるなんて、そんなアホみたいなことをする日なんか絶対に来ないと思っていて。
「今はまだ長澤さんとの関係性を、どういう名前で表したらいいのかわからないけど」
でも心のどこかでは、誰かと深い関係になっていく他人を羨ましく思っていて。
特殊性癖持ちである俺が、他人から大切に思われるなんて絶対に無理だと諦めていたけど。
「俺は、長澤さんとずっとかかわりつづけたい」
他人に興味を持てなかった俺が、持つことをはじめから諦めていた俺が、はじめて深い関係になりたいと思った。
長澤さんがそう思わせてくれた。
長澤さんに対して抱いている感情は恋ではないけれど、人と人とがつながりたいと思う気持ちは、恋とか友情といった既存の言葉だけでは表せないと思う。そもそも名づける必要なんかないのだ。
「いや、絶対にずっとかかわりつづけてやる」
頬が緩む。
ワクワクというか、これまでの自分に対するいい意味での呆れというか。
誰かのことを本気で考える時間が、こんなに楽しいことだったなんて。
特殊性癖を免罪符にしてすごしてきたから、こんなにも素敵な感情に今まで気づけなかった。
「成長したわね。その長澤さんって人のために、長澤さんのことを大切に思おうとする宗くん自身のために、きちんとあがきなさい」
母さんにそう言われたことで、意図せず長澤さんの名前を出してしまったことを知る。
まあ別にいいか。
俺の大切を隠す必要なんかどこにもないのだ。
目覚めたとき体力は回復したと感じたが、心は重いままだった。朝日をしっかり浴びれば気分も晴れるかなとカーテンを開けたが、今日はあいにくの曇り空。
洗面所で顔を洗ってからリビングに向かう。
「おはよう。宗くん」
この時間はいつも寝ているはずの母さんが、なぜか起きていた。
しかもいつ振りかわからないエプロン姿だ。
ダイニングテーブルの上には焼き鮭とお味噌汁、冷ややっこが用意されていた。
「ちょっと、なんで固まってるのよ」
動けなくなっていた俺を見て母さんが唇を尖らせる。
「だって母さんが朝ご飯って、何か月ぶりだろって感じで」
「これでも私はちゃんとした母親よ。そこは何年ぶりの間違いでしょ」
「いや期間長くなってるから」
母さんの料理はオリンピックかよ。
「そして最後にナポリタンも用意してみましたー」
「いや和食に統一しろよ。しかもチョイスが朝から重すぎる」
「いいじゃない。おいしいんだから」
「おいしいって、それが理由には……、まあいいけど」
自然と笑みがこぼれる。母のいい意味での適当さが心地いい。テーブルの上の真っ赤な麺の場違いさに、心の中で感謝を述べる。
「ほら座って。早くしないとおいしさが逃げちゃうでしょ」
母さんと向かい合わせで座る。
いただきますと言った途端、母さんはナポリタンに大根おろしをドバドバかけはじめた。
「これよこれ。ナポリタンには大根おろしよ」
「大根おろしって、パスタの中でも和と洋が混じってるんだが」
「和洋折衷って言葉、なんか格好いいわよね」
「朝食の場で言われても全然響かないよ」
「じゃあ今度は響くように、コンサート会場を貸し切るわね」
「たいてい飲食禁止だよ、コンサート会場は」
しょうもない話をしつつナポリタンをお箸で――フォークは用意されていなかった――一口。朝から食べるには味が濃すぎて、一口だけでお腹いっぱいになったように感じる。
だけど箸は止まらない。
他愛もない話をしながらの朝食が楽しくて、俺は用意された料理をすべてたいらげていた。
「ごちそうさまでした」
息子が手を合わせているのをニコニコした様子で見ていた母さんは。
「デザートデザート、砂漠もデザート」
なんて言いながら、冷蔵庫から一口大にカットされたパイナップルを持ってきた。マジかと思うが、パイナップルは俺の好物なので嬉しい。母さんは何食わぬ顔でマヨネーズをかけているが、今は触れないでおこう。
「ごちそうさま」
パイナップルを食べ終えたあと、緑茶で口の中をリセットさせる。
そして。
「あのさ、母さん。相談があるんだけど」
自然と言葉がこぼれ落ちてきた。
「いいわよ。どうしたの?」
対面に座る母さんは驚くことも慌てることもせず、俺を受け入れてくれた。まるでこうなることがわかっていたみたいだ。
本当に敵わないなぁ。
俺は小さく息を吐いてから、ぐちゃぐちゃな心の奥から聞こえてくる悲鳴を、そのまま声にしていく。
「母さんは、離れたくないって思っていた相手の信頼を裏切ってしまったとき、どうすればいいと思う? 相手は離れたがっていて、でも俺は離れたくないって思っているときはどうすればいいと思う?」
一度口火を切ってしまえば、次から次に言葉が出てくる。
「俺は母さんに相談したことで救われた。同じように救われてほしかっただけなんだ。人に対してこんな気持ちを抱くのがはじめてで、なんにもわからないんだ」
おかしなことを言っている自覚はある。
俺は人を好きになんかならないのに、長澤さんを特別な存在として見ている。
長澤さんの大切な存在でありたいと願っている。
「離れたくない相手……。宗くんにもそういう人ができたのね。母さんはそれがまず嬉しい」
その言葉通り、母さんは顔をほころばせる。
すぐにきりっとした表情に戻り、俺の目をまっすぐ見て。
「宗くんが離れたくないと思っているなら、その信頼を取り戻したいのなら、相手のためになにができるか、ずっと、いつまでも考えなさい」
身を乗り出してきた母さんに頭をなでられる。「ちょっと母さん」と恥ずかしさから目を逸らしたが、頭に乗っている手を払うことはしなかった。
「一度壊れてしまった信頼を積み上げるのは本当に大変だけど、宗くんならできる。その大切な関係が、友達なのか先輩なのか恋人なのか、そんなのはどうでもいい」
母さんに頬を軽く引っ張られ、強制的に笑顔を作らされた。
「一番大事なのはつづけようとすること。大切な人と一緒に居つづけるためには、相手の理解できないところも受け入れて、自分たちなりの関係性でいいから、その関係性をつづける努力をしなければいけないの」
母さんの言葉が胸に溶けていく。
理解できないところも受け入れる。
自分たちなりの関係性をつづける努力をする。
俺は長澤さんのために、これまでなにかできていただろうか。
「宗くんはその大切な人と、どうありたいの?」
単刀直入に聞かれ、俺は自分の本心と向き合うために目を閉じる。
瞼の裏側に映ったのは、魚のどこに興奮するかを嬉々として語る長澤さんだった。
「俺は、長澤さんが長澤さんのままで笑っていてほしい。それだけでいい。その笑顔の側にいたい」
「じゃあそれを目指せばいいだけじゃない」
目を開けると母さんの満面の笑みが俺を優しく包み込んでくれた。
母さんの言う通り、ただそれだけのことだった。
「うん。ありがとう、母さん」
心が整理され、身体が軽くなったと感じる。
さすがに空は飛べそうにないけど、トランポリンの世界記録くらいは更新できそうだ。
「俺、長澤さんのためになにをしたらいいのか、探してみる」
俺はこれまで、本当の意味で長澤さんのことを考えていなかった。
特殊性癖を抱えていた俺は、本当の意味で他人に興味を持ったことがなくて。
他人の心の深くまで入り込もうと思ったことなんかなくて。
他人を好きになれないから、他人のことを第一に考えるなんて、そんなアホみたいなことをする日なんか絶対に来ないと思っていて。
「今はまだ長澤さんとの関係性を、どういう名前で表したらいいのかわからないけど」
でも心のどこかでは、誰かと深い関係になっていく他人を羨ましく思っていて。
特殊性癖持ちである俺が、他人から大切に思われるなんて絶対に無理だと諦めていたけど。
「俺は、長澤さんとずっとかかわりつづけたい」
他人に興味を持てなかった俺が、持つことをはじめから諦めていた俺が、はじめて深い関係になりたいと思った。
長澤さんがそう思わせてくれた。
長澤さんに対して抱いている感情は恋ではないけれど、人と人とがつながりたいと思う気持ちは、恋とか友情といった既存の言葉だけでは表せないと思う。そもそも名づける必要なんかないのだ。
「いや、絶対にずっとかかわりつづけてやる」
頬が緩む。
ワクワクというか、これまでの自分に対するいい意味での呆れというか。
誰かのことを本気で考える時間が、こんなに楽しいことだったなんて。
特殊性癖を免罪符にしてすごしてきたから、こんなにも素敵な感情に今まで気づけなかった。
「成長したわね。その長澤さんって人のために、長澤さんのことを大切に思おうとする宗くん自身のために、きちんとあがきなさい」
母さんにそう言われたことで、意図せず長澤さんの名前を出してしまったことを知る。
まあ別にいいか。
俺の大切を隠す必要なんかどこにもないのだ。