登校して、いつものように教室で本を読む長澤さんを見たとき、胸にぽっかりと穴が空いていることを自覚した。昨夜を思い出してしまって、胸の穴がじんじん痛み出す。席に座るとすぐに近藤と橋川がよってきたが、二人とどんな話をしたか、まったく思い出せない。

 ――神谷くん、これまでごめんね。

 その声が、今も耳の中にこびりついている。

「次の授業で小テストやるからなぁ」

 気がついたら、三限目の物理の授業が終わっていた。

 物理教師が生徒たちからのブーイングを受けながら教室を出たあと、入れ替わるようにして笹川さんが教室に入ってくる。なんだろうと思って見ていたら、長澤さんになにか耳打ちして教室を出ていった。長澤さんは何事もなかったように文庫本に目を落としたが、いつもより両肩の位置が高いような気がした。

 昼休みになると、笹川さんからメッセージが届いた。

『今時間ある? ちょっと顔貸して。体育館裏で』

 返信を打ち込んでいる間に長澤さんは教室を出ていってしまう。

『わかった』

 すぐに席を立つ。長澤さんの後を追うようにして廊下に出たが、すでに彼女の背中はどこにもなかった。

「なにやってんだ、俺」

 もう他人だから気にしたって意味ないのに、間違えたのは俺なのに長澤さんのことを考えてしまう。陰鬱な気分に浸ったまま体育館裏に向かうと。

「え」

 笹川さんが日の当たる場所に、長澤さんが影になっている場所に立っていた。

「長澤さん?」

 思わず名前を呼ぶと、長澤さんがこちらを振り返って目を見開いた。

「神谷くん」

「なにやってんの。早くこっち着て」

 笹川さんに急かされ、急いで長澤さんの隣――ではなく斜め後ろに立つ。

「私が二人を呼んだ理由、わかるよね」

 笹川さんの声には棘しか含まれていない。

「わかるよね、って言われても」

 なんのことだかさっぱりだ。

「神谷くん、あなた……」

 眉間にしわを寄せた笹川さんが、今度は長澤さんを見る。

「長澤さんはどうなの」

「私も、心当たりがない」

「二人してふざけないで! 私、見たんだから!」

 笹川さんの怒鳴り声が風に流されていく。

 見た。

 つまりそれって、ラブホのことか?

 心臓が尋常じゃない速さで鼓動を刻みはじめる。

「昨日の夜、あなたたちが同じ家から出てきて、夜道を歩いていたのをこの目で見たのよ」

「……は?」

 気の抜けた声が出てしまった。

 長澤さんの背中からも安堵を感じる。

 なんだ、ラブホじゃなくて昨日のことか。見た、なんていうから無駄に焦ったじゃないか……いや、よくよく考えると昨日のことでもまずくないか?

「もしかして俺たちの話聞いてた? どこまで知ってんだよ」

 昨日の夜、話した内容を急いで思い返す。

 特殊性癖がバレるような会話は、会話は……。

「ついていかなかったし、遠くて話も聞こえなかったけど」

 その言葉を聞いて、ほっと胸をなでおろす。

 あれ? じゃあなんで笹川さんはこんなに怒ってるんだ?

「でも確実に私は見たの。あれ長澤さんの家でしょ。そこから出てきて、二人で夜道を歩いていた。証拠は十分じゃない」

「結局、あなたはなにが言いたいの?」

 長澤さんが真っすぐ切り込む。

 笹川さんはわずかにのけぞったが、すぐに威勢を取り戻す。

「なに、その強気な態度。開き直るとか最低。あんたたち二人とも二股かけてたくせに」

「あれはっ」

 俺は無意識に声を発していた。

 そういうことか。

 笹川さんは、同じ家から出てきた俺たちがつき合っていると勘違いしているのだ。

「あれは、その……」

 弁明しないといけないのに言葉がつづかない。

 だって俺が長澤さんの家にいた理由を説明するとなると、俺たちが特殊性癖を持っていることを話さないといけない。そもそも二股していたのは事実……いや、あれは正確には二股ではないし、昨日の時点では俺も長澤さんもフリーだった。ってかとにかくなんでもいいから、この状況をひっくり返せる言いわけを導き出さないと。

「……いや、そもそも俺たちはつき合ってないし」

 結局なにも思いつかず、真実だけど反撃力も説得力もゼロの言葉しか返せなかった。

「同じマンションから出てきといて、そんな言葉を信じられると思う?」

 案の定、笹川さんは納得してくれない。

 首の裏側から冷たい汗が滲み出て、背中を流れ落ちていく。

「信じられないとしても、昨日の時点で俺も長澤さんも恋人とは別れてたから」

「二人ともが一か月もつき合わずに別れた? そんなわけないでしょう」

 やっぱり信じてくれない。

 まあ普通に考えたら、こんな短期間で別れるなんておかしすぎる。しかも互いに別れて三日と経っていない。別れた事実を意図的に広めなかったから、笹川さんがまだ知らなくても無理はない。

「苦しいかもしれないけど本当なんだ。だから俺たちは二股なんか」

「仮に昨日の時点で別れてたとしても、そんなにすぐ他の誰かとつき合えるもの? どう考えても、つき合ってる時期が被ってるって考えた方が、理にかなった説明になるのよ」

 笹川さんが正しさを振りかざしてくる。

「神谷くんなら、もっと頭のいい理屈を並べてくるかと思ったのに、それもなんか残念」

 笹川さんの言う通り、俺の弁明は本当の二股男が使う言いわけの域を超えていない。

 俺がもし部外者なら、笹川さんの意見を全面的に信じる。

「そう思うのも最もだけど、実際ほんとに二股なんか」

「教室で暴露してもよかったけど、神谷くんの立場を考えてあげたんだから」

「だから、俺たちはつき合ってないって」

「まだ言いわけするの? 失望した。優しい人だと思ってたのに」

 こんなのどう反論したって無駄だ。説得力皆無だし、なにより自分の意見だけを盲信している笹川さんには、どれだけ言葉を尽くしても火に油を注ぐだけ。

「ねぇ、笹川さん」

 八方塞がりだと焦る俺とは裏腹に、長澤さんは冷静だった。冷静というより冷酷と表現した方が正しいくらいの冷めたオーラを放っていた。

「な、なによ」

 優位な立場の笹川さんが、なぜか怯んでいる。

 長澤さんの謎の落ち着きが場を支配しはじめていた。

「私たちは本当に二股なんかしていないけど、仮にしていたとして、どうしてそれを私たちに伝えるの? この行為になにか意味がある?」

「……は?」

「あなた、近藤くんとも武元さんとも友達じゃないでしょう。おそらく二人に糾弾しろって頼まれたわけでもない。友達が傷つくことが許せないわけでもない。正義に酔ってるだけ」

「まさか開き直る気? 傷つく二人のことを考えたら、あんたらのことを許せないと思うのは当然で」

「あなたが糾弾できる理由になってないじゃない。百歩譲って、近藤くんや武元さんから糾弾されるならわかるけど」

「屁理屈もいいかげんにしろよ!」

「そっくりそのまま返すわ。あなた、神谷くんの弱みを握って興奮してるんでしょ。反論できない事実を提示して神谷くんの上に立った、勝利した。そういう優越感に浸りたかっただけ。違う?」

「黙れ!」

 一喝する笹川さん。

 しかし長澤さんは、笹川さんの圧を意に介さず言葉をつづける。

「その証拠に、あなたはさっきからずっと神谷くんばかり糾弾している。教室で言わなかったのは、神谷くんという人間が持つ説得力を恐れたから。神谷くんが堂々と二股をしていない、笹川さんが嘘をついているって宣言すれば、きっとみんなは神谷くんを盲信する。そこに真実は関係ないから」

「うるさい黙れ!」

 笹川さんの顔は、いつの間にか真っ赤になっていた。

「あ、もしかして神谷くんの彼女に選ばれなかったことを逆恨みしてるの? 短期間とはいえ、選ばれたのは武元さん。神谷くんを蔑むことで、こんなやつに選ばれなくてよかったんだって思い込もうとしてる、プライドの塊。違う?」

「お前らが二股してたのは事実だろうが! 話をすり替えんな! 私の一言であんたらの日常をぶち壊せるんだから!」

「だから、そこも違うって言ってるでしょ」

 遠くから救急車の音が聞こえてくる。

「私が神谷くんに相談をしてたの。誰にもバレたくなかったから、私の家族にもかかわることだったから家に呼んだだけ」

「おい」

 俺は長澤さんに向けて手を伸ばしていた。

 彼女がこれからなにを言うのかわかったから。

「大丈夫、心配しないで」

 振り返った長澤さんが目を細める。

「私、けっこう我慢強い方だから」

 その顔を見てなにも言えなくなる。

 長澤さんが警戒心むき出しの笹川さんに歩み寄ったとき、俺は最低だけど、ちょっとだけ安心していた。

「笹川さん。私、実は特殊な性癖を持ってるの」

 俺だけは安全にこの場を切り抜けられるって、そう思ってしまった。

「性癖、特殊?」

「そう。私は魚に性的興奮を覚えるの」

「さ、かなって、え、さかな?」

 想像外の展開だったのか、笹川さんはぽかんと口を開けたまま固まる。

「これまで隠してきて、とても生きづらくて、誰かに秘密を共有してほしくて、それで神谷くんなら、神谷くんならバカにせず聞いてくれるかもって、だから相談したの」

「神谷くんならバカにせず……に」

 目を見開いたままの笹川さんが俺を見る。

「それ、本当?」

「……ああ」

 奥歯を噛みしめながらうなずいた。

 長澤さんは二股問題をはるかに上回る爆弾を投下することで、この場の空気を完全に自分のものにした。過程はどうあれ、長澤さんはもう自分の特殊性癖を明かしてしまったから後戻りはできない。俺にできるのは長澤さんに協力することだけ。俺を守るためにやってくれたんだから、彼女の覚悟を無駄にしてはいけない。

 しょうがない。

 これはもう、しょうがないんだ。

「神谷くんは評判通りの優しい人だった。私のことを気持ち悪がらずに受け入れてくれた。だから母親にそのことを打ち明けるときに、神谷くんに隣にいてほしくて、一緒に説得してほしくて、昨日は家に来てもらったの」

 長澤さんの方が優しいじゃねぇかよ。

「そういう、ことだったんだ」

 笹川さんの鼻の穴が広がっていく。真っ黒な瞳は、オリーブオイルを垂らしたみたい輝いている。

「ごめんなさい。私ったら早とちりしちゃってた」

 笹川さんは長澤さんにぶつかる勢いで近づき、がっちりと握手を交わした。

「でも、ほんとにありがとう。神谷くんと同じように私のことも信用してくれたから、秘密を打ち明けてくれたんだよね?」

「ええ、まあ」

「その勇気がすごく嬉しい。私だってあなたのことを差別しないよ。当然じゃん」

 笹川さんは、長澤さんを受け入れたような言葉を並べる。

 でも俺には、私だって神谷宗孝という優秀な人間と同じで特別な人間だよ、と自慢しているように聞こえた。

「今までつらかったね。もう大丈夫。私がいるから」

 笹川さんが涙ぐみはじめる。

 長澤さんのつらさに寄り添うふりをして、笹川さんは自分の素晴らしさに酔っている。

「ってか神谷くんも神谷くんだよ。困ってる人、悩み事相談されたら教えてねって言ってたじゃん」

「ああ、ごめん」

 口が勝手に謝っていた。

 なんだろう、この得体の知れなさは。

 さっきまで俺たちに身勝手な怒りをぶつけていたやつとは到底思えない。

「笹川さん、私を認めてくれてありがとう」

 長澤さんが頭を下げると、笹川さんはぶんぶんと首を振った。

「そんな、感謝なんてしなくていいよ。私が長澤さんを助けたいって思ってる気持ちは人間として当たり前なんだから」

 不意に笹川さんの足元に焦点が合う。

 日の当たらない環境下で力強く咲いていたタンポポを踏みつぶしていることに、笹川さんはまったく気づいていない。





 バイブが鳴り、笹川さんがポケットからスマホを取り出す。

「やばっ、今日の昼休み図書室担当じゃん」

「笹川さんって図書委員だったの?」

 長澤さんが問うと、笹川さんは微苦笑を浮かべた。

「まあね。図書委員ってほんと面倒なんだよ。昼休みとか放課後に本の貸し借り手続きをしないといけないの。地味だし感謝もされない。あーあ、なんで図書委員なんかになっちゃったんだろう」

「たしかに面倒そうね」

「でしょ? でもサボっちゃうと花川(はなかわ)先輩がうるさいんだよねぇ。あんな地味な仕事にマジになるとか、人生ずっと暇なんだろうね」

 んじゃ、またね長澤さん! あと神谷くんも。

 小走りで去っていく笹川さんを二人で見送る。

 二人になったというより、二人が取り残されたって感覚だ。

 制服の隙間から入り込む風がやけに冷たい。

「なんで言ったの?」

 笹川さんに握られていた右手を顔の前でグーパーしている長澤さんに、喉から絞り出すようにして声を飛ばした。

「なんのこと?」

「性癖のこと」

 太陽が雲に覆われたせいで、体育館裏には日陰しか残っていない。

「あれくらいの餌を上げないとあの承認欲求バカは納得しないでしょ。私はそのバカさを利用しただけ。特殊性癖を受け入れられる自分っていう快感を、神谷くんと同じ立場にいられるって快感を与えてあげただけよ」

「そこまで読み切ってたんだ」

 だから特殊性癖のことを躊躇なく暴露できたのか。

「確信はなかったけど結果的には大成功。私はちょっとだけストレス発散できたし、笹川さんも最後にはああ言ってくれたんだから、理解者ができて嬉しいよ」

 長澤さんは右の手のひらに息を吹きかける。

「神谷くんも私に理解者ができて嬉しいでしょ。作りたがってたもんね」

「笹川さんは理解者ではないだろ」

「広い意味で理解者だよ」

「でも俺のイメージを守って、二股を否定するためだけに」

「言ったでしょ」

 長澤さんは、笹川さんに握られていた右手をスカートで何度も拭いていた。

「大丈夫。私って我慢強いし、笹川さんともうまくやっていけると思うから」

「でも」

「神谷くんはもう私とは違う。神谷くんはもう私の側にはいられない。いちゃいけない。私は神谷くんから離れるべきだから、もう話しかけないで」

 長澤さんの怜悧な笑みに圧倒され、身体を動かすことすらできなくなる。

「じゃあね、今度こそ最後だから」

 去っていく長澤さんの背中が滲みはじめる。涙をこぼすと別れを完全に肯定してしまう気がして、とりあえず上を向いた。

「俺は、離れたくなんか」

 体育館の屋根の下にある蜘蛛の巣に、モンシロチョウが一匹絡めとられている。

 その下をもう一匹のモンシロチョウが、我関せずと通りすぎていった。